ホンの旅 2007
学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。
No.195 『21世紀 仏教への旅 日本・アメリカ編』
このシリーズも、インドから始まり、韓国、中国、ブータン、ヨーロッパなど旅し、日本に戻って、世界の中心と位置づけているアメリカで終わっています。この流れがいいのかどうかは各人それぞれの思いがあるでしょうが、私的には日本で終わってほしいと思いました。なぜ、アメリカなのか、その流れがちょっとつかめませんでした。
たしかに、2001年9月11日に起こった同時多発テロを境にして、アメリカの人々にも大きな変化があったのかもしれないが、基本的には人間そのものが世界の中心であり、セルフヘルプを尊重する国であり、自分が人生をコントロールすると考えている人たちです。なるべく自由に生きたいとする考えが地球環境を護るのに消極的だったり、自国の権益を守るために軍隊まで動員したりする、それらのことが世界の人々から身勝手に思えてしまうのです。
でも、だからこそ世紀末のアメリカで終わるという見方もあるのでしょう。むしろ、そう考えたいと思います。今、キリスト教やイスラム教などの宗教から争いが起きています。中東の自爆テロなども、それの範疇に含まれると思います。だとすれば、そこにこそ、仏教の争わない教えが必要です。
ダライ・ラマは、「むかしはみな、それぞれ自分の宗教がいちばん優れていて、他の宗教の信者は自分のそれに改宗すべきだ、といいあったものだが、そんなことはやめましょう、と。改宗を迫ることなく、それぞれの宗教のなかにある知恵を分かちあうようにすれば、宗教による紛争はなくなるのではないか」と話されたそうです。そういう意味で考えれば、ぜひとも、世界の指導者を自認するアメリカの人々にこそ、仏教を知って欲しいと思うのです。
(2007.12.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 21世紀 仏教への旅 日本・アメリカ編 | 五木寛之 | 講談社 | 2007年9月28日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
ブッダは呼吸をするときにも感謝しょう、心に喜びを感じながら息を吸おう、といっている。
ふだん、そのように意識して呼吸をしている人はいない。一日に自分が何回息をしたか、数えている人もいないだろう。しかし、もし呼吸ができなくなれば死ぬ。だから、ブッダは息をすることすらありがたいと思い、感謝しょうというのだ。息を吸わせてもらっている、という感覚だといえる。
(五木寛之著『21世紀 仏教への旅 日本・アメリカ編』より)
No.194 『ものづきあい』
自分も意外とものにこだわることから、この瀟洒な装丁の本を手にしました。
全体のページの半分は写真で埋められ、それも自分であつめられた「もの」の写真で、見ているだけでも楽しくなりました。今では使わなくなったものでも、意外な使い方をしていたり、そのものの故事来歴が一つの物語を作ったりして、やはり「ものづきあい」ってあるのかな、と思いました。
この本は、まず読んで、さらにはその写真を眺めて、そしてまた読み返す、そのような反復動作が必要だと思います。それが他の本と違うところで、なかなか楽しいものでした。
このアノニマ・スタジオっていう発行所は知りませんでしたが、本の最後のページに、次のようなフレーズが載っていました。
「アノニマ・スタジオは、風や光のささやきに耳をすまし、暮らしの中の小さな発見を大切にひろい集め、日々ささやかなよろこびを見つける人と一緒に
本を作ってゆくスタジオです。遠くに住む友人から届いた手紙のように、何度も手にとって読みかえしたくなる本、その本があるだけで、自分の部屋があたたかく輝いて思えるような本を。」
なかなか、胸にグッとくる言葉です。
(2007.12.22)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| ものづきあい | 中川ちえ | アノニマ・スタジオ | 2007年7月30日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
出会った場所や人のことを思い出させてくれたり、手にすることで表情を変えていく道具や器、雑多なもの。なくても毎日はなんとなく過ぎていくけれども、そこにあることで自分の暮らしを心豊かに積み重ねることができるもの。私が居心地の良さを感じる暮らしは、それらの「もの」とともに形づくられていたことに今さらながら気づかされたのだ。
辞書には載っていない 「ものづきあい」 という言葉。ものはものでしかないし、笑いも泣きもせず何も語りさえしないけれど、ものからは色々なことを教わっている。
(中川ちえ著『ものづきあい』より)
No.193 『格差社会の世渡り』
今、あちらこちらで格差社会が問題になっています。たしかに、格差のある社会は良くないことですが、その格差がなぜ生まれるのか、それをなくせばどのような社会になるのか、などいろいろと考えなければならないことがあります。それで、この本を読みました。
ちょっとぼやきが気にはなりましたが、それでも、ある意味、核心部分を突いているような気がしました。その一部が、下のコラムに抜き書きしたところです。市場原理主義の良い面と悪い面など、旧労働省官僚からアメリカに留学、さらには公募による神戸県立大学大学院応用情報科学研究科准教授に転身した経歴からくる現実味がとてもリアルに理解できました。
たしかに指摘しているように、「市場原理主義の世の中では、みんなが競争モードで生きていますし、競争に勝つ人が偉い人として尊敬されるようになります。これはこれで活力に満ちているかもしれませんが、世知辛い世の中になりますし、お互いの関係もギクシャクします。同時に他人や世の中全体を考えることのできる人が年々少なくなっていきます。」というのは、まさにその通りです。
すべてがアメリカ追随ではなく、日本の良いところを残すことが大切だと、とくに最近思うようになってきました。その競争を自らの意志ではみ出ようとする人たちも出てきています。格差社会である以上は、その世渡りも大事でしょうが、世渡りよりももっともっと大事なものがここには隠されているような気がします。
(2007.12.20)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 格差社会の世渡り(ソフトバンク新書) | 中野雅至 | ソフトバンク クリエーティブ(株) | 2007年6月21日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
どうして「金儲けに成功した人間こそ実力者」という風潮が強くなったのでしょうか。様々な要因があると思いますが、「金儲けには多くの能力を動員しなければいけないこと」「言い訳ができないくらいに結果が明らかであること」の二つが主要因だと思います。・・・・・
移民国家のアメリカでは「どれだけ稼ぐか」が最も重要な価値観です。日本はアメリカと異なって金銭以外の価値観が大きな比重を占めてきたのですが、アメリカ流の市場主義の影響が強くなるに従って、「金がすべて」 の市場主義の影響が強くなりました。
(中野雅至著『格差社会の世渡り』より)
No.192 『日本の消えゆく植物たち』
久しぶりに植物関係の本を読みましたが、とてもおもしろかったです。というよりは、ちょっとばかり、危機感を持ちました。
ところどころに、「苗が高値で取引されることから自生地からの採取が心配される」とか、「葉だけになったらポイしている人たちは猛烈な反省をしていただきたい」とか、「人々の栽培意欲をかき立てるすがたが山草業者の活躍を誘ってしまう」など、いろいろな指摘をされています。
たしかに、今、日本の植物たちは消えていっているようです。とくに、花がきれいだったり、希少価値があったり、人間達の勝手な営利のために、多くの植物たちがその犠牲になっているように思います。
今年5月に、草友から「シロヤマブキ」の苗をたくさんいただきました。もちろん、これはヤマブキの白花種のシロバナヤマブキと違いますが、シロヤマブキ属はたった1種だけ東アジアに自生し、それも消えつつある植物と知り、驚きました。分布域は福井県から島根県までの本州西部よりだそうです。後数年もすると、このいただいた苗も立派に育ち、多くの人たちを楽しませてくれるのではないかと勝手に想像しています。
ぜひ、植物愛好者の方々には、このような本をお読みいただきたいと願っています。そうすれば、もっともっと、植物たちと仲良くなれそうです。
(2007.12.16)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 日本の消えゆく植物たち | 岩槻邦男著、福田泰二写真 | 研成社 | 2007年9月10日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
なぜ、生物多様性が滅失すれば困るのか。実利的な面だけでいっても、生物多様性は人の生活に不可欠な資源(とくに遺伝子資源としての意味付けが強調される)として無視することができない。絶滅の危機に瀕する生物たちのうちには、バイオテクノロジーの進歩によって有効に活用される重要な遺伝子をもっているものがあり得るのだ。また、生物の多様度が低下することによって、自然環境が維持できなくなる危険性が深まる。人の生活環境の要素として、生物多様性は不可欠で、代替不能のものである。さらに、多様な生物が地球上で営む生命系の生のひとつの要素であるヒトが人として存在し続けるためには、生命系の生が維持されることが絶対の条件なのである。
(岩槻邦男著『日本の消えゆく植物たち』より)
No.191 『スナップ写真のルールとマナー』
私はあまりスナップ写真を撮らないのですが、ホームページやブログに写真を掲載するときに、ちょっと迷うときがあります。それは、バックに不特定多数の人たちが写っていたり、ある商標権のある品物があったり、ときには人のうちの樹木だったりします。だから、この本を見て、迷わず読み始めました。
そして、たとえば、人のうちの樹木で、勝手に撮ってはいけないと所有者に言われたとしても、所有地以外から撮影した写真に対しては所有権の効力は主張できないと知りました。また、写真展で公開したとしても、ホームページやブログでの公開は控えたほうがいいこともあることもわかりました。たしかに、インターネットに公開すれば、誰でも簡単に見ることができますから、それはそれで大きな問題です。意外と、意識していなかったことでも、もしかすると問題かも知れないことが多いようです。
この本は、1. こんな場所で撮っていいの?、2. 撮った写真を公開したい、3. パブリシティーがらみの写真、4. 写真を撮ってトラブルに、5. そのほかのケース、の5つに分かれています。それを社団法人日本写真家協著作権委員ら3人と協会の顧問弁護士である北村行夫氏によって実例をあげながら書いています。
とても具体的に指導していますから、写真を撮られている方には、ぜひお読みいただきたいと思います。もし、問題が起きてからでは、遅過ぎます。
(2007.12.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| スナップ写真のルールとマナー(朝日新書) | 日本写真家協会編 | 朝日新聞社 | 2007年8月30日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
面白い、おかしいといった好奇心から興味本位でカメラを向けることは慎む必要があります。
あなたが写されたときのことを想像してみてください。
写されて嫌だなと思ったとすれば、そんな場面は撮らないことです。それはモラルで、法や規則を超えた人間同士の信頼関係なのです。
肖像権も、モラルが基本的にしっかりと守られていれば必要のないことです。
肖像権とは「守られない」「不愉快な思いをする」「迷惑や被害を一方的に受ける」などといった弱い立場の人々を救い、護る必要から生まれてきた権利概念です。
そのような意味合いを十分に考慮し理解して、「撮る人」「撮られる人」の信頼関係を大切にしましょう。
(日本写真家協会編『スナップ写真のルールとマナー』より)
No.190 『義理と人情』
あの、というか、毎日テレビで見ているというか、あのみのもんたさんが書いた本です。
副題に「僕はなぜ働くのか」とありますが、この本を読んで、司会業だけでなく、ニッコクという水道メーターを造る会社を経営していることを初めて知りました。
まず、「なぜそんなに働くのか?」と聞かれ、仕事が楽しくって仕方がないから働くし、仕事を選ぶなんてもったいないからできるだけ求めに応じているだけといいます。そういえば、昨年末に、ギネスブックに「1週間で最も長時間、テレビの生番組に出演する司会者」として掲載されたというぐらいです。そして、お客さん(視聴者、聴取者)に喜んでもらうこと、ただそれだけです、と言い切るあたり、すごいことだと思います。
おそらく、この割り切り方が司会業でも発揮され、わかりやすさになっているのではないかと想像します。というのは、私はあまりテレビを見ないので詳しくはわからないのですが、この本を読んで、そう思いました。
ほんとうに、この本はわかりやすく書いてあります。すらすらと、あっという間に読み終えてしまいます。
ただ、読んだ後に何が残るかといえば、やはりあの、みのもんた、だったという感じでした。
(2007.12.07)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 義理と人情(幻冬舎新書) | みのもんた | 幻冬舎 | 2007年3月30日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
仕事とは、本来選ばれるもの。僕が選ぶだなんて、おこがましい気がしてなりません。仕事が僕を必要として選んでくれるのであって、断じて僕が仕事を選ぶわけではありません。いつだって仕事から選ばれる自分でいたい。だから、僕は休みを取るのが嫌いなのです。
理由は単純です。休みを取ると、いざというときに存在感を出せないからです。人は、パッと思い出す人に仕事を頼む傾向があります。そのため、一匹狼の芸人にとって「不在」はリスク。すぐに思い出してもらえなくなるからです。
(みのもんた著『義理と人情』より)
No.189 『マンダラとは何か』
この本は、あとがきにもあるように、題名の「マンダラとは何か?」と「マンダラは現代社会に寄与できるか?」という問いに対する答えを書こうとしたものです。一般的には、このようなマンダラの本は、密教のマンダラを紹介するのが多いのですが、この本では、広範囲のマンダラを取り上げています。
たとえば、ヒンドゥー教のヤントラやランゴリ、そしてキリスト教の「バラ窓」やベネディクト派の聖女ビンゲンのヒルデガルトの「宇宙卵」、そしてイスラム教の神秘主義系統のスーフィズムの「マカーマート」、さらにはケルト文化の模様や北アメリカのネイティブ・アメリカンのナヴァホ族の「砂絵」や「メディシンホイール」など、様々な広義的なマンダラも取り上げています。
そして、「マンダラは現代社会に寄与できるか?」という問いに対する答えは、その一つとしてマンダラ塗り絵を提唱しています。著者は、伝統的なマンダラを現代風にモディファイさせたこの「マンダラ塗り絵」を開発し、長年にわたって、実施してきたそうです。そういえば、このマンダラを精神科医として治療の一環としてマンダラを描かせたのはユングで、その後もさまざまな形で可能性を探ってきたようです。
これについては、第7章の「現代のマンダラ」として、ユングと「マンダラ塗り絵」のことを約40ページほど書いています。もっと詳しく知りたい人のために、最後に「マンダラをさらに深く知るためのブックガイド」を載せていますので、ぜひこれらと併せてお読みいただきたいと思います。
