ホンの旅 2008
学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。
No.256 『本草学者 平賀源内』
平賀源内というと、エレキテルや火浣布などを作ったことしか思い出さないのですが、「本草学者」と書いてあるので興味を持ちました。
本草学とはこの本によれば、『「本草」とは草に本づくという意味で、前漢の武帝(在位、前141〜前87年)時代に誕生した新語であるという。自然に存在するもののうちで薬になるのは植物性のものが多いため、本草学は漢方医学でいう薬物学を指す。』とあります。そして読み進めていくと、下に抜き書きしたような「東都薬品会」という今の博覧会のようなものを催していました。しかし、本草学で大成したかというとそうではなく、結局は器用貧乏そのもののような生き方をしていたようです。
そして、最後は小伝馬町の牢獄で破傷風に罹り病死してしまうという、ちょっと惨めなものです。ありあまる才能を生かし切れないというか、その才能をもてあましていたというか、結局はエレキテルの平賀源内としてしか思い出されないのです。
源内の墓碑銘を書いた杉田玄白は、『ターヘルアトナミア』の翻訳をふとしたことから言い出したのを前野良沢ら同士が賛同してくれて、『解体新書』を訳し遂げました。晩年玄白は、「自身が九つの幸福に包まれているとして九幸老人と称した。太平の世に生まれ、江戸で育ち、藩から扶持を受け、極貧でなく、貴賤を問わず人と付き合い、有名になり、子孫が多く、長寿で、高齢でも元気でいるという幸福である。」ということで、有名になったこと以外は平凡かもしれませんが満ち足りた世を送ったようです。どちらがいいかなどと簡単に比較はできませんし、人それぞれ考え方も違いますが、同じ時代を生きたということを思うと、ちょっと考えさせられます。
たしかにこの本では、本草学者としての平賀源内は中途半端ですが、精一杯もがきながらも生きたという印象は持ちました。
(2008.06.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 本草学者 平賀源内 (講談社選書メチエ) | 土井康弘 | 講談社 | 2008年2月10日 |
☆ Extract passages ☆
「東都薬品会趣意書」により、開催を諸国へ呼びかけたことが功を奏したのか、集まった物産の総数が2,200余りであったことを源内はのちに自著『物類品隲』の凡例で伝えている。これにより過去第一回から四回までの田村藍水一門で行った総数七百数十余りを一度で凌いでしまったわけだが、この快挙で源内の本草学者としての名声は一層高まった。
しかし源内は、これで満足したわけではなかった。それまでの五回の物産会で出品された合計2千余種の中から、重要だと判断した360種について記した『物類品隲』全六巻を宝暦22(1763)年7月に出版した。
(土井康弘著『本草学者 平賀源内』より)
No.255 『名画はあそんでくれる』
二玄社っていうと、書道や美術関連書籍を一番に思い出すんですが、このようなエッセイ風のものも出しているのをはじめて知りました。そこで、ホームページを見てみると、クルマ関連の本も出しているそうで、なかなかバラエティに富む出版社のようです。やはり、人の興味なんていうのは狭いもので、井戸の中の世界で遊んでいるようなものです。
さて、名画といわれても、何を名画と考えるかは人それぞれでしょうが、その名画とのつきあい方もまた、人それぞれのようです。著者は、名画と友だちのように付き合いたいとして、「友だちになる前から、その人の家族構成や趣味を知っていることがないように、つき合いながらだんだん背景を知り、理解を深めていけばいい。それがいつしかかけがえのない存在に変わる。そんなつきあいがしたいと思っている。」といいます。
おもしろいのは、美術館で本物を見ると感動してきたのに、買ってきた図録を見ても、ほとんど感動しない場合があります。それと逆に、本物のように感動する印刷物もあったりします。また、見る側のこちらの体調に左右されたりもするようです。
それも、名画が私たちに遊びを提供してくれていることなんでしょうかね?
(2008.06.21)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 名画はあそんでくれる | 結城昌子 | 二玄社 | 2008年3月10日 |
☆ Extract passages ☆
私にとっていい絵は友だちのような存在だった。
もちろん絵を見る楽しみはいろいろで、例えば純粋に「目の喜び」だったり、(マティスの絵なんて本当に目のごちそうだ)あれこれ想像する面白さだったり、(ミロのヴィーナスの失われた腕が発見されていたらこんなにも魅力的ではなかったかもしれない)、さらには知識を深める楽しみだったりする。けれどなんといっても、私が経験的に感じてきたことは、いい絵には人を励ます力があり、人を慰める優しさがあるということだった。
それってどういうこと? と聞かれてもひとことではうまく説明することができない。いい絵に親しむようになって、折々に名画に触れながらふと元気になっている自分に気づくことがしばしばあるわけで、訳もなく憂鬱な時など、ずいぶんいい絵に救われてきたと思う。
(結城昌子著『名画はあそんでくれる』より)
No.254 『シャーマンと預言』
シャーマンという文字に惹かれて手に取りました。著者の定義は、「シャーマンは人間の世界と精霊の世界を行きかうために意識的に脱魂(エクスタシー)や憑霊(ポゼッション)をする技術を、生命をかけた厳しい修行を通じてマスターし、自分を別の意識状態にすることができる。」とありました。
この本は、著者がシャーマンの一人といわれる松堂玖邇とのつきあいの中から自分が見聞きしたことを書き記したものです。私は、それらが本当のことかどうかはわかりませんし、結局は信じられるか信じられないかということなのでしょう。
ところで、預言の意味ですが、「辞書を引けば、「よげん」には二つの漢字があり、それは「予言」と「預言」である。「予言者」とは未来を予測する者のことであり、「預言者」とは神託を告げる者のことである。」と書かれていますから、ここではシャーマンが神託を告げるその内容が中心です。しかし、それが預言といわれるものかどうか、それも結局は信じられるか信じられないかということに行き着きます。何度読み返しても、そう感じました。