(2007.12.06)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| マンダラとは何か(NHKBooks) | 正木晃 | 日本放送出版協会 | 2007年8月30日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
『請来目録』のなかに、マンダラを論じた有名な文章がある。
密蔵は深玄にして翰墨に載せ難し。
更に図画を仮りて悟らざるに開示す。
密教の教えは深く神秘的なために、文字では伝えがたい。
そこで図像をもちいて、理解できない人の眼を開くのだ。
日本史上、このマンダラ論ほど、マンダラの本質をついた指摘はない。さすが空海である。彼の言うとおり、文字では伝えきれない神秘的な内容を、視覚をもちいて、瞬時に理解させるための装置こそ、マンダラなのだ。
(正木晃著『マンダラとは何か』より)
No.188 『ストレスに負けない生活』
この『ストレスに負けない生活』の副題は、心・身体・脳のセルフケアとあり、自らリラクセーション状態を作り出し、ストレスを解消したり、ストレスに対する抵抗力を増す能力を持つためのいろいろな方法が書かれています。
たしかに現代は、子供から老人にいたるまで、多くのストレスを抱えて生きています。著者は、このストレスがクラッシュする前に自分をもう少し解放してあげようと書いているようです。そのカギは、「力まず、避けず、妄想せず」だと言います。
このカギは、すでにお釈迦さまが説かれた初期仏教で取り上げられていたことです。これを「マインドフルネス(ヴィパッサナー、観瞑想とも呼ばれる)とは、今の瞬間の現実に常に気づきを向け、その現実をあるがままに知覚して、それに対する思考や感情には捉われないでいる存在の有様を意味する言葉です。そのルーツは2500年前のブッダの教え(初期仏教)の中にあります。」と、言います。
考えてみれば、たしかに人生をよりよく生きようとすれば、お釈迦さまの教えはとても有用です。いわば、哲学そのものです。この本を読み、もう一度、仏教経典を読み直してみたいと思いました。
(2007.12.01)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| ストレスに負けない生活(ちくま新書) | 熊野宏昭 | 筑摩書房 | 2007年8月10日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
本来自分とは、瞬間瞬間に変わっていくものです。瞬間瞬間の自分というのは、五感とイメージで内外の環境を認識する心の働きであると言えます。これは疑いなく存在するでしょう。生きている以上は、外の環境、自分の中の環境を認識する心の働きは存在する。それは瞬間瞬間の自分であって、その瞬間瞬間において対象との間に分離はなく、それを認識しているところに自分がいるわけです。認識の対象が変われば、自分も時々刻々変わります。マインドフルネスでは、そのように一瞬一瞬対象を感知したところで止めて、対象に対する勝手な解釈も、それと関連した自己イメージも作り上げないようにすることを実践していくことを目指しているのです。
(熊野宏昭著『ストレスに負けない生活』より)
No.187 『谷川俊太郎 質問箱』
これは、「ほぼ日刊イトイ新聞」に読者から寄せられた質問に、詩人の谷川俊太郎が答えるという形で構成されています。とても詩的な質問というより、ちょっと枠から外れたような質問が多く、とても楽しめました。
たとえば、質問の1は、「未来の乗りものについて」ですし、全部で64の質問にしっかりと答えています。なかには、谷川流だとすぐわかるものから、ちょっと当たり前過ぎるものまで、読んでいて引き込まれるものがいくつかありました。
いちおう、6つの章に別れ、最後に糸井重里さんとの対談が載っています。
これは、HOBONICHI BOOKS の一冊ですが、このシリーズがすでに9冊もあることを知り、びっくりしてしまいました。もし、機会があれば、インターネットの「ほぼ日刊イトイ新聞」(http://www.1101.com/books/)も見てみてください。
(2007.11.27)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 谷川俊太郎 質問箱 | 谷川俊太郎 | ほぼ日刊イトイ新聞 | 2007年8月8日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
ぼくは詩を書き始めたときに、どうも言葉ってのは信用できないと思いました。自分が感じてる現実の1パーセントも表現できてないんじゃないか、詩なんていったい世の中の何の役に立つんだろうか、と。そうやってずっと、詩に対して批判的な態度で書いてきたんです。だから、詩で人が感動してくれるとか、そういうことはほとんど信用していない。でも、とにかく詩で通じ合いたい、他人と結びつきたいという気持ちはあったわけ。ぼくは、常に疑ってるんですよ。通じてるんだろうか、分かってもらえてるんだろうか、何か感じてくれてるんだろうか、と。
(谷川俊太郎著『谷川俊太郎 質問箱』より)
No.186 『仕事で人は成長する』
著者の高井氏は、現役の弁護士で、さらに講演や執筆をこなすなど、多彩な活動をしている方です。初めて著書を読みましたが、含蓄のある言葉が多く、ついつい多くの抜き書きをしてしまいました。
全5章の組み立てで、第1章は「仕事の質を高める力」、第2章は「自分を高める力」第3章は「人を巻き込む力」、第4章は「時代の流れを読む力」、第5章は「リーダーとしての力」となっています。
これを見ても、読者は企業経営者やビジネスマンなどが多いと思いますが、これからどのように生きたらいいか、と考えている人にもとても参考になりそうです。そういう意味では、人生の書とも言えます。
たとえば、「どんな形であれ、威張っている人を見たら、「終わった人」と思って間違いない。なぜなら威張るということは、「過去自慢」にほかならないからである。」というくだりは、なるほどと思いました。また、「最も強いものが生き残るのではない。最も賢いものが生き残るのでもない。変化に対応するものが生き残れる」というフレーズは、物事の核心を突いているようです。
もし、機会があれば、お読みください。
(2007.11.23)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 仕事で人は成長する | 高井伸夫 | かんき出版 | 2007年5月21日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
たとえば山を登っていて、「来なければよかった」と何度も思ったはずだ。でも頂上に達したとき、「来てよかった」と喜びや充実感を抱いたはずだ。
継続性を奪うものは怠け心のほかに、突然表れる状況の変化もある。いわゆるピンチである。そういうときは対処できないと思うかもしれない。だが、ひとつよい考え方ある。それは、「時に委ねる」 ことだ。
一時的に中断を余儀なくされても、そこでやめるのではなく、柔軟に事実を受け入れ、またしぶとく始める決心を固めるのである。
(高井伸夫著『仕事で人は成長する』より)
No.185 『宮沢賢治 イーハトーヴへの切符』
これは著者の松田氏が、フリーや教員、そして闘病と、さまざまな変化に対応しながらイーハトーヴで写真をとり続けてきたものを写真集という形でまとめたものです。
この最初に、「私の写真は、言葉ではとても伝えられない賢治の主張を、風景の力を借りて伝えようとするものです。つまり、カメラによる賢治論とでも申しましょうか。」と書いています。そういう意味では、写真集でありながら、一定の物語性もあり、見ていても、その写真に潜むものを探す楽しみもあります。
風景だけでなく、野草などのかわいらしい写真もあり、見るだけで心和みます。
少し前の出版ですが、まだ書店にあると思います。興味でもあれば、お読みください。
(2007.11.18)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 宮沢賢治 イーハトーヴへの切符 | 松田司郎 | 光村推古書院 | 2000年6月28日 |
No.184 『ニセモノはなぜ、人を騙すのか?』
中島誠之助氏は、あの長寿番組である「開運!なんでも鑑定団」で鑑定をつとめる古美術鑑定家で、私もよくあの番組を見ています。もともと骨董が好きということもあり、読み始めました。この本は、「はじめに」にも書いてあるように、「この本では、「なぜニセモノにひっかかるか」をテーマに、番組に登場したニセモノやホンモノの話、そして私が40年に亘る骨董商時代に見聞きしたニセモノを巡るすさまじい騙しあいの懐旧談を交えて、ニセモノにひっかからないためにはどうするか、目利きになるためにはどうするか、そしてどう骨董を楽しむかについてつらつら書きたいと思う。」とありました。
まさに、骨董界の表も裏も知り尽くした著者ならではの内容でした。それも、現在では、骨董屋家業から足を洗ったこともあり、今だから書けるようなことをさらりと歯切れよく書いてくれています。
私も学生時代からよく骨董屋さんに行っていたのでわかりますが、「おそらく?」と思っていたのが「やはり!」という印象ですし、「そこまでするか?」ということもわかりました。だから、キライになったかというと逆で、ホンモノとニセモノが混在するからこそ、ドラマが生まれるし、そこに楽しさもあるのではないかと思いました。
ぜひ、骨董が好きという方には、ぜひお読みいただきたい1冊です。
(2007.11.14)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| ニセモノはなぜ、人を騙すのか?(角川oneテーマ21) | 中島誠之助 | 角川書店 | 2007年8月10日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
いいと言われたものを自分で見抜く力を養うためには、いい実物をそれが生まれた現場で見ることが大事なのだ。本を読んで覚える、あるいは展覧会を見て識るというのは、その次の段階のことだと私は思う。
「百聞は一見にしかず」。
見るということは体験することである。「行った、見た、帰った」 ではなく「行った、見た、感じた」なのだ。骨董だけではなく、すべてのジャンルにおいて同じことが言えるのではないだろうか。
(中島誠之助著『ニセモノはなぜ、人を騙すのか?』より)
No.183 『21世紀 仏教への旅 ブータン編』
このシリーズは、すでにインド上下や中国などを読んでいますが、もっとも興味のあったのはこの「ブータン編」です。というのは、もう20年以上前にこのブータンに行き、そこで感じたものが今も生き生きと蘇るときがあるからです。それほど、ブータンの印象は強烈でした。
おそらく、それは今も変わらず有り続けていると思います。というのは、私たちが訪ねた翌年には、再び外国人の入国を制限しようとする動きがあり、さらに自分たちの国の環境を護るという強い意志が明らかになったことです。でも、この環境という言葉は、日本の西洋的な解釈ではなく、人も動物も植物も、命あるものすべてがこの大地で同じように生きていけることを意味しています。自分たちが生きにくくなったから、なんとか環境を護らなければという人間中心の考え方ではないのです。
実は、ネパールに行ったときの体験ですが、ある人が斧で大きな木を切っていました。おそらく、相当な時間がかかると思えたのですが、それでもゆっくりと確実に、むしろ木を切ることを楽しんでいるかのようでした。そのとき、もし、ここにチェンソーがあればとあるブータン人にそのことを話したのですが、ものの見事に無視されてしまいました。おそらく、今のままでいい、それがこの国のやり方なんだ、と教えられたように思いました。数日後、その同じ道を帰るとき、その大きな木を再び訪れ、斧で切ったその切り株を写真に収めました。
もちろん、今もこのようなままかどうかは、わかりません。
でも、この本を読む限り、その印象は、そのままのようです。それを知っただけでも、とてもうれしくなりました。やはり、GNPやGDPという経済指標だけでなく、GNH(Gross National Happiness、国民総幸福量)を考えの中心におく国ですから、当然といえば当然なのかもしれません。
もし、今すぐ、どこの国に行きたいかとたずねられれば、私は即座にブータン王国と答えたいと思います。
(2007.11.11)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 21世紀 仏教への旅 ブータン編 | 五木寛之 | 講談社 | 2007年6月28日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
人間は自分ひとりだけで生きているのではない。もし、自分の幸福を追求するなら、同時に他の人の幸福もいっしょに考えなければならないのである。
つまり、ひとりの幸福とみんなの幸福がひとつのものになる。そこでは、人と人との関係性ということが重要だ。これが「縁起」であり、緑ということだろう。
人はみな、緑あってこの世に生じ、緑あってこの世に生かされている。
この考えかたは、もちろん仏教に由来するものだ。仏教の縁起諭や因果論が、それを教えている
(五木寛之著『21世紀 仏教への旅 ブータン編』より)
No.182 『舊漢字』
副題に「書いて、覚えて、楽しめて」とありますが、これらの文字もすべて旧漢字で書かれています。しかし、パソコンで扱うには、やはり難しいようで、ここに書きあらわすにも新字体を使っています。この「新字体」というのは、昭和21年11月に出された「当用漢字」について、昭和24年4月になって告示された「当用漢字字体表」の字体を指します。
もちろん、漢字の成り立ちを考えるときには、やはり旧漢字のほうが意味の通じるものがありますが、書き方や画数が多いので、やはり難しいというのが本音です。さらに、すでに旧漢字を使わなくなっているので、なじみもだんだんと薄れてきています。この本の後ろには、「新旧字体を兼ねた索引」もあり、それなりにわかりやすい配慮をしていますが、これからも使おうとは思いませんし、使ってもわからない人のほうが断然多くなってきています。文字である以上は、わからなければその存在理由もなくなりますから、いずれは時々懐かしく思い出されるだけのものになってしまうかも知れません。
それでも、ちょっとは大事にしたい、と思わせるのがこの本です。
興味のある方はお読みください。
(2007.11.08)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 舊漢字(文春新書) | 荻野貞樹 | 文藝春秋 | 2007年7月20日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
旧漢字はよく見ると、実に美しく整然とした形態と「論理」を持っているものです。何千年と磨き上げられてきたのですから当然でしょう。だから自分の手でも書いてみたくなる。ところがその筆順を書いた書物がほとんどありません。
(荻野貞樹著『舊漢字』より)
No.181 『千夜千冊 虎の巻』
正式には『ちょっと本気な 千夜千冊 虎の巻 読書術免許皆伝』とあり、まさに読書週刊に読むにはうってつけの本です。その表紙に、「忙しいとき、悲しいとき、疲れているとき、すべてに読書のチャンスがある。」と書かれてあり、本さえあればどんなときも楽しいと言っているようなものです。
たしかに、そうです。
私も、このような『ホンの旅』を書いているわけですから、そのような気持ちがないといえば嘘になりますし、どこに行くときでも、必ず本は持って行きます。とくに外国に行く場合などは、重量の関係もあり、その選択にはそうとう時間をかけます。もちろん、その旅に一番ふさわしい本を探すのですが、今年のネパールの旅では、白幡洋三郎著『プラントハンター』などを持って行きました。
それと、必要な本はもちろん購入しますが、読んでみたいかみたくないかわからないような本は、なるべく図書館で借りるようにしています。そうすれば、借入期間がありますから、その期間内に読まなければならず、積ん読を防ぐこともできます。そしてなにより、あの重い本の収納を考えなくてもいいというのが最大のメリットです。以前は私設図書館をつくりたいと考えたこともありますが、その整理と収納、そして使いやすさや本を読む環境などを考えたら、やはり難しいと思うようになってきました。
最近は、読みたい本をたった1冊に絞って、それを読んでみたいようなところに行き、ゆっくりと時間をかけて読む、いわば本物の本の旅をしてみたいと考えています。
(2007.11.03)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 千夜千冊 虎の巻 | 松岡正剛 | 求龍堂 | 2007年6月27日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
本を読むとは、その本を通して未知の世界や未知の人間と接触したということ。また、その本の書き手やその本の写真家の思索や感覚といっとき交わったということです。読書は交際なんです。行きずりの恋かもしれないし、一期一会の出会いだったかもしれない。そういうことを、ぼくは「かけがえのないもの」だと見ているんです。
(松岡正剛著『千夜千冊 虎の巻』より)
No.180 『この国が忘れていた正義』
この本は、いわば正義を取り戻すために「処罰社会モデル」を提唱しています。その正義とは、加害者の人権を守るだけでなく、被害者の人権を優先的に守らなければならないのではないかということです。
たしかに、何度か私も刑務所見学をしたことがありますが、食事も医療も内部作業も、どれをとってみても更正を目的にしたものになっています。はっきり言えば、不自由をちょっとだけ我慢すれば、衣食住の心配はない世界です。だから、食い詰めたりすれば、再度入りたいと犯罪を犯す場合もあると聞きます。
しかし、被害者は、それほど守られていないというのが現状です。最近までは、被害者に配慮することもあまりしてこなかったようです。それでは逆でないか、というのがこの本の書かれていることのようです。むしろ、被害者こそしっかりと国が守るべきであり、被害者を出さないようにする責任も国にあると考えています。それには、「処罰社会モデル」しかないというのです。
そう考えさせてしまうのは、最近の凶悪犯罪の増加です。しかも、動機もないような出会い頭の犯罪に対しては、まさに衝動的としか言えないような状況です。それに巻き込まれてしまった被害者にすれば、その怒りはいかばかりかと、想像すらできません。それを思うと、「処罰社会モデル」も必要かと思えるのですが、心のどこかで、犯罪者といえどもかすかに良心があり、更正できるのではないかと考えてしまいます。私には、そのどちらを選ぶことがいいのか、正直のところわかりません。時間をおいて、もう一度読んでみたいと思いました。
(2007.10.30)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| この国が忘れていた正義(文春新書) | 中嶋博行 | 文藝春秋 | 2007年7月20日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
人権は「生まれながらの自然権」「絶対不可侵の権利」といわれているが、私たちの身体のように天然自然のものではなく、市民革命の時代に唱えられた「歴史の産物」にすぎない。もともとは専制的な国家から人々の自由をまもるための手段であった。人権が「絶対に侵害できない権利」(不可侵性をもつ)といわれているのも、そのためである。国家と個人では力の差は歴然としており、国家権力と争ったら個人などひとたまりもない。拷問にかけられたり、処刑台に引っ立てられて一巻の終わりであった。そこで、人権概念をつくり、これに不可侵性をあたえて、個人の権利を国家に対して優位に立たせたのである。これが近代人権主義の正体だ。
(中嶋博行著『この国が忘れていた正義』より)
No.179 『七福神の創作者』
この本の出版社は「三五館(さんごかん)」ですが、あまり聞き慣れない会社です。最後の出版物のおすすめのところに、「三つの大洋、五つの大陸。三五館は地球です。」と書かれていました。
それはそうと、この本の著者の肩書きは、建築文化史家と全国七福神連合会顧問の二つが書かれていました。そして、七福神の創作者は、あのとんちで有名な一休さんだと言うのです。でも、考えてみるに、この七福神という考え方は、誰が言い出したというより、自然発生的にまとまっていったのではないかと思います。ある方は室町時代ころに考え出されたといいますし、ある方は江戸時代に入ってからではないかと推論しています。
どちらにしても、関西では古くからお正月に巡拝する風習があり、それが全国的に増えていったのは昭和も後半になってからのことです。いわば、新しい七福神巡拝は、ここにも書かれていますが、地域興しの一環のようです。
この本の特徴は、それを建築文化史家の立場から筆を起こしていることです。その意味では、とても含蓄のある言葉が随所に見られます。たとえば、下のコラムの言葉もそうです。
もし、機会があれば、ぜひお読みください。
(2007.10.24)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 七福神の創作者 | 一色史彦 | 三五館 | 2007年6月30日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
お堂を建て、塔を造ったのは、それが宗教的情熱の表現として有効であったからです。そしてそれを永い間、雨露・大風・地震による被害から守り、新築以上の労苦を惜しまず修理してきたのは、それが宗教の力を再確認する上で有効であったからではなかったのでしょうか。宗教組織にとって、その施設の新築・大修理は、大事であればあるだけに力こぶを入れるべき、むしろ歓迎すべき事態だったのです。それを好機として、多数の善男善女の寄進・喜捨を得ながら、ご本尊・ご神体の功徳の大きさを改めて世人に知らせる絶好の機会とすることができます。托鉢、勧進、出開帳、富くじなど、世人への訴えかけそのものが、わが国の文化に果たしてきた役割はどれほどに大きなものであったでしょう。しかも、それを楽しみとする知恵を先人たちは持っていたのです。
(一色史彦著『七福神の創作者』より)
No.178 『21世紀 仏教への旅 中国編』
この『21世紀 仏教への旅』は、インド編上下に続いて、これは中国編です。すでに、ブータン編なども出ていますが、この中国編には、フランスの「ZEN」もここで取り上げられています。
第1章は「中国禅の玄関口で」、第2章は「六祖慧能」、第3章は「日本の禅と「気づき」」、そして第4章は「禅からZENへ」の四部構成です。この第4章がフランスの禅についてのことが書かれています。ですから、純粋に中国での仏教への旅は、第1章と第2章です。
私も何度か中国を訪ねましたが、あの文化大革命で、多くの仏教寺院が破壊されました。これら物理的破壊は修復できますが、一番の問題は多くの僧侶たちを還俗させ、お詣りできないように意図的に指導したことです。これら精神的なものは、なかなか回復が難しく、表面的には信教の自由を保障しているように見えますが、チベットへの対応を見ていると、やはり疑問に感じます。
私が訪ねたのは、どちらかというと雲南省や四川省の奥地ですので、ちょっと偏っていますが、旅行者が立ち寄るような幹線道路付近の寺院は修復されているように見えますが、いったんそれらを離れると、まだまだ壊されたままの寺院が目につきます。このようなところを見て、おそらく、信仰する心まで壊されてしまったかのように感じました。
とくに、最近はネパールやインドへの旅が多く、それらの国々では今も信仰に生きている人たちがほとんどです。ちょっとした路地裏にもお寺があり、お詣りしている人たちを見かけます。
それでも、この本によれば、中国の若い人たちのなかに、最近お詣りする人たちが増えたとありました。この傾向は、日本でも同じだと思います。人は、やはり、モノだけで生きているものではなく、心に充足感がなければ、よりよい人生とは言えないようです。お金で、真実の幸せは絶対に買えません。お金でなんでも買える、と言った人は、とうとう捕まってしまいました。
この本を読み、信仰することの意味をあらためて考えさせられました。
(2007.10.20)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 21世紀 仏教への旅 中国編 | 五木寛之 | 講談社 | 2007年4月25日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
これは私の勝手な憶測だが、おそらく五祖弘忍の時代に、中国禅の世界は一種の停滞期に陥っていたのではあるまいか。三代、四代と安定期がつづけば、いかなる分野であろうと退廃と貧血がおこる。洗練されると同時に本来の野性的なエネルギーが弱まっていくのだ。
勉学と修行によって専門家としてみがきぬかれた神秀に、弘忍は何かあやうさを感じたのではあるまいか。
禅は学問ではない。仏門のうちの修行だけでもない。本来、禅は人の生きる道であり、真の生活の発見であるはずだ。弘忍はエリートの神秀よりも、ただ一途に米を搗きつづける無学な田舎者に、禅の再生を期待したのではなかったか。
結局、師の衣鉢を受けたのは、米搗き男の慧能だった。
(五木寛之著『21世紀 仏教への旅 中国編』より)
No.177 『SKAT.6』
おそらく、この本の題名『SKAT.6』を聞いて、すぐわかる人はほとんどいないのではないかと思います。これは、「SENDENKAIGI AWARD TEXT」の略で、第44回宣伝会議賞の入賞作品、審査好評、一次審査通過以上の作品をすべて掲載されています。この『SKAT』は、「スカッと」胸のすく発想から生まれたアイディアの数々がもたらす新鮮な感動も表しているそうです。
以前、このシリーズの本を読みましたが、人はいかに宣伝文句に惹かれるのかを知りました。おそらく、昔の宣伝コピーを今でも覚えている方が多いと思いますが、それだけ影響力があるということです。「男は黙って・・・・・」と言っただけで、商品名が出てくるのは、その証しです。
ここには、コピーライターの卵たちの作品が、細かい活字で載っています。これを見て、相撲の番付表を思い出しました。みんな横並びに小さな字で並んでいますが、おそらく、ほんの一握りの人がここからコピーライターとして巣立っていくのでしょう。
卵から孵化するかどうかはわかりませんが、一つ一つ読みながら、新鮮なものを感じました。
(2007.10.15)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| SKAT.6 | 第44回宣伝会議賞実行委員会編 | 株式会社宣伝会議 | 2007年3月9日 |
No.176 『るんびにの子供』
この本は、第1回『幽』怪談文学賞【短編部門】大賞を受賞した作品だそうで、選考委員には、岩井志麻子、木原浩勝、京極夏彦、高橋葉介、東雅夫の各氏がなっているようです。
だから読んだのではなく、ただ、「るんびに」という言葉に惹かれて手に取っただけです。もちろん、小説だとはわかっていたのですが、それ以外のことはまったくわからなかったのです。
だから、という訳ではないのでしょうが、結局、短編が5作品載っていたのですが、最初の『るんびにの子供』と最後の『とびだす絵本』だけを読みました。
やはり、怪談ものはなかなかなじめない、というのが本音です。
それでも、久しぶりに小説を読み、これからの読書の秋には、もっと読んでみたいと思いました。
(2007.10.11)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| るんびにの子供 | 宇佐美まこと | メディアファクトリー | 2007年6月4日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
人は子供から大人に成長する。成長をそういう意味でとらえると、大人というものが完成体で、子供はそれに到る未完成な途上のものというわけだ。
だが、はたしてそうだろうか。
子供というものは、それ自体で完結していて、大きくなるにつれて、生来の能力を手放していき、大人というつまらない、ただ余生を送るだけの物体に成り果てるというふうには考えられないだろうか。大人はあまりにも退化しすぎて、なくしてしまった能力に気づきもしない。
(宇佐美まこと著『るんびにの子供』より)
No.175 『今日から暦暮らし』
この本は、イラストレーターでエッセイストの平野恵理子さんが書かれたものです。ですから、随所にイラストがちりばめられ、とても読みやすくなっています。
内容は、暦の具体的内容から暦の使い方、そして豆知識まで、いろいろと自らの季節感などを織り交ぜながら、書き進めています。副題は「毎日季節を感じたい」で、その季節感を盛り込む手紙の書き出しや季節の料理なども取り上げています。日本人って、ほんとうに季節を感じながら生活していると思いました。
参考になったのは、暦を具体的にイラストに書かれたところで、文字ではなかなか伝わらない部分がはっきりと理解できます。たとえば、陰陽五行説などで、何と何の組み合わせが良くて、何と何の組み合わせが悪いというのは一目瞭然です。これを見ると、イラストなどのように視覚化することの大切さがわかります。
この本は、いつも手元に置いて、季節ごとに引っ張り出して眺めるようなものだと思います。たとえば、二十四節季や七十二候などの時です。あるいは、ちょっと一言話しをしなければならないときの頭出しや手紙の書き出しで迷ったときなど、それにも利用できそうです。
(2007.10.09)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 今日から暦暮らし | 平野恵理子 | 山海堂 | 2007年5月1日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
一生懸命歩いて歩いて散策して、それでもまだまだ勉強不足。そんな、暦を知るスタート地点に立った初心者として、暦に驚きと感謝を込めて書いたのがこの本だ。日本の暦の、ほんのまわりだけ触れてみたところ。それも偏った場所だけ、おもに日々の暮らしにかかわる部分だ。その部分を寄っただけでもじゅうぶん暦のおもしろさ、底力は思い知った。
昔から伝わる知恵がたくさんつまった暦を今の暮らしに生かしたい。せっかく四季折々が美しい日本にいるのだし。自分がおくっている普通の生活にも、暦との関わりを増やしていけたら。年中行事に食べるおいしいものやきれいな飾り物にも心躍らせたいし、四季の移ろいに敏感なまなざしも学びたい。そんな季節にかなった日々を送るための水先案内人が、暦なのではないだろうか。
(平野恵理子著『今日から暦暮らし』より)
No.174 『川田龍平 いのち を語る』
著者自らが、「あとがき」のところで、『川田龍平 いのちを語る』で伝えたかったことは、と言っていますが、それは「コラム」に載せました。
おそらく、この著者の名前、川田龍平さんを知らない人はいないかと思いますが、1976年1月に生まれ、生後6ヶ月で血友病と診断され、非加熱輸入濃縮血液製剤を使い続け、10歳でHIV感染を告げられたそうです。
おそらく、ご本人の苦しみは誰にもわからないと思いますが、19歳で実名を公表し、一貫して薬害と戦い続けてきました。そして、現在は国会議員として、その活動の場を広げています。
この本は、自らの言葉で語る部分と、また対談という形式で語る部分とがあり、さらに志葉玲さんが撮られた写真もたくさん掲載しています。最後には、今年2007年1月15〜26日までにアフリカのケニアで開催されたグローバル・ヤング・グリーンス(GYG)の閉会式で自らがスピーチした「I do not give up the hope.」が原文で掲載されています。
たしかに、これからは緑の大切さを考えるべき時に来ています。環境問題は、技術や科学の問題ではなく、文化の問題です。一人一人がどう考えるかというものの価値観の問題です。
なにが大切かを、ちょっと時間をかけて考えてみませんか?