ただ、この本を読んで参考になったのは、戦時中の沖縄戦についての記述です。いかに戦争というのは、残酷で非人間的なものかがわかります。
(2008.06.17)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| シャーマンと預言 | 石巖怪 | フォレスト出版 | 2007年12月5日 |
☆ Extract passages ☆
「宿命」は変えられないが、「運命」は変えられる。
「宿命」とは、生まれた場所やこの世に生を与えてくれた父親や母親など、人間の手で変えることのできないものである。
では、「運命」とは何か。古い昔に例えていうならば、国の王子が成人して、新たな王国をたてる旅に出ることになったとしよう。東に行くのか西に行くのか、すべては王子の意思しだいで決まる。東に行き、旅の途中で病に倒れてしまうのか、西に向かって苦難のすえに豊穣の土地を見つけるのか、すべては王子の選択と自らの力にかかっている。
これが「運命」である。
父親である王は、王子の未来が幸福なものであることを願って、シャーマンに東に行くべきか西に行くべきかをたずねるだろう。シャーマンは「超越した世界」に魂の旅をして、「神」に行くべき道を相談し、その結果を王子に教える。王子がシャーマンの神託を信ずるか否かは、王子の選択しだいである。
(石巖怪著『シャーマンと預言』より)
No.253 『物語が生きる力を育てる』
著者は1948年生まれで現在ノートルダム清心女子大学教授だそうで、「岡山子どもの本の会」代表や岡山県子ども図書活動推進会議会長もされているそうです。読むとわかりますが、実践されている活動から書かれている部分が相当あります。
しかも、具体的に多くの絵本や読み物などを取りあげ、物語がいかに子どもたちにとって大切なもので、それが生きる力になるかを明らかにしていきます。
今、社会を見渡すと、大人になりきれないというか、いい年の大人までモンスター・ペアレントやモンスター・ペイシェントといわれることもあります。それだって、理不尽な要求や自己中心的な行動をするから「怪物」扱いされるわけですが、たんにモラル低下とは言えきれないものがあります。
そういえば、今月8日に秋葉原で起きた無差別殺傷事件もそうですが、事件を起こした直接のきっかけについて「(勤務先の)ツナギ(作業服)がなくなり、やけを起こした」と供述しているそうですが、まったく身勝手な犯行で理解に苦しみます。
やはり、子どもの時に、ゆったりと絵本を読んだり外で遊んだりする経験が少なかったような気がします。とくに、この本を読んで、考えさせられました。
巻末にこの本で取りあげた絵本や読み物を一覧で紹介していますので、これから子育てをする方には、ぜひお読みいただきたいと思います。
(2008.06.13)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 物語が生きる力を育てる | 脇明子 | 岩波書店 | 2008年1月29日 |
☆ Extract passages ☆
子どもが物語を読むことにはどんな意味があるのか、という問いに対して、感情体験ができるということ、実体験にはかなわないとはいえ、五感で世界を味わうことのすぼらしさに気づき、それが自然体験へと発展していく可能性もあるということ、そして、人間らしい暮らしのイメージをつかむとともに、「心の居場所」を見出すこともできるということを挙げてきました。もちろんそれは作品の質次第であって、だからこそ「質のいい物語」をしっかり選んで子どもたちに手渡すことが重要になってくるのです・・・・・・
(脇明子著『物語が生きる力を育てる』より)
No.252 『井戸茶碗の謎』
著者は韓国の陶芸家で、この本も2005年6月に『私たちの茶碗の物語』という題名で韓国で出版されたそうです。それで、大変な反響を呼び、今回日本でも出版されたのですが、バジリコ株式会社という出版社ははじめて聞きました。
この井戸茶碗ですが、著者は、「いくつかの根拠により、日本で名品となった井戸茶碗のほとんどが韓民族の祭器だったことを、私なりに明らかにしたいと思います。井戸茶碗の中で、飯茶碗が名品になったものもわずかにありますが、大半は祭器であったのではないかと・・・・・・。」と述べています。それがこの本の流れでもあります。読むと、井戸茶碗を美術館などで何度か見ていますが、そのように思えてきます。
一番不思議だったのは、韓国ソウルの国立博物館で韓国の名品をつぶさに見たときに、なぜ、粉青沙器(粉を塗った青磁)、日本では三島や刷毛目粉引などと呼ばれていますが、意外と短期間しか作られなかったのかでした。もちろん、文禄・慶長の役以降に日本からの注文で作られた高麗茶碗(御所丸茶碗、金海茶碗、彫三島茶碗、伊羅保茶碗、御本茶碗など)はありますが、それらはあくまでも日本から注文して作られたものですから、もちろん韓国にはほとんど残っていません。もちろん、現在でもそれらしい茶碗を日本人向けに作って売っており、私もお土産として、金海の猫掻き茶碗を購入してきました。
この「なぜ?」に対する答えが、書いてありました。そして、韓国の陶磁器の歴史も、陶工としての立場から、詳しく書いています。井戸茶碗だけでなく、高麗茶碗などに興味のある方には、ぜひお読みいただきたいと思います。後ろのほうの「陶工の火の物語」には、自らの制作風景が描かれており、実際の陶磁器制作の難しさもよくわかります。
(2008.06.09)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 井戸茶碗の謎 | 申翰均(シンハンギュン) | バジリコ株式会社 | 2008年3月30日 |
☆ Extract passages ☆
それ(韓国陶磁器の美しさ)は、歪んだ壷から感じ取れる非対称の趣、過酷な荊棘の刑を前にしても正義を貫き通したソンビ(官職につかない在野の学者)精神に似つかわしい節制の美。この二つが絶妙に調和し、創造的な「匠の精神」と「ありのまま」を愛する余裕と諧謔が交わることで、韓国の古陶工の自由を求める魂が表現されているためです。
韓国の古陶磁器の美しさの秘密を一言でいうと、陶磁器の「肌の美しさ」にあります。ここでいう陶磁器の「肌」とは胎土を指しますが、胎土は土です。土と薪火が出会って生み出す色彩が陶磁器の肌だといえます。
(申翰均著『井戸茶碗の謎』より)
No.251 『中国名言集 一日一言』
6月4日、この本を読んでいるときに、NHKのクローズアップ現代で、「ランキングに依存? 本の危機」という放送がありました。