(2007.10.06)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 川田龍平 いのち を語る | 川田龍平著、志葉玲写真 | 明石書店 | 2007年6月15日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
『川田龍平 いのちを語る』で伝えたかったことは、自分自身をつなぎ、人と人とをつなぎ、動物、植物、地球(ガイア)、人と自然をつないで、次の世代に 「いのち」 をつなぐことです。
呼吸をし、食べることからも「いのち」 をいただいて、「いのち」をつないでいます。生まれてきた赤ん坊がそうであるように、人は、助けなしには生きられません。人と協力しなければ、子どもに 「いのち」 をつなぐことはできません。
そう考えると、自分ひとりの 「いのち」 ではない気がしてきます。
今、この瞬間もここに生きていることが奇跡だと思うのです。
(川田龍平著『川田龍平 いのち を語る』より)
No.173 『黄金比の謎』
この本の副題は「美の法則を求めて」というのですが、その美しさの法則の代表が黄金比です。おそらく、写真を撮るときの構図に、役立つのではないかと思い、読み始めました。
ところが、随所に数式が出てくるので、なかなか読むことができません。「まえがき」に数学的な記述の厳密さをあえて避けていると書かれているのにもかかわらず、これではまるで数学書ではないかとさえ思えてきました。
そこで、あまり数学は得意ではないので、数字の出てくるところを避けるようにして読んでみたら、あっと言う間に読み終えてしまいました。いや、こういうのは、読んだとはいえないかもしれません。それでも、一通り目だけは通しました。でも、ちょっと疲れました。
そういえば、昨年、「博士の愛した数式」という映画を観ましたが、それに一脈通じるものがありました。数学的な美しさや虚数iの世界など、映画のワンシーンを思い出してしまいました。
でも、写真の構図を考えるときに役立つとは思えないですが、美術を観賞するときには、ほんの少し、役立つのかもしれません。
(2007.10.03)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 黄金比の謎(DOJIN選書) | 渡邉泰治 | 科学同人 | 2007年3月20日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
「数学的な美しさ」 といってもさまざまである。たとえば、美しい定理として人気が高いピタゴラスの定理を取りあげてみよう。この定理の美しさとしてよくいわれることは、@定理自体の単純さ、Aどんな直角三角形にも成り立つ普遍さ、B証明方法が数百種類あるとされる親しみやすさ、さらに、C3の2乗+4の2乗=5の2乗,5の2乗+12の2乗=13の2乗などのように、自然数のあいだにある関係の神秘さなどがあげられる。また、この定理を利用して地球の大きさを測ったり、三角形の三辺の比3:4:5を使って直角を割りだしたりするなど、応用の広さと日常性も魅力として忘れてはならない。このように、ピタゴラスの定理一つをとっても、その美しさや魅力はさまざまである。
(渡邉泰治著『黄金比の謎』より)
No.172 『求めない』
この本は、おそらく詩集だと思います。いや、もしかすると、短句の羅列かもしれません。それが爆発的に起きたそうで、その時の気持ちを「ホンの旅 Column」に取りあげています。
たとえば、1ページに「求めない――」とだけ書き、次のページには、「すると 時はゆっくり流れはじめる」とだけ書き記してあるのです。2ページに、たったこれだけの短句があるだけです。でも、それは強烈な印象で私に迫ってきます。この本は、真四角の装丁です。私の好きなハッセルブラッドの画角です。6×6という潔い四角形です。
その空間に、たったこれだけの字句が並んでいる、これはインパクトがあります。なかには、もっと数多くの言葉になっているものもあります。たとえば、
「足りてれば誰だって求めないさ、と誰かが言ったら、それは嘘さ。
みんな、君もぼくも、彼女も、彼も、足りているのに、もっと求めてるんだよ。
なぜだろう」
この詩は、もっと続くのですが、ぜひ読んでいただきたいから、これで切ります。まずは、手にとって、何度もなんども読んで味わってみてください。
(2007.09.30)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 求めない | 加島祥造 | 小学館 | 2007年7月3日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
私の中に小爆発が起きたのであり、こんなことは、長い年月の文筆生活でもごく稀なことだ。私が詩を書く時は、まず2、3行の言葉が胸中に湧き、その言葉に潜む感情と意味を考え探って、一篇の詩に仕上げてゆくのです。最初の数行の言葉が自然に胸に湧くのは、ひと月一度かふた月一度くらい――1冊の詩集になるには4、5年かかるのです。
今度のように、自然に自動的に言葉が湧き続けることはごく珍しい。
(加島祥造著『求めない』より)
No.171 『江戸の漂泊聖たち』
この本では、近世・近代から明治初年までに活躍した16人の民間宗教者を紹介しています。そのなかには、弾誓上人や円空、そして木食行道など、いろいろなところで取り上げられている方はもちろん、この本で初めて知った方もありました。
ギュウギュウと縛られていた幕藩体制や既成宗教との狭間で、庶民とともに闊達に歩いてきたのが漂泊聖たちです。たしかに、仏教の深い知識があるかどうかはわかりませんが、静閑な地で自ら修行に励みながら、さらに多くの庶民の願いに真摯に向き合った姿勢にむしろ深い共感を覚えます。
考えてみれば、正史に残されているものは正確に記載されている印象がありますが、多かれ少なかれ、為政者からの何らかの庇護の基に書かれていますので、そのまま鵜呑みにできないこともあります。しかし、このような漂泊聖たちは、もちろん正史に書き込まれることもなく、その生まれや修行そのものも不明なことが多いようです。だからこそ、調べることは大変なのでしょうが、誰かがそれをやらなければいつまでも不明なままです。
「あとがき」に、「本書では、むしろ世間からは抹殺されたような庶民の信仰生活とともに生きた、世間一般には「浮浪もの」に写る民間宗教者の表層を紹介してきた。これからも体制に組しているようでその実、反発しているような、わが道として人のため世のために奔走した多くの行者たちの本質を追いつづけることにしたい。」と書かれていましたが、ぜひ、歴史の闇に埋もれている漂泊聖たちに光を当てていただきたいと思います。
(2007.09.27)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 江戸の漂泊聖たち | 西海賢二 | 吉川弘文館 | 2007年6月20日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
古代の行基に代表されるように、各地を巡って東大寺大仏の造立のための勧進活動や治水事業に従事することが、後世の円空や木喰行道らの遊行僧のスタイルである、治水事業を、造像という仕事に置き換えてみると、行基の勧進活動と円空や木喰行道の造像活動とは、深い結びつきがあったといえるであろう。
円空仏が多数残存することで著名な名古屋の荒子観音寺にある『浄海雑記』によれば、円空は「純ラ行基僧正ノ人卜為リヲ慕ヒ……」とあることからも、行基を追慕していたことがわかる。
(西海賢二著『江戸の漂泊聖たち』より)
No.170 『音を視る、時を聴く(哲学講義)』
これは、ちくま学芸文庫の一冊ですが、この本の題名『音を視る、時を聴く』に惹かれて読み始めました。しかし、大森哲学は噂通り難解で、その独特の言葉遣いを覚えるだけでも大変でした。
それでも何とか読み終えることができたのは、この題名のおかげです。音を視るとはなにか、時を聴くというのはどういうことなのか、それだけを考えていたように思います。音楽は嫌いではありませんし、CDアルバムも700枚以上は持っています。しかし、同じ作曲者の音楽であっても、指揮者や演奏者によっても違いますし、あるいは録音スタジオやコンサートホールの違いによっても変わってきます。だとすれば、音楽は芸術には違いないのでしょうが、演奏するたびに違うのではそれを芸術と呼べるのかなどと、考えてみたりもしました。音というのは、突き詰めれば、とても難しいとらえどころのないもののようです。
やはり、この手の本は、また時間をおいて読んでみる、そしてまた考えてみる、その繰り返しのなかからにじみ出てくるものがあるのかもしれません。
いいことに、これは文庫本です。いつでも、気軽に引っ張り出して読むことができます。
この本を読んで真っ先に思ったのは、哲学書はあまり分厚く重い本ではなく、手軽な文庫本がいいということでした。そうすれば、すこしは自分のものにできそうな気がします。
(2007.09.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 音を視る、時を聴く (哲学講義) | 大森荘蔵・坂本龍一著 | 筑摩書房 | 2007年4月10日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
自然科学の進展は、・・・・・フッサールは数学化、数量化だと言います。私の言葉で言えばものの計測です。要するにガリレオ、ニュートンがやったことです。そうするとものが完全に幾何学的な性質だけで描写されてくるわけです、基本的には。そうすると美醜・調和・音色、などは客観的には測れませんから、そっちの仕事に乗らないわけですね。心はまずはみ出される。計測の作業が行なわれるとテーブルだとかコップだとか、いわゆるわれわれが「物」というものは完全に物らしくなっちゃうわけです。死んだ物になる、死物。死物になるという意味は、こういう茶わんやテーブルはおよそ心とはまったく縁のないものになる、ということです。昔はそうじゃなかったと思います。もう少しあったか味があった。
(大森荘蔵・坂本龍一著『音を視る、時を聴く』より)
No.169 『武将が信じた神々と仏』
監修本には、その記述に責任を持つということで著者の名を記す場合もありますが、これは書かれていません。ということで、最後のページを確認すると、責任編集に「株式会社プライム湧光」とありました。そして、これを書くにあたり参考にした多くの文献が載せられてあり、なんとなく切り貼りの本のような印象を持ちました。いわば、ハウツー本のようなものです。
それでも、多くの武将が取り上げられ、彼らが信仰している神々と仏が項目順に載せられ、毎日戦に明け暮れていた武将たちの心の有り様をかいま見るようでもありました。今の私たちのように、漠然と死を遠い先のように感じているのと違い、いつも死と隣り合わせの戦をしている武将たちとは、ものの考え方や生活などは違って当たり前です。それを、信仰という面から見ようとしたのがこの本です。
戦国の名将といわれる武将はもちろん、西洋の神を信奉した武将たち、さらには自らが神や仏になろうとした武将たちもとりあげています。数えてみたら30人です。歴史ファンなら、武将の違う一面を見る思いがするかもしれません。
(2007.09.21)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 武将が信じた神々と仏(青春新書) | 八幡和郎監修 | 青春出版社 | 2007年5月15日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
「東北は田村麻呂、頼朝、秀吉、薩長によって四度も征服された」という被征服者史観が流行していることがある。だが、じっはいまの東北の人が四度征服されたわけではない。
たとえば、江戸時代に東北にあった30藩を分類すると、土着が1、田村麻呂らと来たのが2、頼朝が送り込んだのが9、秀吉や徳川によって封じられたのが18でほとんどがかつての征服者の子孫であるし、皮肉なことに唯一の土着系大名の三春藩は官軍の会津攻めの先頭に立った。征服者からだけの眼で見てはいけないのも事実だが、被征服者の立場からだけの歴史館も客観性に欠けるのだ。
(八幡和郎監修『武将が信じた神々と仏』より)
No.168 『野生の樹木園』
この『野生の樹木園』は、いわば『雷鳥の森』の続編ともいうべきもので、森と自然を壊してはばからぬ人たちへの警鐘でもあります。
昔は、人は樹木をあがめ、自然に寄り添って生きていましたから、樹木を傷つけたり、森を壊すこともありませんでした。まさに、自然のなかで生かされていました。それが、この地球上の生き物のなかで最強の力を持つことによって、だんだんと勝手な振る舞いをし始め、自分に都合の良いように作り替えようとしました。しかし、その結果、他の生き物たちは生きにくくなり、ある種は死滅していきました。しかも、地球の温暖化だけでなく、新たな種々の問題が顕在化しています。
この本は、20種の樹木を取り上げ、それぞれの思いを書くだけでなく、植物学的な考察や木々の伝承なども拾い集めています。それが、ヨーロッパと日本との違い、さらにはそれらを基にした文化の違いなども浮き彫りにされ、とても興味深く読むことができました。訳注やあとがきなどを除く本文は、140ページに満たないものですが、文章も格調高く、深みもあります。ただ高いのが唯一の減点材料ではないかと思われます。ちなみに、本体価格は2,400円です。
(2007.09.18)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 野生の樹木園 | マーリオ・リゴーニ・ステルン著、志村啓子訳 | みすず書房 | 2007年6月8日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
私たちの祖先は本能として、あるいは信仰心から、より直接的に、同時により親しみと敬意をもって、樹木たちと付き合っていた。人びとが自然のただなかで生きていた時代、木は地が天と、天が地と交信する、その仲介者であった。
(マーリオ・リゴーニ・ステルン著『野生の樹木園』より)
No.167 『昭和すぐれもの図鑑』
この『昭和すぐれもの図鑑』に出ているものは、その以前から使われていたものや、あるいは現在でも使われ続けているものもあります。たとえば、使う機会は減ったとはいえ、風呂敷やスダレなどは今でも使っている人はいます。それでも、たしかに今ではなかなか見ることすらできなくなったものも、かなりあります。それは、蚊帳、かまど、ちゃぶ台などです。
しかし、その珍しくなったものの一つに、吊り手水があります。おそらく、若い人たちは知らないでしょうが、トイレで手を洗うには、手水鉢にかけてある柄杓で手をすすぐか、あるいは、吊り手水の下に出ている細い管みたいなものをちょんと押すと水が出てくるのを使いました。今みたいに、ジャージャーたっぷりの水を使うことはありませんでした。この吊り手水に久しぶりで出会ったのが数年前のあるお寺でした。ほんとうに懐かしく、少しの水を大切に使っていた昔の人たちの生活がしのばれました。
おそらく、茶箱とか湯たんぽなどにも思い出のある人は多いかと思います。この本で紹介されているもののなかで、「吸引器」というものは知りませんでした。これは、水や薬液をアルコールランプで沸騰させて、その蒸気を吸入することで風邪やぜんそくなどによる痛みを和らげるものだそうです。「サザエさん」という漫画にも出てくるそうですから、おそらく相当使われていたのでしょうが、同じ昭和でも64年もの開きがありますから、そのなかで変化したのかもしれません。
この本は、パラパラと写真を見ているだけでも懐かしさがこみ上げてきます。ということは、私も昭和の時代を生きてきたということなんだと、妙に納得してしまいました。
(2007.09.16)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 昭和すぐれもの図鑑 | 小泉和子著、写真 田村祥男 | 河出書房新社 | 2007年3月30日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
かつて 「食寝分離」ということが住宅を設計する建築家たちのスローガンとなっていた。ちゃぶ台で食事をしていた時代のことである。ちゃぶ台はたためば片づくので、その後に蒲団を敷いて寝ることができる。つまり食事室と寝室が兼用できる。戦前、そして戦後も昭和30年代頃までは、こんな家が多かった。・・・・・
ちゃぶ台の本質は 「みんなで一つの食卓を囲んで食べる」ということである。
(小泉和子著『昭和すぐれもの図鑑』より)
No.166 『江戸の温泉学』
温泉場に住んでいると、やはり温泉には関心があります。しかし、江戸時代の温泉はどのような位置づけがされていたのか、というと、なかなかわかりませんでした。ここ小野川温泉でも、藩主は何度か湯に入りに来ていたようですが、一般の人たちのことまではわかりません。
この本は、そのような疑問にたくさんの例を上げながら、解説しています。著者は、温泉文化は江戸時代に花開いたといいます。今では死語に近くなってきましたが、湯治もこの江戸時代から始まったようです。
この本の資料でびっくりしたのは、江戸後期の文化・文政ころの『諸国温泉功能鑑』という温泉番付で、米澤の赤湯の湯、湯沢の湯、谷沢の湯の三つも東の前頭に載っていたことです。ちなみに、東の大関は上州草津の湯で、西の大関は攝州有馬の湯、横綱はなくて行司は紀伊熊野本宮之湯ほかとありました。
残念ながら小野川温泉はありませんでしたが、全国の番付で米澤の湯が3カ所も載るというのはすごいものです。この本にはたくさんの資料も掲載されていますから、必要なときに引っ張り出して参考にさせていただきたいと思います。
(2007.09.14)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 江戸の温泉学(新潮選書) | 松田忠徳 | 新潮社 | 2007年5月25日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
もっとも江戸時代に入るまでは、温泉は土地の住民以外の庶民にはそれほど馴染みのあるものとは言えなかった。もっぱら皇室を始め、貴族階級のものであったからだ。慶長九年(1604)の徳川家康の熱海湯治を機に、庶民の関心が温泉に向き出していたことは確かである。だが、当初は熱海の離れブームに象徴されるように、病気治療というより保養の意味合いが強かった。
ところが、当代一の名医、後藤艮山が温泉に医学の眼差しを向けることによって、本格的な湯治ブームが巻き起こる。それは艮山が高価で得がたい薬を貴ぶ風潮をいましめ、庶民の目をもっと身近な温泉に向けさせた結果であった。
(松田忠徳著『江戸の温泉学』より)
No.165 『NHK 美の壺 和菓子』
お菓子の歴史は千年以上あるといいますが、和菓子という名前には約100年ほどの歴史しかないと聞き、びっくりしたことがあります。というのは、この和菓子という名は洋菓子との対で呼ばれるようになったからだそうです。そういえば、桜草なども、わざわざ日本桜草と呼ばなければならない状況と似ているのかもしれません。
このNHK「美の壺」は、テレビでも時々見るのですが、とてもきれいな映像で、いかにも日本的なものを取り上げています。30分のなかにあまり詰め込まず、書院の床の間の飾り程度の品数で和を表現しています。この本も、おそらくはそのような制作姿勢ではないかと思います。本文の三分の二は写真で、残りでその写真を説明する文章が載っています。
ですから、読むにはそんなに時間がかかりませんが、むしろ考えながら楽しみながら読むことです。あっ、これは食べてみたい、いや、これはもう少し別な色のほうが季節感を表しやすいのではないか、などと勝手に想像を巡らしながらです。ここに掲載されたお菓子のなかには、食べたことがあるのもあり、写真を見ながら、そのときの味わいを思い出したりもしました。お茶にお菓子は付きものです。でも、お茶はどこでもその味に大差はありませんが、お菓子はそれぞれに味わいがあり、だからこその楽しみなのです。
今までも、食べたときはすぐにそのお菓子の名前を記録していましたが、これからもどんどんと増やしていきたいと思ってます。
(2007.09.12)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| NHK 美の壺 和菓子 | NHK「美の壺」制作班編集 | NHK出版 | 2007年4月25日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
「和菓子は日本ならではの包む文化だ」というのは前出の藪光生さん。誇らしげに上に飾ることなく、ケーキと違って切ると初めて中身がわかる。・・・・・そう、昭和生まれのいちご大福も、餡にいちごが隠れている。
「子持ち饅頭」は江戸時代から伝わる、直径が15センチもある饅頭だ。割ると餡の中にも、それぞれ色美しい餡を抱いた小さな子どもの饅頭が。子孫繁栄の願いを込めて、結婚祝いなどに使われるという。
(NHK「美の壺」制作班編集『NHK 美の壺 和菓子』より)
No.164 『良寛全句集』
平成12年2月10日に初版が出ていたのですが、この本は今年の4月20日に出た新装版です。
もちろん、良寛という名前だけで選びました。たしかに、漢詩や和歌は有名ですが、こんなにも俳句をつくっていたとは思いもかけませんでした。それも、下のコラムに抜き出したように、見たまま感じたままのストレートさが好ましく、一気に読まさせていただきました。しかし、何か心にひっかかるものがあり、何度も読み返したところもあります。この本を読んでいる間に、坂東33観音札所めぐりにも出かけましたが、間を開けたのでさらに印象が深まった句もあります。
たかが107句ですが、されど107句です。
とくに、逸話を彷彿とさせる句は、いかにも良寛さまだという印象で、つい句を読みながら感じ入ってしまいます。たとえば、『いざさらば 我も返らん 秋の暮』は、子どもたちと遊んでいたのに、早い秋の夕暮れに一人、また一人と子どもたちが帰ってしまい、仕方ないので私も帰ろうか、としている姿にいかにも良寛さまらしさが漂っています。また、有名な『焚くほどは 風がもて来る 落ち葉かな』も、長岡藩主牧野忠精が城下に招聘しようとして庵まで行ったのだが、無言のままこの句を示されたと聞くと、なるほど、と妙に納得してしまいます。そこには、芭蕉にも一茶にもない、良寛さまの魅力があります。
今の混沌とした世の中、このような一服の清涼剤みたいな句を、ぜひ、多くの方々にお読みいただければと思います。
(2007.09.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 良寛全句集 | 谷川敏朗 | 春秋社 | 2007年4月20日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
良寛の俳句はわずかに107句しか残っていない。そこで評価も大きく別れてしまう。しかし何といっても、良寛の俳句は実感であることが尊い。そして人間的な温かみがある。さらに親しみ深い点が、大きな特徴であろう。根本は、良寛が温かい血の通っている人間であったことである。
またその俳句は、平明である。平明だから共感を呼びやすい。そして素直である。そこには、まやかしがない。人間的な醜さがないのである。どの俳句を取りあげても、快く口ずさめるものばかりである。
(谷川敏朗著『良寛全句集』より)
No.163 『悪あがきのすすめ』
まず、著者の生き様がすごいし、そのつながりの人たちもすごいです。いや、いい意味で、おもしろいと思います。
この「悪あがき」だって、悲壮感が漂えば、ちょっと暗い感じがしますが、明るく強く、しかもおもしろがってワイワイとやっていれば、その仲間に加わろうかとさえ思ってしまいます。言葉というのは不思議なもので、同じ「悪あがき」でも、する方とされる方との感じ方の違いもありますし、その周りにいる人たちの思いもさまざまです。
どっちにしてもさまざまだとすれば、やはり、自分の思いで進むことが大切です。その結果、なんの解決にならなかったとしても、やったという事実は残りますし、次に同じようなことが起これば、その経験が生きるかもしれません。何もしないで悶々としているよりは、明るく悪あがきをしたほうが自分で自分を許せるような気がします。
この本にも書かれていますが、イヤならイヤと意思表示をすることは大切ですが、世の中には、イヤと思っていても、素直にイヤと言えないこともあります。なぜそうしなければならないのかという理由を考えることは意外と簡単なことですが、イヤと思いながらなぜイヤと言えないのかを考えると、それを理解することはとても難しくなります。たとえば、「いじめ」問題なんかもそうです。加害者だと思っていたのが、逆に被害者だったり、その関係が複雑であればあるほど、その本質を見過ごしてしまいます。
私は、難しいときはシンプルに考えることにしています。まずは原因と結果だけを簡単に結びつけて、その間のことはちょっと時間をおいて考える、そうすると、見えてこなかった糸が解きほぐれてきます。時間は頭を冷やしてくれるだけでなく、ちょっと安易かもしれませんが、無意識の中で解決する方向に駒を進めてくれるような気がします。
(2007.09.04)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 悪あがきのすすめ(岩波新書) | 辛淑玉 | 岩波書店 | 2007年6月20日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
逆らわないでいると、いじめはもっとエスカレートしてしまう。
いじめは楽しいのだ。みんなでやれば、そこには連帯感も生じる。いじめる方は、やがていじめが日常化し、生活の一部になる。いじめることで自分の力を確認でき、優越感も持てる。いわば、一種の快楽になってしまうのだ。これは麻薬と同じで、習慣化すればするほどやめられなくなる。たとえおかしいと思うことがあっても、今度はプライドとかメンツとかが邪魔して引けなくなる。
同時に、ひどいことをされる側も慣れてくる。いじめられっ子の多くは、いじめられているという事実そのものを認めたがらない。おそらく、認めないことで、なんとか心のバランスを保っているのだろう。抵抗しないことで、これまではなんとか生き延びてこられた、という事実も、抵抗する気力を削いでいく。
(辛淑玉著『悪あがきのすすめ』より)
No.162 『博物館へ行こう』
この本は、現役の東京国立博物館事業部事業企画課デザイン室長の肩書きを持つ著者が書いたもので、博物館を内部の視点から見ています。しかも、いかに多くの人たちに大きな感動を与えられるかを、展示方法からアプローチしています。
今までの博物館や美術館の紹介は、ほとんどが見る側からのものでした。これは岩波ジュニア新書という性格上、仕事としての博物館というような書き方もしていますが、どのように博物館と付き合えばいいのかまで、若い世代にわかりやすく具体例をたくさんあげています。
私はこの岩波ジュニア新書を入門書というような位置づけをしていますが、その感覚からすると博物館への入門書かもしれません。出張の折など、上京すると、上野や六本木などの博物館や美術館めぐりをしてきますが、最近の展示はとても良くなってきました。それも、この本に書かれているような新しい手法が取り入れられてきたことによるものです。ぜひ、見やすく、楽しめる展示を、これからもお願いしたいものです。
また、付録の「ぼくの博物館手帳」も、これからどこを訪ねたらいいのか迷ったときには、とても参考になりそうです。
(2007.09.02)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 博物館へ行こう(岩波ジュニア新書) | 木下史青 | 岩波書店 | 2007年7月20日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
はじめて行った博物館では、その博物館の平常展で、ホンモノのもつ力を感じ、自分の「みる力」を試すことをすすめる。・・・・・
そのコツは、まず、最初は展示物の解説の文字をみないようにすることだ。・・・・・
自分自身の「目のスイッチ」を最大にすると、優れたモノはきっと向こうから語りかけてくるにちがいない。じっくりとみたら、その横にある解説を読んでみる。自分の知識とばっちり会っていたり、まったくちがっていたりするけれど、それでよいのだ。
(木下史青著『博物館へ行こう』より)
No.161 『起源の日本史 近現代篇』
ものの起源を知る、ということは大事なことですが、なかなか一つずつ調べるのは大変です。このような本で、百科事典的に調べられると、知らなかったことがいろいろとわかって楽しいものです。今は、ネットで個別に調べることはできますが、なかには、下のコラムに書き抜きした「正座」のように、昔からあると思っていたりすると、知らべようともしないのではないかと思います。
思いこみというのは、なかなか外すのが難しく、新たな知識を知る障害にもなります。この本の中でも書いていますが、「金銭的な余裕があったら、手当たり次第に本を買うことを勧めたい」とありますが、その理由は、「知識も不十分なくせに選択して本を買うと自分の世界を狭くしてしまうおそれがある」からといいます。なにもそこまで言わなくても、と思いますが、ある一面ではたしかにその通りです。私なら、本当にほしい本は買い求め、それ以外は図書館を利用してたくさんの本と接するようにすればいいのではないかと思っています。
これは近現代篇ですから、この時代以外の本を出す予定があると思われますが、江戸期以前の室町時代や安土桃山時代のものも読んでみたいと思います。
(2007.09.01)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 起源の日本史 近現代篇 | 阿部猛 | 同成社 | 2007年4月25日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
三代将軍家光の頃、諸大名が将軍に拝謁するときの座り方が正座になったという。これが武家社会に広まり、やがて元禄頃から庶民にも広まっていったものと見られる。
「正座」という言葉は明治になってから用いられるようになったといわれている。維新政府の風俗矯正方針の一環として正座が勧奨されたのであり、これが正しい座り方と決められていったのである。昭和16年(1941)文部省が公にした「礼法要項」には、
「両足の親指を重ね、両膝の間を男子は6〜15センチとし、女子はなるべくつけ、上体をまっすぐにし、両手は股の上に置き、頭をまっすぐにし、ロを閉じ、前方を正視する。」
書かれている。
(阿部猛著『起源の日本史 近現代篇』より)
No.160 『日本人の死に時』
知らずに夢中で読んでいたのですが、気づくと幻冬舎発行の本が3冊続いていました。しかも、それぞれに個性的で、社長の見城徹氏の選択もあるのではないのか、とつい勘ぐりたくもなりました。
とくに、この本はお薦めです。今年読んだもののなかでも、十本の指のなかに入ります。一般的に、お医者さんの書くものは、健康で長生きする方法とか、いかに病気と付き合うかとか、どちらかというと病気を治すということに力点が置かれています。しかし、これはほどほどに長生きし、ほどほどのところで死ぬという、いわば自然死のすすめです。さらには、「病院に行けば安心と思うのは幻想で、実際はそこから不安がはじまります」とまで言い切ります。たしかに命はかけがえのない大切なものです。しかし、死が避けられない状態になっても、さらに延命治療が必要かと問われれば、些か疑問です。
現在の日本の平均寿命(世界保健機構報告2003年)は、男性78.4歳、女性85.3歳です。しかし、その健康寿命は男性72.3歳、女性77.7歳です。その差は、いわば介護の必要な期間ということだそうです。これは世界保健機構が算出したもので、ある程度元気で暮らしていける年齢が健康寿命ということになります。
世の中には、上手に年を重ねる方もいますし、だんだんと我慢をしなくなる方もおられます。しかし、我慢をしないというのは厚かましいということと紙一重です。これでは嫌われるのはあたりまえです。この本では、老人は「無頓着力」「満足力」「感謝力」を身につけた方がいいと書いていますが、たしかにその通りです。いつも「ありがとう」や「ありがたい」とかがスッと口からでれば、楽しく生きられます。
私も、下のコラムにも書かれているように、自然に抗わずに「そろそろ終わりかな」と思いながら逝ければと願っています。
(2007.08.29)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 日本人の死に時(幻冬舎新書) | 久坂部羊 | 幻冬舎 | 2007年1月30日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
死に時が来たときは、抗わないことがいちばん楽です。受け入れる準備さえできていれば、心も穏やかになれるでしょう。
そろそろ終わりかな、という感覚。