それを見ると、ここ10年間で66の出版社が倒産や廃業をしているといいます。さらに1990年以降中小の書店が半分以下になり、大型書店が増えているそうです。しかも、売り上げは1996年を頂点にして、それ以降下がり続けており、逆に出版点数は増えているようです。
問題は、たとえば草思社のように「いい本をじっくり作って、時間をかけて売っていく」タイプの出版社はダメになり、あまりにも一極集中的なランキングに翻弄されているように思いました。でも、ある調査によると、ランキングに左右されるのは年に2〜3冊しか買わない人が多いそうです。
思うに、本なんてものは、自分が興味を持つから読むものであって、ランキングに左右されるようなものではないはずです。この『中国名言集 一日一言』も、ちょっと古風な装丁で、いかにも岩波書店らしさがあり、よくまとまっています。日本になじみのある成句でさえ、その出典は意外とおぼろげなものですが、これ1冊読めば、ちょっとした中国名言通になれそうです。
一日一言ですから、ちょっとした時間でも読み進められ、いつの間にか読み終わるようなものです。ぜひ、机の脇に置いてお読みください。忘れっぽい人は、何度でも楽しめます。
(2008.06.06)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 中国名言集 一日一言 | 井波律子 | 岩波書店 | 2008年1月8日 |
☆ Extract passages ☆
「書を読むことを好めども、甚だしくは解するを求めず。意に会する有る毎に、便ち欣然として食を忘る」(『五柳先生伝』)。「読書は好きだが、徹底的にわかろうとはしない。ただ心にかなうところがあるたび、うれしくなり食事も忘れる」の意。重箱の隅をつつくような神経質な読み方はせず、わからない箇所があってもこだわらず、どんどん読み進めてゆく陶淵明の読書法は後世、文人の理想となる。
(井波律子著『中国名言集 一日一言』より)
No.250 『草手帖』
この本は、道ばたを歩いて出会った花たちに、一歩近づいて描いたものです。1ページにイラストのような写真と、まさににらめっこするような近さで感じた文章とで成り立っています。
取り上げられた草花(著者は好意を寄せて雑草というしています)を40、その他にコラムのような文章を載せてあります。著者は、この本から、「名前をおぼえ、生活の中にとり入れ、四季の移り変わりを肌で感じてもらえるとうれしいです」といいます。
たしかに、一口に雑草とはいいますが、よく見ると、とてもおもしろいものです。踏まれても踏まれてもという印象はありますが、その強さにも秘密があります。その秘密を、端麗な言葉で解き明かす、それがこの本です。
装丁もすてきですから、ぜひ手に取ってみてください。
(2008.06.01)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 草手帖 | かわしまよう子 | ポプラ社 | 2008年3月6日 |
☆ Extract passages ☆
自然のままに咲いている花、というのは、小さな種が自分の意志を目覚めさせて、根を伸ばし葉を広げた花のこと。どんなに暑くても寒くても、いままで見たことのない世界の中でも、根をおろせば愚痴をこぼさず、他所をうらやましがることなく咲いている花。芳しい香りにつつまれてやさしく咲く花もよいのだけど、わたしはたくましく咲いている花ばかりに目が動く。スッと、こころは惹かれてしまう。
(かわしまよう子著『草手帖』より)
No.249 『新個人主義のすすめ』
個人主義というと、利己的で身勝手な印象がありますが、イギリスをはじめ西欧の国々では当たり前のことです。ところが日本では、戦後、一方的に与えられたようなもので、自らの意志で勝ち取ってきたものではありません。そこに、わかりにくさの原因があります。もちろん、個人主義は利己主義でも孤立主義でもありません。
著者は、その区別を次のようにまとめています。
1、他の人のことも考えずに、たとえば鉄火巻きなら鉄火巻きばかり、自分の好物だからといって、30個も40個も食べてしまう人、これは利己主義者です。
2、他の人の好みや都合を考えずに、すべての人を十把一からげにして、一定のものを押し付ける人、これは全体主義または団体主義者です。
3、他の人の好みや都合を考えて、よけいなおせっかいはしない、そしてまた同時に他の人の食べる分もよく慮って自分の欲望は抑制する人、これが個人主義者です。
とまとめています。
たしかに、このあたりの区別を日本人の多くはごちゃ混ぜにしているような気がします。また、著者の意見ですが、「長いものが出てきたら、積極的にそれに巻かれないように手足を運動し、脳細胞を総動
員して、反撃を試みる。そのくらいでちょうどいいのです。
出る釘は打たれる、そのことを恐れてはなにもなりません。むしろ、打たれ続けた釘はしっかりと材木に固定されて大きな力となるのだ、とそのくらいの気概を持って、敢然として打たれてみる。打たれてもまた意見を言う。また打たれる。しかしまた意見を言う。そういうふうにして、もっとも妥当なところへ全体の意見を集約していくというのが本当の民主主義なのです。」には同感です。長いものにまかれて、自分を見失って良いことはありません。
著者は、個人主義とはなにかと問われたら下の「Extract passages」に抜き書きした二十箇条のなかにその答えがあるといいます。ぜひ、ゆっくりと味わいながらお読みいただきたいと思います。
(2008.05.29)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 新個人主義のすすめ(集英社新書) | 林望 | 集英社 | 2008年1月22日 |
☆ Extract passages ☆
個人主義はつるまない。
個人主義は他者を認めて調和する。
個人主義は思いやりの心を大切にする。
個人主義は不必要に人に干渉しない。
個人主義は自分の言行に最後まで責任を持つ。
個人主義は威張らない。
個人主義は人に無駄をおしつけない。
個人主義は自分の好みを人におしつけない。
個人主義は感情に流されない。
個人主義は約束を守る。
個人主義は時間を大切にする。
個人主義は付和雷同しない。
個人主義は流行に流されない。
個人主義は自分を自分らしく表現する。
個人主義は家族を大切にする。
個人主義は規則を守る。
個人主義は人の話を良く聴く。