ああ、楽しい一生だった、なかなか面白い人生だった、あのときは楽しかった、あんなこともあった、こんなすごいこともあった、つらいとき、苦しいときもあったけれど、よくがんばった、あれほど笑って、あれほど泣いて、感動したり、興奮したり、満腹したり、うっとりしたり、きれいだなとか、切ないなとか、素晴らしいと思ったり、怒ったり、考え込んだり、嘆いたり、想えば盛りだくさんな人生だった……。
そんな気持で最期を迎えられれば、少しは落ち着いて逝けるのではないでしょうか。それ以上の人生を望んでも、きりはないのですから。
(久坂部羊著『日本人の死に時』より)
No.159 『花の日本語』
植物名はカタカナで書くことになっているようですが、漢字で書くと、その植物の様子がわかる場合が多いようです。たとえば、アセビと書くより馬酔木と書くと、馬がこの葉を食べて酔ったようになり足がもたつく様子がわかりますし、それがこの名の由来でもあります。万葉集にも出ているところを見ると、相当古くから関心がもたれていたようです。
このように日本古来からの植物だけでなく、外国から持ち込まれてきた植物にも、以前は日本独特の名前をつけていました。たとえば、緋衣草ですが、これはサルビアの和名です。おそらく、明治の中頃にやってきたときには、燃え上がるような緋色の花しかなかったのでしょうが、今では紫色などもあり、一般にはサルビアのほうが通りがよいようです。でも、それら日本語で表された植物名には独特の雰囲気があり、捨てがたい情緒があります。それを集めたのが、この本です。
植物に関心のある方なら、ぜひご一読ください。
(2007.08.27)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 花の日本語 | 山下景子 | 幻冬舎 | 2007年3月25日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
人は、自分が意識して蒔いたのではない種を、零れ種と呼びます。
「蒔かぬ種は、生えぬ」といいますが、蒔かない種が生えることもあるのですね。
芽が出て初めて、その存在を知る零れ種……。
そういえば、幸運がまわってきたり、努力が報われたりすることも、「芽が出る」といいますね。
自分が予期しない方向から芽が出ることも、よくあること。
それは、誰かが落としていった零れ種のおかげかもしれません。
そして……。あなたの何気ない行動が、零れ種になっていることだってあるのです。
(山下景子著『花の日本語』より)
No.158 『裁判官の爆笑お言葉集』
5月31日で第12刷発行ですから、そうとう売れたことになります。もしかすると、近づく裁判員制度などで裁判そのものに関心が向けられているからなのかもしれません。
いずれにせよ、実際に読んでみると、いろいろな裁判官がいることにおどろきましたが、裁判官といえども人の子ですから、つい本音が出ることもあります。たとえば、刑務所に入りたくって重要文化財の神社拝殿に放火した男の裁判官質問のときに、つい、「刑務所に入りたいのなら、放火のような重大な犯罪でなくて、窃盗とか他にも・・・・・」と言ってしまい、その後で「そう言いたくもなる」とフォローしたそうです。
また、暴走族から抜けたいというたった一人の少年に対し殴る蹴るのリンチを加え死亡させた暴走族の少年たちに、「暴走族は、暴力団の少年部だ。犬のうんこですら肥料になるのに、君たちは何の役にも立たない産業廃棄物以下じゃないか。」という趣旨の発言が非公開の審判のなかで担当審判官からあったと加害少年の両親が述べているそうです。これには賛否両論があったそうで、なかには「よくぞ言ってくれた」という人もいたといいます。しかし、少年審判が懲罰ではなく少年の更生を目指すという趣旨からみれば、リサイクル不能な産業廃棄物以下と言うのは、それもちょっといかがなものかという気もしますが、リンチという凄惨なことをして将来ある少年を死に至らしめたことを考えれば、そう言われても仕方がないのではないかとも思います。
それにしても、裁判というと四角四面と思ってしまいますが、このようなある意味、人間らしい味わいのある裁判官の言葉にふれると、ちょっと親しみを感じます。
(2007.08.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 裁判官の爆笑お言葉集(幻冬舎新書) | 長嶺超輝 | 幻冬舎 | 2007年3月30日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
法というものの仕組みは、つきつめれば「デジタル」に他なりません。すなわち「ある」か「ない」かという二項対立の組み合わせです。
法律の条文に書かれた「要件」をすべて満たし、「スイッチ」が全部「オン(入)」ならば訴えは認められます。「要件」を満たさず、スイッチがひとつでも「オフ(切)」になっていれば、訴えは退けられます。ただそれだけのことです。
たくさんのスイッチが何段階にも入り組んで難しく見える条文もありますが、原理はきわめてシンプル。というより、法というものは、そもそもシンプルである必要があります。そうでなければ何が違法で何が合法なのか、答えがはっきりしなくなるからです。
(長嶺超輝著『裁判官の爆笑お言葉集』より)
No.157 『山と氷河の図譜』
五百澤智也氏は、山形県の出身です。その名前を知らなくても、おそらく、山登りを趣味にしている方ならその精密な地形図を見たことがあるはずです。私も、山と溪谷社や「岳人」などの雑誌で何度かお目にかかった、とこの本を見て思い出しました。
いくつもの鳥瞰図が載っていますが、写真や地図とも違い、その山の全体像がスーッと浮かび上がってくる、それが鳥瞰図の良さです。とくにおもしろいと思ったのは、セスナ172型機から見た蔵王・吾妻鳥瞰図で、通常では絶対に見えない山々が描かれています。吾妻の東大巓の向こうに一切経山や那須岳があり、大峠の向こうには燧ケ岳や魚沼三山が見えるという具合です。
また、1973年当時のカトマンドゥ市街地が柔らかなタッチで描かれ、まだ環状線のようなリングロードがなかった時代の様子がなんとなくわかります。しかも、これらは各種の市街地や空中写真、そして現地調査などのデータを使って書かれているわけですから、そうとう正確でもあります。
行ったことがあるところも、まだ行ったことがないところも、これらの図譜を見ているだけで、楽しくなります。地図や写真とは違ったやさしさがあふれているというのが、読み終わった実感です。ぜひ、山好きにはおすすめしたいものです。
(2007.08.22)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 山と氷河の図譜 | 五百澤智也 | ナカニシヤ出版 | 2007年3月28日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
「日本地貌図」は、遠く宇宙の彼方から眺めた青い地球の表面に浮かぶ日本列島の姿かたちである。ただし、都市や村落、工場や道路、鉄道は示さ
れていない。ここに見られるのは、山や河川、平野や台地、丘陵など地表面の姿かたちがすべてである。・・・・・
この地貌図を眺めていろいろ楽しんでもらいたい。見る人の洞察力、地質学・地形学・水文学・土木工学・歴史学など関連科学の基礎知識と総合的な直感力を発揮して楽しむことのできるゲームだからである。
(五百澤智也著『山と氷河の図譜』より)
No.156 『ビジュアル漢詩 心の旅 1.悠久の古都を巡る』
漢詩そのものが好きというわけではないのですが、先月読んだ「奥の細道」や西行などの和歌を読むには、それらの素養がないとわからないことがたくさんあります。それで、仕方なく読むということですが、直接訪ね歩いたところでは、その思い出がよみがえったりします。
とくに、この本はビジュアル系ですので、写真がたくさん掲載されていて、ただ見ているだけでも漢詩の世界に入り込めそうです。全5巻で、これが第1巻ですから、順次刊行されていくと思います。
この本の最後の部分に「漢詩の基本」という漢詩を鑑賞するために必要な基礎知識が載っていますが、そのなかに「押韻と平仄」というのがあります。押韻とは、漢詩はもちろん詩ですので、韻律があり、それなりのリズムがあります。しかし、平仄(ひょうそく)とは、あまり聞き慣れない言葉ですが、中国語には四声があり、四つの声調があります。それを一定の組み合わせによって排列することで、8世紀ころから平仄法がきめられたのだそうです。
私も少しばかり中国語を習ったことがありますが、この四声が難しく、たとえば馬も母もこの四声の違いでしか表現できないのです。それがはっきりと発音できないと、相手は馬なのか母なのかさえわからないのです。でも、このとき教えていただいた中国の方に、漢詩を中国語でそのまま読んでいただいたときがあり、その調べの響きにとても感動したことを今でも忘れることができません。
結局のところ、漢詩は中国語でそのまま読むことが一番いいのかもしれませんが、その意味を知るにはやはり日本語で理解するしかないわけです。その手助けをするのが、ここでいうビジュアルなのかもしれません。
(2007.08.20)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| ビジュアル漢詩 心の旅 1.悠久の古都を巡る | 監修石井忠久、写真山口直樹 | 世界文化社 | 2007年6月1日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
戦後生まれの大半の日本人にとって、文語文に接する機会というのは学生時代の古典の授業ぐらいが実情であろうが、漢詩がリズミカルなものであるということは、それでも皮膚感覚としてわかっている。もちろん、漢詩が詩である以上、韻律があって当たり前なのだが、日本における漢詩の受容が主として訓読によってなされてきたということを考えると、これはなんとも稀有な例であると言わざるをえない。欧米詩を翻訳したものがほとんど韻文の体をなさないのに比べ、日本語に直してもリズムをもっているからである。
(石井忠久監修『ビジュアル漢詩 心の旅 1.悠久の古都を巡る』より)
No.155 『農のある人生』
農業は、人間が生きていくためには欠かせない仕事とわかっていても、どれほどの人たちがそれを真正面から考えているのだろうかと思っていました。そこに、起こるべくして起こった中国産野菜の問題です。20年ほど前から中国に何度か行ってうわさとして聞いていたとはいえ、いずれ食の安全を考えるときには、大きな問題になると思っていました。食に関しても、安ければそれでいい、とばかりは絶対に言えません。食は、まず持って、安全であることが大前提です。そのためには、農業の諸問題をみんなで考えていくことが必要なのです。
この本の副題は、「ベランダ農園から定年帰農まで」とあり、いろいろな形で一般の人々が農業と関わり合うことを提言しています。それぞれに長所と欠点があり、意外と農業でそれなりの収益を上げていくのは難しそうです。
それでも農業に関わることの利点を次のようにまとめています。
@新鮮でおいしく、安全な食べ物が食べられる
A自ら作物を作り育てる充実感や喜びを得られる
B農作業に携わることで健康になり、ストレスを解消できる
C日本の農業を支え、食糧自給率を上げることにつながる
D残り少ない日本の自然や景観、文化を守っていく一助になる
E「農縁」の構築が、地域の再生や活性化のきっかけとなる
ぜひ、皆さんもこれらを頭に入れながら、もう一度真剣に食や農を考えてみませんか。
(2007.08.18)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 農のある人生(中公新書) | 瀧井宏臣 | 中央公論新社 | 2007年6月25日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
農業に携わる醍醐味は、どの辺にあるのだろう。
「直径2ミリの小さな種が、こんなに大きなダイコンになる。びっくりですよ。まさか自分が、八百屋やスーパーに並んでいるのと同じ野菜を作れるとは思いもしませんでしたが、できるんです。籾殻みたいなニンジンの種、半分しなびたようなトウモロコシの種から、立派な野菜ができる。それが感動です」
製造業の場合、ある製品を企画し、設計し、製造し、販売し、顧客に喜ばれるという一連のプロセスが品質を左右するのだが、農業も同じ。さまざまな工夫を加えることで、小さな種が見事な野菜に育つまでのプロセスを学ぶのが面白いのだ、と小川さんはいう。
(瀧井宏臣著『農のある人生』より)
No.154 『江戸の躾と子育て』
私事ですが、旧盆入りの13日に初孫が生まれました。だからというわけでもないのですが、この本を読み始めました。
江戸時代も現代も「子は宝」ですし、子どもを慈しむ気持ちに変わりはないはずです。でも、その躾や子育てという側面から見れば、だいぶ違いがありそうですし、その違いを考えれば、もしかするとその時代が見えてくるような気がしました。しかも、この本の初版が5月5日のこどもの日というのも、ちょっとわざとらしさが伺え、おもしろいと思いました。
子育ての実際を、その豊富な資料から書き起こしていますが、まさか胎教まで考えていたとは知りませんでした。しかし、乳幼児死亡率が極端に高い時代のこと、いろいろな年祝いが生まれたのも宜なるかなと思います。「七五三」なども、そのような時代背景があったでしょうし、生活苦から子おろしなども日常的に行われてきたのかもしれません。
いつの時代も、子どもの遊びは活動的で、勝手に遊びを作り出しています。いたずらも、昭和の時代までとはあまり変わりなかったようです。変わったのは、つい最近のことです。
特に考えさせられたのは教育環境で、江戸自体も子どもの教育には熱心でしたが、学校と先生の関係、江戸時代の教育制度では寺子屋と師匠の関係になりますが、その師弟関係はそうとう密度の濃いものだったようです。そういう意味では、江戸時代の教育から学ぶべきものはたくさんある、と実感しました。その一つを、『ホンの旅 Column』に取り上げましたが、「あやまり役」という仕組みもとてもおもしろいと思いました。悪さをした子どもがあやまるというのは当然ですが、その子にかわって「あやまり役」があやまり、いわば仲裁役としての機能もあったらしいのですが、自己責任ということだけですべてをすまそうということよりいいのではないかと思いました。
(2007.08.16)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 江戸の躾と子育て(祥伝社新書) | 中江克己 | 祥伝社 | 2007年5月5日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
親たちは「雷師匠」といわれる師匠に期待した。これは雷親父と同じで、とにかくきびしく、怖い師匠という意味。子どもたちは怖がったが、親たちの評判はよかった。
論語に 「教えて厳ならざるは師の怠なり」とあるが、当時はその言葉通り、教育や学習にはきびしさがともなうのは当然で、きびしく教えないのは師匠の怠慢、と考えられていた。多くの親も、きびしく怖い師匠のほうが子どももきちんと勉強する、と思っていたようだ。
(中江克己著『江戸の躾と子育て』より)
No.153 『はかり方の日本語』
はかり方といえば、何をはかるかだが、時間や距離や重さなどいろいろあると思います。しかし、その現とした数にさえもあいまいな表現があると知って、読み始めました。
気づかずに使っていた言葉が、こんなにも不可思議だったとわかり、改めて日本語の奥の深さを知りました。この本では、あいまいな「数」の存在や、再び巡ってくる「時」のこと、さらにはさまざまな「量」のはかり方など、言葉の不思議さを感じさせるような題材がたくさん掲載されています。
もし、常に使っている言葉にふと疑問を感じたら、ぜひ、この本を読んでみてください。なぜ、「何」にはナニとナンという二つの読み方があるのか、考えたら夜も眠れなくなりそうです。
(2007.08.13)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| はかり方の日本語(ちくま新書) | 久島茂 | 筑摩書房 | 2007年3月10日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
「平和」のようなものは、特定の対象を指しにくい。平和という状態はまとまりを持ちにくいので、数えることはしない。しかし、抽象的な名詞であっても、「戦争」のような語は、特定の対象物を指すことができ、それを一回二回と数えることができる。これは、平和は私たちの頭の中では、出来事ではないが、戦争ならば出来事として一回ごとにまとまりをもって捉えられるということであろう。「平和の原因」とは言わないが、「戦争の原因」と言えることからも、戦争は(原因を持った)特別の出来事なのである。