個人主義は貪らない。
個人主義はいつも静かに。
個人主義は環境に配慮した暮らしをする。
(林望著『新個人主義のすすめ』より)
No.248 『子どもをナメるな』
副題に「賢い消費者をつくる教育」とあり、その書かれている内容がつかめず、かえって分からないからこそ読み始めたようなものです。でも、要点がはっきりしていて、よく理解できました。途中まで読んで、そういえばこの著者の本を以前に読んだことがあると思い出しました。
ここで一番言いたいことは「人間は好きなことなら言われなくてもやるが、嫌いなことは自分から進んではやらない。」ということらしい。だから、好きだと思えるような工夫が大切だということになります。それには、すべての人たちが消費者であることに視点を置き、子どもたちもその消費者の一人であるとして、賢い消費者になってほしいというわけです。でも、ナメるなってわざわざ題名に使う意図があまりわかりませんでした。たしかに、子どもをちゃんと見なさいとか一人の人間として理解しなければということはわかりますが、ナメるっていうと、いささか乱暴な物言いに聞こえます。
著者の経済学の考え方を子どもの教育にも取り入れるということは理解できますし、それは教育を観念的にとらえる風潮にくさびを打ち込む意味もあると考えられます。また、経済学の「比較優位の原則」を社会全体に当てはめて考えることもとても大事なことだと思います。そうすることによって、能力が一定レベルに達しないことを理由に社会から排除することの無意味さも理解できます。
でも、やっぱり、最後まで『子どもをナメるな』という題名には抵抗がありました。
(2008.05.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 子どもをナメるな(ちくま新書) | 中島髏M | 筑摩書房 | 2007年12月10日 |
☆ Extract passages ☆
教育現場でなすべきなのは、教育の目的が「賢人」の育成にあるという大前提を子どもたちに示した上で、各教科の学習目的を明確にし、習ったことが生きていく上でためになることを体験させる実践的な演習を取り入れることである。勉強の楽しさは、習ったことが役に立ったときにこそ実感できる。そうした実践が子どもを勉強好きにするのだ。
私が400人相手の経済学の授業で心がけているのは、どんなに抽象的な内容の理論であっても、できる限り新聞記事などの実例を紹介しっつ、経済学を知っていれば世の中の見方や記事の読み方が変わってくると実感させることである。そうした体験を積むことで学生は次に習うことも何か役に立つはずだと思うようになる。勉強に励みが出て、自分から進んで実例を見つけようとする。こうしていい循環が生まれるのだ。
(中島髏M著『子どもをナメるな』より)
No.247 『香りの愉しみ、匂いの秘密』
BBCで映像化された『匂いの帝王』というノンフィクションものがありますが、その主人公になったのがこの本の著者ルカ・トゥリン(Luca Turin)です。最強の鼻を持つとまで形容される彼が、なぜこの世界に足を踏み入れることになったのか、それは日本の資生堂の香水だったとここには書かれています。ちょっと長いのですがそれを紹介しますと、
「ときどき出かけていたパリのギャルリーラファイエットで、香水売り場の一角にぴかぴかの黒いアーチがあるのが目にとまった。それは「資生堂」という初めて聞く日本の会社のために新しく設けられたコーナーで、同社が初めて手がけた「洋風」のフレグランス、「ノンブル・ノワール」が陳列されていた。黒い服を着た販売員が、八角形の黒いガラス瓶に入った見本のそれを私の手に吹きかけてくれたのをいまも憶えている。
その香りは斬新な驚きだった。それはいまも変わらない。香水は声の音質と同じように、実際に話される言葉とは別の何かを独自に語ることができる。ノンブル・ノワールは「花」と言っていたが、その言いかたが天啓だった。ノンブル・ノワールの核となる花は蓄薇とスミレの中間だが、どちらの甘さもまったくなく、背景には厳粛な、気高いといってもいいほどの葉巻箱のシーダーの香りがあった。同時にそれは乾いた香りではなく、液体に濡れてみずみずしくきらめき、深い色彩がステンドグラスのように輝いていた。 」
実は、このような香水に興味があり読み始めたわけではなく、花の持つ香りについておもしろいことが書かれていないかと思ったのです。しかし、残念ながら少しはそれに触れていますが、ほとんどが香水そのものの話しでした。ですから、読み方も飛び飛びで、斜め読みもいいとこです。しかし、なかには題名に魅せられて読んでみたら、おもしろくはなかったというのも多々あります。これも、その1冊です。
それでも、「嗅覚研究において匂いと構造を考えるときに、生物学、物理学、化学の三つの領域をおさえないといけない」と東原和成氏が解説されていますから、やはり生物との関わりは大事なようです。
(2008.05.23)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 香りの愉しみ、匂いの秘密 | ルカ・トゥリン著、山下篤子訳 | 河出書房新社 | 2008年1月30日 |
☆ Extract passages ☆
ある意味では、天然原料が本物のレプリカとしてできがよくないからこそ香料が存在するとも言える。もしローズオイルの匂いがバラの匂いと同じだったら、調香師はうなだれて降参するしかない。しかし実際はちがう。調香師の課題とは、そのように切りきざまれて加熱され、変わりはててしまった自然物の破片を混ぜあわせ、まるで遺体修復師のように、ふたたび生命の輝きをあたえることなのだ。しかし天然原料の魅力は、同時に最大の難点でもあるのだが、その複雑さにある。複雑さは定義づけがむずかしく、認識するのはたやすい。
(ルカ・トゥリン著『香りの愉しみ、匂いの秘密』より)
No.246 『名文で巡る国宝の千手観音』
この本は「seisouおとなの図書館」シリーズの1冊で、他に弥勒菩薩や観世音菩薩、十一面観音、阿弥陀如来などがあるそうです。いわば、古今の名文と言われているものを集めたもので、旅の手引きなども掲載されています。
おそらく、この本を片手に持ち、国宝の仏さまをお参りして歩きましょう、という企画らしいです。しかし、地図や連絡先が書いてあっても、たとえば葛井寺(藤井寺)の千手観音さまは、毎月18日の開帳時しか拝観できません。私も西国観音巡礼で立ち寄ったことがありますが、日にちが合わず拝観出来ませんでした。もちろん、事前に予約をしなければならないところもあり、なかなか日程的に厳しいところもあります。でも、いつかはお参りしたい、そう思えるところばかりでした。
そういえば、今年の4月29日、85歳で亡くなられた岡部伊キ子さんは、「人が知性と名づけたものの中には、立身出世への計算や、世間体への見栄や、周囲の人間への配慮などがたくさん含まれている。そういうものがいっさい心に浮かばなくなったとき、はじめて、ああこれが純粋の思いなのかと思い知ることができるわけだ。ほんとうの知性とは、いわゆる知性で抑えられぬ心を知るときにきびしく極まる一種の覚悟ではないだろうか。」と和歌山県の道成寺の解説で書かれていますが、さすが知性派の随筆家だけのことはあります。
もし、機会があればの話しですが、読んでみられればいいと思います。
(2008.05.20)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 名文で巡る国宝の千手観音 | 水上勉他 | 青草書房 | 2007年12月5日 |
☆ Extract passages ☆
千手観音は、われわれの苦しみを救ってくださる仏さまだそうである。千の手をもち、千の眼をもち、ココニ悩メル女アレバ、ただちに赴いて悩みを救い、アソコニ貧シキ男アレバ、たちまちにして福を与えてくれる仏さま。それが、千手観音である。
よく注意して千本のお手を見ると、その一つ一つに眼が存在している。たいていの場合、われわれの悩みは、孤独である。隣人にはほとんど理解できない悩みをわれわれはもち、わが苦しみを理解する友をもたない嘆きは深い。人の悩みを聞くとき、たいてい分る、分るとあいづちをうつけれど、語り手の悩みを、聞き手がともに悩んでいるわけではない。人間の悩みは常に孤独である。 (哲学者 梅原猛)
(水上勉他著『名文で巡る国宝の千手観音』より)
No.245 『日本人の愛した色』
著者は染色工房「染司よしおか」の五代目当主であり、その道の専門家です。京都の伏見に染場があり、職人も10名ほどいるそうです。だからこそ書ける、そう思いました。
たとえば、たかが茶色といいましても、この本によると、下記の「Extract passages」のように80種ほどあるそうです。なかには今も使っている白茶や焦げ茶、赤茶などの色もありますが、どのような色を指すのか分からないものがほとんどです。辞書を引いても、出てこない色もありました。してみると、昔の人の色感覚はすごいものだったと思います。また、ネズミ色もこのように種々あって、この本には70種ほど載っていました。
もちろん、専門の染め色についても書かれてあり、たとえば緑色が染め色を出すには、まことに難しい色なんだそうです。それを引用しますと、「常磐色を例にすると、まず、白布を刈安という黄色の染材で染め、さらに蓼藍、すなわち青色の染材を重ねて濃い緑色にしてゆくのである。藍色の濃度により、線色の濃淡ができると考えていい。刈安の代わりに黄乗を藍染にかけて緑色を染めるときもある。緑色はじつは手間のかかる染色なのである。」といいます。
もし、染色に興味のある人だけでなく、古典文学や歴史に興味のある方でも、その色を知ることによって分かってくるものがあります。ぜひ座右におかれて、お読みいただきたいものです。
(2008.05.16)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 日本人の愛した色(新潮選書) | 吉岡幸雄 | 新潮社 | 2008年1月25日 |
☆ Extract passages ☆
路考茶 璃寛茶 梅幸茶 団十郎茶 芝翫茶 岩井茶 路春茶 遠州茶 利休茶 利休白茶 宗伝唐茶 宗伝茶 観世茶 白茶 黄茶 赤茶 青茶 緑茶 黒茶 金茶 唐茶 昔唐茶 樺茶 江戸茶 土器茶 枯茶 媚茶 焦茶 葡萄茶 栗皮茶 煤竹茶 御召茶 黄海松茶 木枯茶 桑茶 沈香茶 千歳茶 礪茶 百塩茶 丁子茶 枇杷茶 黄唐茶 山吹茶 鶯茶 鶸茶 雀茶 鳶茶 柳茶 藍媚茶 御納戸茶 銀御納戸茶 茶微塵茶 宝茶 栗金茶 猩々茶 栗梅茶 小豆茶 紅海老茶 丹柄茶 蜜柑茶 桃山茶 蘭茶 黄雀茶 梅茶 海松茶 素海松茶 柳煤竹茶 威光茶 藍礪茶 藍墨茶 極焦茶 憲房黒茶 猟虎茶 鼠茶 文人茶 光悦茶 信楽茶 翁茶 鴇唐茶 桑色白茶 豆殻茶 唐竹茶(など八十種)
(吉岡幸雄著『日本人の愛した色』より)
No.244 『そのブログ!「法律違反」です』
この「ホンの旅」も、本からの引用があり、副題のように「知らなかったではすまない知的財産権のルール」を知りたいと思い、読んでみました。3人の著者が身近な例を題材にして知的財産権をわかりやすく解説してありました。今、ホームページやブログを作成している方はもちろん、これから作ろうと思っている方にも読んでいただきたいものです。
著作物の引用に関しては、『著作権法では、「公表された著作物は、引用して利用することができる」と規定しています。そして、この場合の「引用」は、「公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない」とされています(著作権法32条1項)』とあります。
だとすれば、ここでも引用をしていますが、著作権法で認められた範囲内といえます。
これら法律は、知らないではすませられません。たとえば交通ルールを知らないから何をしてもいいわけではありません。知らなくても、当然違反すれば反則金は取られますし、あるいは裁判で罰せられることもあります。知らないということは、理由になりませんので、先ずは知ることが必要です。知ってさえいれば、最悪の状況にはならないはずです。お互いに、気をつけましょう。
(2008.05.13)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| そのブログ!「法律違反」です(ソフトバンク新書) | 前岨博・早坂昌彦・石塚秀俊 | ソフトバンク クリエイティブ株式会社 | 2008年2月29日 |
☆ Extract passages ☆
個人のブログが知らず知らずのうちに、他人の知的財産権を侵害している(=法律違反)可能性もあるのです。知的財産権の侵害は、交通事故と違って人的な被害はありませんが、ひとたび侵害が起これば、経済的な被害が甚大になる時代です。そのような面倒な事態を避けるため、最低限の知的財産権に関する知識をもった上で、インターネット上での情報の受発信を行うべきでしょう。