(久島茂著『はかり方の日本語』より)
No.152 『「法令遵守」が日本を滅ぼす』
この本の題名を見て、「法令遵守」がなぜ日本を滅ぼすのかと単純に思いました。法令は必ず守らなければならないし、その法令を守ることがなぜ滅ぼすことになるのか、ちょっと理解できませんでした。しかも、著者は、法令を守らせる立場の検察所の検事をされていたと経歴にあります。理解できないことは、まず読んでみなければと思い、一気に読みました。
内容は、防衛施設庁や国土交通省の公正入札調査会委員なども務められた経験からなのか、談合問題にも詳しく言及してあります。確かに違法行為ではありますが、その歴史的背景や役割など、それなりのシステムとして機能してきたことは間違いなさそうです。ただ、それも現在の経済状況下においては、合法的なあらたなシステム作りが必要であることは当然でもあります。
それとおもしろかったのは、「善玉か悪玉か」という簡単な割り切り方をするマスコミの弊害です。そうするほうが、事件報道のコスト・パフォーマンスがいいということは、確かにそうかもしれません。「法令を遵守しなかったのだから悪い」という報道に、正面から否定できないし、だから「法令遵守をより徹底しなければ‥‥」というところに落ち着くわけです。なぜ、そうなったのか、などという複雑な背景を考えてしまうとコストがかかりすぎるということなのでしょう。
また、官僚と予算中心主義に関しても、確かにそうだとうなずけることがたくさん書かれていました。
では、ただ「法令遵守」だけでなく、なにが大切なのかといいますと、著者は『ホンの旅 Column』で取り上げた5つのことを「コンプライアンス=社会的要請への適応」と考えているようです。
今、この「法令遵守」が叫ばれているときだからこそ、ぜひ、この本を読んでいただき考えてもらいたいと思います。
(2007.08.11)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 「法令遵守」が日本を滅ぼす(新潮新書) | 郷原信郎 | 新潮社 | 2007年1月20日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
まず第一に、社会的要請を的確に把握し、その要請に応えていくための組織としての方針を具体的に明らかにすること。第二に、その方針に従いバランスよく応えていくための組織体制を構築すること。第三に、組織全体を方針実現に向けて機能させていくこと。第四に、方針に反する行為が行なわれた事実が明らかになったりその疑いが生じたりしたときに、原因を究明して再発を防止すること。そして第五に、法令と実態とが乖離しやすい日本で必要なのが、一つの組織だけで社会的要請に応えようとしても困難な事情、つまり組織が活動する環境自体に問題がある場合に、そのような環境を改めていくことです。
この五つこそが、従来の短絡的な法令遵守の徹底とは異なる、「社会的要請への適応=コンプライアンス」という考え方なのです。
(郷原信郎著『「法令遵守」が日本を滅ぼす』より)
No.151 『個力』
「お金と時間に振り回されない生き方」と副題にありましたが、たしかに個人の力は大切ですが、その力をどのようにしてつけるかというのが問題です。
前半では、その個力の鍛え方をいろいろな実例を交えて書いてありますが、後半はお金を身につけるための「ネットワークビジネス」について書いています。ネットワークビジネスは消費者参加型の一つの流通形態ですが、このビジネスには、まだ、いろいろの問題がありそうです。それを国会議員まで登場させて、このビジネスの正当性と進取性を印象づけるのは、個人的にはいかがなものかと思います。
ビジネスというのは、あくまでも結果的にですが、得する一方には損をするのがいるわけです。両方うまくいくというのは、意外と儲けも少ないようです。みんなが儲かるというのは、うたい文句にはいいかもしれませんが、そんなことは万に一つしかありません。
本を読むことの良さは、自分が経験しなくても、それを経験した人からいろいろなことを教えてもらえることです。そういう意味では、本のなかにも他山の石のようなものもあるということなのでしょう。
(2007.08.09)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 個力 | 西山啓道 | ぶんか社 | 2006年11月10日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
どんなに優秀なナビゲーションシステムも、最初にしっかりと行く先をインプットしなければ、何の役にも立ちません。あなたが進むべき目標、つまり手に入れるべき豊かな人生をできるだけ具体的に心に刻み付けること。
(西山啓道著『個力』より)
No.150 『ヒューマンエラーを防ぐ智恵』
副題に「ミスはなくせるか」とありますが、このヒューマンエラーというのは大きな問題です。ちょっとした不注意から大きな事故につながったり、大きな損失を生じたりしています。
この本でも紹介していますが、"ハインリッヒの法則"というのは、一つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、さらにその背後には300の事故に至らなかった異常が存在するという経験則なんだそうです。その、ちょっとした、その陰には、いろいろの異常があるとすれば、その段階でそれらを見つけ出す工夫が必要になります。それを描き出したのがこの本です。
今、大きな問題といえば社保庁の不正記載の件ですが、それだって、そもそもはヒューマンエラーです。エラーするのはわかっていてそれに対する対策をしてこなかったことが、大きな問題です。それに関して、この本に興味深い記述があり、「官僚制は事務作業の膨大化・専門化と、人間の人事安定願望とが産んだ制度なのです。」とありました。もっと具体的にいえば、官僚というのは外部に知られないように、自分たちがもつ技術を高度化して情報を秘匿する傾向があり、だからほとんど外部から干渉されないから、あとは、無難に仕事をこなし規定どおりに昇進して定年まで仕事を続けられるということなんだそうです。
もちろん、すべての官僚がそうだとはいえませんが、この説明を聞いて、なるほどと思いました。もし、違うという方がおられましたら、なぜ今回の問題が起きてしまったのかという理由を書き添えてメールをくださればありがたいと思います。
(2007.08.07)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| ヒューマンエラーを防ぐ智恵 | 中田亨 | 化学同人 | 2007年3月20日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
人間は、自分の技能や経験や立場に適合するように、問題を捉えがちである。そして、特定の捉え方をしたのだという自覚がないことがある。問題の捉え万を定めた時点で、責任の行き先と、解決策も定まってしまう。問題の捉え方次第で、特定の関係者が責任から逃れることができる。
(中田亨著『ヒューマンエラーを防ぐ智恵』より)
No.149 『使える! ギリシャ神話』
著者の齋藤さんは、あの『声に出して読みたい日本語』(草思社)というミリオンセラーを出した方で、明治大学文学部教授だそうです。
たしかに、ギリシャ神話は壮大なドラマで、ヨーロッパ文化を理解したかったらこれを抜きには語れないほどのものです。たとえば、星座なんかでも、このギリシャ神話から生まれたものが多いですし、語源なんかでもこれに基づくものがたくさんあります。ナルキッソスやパンドラ、あるいはピグマリオンなどもそうですが、さまざまな喩えにも使われたりします。ということは、ギリシャ神話を知らなければ理解できないことが多々あるということです。
と、思いながら読みましたが、まさに、その通りの世界でした。あっ、これもギリシャ神話の話しから生まれたのだとか、これもギリシャ神話を題材にしていたのだというのがたくさん出てきます。これは、もう、教養の範囲内、というべきものでした。
ぜひ、機会があれば、別にこの本でなくてもいいですから、ギリシャ神話に関する本を読んでいただきたいと思います。そうすると、ヨーロッパ人の考え方が、少しでもわかるようになるのではないでしょうか。
(2007.08.03)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 使える! ギリシャ神話 | 齋藤孝 | PHP研究所 | 2007年2月1日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
要求ってものは、どんどん絞り込んでいかないと、なかなかほんとうの価値と出合うところまでいかないのだ。ほんとうの価値をなにひとつ知らない男が成功するわけがない。人生の要求をシンプルにすることができた人から、成功していくのです。
ギリシャ神話に限らず、世界の童話には 「三つのお願いを叶えよう」 というパターンがよく出てくる。そう思いませんか? あれはまさに願望を絞り込めといっているのだ。煩悩は百八つあってもよい。ただし、願望は絞る。
(齋藤孝著『使える! ギリシャ神話』より)
No.148 『エレガントな象』
『エレガントな象』って、何だろう。象にエレガントとかエレガントでないなどというものがあるのだろうか、と思ったのがこの本を手にするきっかけでした。その意味からすると、本の題名は本選びの重要な要素になるうるようです。副題は「続々 葦の髄から」とありますから、後からわかったのですが随筆集のようなものです。
著者は、志賀直哉に師事して小説を書き始めたといいますから、そうとう昔の小説家(大正9年生まれ)ですが、だからというわけではないでしょうがこの随筆も旧仮名遣いで書いています。随筆ですから、今の出来事も話題に載せてありますが、それが旧仮名遣いで書かれていると、なぜか遠い昔の出来事のように感じてしまうから不思議なものです。ユーモアでさえ、旧仮名遣いで書かれると、ちょっと格調高く思えてしまうところなどは、旧仮名遣いの効用かもしれません。
著者の最初の随筆集は「葦の髄から」で、二作目は「人やさき 犬やさき」ですが、やはり副題として、「続 葦の髄から」とありますから、この「葦の髄」にはそれなりのこだわりがありそうです。もしかすると、「葦の髄から」を読めば、その答えが書かれているかもしれませんが、意外とこれが著者の戦略なのかもしれません。
ちなみに、『エレガントな象』という題名も、読まなければ絶対にわからないと思います。
(2007.07.30)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| エレガントな象 | 阿川弘之 | 文藝春秋 | 2007年4月15日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
「あんたな、ご飯の上に柿のたね載つけて茶漬にしてごらん。意外に美味しいよって、湯木さんが言ふんです。やってみたら、これがほんとに旨いんです」
小津映画のお茶潰場面を見てそれを思ひ出し、私もやってみる気になつた。
マーケットのおつまみ売場にピーナッツやあられと一緒に並んでゐる大粒柿のたねを一と袋買って来て、あたたかみの末だほんのり残る飯の上へたっぷり載せ、胡麻塩を適量、醤油をちらり掛けて茶漬にすると、なるほど中々旨い。材料費総計、如何に高く見積っても、飯茶碗一杯分三百円を出ない。三百円で故湯木貞一翁の遺風が味はへるとは結構な話・・・・・
(阿川弘之著『エレガントな象』より)
No.147 『割り箸はもったいない?』
割り箸論議が高まったのは数年前のことですが、そのときにはなんとなくこの割り箸を使わなければ世界の森林減少の歯止めに少しはなるのではないかと考えたように思います。
でも、この本を読んで、そんなに単純なことではないということが分かりました。また、ちゃんとした木ではなく間伐材を使えばいい、と簡単に言い切れないことも知りました。割り箸を作る木は、もともと雪国の人たちが雪囲いに使っている背板を主に使っているし、外国で生産されている割り箸もシラカバやアスペンなどのいわばフロンティア植物を使い、他の用途に比べると比較にならないほどのものだということでした。
でも、なんでこの割り箸が環境保全のやり玉に挙がるのか、その理由のいくつかはこの本にも書かれています。でも、この身近な割り箸が環境問題を考えるきっかけになれば、それはそれでいいことだと思います。さらに、今の日本の林業の現実を知る上にも、いいきっかけになると思いました。
ただ反対するだけでは、何も生まれません。「マイ箸」を持つだけでは、問題を先送りしているだけのような気がします。
この割り箸の問題には、伝統産業や小規模経営、環境問題から林業政策まで、多様なことが秘められているようです。
(2007.07.28)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 割り箸はもったいない?(ちくま新書) | 田中淳夫 | 筑摩書房 | 2007年5月10日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
まず生の木肌に手や指が触れる。木肌は冷たくなく、温かくなく、心地よい感触だ。・・・・・
それに塗り箸のように水分をはじかないから、べとつきにくい点もプラスだろう。また割り箸は軽いうえに、柔らかくしなる木材が使われることから、手首の負担が減ることも考えられる。加えて口に運び唇や舌に触れた際の感触が優れている。歯当たりもよいし、もし噛んでしまっても歯に響かない。もちろん塗料がはげて口に残る心配もない。
さらに食べる前に割り箸を割る、という行為はけじめがつく、という意見もある。仏教的な考え方だろうが、生きるために他の生物の生命を食べる食事を、生活の中で神聖な儀式に仕立てるけじめになるというのだ。そこに割り箸を割るという行為が、日本人の心性にあったのかもしれない。
(田中淳夫著『割り箸はもったいない?』より)
No.146 『詩をよむ歓び』
松尾芭蕉の「奥の細道」を読んだら、無性に詩を読みたくなりました。詩を読むと、なぜか空想が無限に広がり、言葉が生き生きと感じられるようになりました。
この本には、日本の有名な詩人といわれる人たちの詩が80編取り上げられています。それを幼き日、男と女、家族、生きる、孤り、夢、こころ、旅とふるさと、季節、宇宙とに分け、それぞれの詩に、著者自らの思いや解釈をしています。
でも、たとえば季節のなかのいくつかの詩を読むと、今の夏の季節の詩がいちばんすっきりと響いてきます。詩は、恋に悩めばその自分の気持ちを代弁するかのようなものを読みたくなり、子どもが授かれば子どもの何気ない仕草を読んだものに共感を覚える、みたいです。ただ、このように有名な詩を並べられても、教育的効果はあるかもしれませんが、詩を読みたいという欲求には答えられないように思います。
詩は、単純化されているからこそ、そこに想像力が働き、自分の思いをぶつけることができます。その思いは、身近なことにつながっているから切迫感があり、感動が生まれるのです。
ただ、下の『ホンの旅 Column』で取り上げたような詩もあり、目には見えないような働きや恵みを感ずることの大切さを教えてくれるのも詩の力です。
(2007.07.26)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 詩をよむ歓び | 中西進 | 麗澤大学出版会 | 2007年2月17日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
草原の夜 金子みすゞ
ひるまは牛がそこにゐて、
青草たべてゐたところ。
夜ふけて、
月のひかりがあるいてる。
月のひかりのさはるとき、
草はすつすとまた伸びる。
あしたも御馳走してやろと。
ひるま子供がそこにゐて、
お花をつんでゐたところ。
夜ふけて、
天使がひとりあるいてる。
天使の足のふむところ、
かはりの花がまたひらく、
あしたも子供に見せようと。
(中西進著『詩をよむ歓び』より)
No.145 『「奥の細道」をよむ』
松尾芭蕉の「奥の細道」は、東北に住んでいることもあり何度か読みましたが、今回ほど納得できたことはありませんでした。この「奥の細道」を歌仙を面影にしながら連句的な構成になっていることは以前から指摘されていましたが、歌仙の初折の表と裏、名残の表と裏とにわけて考えると、とてもわかりやすいと思いました。それは具体的には、旅の禊ぎ、歌枕巡礼、太陽と月、浮世帰りに分けてあります。
さらに、出羽から越前への旅で芽生えたとされる「不易流行」と「かるみ」という考え方も、すっきりと理解できます。いかに、この「奥の細道」は芭蕉にとって有意義な旅だったのかもわかります。