(前岨博・早坂昌彦・石塚秀俊著『そのブログ!「法律違反」です』より)
No.243 『み──んなダメな子だった』
この本は、この本を作ろうと思った理由もなにもなく、66名のちょっとは知られた方々の子供時代のことを綴ったものです。そのほとんどがあまり芳しくない子供時代を過ごしたようで、それでも今こうしてあるのはそのあまり芳しくない子供時代があったからです、と書いています。たとえば、暗い子供時代だったという藤巻幸夫氏も、今は下記の抜き書きのような考えをしていますし、作家の柳美里さんのようにずっといじめられっ子であったとしても、「いつかきっと救いとなる出会いがある」といいます。
もし、今悩んでいる子供たちにこそ、この本を薦めたいと思います。
また、親にしても、たとえば、作家の乙一氏の『母とはけんかもしました。一度、あまりに腹が立ったので、復讐に母の一番大事なものを捨ててやろうと、仲直りしたふりをして「お母さんの一番大事なものは何?」と聞いたことがあるんです。そうしたら「あんたよ」と言われてしまって(笑)。自分は捨てられないから復讐をあきらめたということもありました。』という話は、とても子育ての参考になりそうです。
いつも思うのですが、人なんて、途中で人生の善し悪しを判断はできないと思います。最後の最後になって、あと数分でこの世と分かれなければならないとき、なんとなく良かったとか悪かったとかと走馬燈のように駆け巡るのではないかと想像しています。ダメがいつまでも続くわけでもなく、いいことだっていつまでも続く保証はありません。
だから、この世は、おもしろいのです。
(2008.05.09)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| み──んなダメな子だった | 日経Kids+編 | 日経ホームマガジン | 2008年1月10日 |
☆ Extract passages ☆
今、どんなにつらくて大変でも毎日楽しく思えるのは、暗い少年時代があったから。あのつらさを克服して強くなれたからこそ今がある。
人生ってそうやって帳尻が合うんだと思いますね。
(セブン&アイ生活デザイン研究所社長 藤巻幸夫)
(日経Kids+編『み──んなダメな子だった』より)
No.242 『ヨーロッパの庭園』
副題が「美の楽園をめぐる旅」とあったので、当然シャクナゲのことも取りあげていると思ったのですが、植物そのものにはほとんど触れていませんでした。むしろ、庭園史のようなもので、イタリア・ルネッサンスの庭やフランス幾何学式庭園、そしてイギリス風景式庭園、イギリス現代庭園、スペインのイスラム庭園とパティオなど、歴史的流れに沿って書き進めています。
ですから、あまり興味のない分野のことで、結局は飛ばし飛ばし拾い読みしました。
おもしろかったのは、イギリス風景式庭園とイギリス現代庭園についての章で、数年前に浜名湖畔で開かれた園芸博の展示庭園を思い出しました。特にシシングハーストの庭は、日本の庭にも応用できそうで、その構成図をゆっくりと読み解きました。これは、ある意味、拾い読みした贖罪みたいなものかもしれません。
読書はおもしろいと続けられますが、おもしろくなく義務感だけでは長続きはしません。だから、興味のないところはさらっと読み終える、それでもなにがしかの印象は残るはずです。それで十分のような気がします。
(2008.05.07)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| ヨーロッパの庭園(中公新書) | 岩切正介 | 中央公論新社 | 2008年2月25日 |
☆ Extract passages ☆
近年の自然な庭造りの背景には、自然の急激な減少に対する懸念がある。かつて地球を覆っていた広大な森(地表の四分の三を占めていた)、草原、湿地など、多くの植物と動物が棲息する自然が人間の開発によって急速に破壊された。それに対し、各自が、今度は庭に、小さいながらも自然環境を再現する。庭はひとつひとつは小さいが、世界で合計すれば、その面積は相当な広さになるだろう。・・・・・・自然の庭には、小鳥や小動物、昆虫が戻ってくる。新しい庭造りは、この意味でも自然の回復になる。
(岩切正介著『ヨーロッパの庭園』より)
No.241 『遺したい言葉』
著者は出家してからなお忙しい生き方をしているような瀬戸内寂聴さんです。この本は、「瀬戸内寂聴 遺したい言葉」ディレクターの中村裕さんとの対談形式で、収録したインタビューのテープは80時間にもなったそうです。それを、NHKで110分と90分のテレビドキュメンタリーとして放映され、さらにそれらをDVD化し、さらにさらにそれを本として出版した、それがこれというわけです。
たしかに法話も自然体でされ、その言葉も慈愛に満ちたもので、誰にでも受け入れやすいものです。この本のなかでも、たとえば、「人生に無駄っていうことは何一つないのね。」と言い、さらに、「あの時は文芸雑誌から5年間、干されたんですよ。5年ってそれは長い。でもね、その時も、その後もずっと書いて耐えぬいたでしょ。本当に悔しい思いをしましたけれどね。でもあの時の、なにくそっていう屈辱感を跳ね返す力が、今の私を作ってくれたのだなと思います。」と続けます。それを読むと、たしかにそうだと思いますし、そこまであからさまにしていいのかとさえ思えます。
その歯に衣着せぬ言い方がおもしろいのであり、その飾らない人柄に好感を持つのかもしれません。文章も簡単なので、ついつい一気に読んでしまいます。でも、もう一度繰り返して読むと、また新たな発見があり、ついにはメモまでとりました。もし、機会があればぜひお読みいただければと思います。
(2008.05.05)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 遺したい言葉 | 瀬戸内寂聴 | NHK出版 | 2008年1月30日 |
☆ Extract passages ☆
人間は、自分はこれをしたら幸せだと思うことをすればいいんですよ。人がそれをおかしいと思ったって、いいじゃないですか。人が10人いてね、10人全員に好かれる人なんていません。10人が集ったら、その中に必ず嫌いな人がいますよ。だけど、そんなことにこだわっていてもしょうがないじゃないですか。
だから、自分と仲良くしてくれる人だけと付き合えばいいんです。無理に嫌な人と付き合うことはないと思います。