この考え方のもとは、著者によれば、芭蕉の句でもっとも有名な『古池や蛙飛び込む水の音』で、その解釈は「蛙が水に飛び込む音を聞いて古池の幻が心の中に広がった」というのだそうです。この現実のただ中に心の世界を開いたからこそ、「蕉風開眼」であり、その後の「不易流行」や「かるみ」につながっていったと考えられるのだそうです。
松尾芭蕉は、元禄7(1694)年10月12日に数え51歳で亡くなられていますが、この「奥の細道」は、元禄15年に刊行されています。これは遺言により、去来に贈られた最終稿となっています。
(2007.07.24)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 「奥の細道」をよむ(ちくま新書) | 長谷川櫂 | 筑摩書房 | 2007年6月10日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
人生は初めから悲惨なものである。苦しい、悲しいと嘆くのは当たり前のことをいっているにすぎない。今さらいっても仕方がない。ならば、この悲惨な人生を微笑をもってそっと受け止めれば、この世界はどう見えてくるだろうか。
芭蕉の心の「かるみ」とはこのことだった。「かるみ」 の発見とは嘆きから笑いへの人生観の転換だった。『おくのほそ道』 の旅の途中、芭蕉が見出した言葉の「かるみ」はこうした心の「かるみ」に根ざし、そこから生まれたものだった。
俳諧はもともと滑稽の道、笑いの道なのだ。とすれば、「かるみ」とは俳句の滑稽の精神を徹底させることでもある。
(長谷川櫂著『「奥の細道」をよむ』より)
No.144 『仮説力』
物事を見極めるには、仮説を立て、それを前提に進むと意外と考えやすいと思っていましたが、そのようなことを書いているのではないかと思い、読み始めました。副題として「できる人ほど脳内シミュレーションをしている」とありますが、これも一つの考え方です。その仮説が正しいか正しくないかは、たどり着いた結論を導き出すための方法論としての役割ですから、仮説が正しくないとすれば、それを訂正すればいいわけです。ただ、問題は、自分が立てた仮説が否定されるとムキになって守ろうとする姿勢です。仮説は、あくまでも仮説ですから、新しい仮説が出ればどちらの仮説がより整合性があるかというだけの問題なのです。
この本を読んでみて、物事を見ることの難しさを改めて感じました。たとえば、だまし絵の例でもそうですが、全体として見るとそれなりにだまされるのですが、部分部分を見ると、そのおかしさに気づきます。さらにその部分と他の部分を比較したりすると、そのおかしさが何なのかがわかってきます。あるいは逆に、部分では確かに間違いではないのですが、全体から見るとなぜかおかしいということもあります。だからこそ、仮説を立てて物事を考えることが大事なのだと思います。
著者は何度もこれらはビジネスにも有用だと書いていますが、物事の筋道をはっきりするという意味では、いい生き方をするためにも大切なことだと思いました。
(2007.07.21)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 仮説力 | 竹内薫 | 日本実業出版社 | 2007年2月1日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
「独占状況」というのは、社会全体としては、総じてデメリットのほうが大きいのです。本音が出てきづらく、まちがった方向に進む可能性も高いといえます。多様性が保たれているシステムのほうがずっと健全なのです。生物における多様性も同様でしょう。多様性がなければ、気候変動など環境の変化に対応できないからです。
あるいは、組織内の人間の多様性も当然必要です。同じ考え方をする人ばかりが集まった組織や集団では、進む方向が決まってしまいがちなため、仮にそれがまちがった判断であった場合、非常に危険なのです。
(竹内薫著『仮説力』より)
No.143 『お経の意味がわかる本』
著者は平成17年3月19日に遷化されましたが、これはとてもわかりやすくお経を解説されているということで、今年の春に出版されました。
この基礎となったのは、自ら布教資料として「だるま」という字数にして1,000文字ほどのガリ版刷りを毎月30年ほど続けてこられたもののようです。まさに継続は力なりで、遺弟の現自敬寺住職によりますと、321号まで続いたというから、すごいものです。
読むとわかりますが、とても平易な解説で、これでなんとか難しいお経にも親しむことができるのではないかと思います。取りあげているお経は、般若心経や観音経、舎利礼、坐禅和讃などですが、常々読むような偈文などにも触れていますから、とても参考になります。
そういえば、遺弟のあとがきに書かれていたのですが、理解できないことを意味する「チンプンカンプン」という言葉の語源は「珍文漢文」だということですが、お経も漢文で書かれていますから、「チンプンカンプン」であるのは当然かもしれません。でも、お経というのは、お釈迦さまの教えですから、それを理解できなければなんにもならないわけです。この本の他にも、『日本仏教がわかる本』と『ブッダの教えがわかる本』などの著書もありますから、機会があれば、ぜひお読みください。
(2007.07.18)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| お経の意味がわかる本 | 服部祖承 | 大法輪閣 | 2007年4月8日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
観音さまの 「観」という字は、仏教では重要なことばです。観とは、真理を観ずることで、真理とは、ありのままの相(すがた) です。
世の中や人生のありのままの相を観ずるには、どうしたらよいのでしょうか。
そのためには、世の中のありのままのすがたを正しくながめること、そして、清浄な心で、しかも無心の心で、何ものにもとらわれない心で、観音さまのようにものを見ることが大切なのです。
(服部祖承著『お経の意味がわかる本』より)
No.142 『いのちと勇気のことば』
おそらく、著者の日野原重明氏を知らない人はいないかと思いますが、1911年のお生まれですから、95歳ですが、いまだ現役のお医者さんです。しかも、聖路加国際病院理事長で名誉院長ですから、長い医師としての経歴もあります。
そこから、導き出されたことばですから、一つ一つに重みがあります。下の『ホンの旅 Column』に掲載したことばは、「創めつづける生きかた」の項に出てきますが、その大きなゆったりとした心に惹かれました。このカッコの部分は、イギリスの詩人ロバート・ブラウニングの『登場人物』という詩集の「アプト・ヴォウグラー」9に出てくるそうですが、この詩集も読んでみたいと思いました。
本を読む楽しさは、興味や関心が広がることです。1冊読めば、そこに載っている事柄を知るためにもう1〜2冊読むことになります。その連続性を閉ざさないようにすれば、いくらでも読めます。いや、読んでしまうような気がします。1冊が2冊、2冊が4冊、4冊が8冊という具合に広がっていく、それが読書の楽しさです。あとは、その時間をいかにしてつくるか、ということだけです。
秋の夜長もいいですが、夏の汗をかきながらの読書もいいものです。傍に、氷を入れた麦茶があれば、その氷が溶ける音を聞きながら読めるのは夏の楽しみです。
(2007.07.16)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| いのちと勇気のことば | 日野原重明 | こう書房 | 2007年5月10日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
「小さな円を措いて満足するより、大きな円の、その一部分になれ」との教会の信者に向けての父の説教を中学一年のときに聞いた私は自分に向けて言われた言葉のように受けとめました。
大きなビジョンに果敢に挑戦し、自分が措いた円は未完に終わっても、バトンタッチする人が現われて、いつの日か大きな円が完成されれば良いのです。
(日野原重明著『いのちと勇気のことば』より)
No.141 『絵で見る 漢字のルーツ』
漢字は表意文字ですから、その成り立ちはいろいろと想像できるでしょうが、やはり、定説というものがあります。それを絵を使いながら、解説したのがこの本です。
最近、書道の世界でも、草書や篆書だけでなく、金文や甲骨文字を使うことがあるようです。そういえば、中国雲南省の麗江に伝わるトンパ文字などもそうですが、ほのぼのとした表現が好まれる場合もあります。この本に出てくる漢字も、その絵を見ると、なるほどと納得できます。あるいは、なぜそのような意味になるのか、すぐには分からない漢字もありますが、筋道を追って考えると、だんだんと分かってきます。
たとえば、「休」という漢字ですが、人が木にもたれかかって休息する様子を表しているそうです。とくに暑いときなんかは、木陰に涼めば、それだけでホッとします。そうだとすれば、木がないような大都会では、いつも何かに追い立てられるように動かざるを得ない、というのもなんとなくわかるような気がします。こう考えれば、漢字って、とても想像力を刺激する文字のようです。
十干十二支などの古代文字もたくさん載っていますから、年賀状にも使えるかもしれません。
(2007.07.14)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 絵で見る 漢字のルーツ | 小原俊樹編著 | 木耳社 | 2007年1月31日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
(「友」という字は、) 「又」(右手)を二つ重ねて(甲骨・金文では左右に、篆書以降は上下に置かれる)、手に手を取り合うから助け合う意。「たすける」「したしむ」「かばう」「仲間」「仲がいい」などの義をもつことになった。・・・・・
『論語』 に「益者三友(エキシャサンユウ)」の熟語がみえるが、孔子のいう「益友」とは、@正直者、A誠実な人、B知識があって賢明な人。
(小原俊樹編著『絵で見る 漢字のルーツ』より)
No.140 『砂漠化ってなんだろう』
日本にいるとなかなか気づかないのですが、現在、世界的規模で砂漠が広がっています。初めて中国雲南省に行ったとき、砂漠ではないのですが、耕作不適地がたくさんあることを知りました。それから4回ほどこの同じ地に行ったのですが、それが確実に広がっているようです。この本を読み、そのようなところがこの地球上にたくさんあることを知りました。
砂漠化というと木を植えて緑を回復すればいいと短絡的に考えている人が多いようです。しかし、そうではないことをこの本はいろいろの実例を挙げて解説してくれます。今までの失敗や成功事例など、これからの若者にこの砂漠化を食い止める活動に一人でも参加してほしいという思いも感じられます。
これは岩波ジュニア新書ですから、若者に読んで欲しいということは当然ですが、多くの人たちにこの地球が砂漠化に向かっているということを考えて欲しいと思います。
(2007.07.11)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 砂漠化ってなんだろう(岩波ジュニア新書) | 根本正之 | 岩波書店 | 2007年2月20日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
人間活動による砂漠化を促進させているおもな原因として、つぎの4つが知られています。
1 放牧地での過放牧
2 降雨だけに依存している畑での過耕作
3 かんがい農地の不適切な水管理
4 薪炭材や建設用木材を確保するための森林の乱伐
このほかにも、鉱業資源の開発、交通施設や都市の建設も砂漠化をもたらします。日本でも鉱業資源の開発などの誘因によって、木の生えない砂漠のような土地が出現することがあります。
(根本正之著『砂漠化ってなんだろう』より)
No.139 『「はかなさ」と日本人』
この世はむなしいとかはかないと考える人は多いようですが、その思いはどこから、いつごろからあるのでしょうか。この本は、このような無常観を含む日本人の精神史に焦点を当てています。
全体を大きく三つに分け、一つは「夢の外へ」、そして「夢の内へ」、さらに「夢と現のあわいへ」です。それらを、古典的名著といわれるものを題材にして解き明かしていきます。たとえば、「往生要集」、「方丈記」、「徒然草」、「閑吟集」、「葉隠」などです。ですから、この本を読むだけで、それらの名著の思想的背景などが自然に理解できるようになります。
そして最後は、「色即是空 空即是色」にたどり着きます。この解釈は、金子大栄(浄土真宗僧侶)の
花びらは散る。
花は散らない。
という語句を紹介して、「はかなさ」の向こう側としています。たしかに、「はかなさ」にはいろいろの意味合いがあるようです。もう少し突き詰めて考えてみたいと思いました。
(2007.07.06)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 「はかなさ」と日本人(平凡社新書) | 竹内整一 | 平凡社 | 2007年3月9日 |
☆ ホンの旅 Column ☆
われわれの生き死に、生老病死もまた同じで、生というものがあって、その生の向こう側に死があるというのではない。春のうちにすでに夏が始まっているように、生のうちに死はすでに始まっている、ということです。しかも自然の移りゆきには、まだ 「ついで(順序)」 というものがあるが、われわれの 「死期はついでを待た」ない。「死は前よりしも来らず、かねて後に迫」っているのだ、と。いつか死ぬ、向こう側に死があるというのではない、死はすでにして背後に迫っているのだ、ということです。
(竹内整一著『「はかなさ」と日本人』より)
No.138 『東北 花の旅』
夏が近づくと、山の花々の写真を撮りに行きたくなるようです。その手引きに、この本を読み始めました。
著者は写真家だけに、きれいな写真が多く掲載され、文章はあくまでも脇役のようです。でも、この手の本は、いかに花の旅をするかではなく、花の旅をしたくなるように仕向ける、いわば背中押しが役目ではないかと思います。
全体の構成は、「みちのく 桜紀行」を中心に、「花の山旅 東北八名山」と「春から秋 花の名所案内」の三つです。とくに今回読みたかったのは、「花の山旅 東北八名山」です。八名山とは、吾妻連邦、月山、鳥海山、焼石岳、早池峰山、秋田駒ヶ岳、森吉ヤマ、八幡平の八つです。山形の山が三つも入っているのがうれしいです。
さて、今年の夏は、どこの山にしようか、それが問題です。
(2007.07.01)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 東北 花の旅 | 小杉国夫 | 山と渓谷社 | 2007年3月 |
No.137 『図説 アインシュタイン』
これは「ふくろうの本」シリーズの1冊で、アインシュタイン・ラブ巡回展で展示されたものなどを本というメディアで取りあげたもののようです。全体を5つの章に別け、いろいろな角度からアインシュタインを読み解きました。
私もそうですが、日本人はなぜか科学者というとアインシュタインを思い浮かべますが、その根底には大正時代に日本を訪ね、多くの人たちに語りかけたということがあるように思います。その日本訪問のいきさつや行程も、資料を掲げ、詳しく書いていますし、下の『ホンの旅 Column』に掲げた、日本を離れる前日(1922年12月28日)に発表した日本の皆さんへというメッセージを読めば、いかに日本びいきだったのかも分かります。
しかし、あらためてこのメッセージを読むと、はたして今の日本人はこのような性格を持ち続けているかどうか、はなはだ疑問です。だからこそ、ここに掲載させてもらったのですが、もう一度、このアインシュタインから日本の皆さんへというメッセージを熟読してみたいと思います。
アインシュタインの名言集というのを読んだことがありますが、その一字一句に科学者としての思いを込めているような気がします。たとえば、「他人のために生きた人生だけが価値を持つ (Only a life lived for others is a life worthwhile.)」ということは、今更ながらその通りだと痛感いたします。
(2007.06.29)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 図説 アインシュタイン | 金子務監修、千葉透文 | 河出書房新社 | 2007年1月30日 |
☆ ホンの旅 Column ☆