(瀬戸内寂聴著『遺したい言葉』より)
No.240 『おとなの男の心理学』
著者は幅広いジャンルで活躍していますが、精神科医で帝塚山学院大学人間文化学部教授でもあります。
その豊富な臨床経験から書かれたこの本は、自分の男の部分に潜む訳の分からないところをはっきりとえぐり出すようなものでした。ある意味、男だからこそ分からない、いや、分かろうとしない部分を、女性の目で引き出すような感じでもあります。
特にこの本の中心部分は、おとなというより更年期以降の男で、少しずつ老年になり、そして病気になったり、ついには死んでしまうところまでを描いています。誰も病気にはなりたくないし、ましてや死にたくもありません。しかし、生き物である以上、高確率で病気にはなるし、確実に死んでしまいます。それをどのようにとらえるかで、生き方が変わってきます。
ここに、バリントのオクノフィルとフィロバットの考え方を紹介していますが、もし、フィロバットの考え方ができればあまり老後を悲観的に考えることもないようです。ちょっとだけ、この説明を抜き書きしますと、『バリントが言うオクノフィルとは、特定の相手やまわりの人たちが自分に対して適切なケアをしてくれるのをあたりまえのこととして期待し、相手に依存しようとし、しがみつく人たちを指す。それに対してフィロバットとは、相手が自分に対して何かをしてくれることを最初から期待せず、それよりも現実に適応していくための「スキル」を磨こうとする。フィロバットにとって、自分のまわりの世界は、まだ見ぬ部分も含めて「友好的な広がり」として認識される。』といいます。ですから、いくら変化したとしても、『必ずしも「良い方向への変化」である必要もない。フィロバットたちが求める変化は、あくまで「これまでとは異なる方向に変わること」であって、そこには良い・悪い≠ニいった価値や意味は含まれていないのだ。』ということになります。
簡単に言えば、変化そのものも楽しんでしまおうという考えのようです。まあ、そう考えられれば、老後を悲観的に考えることもないというのは当然の理といえます。
(2008.05.03)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| おとなの男の心理学(ベスト新書) | 香山リカ | KKベストセラーズ | 2007年12月15日 |
☆ Extract passages ☆
病気になったり死んだりすることには、実ははっきりした原因も理屈もない。しいていえば、それは「生物だから」ということになるかもしれないが、健康に悪い食生活を送っていたから、などというのは結果論かつ一方通行のような説明でしかなく、世の中にはこれ以上ない、というくらい不健康な食生活を送っていながら元気で長生き、という人もたくさんいる。
結局のところ、すべてはある確率で誰にでも起きる、というのがいちばん正解に近いのだろう。
(香山リカ著『おとなの男の心理学』より)
No.239 『桜は一年じゅう日本のどこかで咲いている』
著者は8歳で旧満州のハルビンから引き揚げてきて、不登校になったとき、『牧野植物大圖鑑』で出会って植物に興味を持ったといいます。そして、桜に興味を持ったのは、ワシントンD・Cポトマック河畔の五色桜を見てからだそうで、それから約30年ほどになります。
出版社勤務を経て、1989年にフリーになってから本格的に桜を訪ねる旅を続け、それがこの本になったようです。副題は「桜とともに四季を歩く旅」です。
たしかに、桜に対する造詣の深さは随所に見られ、たとえば、「山桜は、日本列島のどこにでも咲いている。しかし、同じ山桜でも太平洋側と日本海側とではやや違いがある。これは気象条件や風土によって違ってくるらしい。極端には、関東の栃木県と群馬県あたりから西と北では、かなり違いが出るという。いちばんいい例が、栃木県あたりまでの山桜は白い花であるが、福島県からは紅色が強く、花も大きい大山桜に変わってくる。」とあり、いろいろの桜を見ていないとなかなか判断できないものです。
下の「☆ Extract passages ☆」を読むとわかりますが、一つのものに打ち込むことの大切さが如実に出ています。まさに虜になったからこそ、見えてくるものがあるようです。そこまですれば、おそらく桜の神さまもあきれかえり、他の人には見せないものまで見せてくれるのではないかと思います。
(2008.04.29)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 桜は一年じゅう日本のどこかで咲いている | 印南和磨 | 河出書房新社 | 2004年4月5日 |
☆ Extract passages ☆
私は車の運転ができない。だから公共の交通機関を使う。1本の桜を見るために1日がかりで出かけたこともあった。片道8時間かけて、見るのは15分か20分である。それでも心は満たされた。桜の花には魔性が宿っているのではないか、と思う。一度とり憑かれたら、虜にされてしまうのである。そして、いちばん美しい瞬間を見たいと思うのである。これからも、私は可能な限り、人生を桜に捧げたいと思っている。
(印南和磨著『桜は一年じゅう日本のどこかで咲いている』より)
No.238 『茶箱のなかの宝もの』
副題が「わたしの昭和ものがたり」とあり、今はやりの昭和の時代に対するノスタルジアのようなものかと思いながら、読み進めました。でも、男の子と女の子の成長や考え方の違いが鮮明で、今更ながら女の子が女性になっていく姿が見えてくるようでした。
いつの時代も、異性は不思議な存在ですが、このホンを読んでも、やはり不思議な存在そのままでした。もちろん、共感できるところも多々ありますが、これは絶対にわからない、と思えるところもあります。もう、わかろうとするより、そのまま受け入れるしかない、というのが本音です。
しかし、性別より人間として共鳴できるところもたくさんあり、楽しく昭和の時代を思い返しました。たしかに、これらの思い出は、茶箱のなかの宝ものです。
(2008.04.27)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 茶箱のなかの宝もの | 鶴田静 | 岩波書店 | 2007年3月7日 |
☆ Extract passages ☆
牛や馬や山羊は飼い主に引っ張られながらも、道端に生えている革を食べながら、ゆっくりと行く。時にはもっとおいしい草を追って別の方向に行ってしまう。これが「道草」だ。子どもたちが食う道草も、子どもの成長のための栄養をたっぷりと与えてくれるのだ。時間をかけ、他の事柄と出会い、ゆったりと「道草を食って」行く生き方は、決して無駄なことではない。むしろ後の人生に役に立ち、創造性を高めることになるのである。
今の自分、そしてこれまでの自分を振り返ると、私は子ども時代だけでなく大人になってからも、たっぷりと道草を食ってきたことに我ながら驚く。しかし、30ヶ国に近い外国に行き、様々な人々に出会えたことなどすべてが、現在の私を作る滋養になったのだ。そのチャンスが与えられたことに、大いなる感謝の念を感じている。
(鶴田静著『茶箱のなかの宝もの』より)
No.237 『種をまく子どもたち』
読んでいるうちに涙腺がゆるくなり、やっと読み終えました。でも、生きるということの意味をはっきりと示してくれたことに感謝します。この本は、あとがきに「この本には、ガンを体験した7人の子どもたちの、いのちと祈りがこめられています。元気になった子どもたちも亡くなった子どもたちも、その過程においては等しく野の花のように輝いていたことを、たくさんの方に知っていただければよろこびです。」とありますように、まさに小児がんを体験した7人の物語です。
もともとポプラ社から単行本として2001年4月に出版されたものですが、この文庫本のために執筆者の数人が一部加筆や補筆をされたそうで、巻末の支援団体などの情報も新しくなっています。解説をされている聖路加国際病院の細谷亮太先生も、小児科部長から副院長になられ、この「ホンの旅 2008」 No.211 『生きるために、一句』で紹介した通りです。ちなみに、細谷先生は、小児がん治療の専門家です。
また、闘病する子たちの物語に、カットのように添えられたひろはまかずとしさん(愛をテーマに活動されている墨彩詩画作家)の言葉も、とてもいいです。たとえば、「人生で味わう「楽しい事」が人を大きくし 「つらい事」が人を優しくします」や「いっしょに歩ければいい 泣ければいい 笑えればいい それだけでいい」なんて、種をまく子どもたちそのものの言葉のような気さえします。生きるって、難しいようで、優しいことのようです。難しく考えれば難しいかもしれないけど、誰かに生かされているって考えると、意外と気楽に生きられるような気がします。
抜き書きした清水真帆さんは、21歳で急性骨髄性白血病の診断を受け、23歳で旅立つまで、このような言葉をたくさん残されました。これを読むと、人って生かされているというのを実感します。生かされているなら、絶対に人を苦しめたり傷つけたりはできないと思います。真帆さんの墓碑に「ありがとう ありがとう」の文字が刻まれているそうですが、たしかに有ることが難いのがこの人生です。つねに有ることが難い、有り難いと思って生きることを肝に銘じたいものです。
(2008.04.23)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 種をまく子どもたち(角川文庫) | 佐藤律子編 | 角川書店 | 2006年4月25日 |
☆ Extract passages ☆
病気したおかげで、
人はずっと
生きてるわけじゃないっていうことに
気がついたっていうか。
それだったら、やっぱり、
それまで
どれぐらいハッピーでいられるかが
勝負だろうなっていう気が、
今はする。
(1994年10月。雑誌インタビューで 清水真帆)
(佐藤律子編『種をまく子どもたち』より)
No.236 『茶を楽しむ』
「日本人の癒し」シリーズの第1に取り上げられたのが『茶を楽しむ』で、ハートフルティーのすすめとあります。ということは、癒しの一番がお茶ということですから、お茶を習っているものとしては納得です。
また、お茶室の平和性として取り上げられていることは、とてもユニークです。手水鉢で手を洗うのは神道、掛け軸は仏教、茶室内の作法は儒教、方角や位置は道教、袱紗はキリスト教、といわれると全てについて納得はできませんが、それっぽくはあります。そう考えれば、なるほどという気持ちになります。
それにしても、コーヒーは意識を「外」に向かわせ、緑茶は「内」へと向かわせるという意見には、同感です。私も、どちらも好きですが、飲むときの意識としてはそのような面を持っています。もちろん、ただ単純にお茶菓子がコーヒーに合うか緑茶に合うかを考えて飲む場合も多いのですが・・・。
もともとお酒を飲めない体質なので、お茶やコーヒーなどの飲み物には関心があります。お茶は、緑茶や紅茶、ウーロン茶、なんでも飲みます。だから、ただ飲むよりは、いかにおいしく飲むかを考え実行しています。今のところ、一番おいしいのは、抹茶です。海外へ行く場合でも、抹茶と茶筅は忘れません。この茶筅だけは、絶対に代用が利かないと思っていますが、茶碗などは現地でさがしたほうが楽しいですし、帰国してからも思い出の一品になります。
そういえば、今まで一番おいしかったのは、早朝のエベレストを眺めながらお茶を点てて飲んだときです。
(2008.04.19)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 茶を楽しむ | 一条真也監修 | 現代書林 | 2007年12月8日 |
☆ Extract passages ☆
茶で「もてなす」とは何か。それは、最高のおいしい茶を提供し、最高の礼儀をつくして相手を尊重し、心から最高の敬意を表することに尽きます。そして、そこに「一期一会」という究極の人間関係が浮かび上がってきます。・・・
また、家庭においてもリビングルームはあっても、いわゆる「茶の間」が消えつつあると言われています。日本の茶の間とは、母親がいれてくれた茶を飲みながら、家族が互いを思いやり、気づかい、いたわり、何よりもつながり合う空間でした。家族という共同体がドロドロと溶けてゆく中で、いま、茶の間の復活が必要なのではないでしょうか。
(一条真也監修『茶を楽しむ』より)
No.235 『脱線者』
織田裕二を知らない人はいないと思うが、まずは役者であり、アーティストでもあります。
その彼がなぜこのような本を書いたのかは知りませんが、ところどころにきらっと光る文がありました。たとえば、「自分は、この世界でしか生きられない。そう思い込みすぎると、本当にその世界でしか生きられない人間になる。そして、何かアクシデントがあり、そこで生きられないことになった場合、その人には何も残っていないことになってしまう。」とか、「正しいことは、ひとつじゃない。逆から見る方法だってある。上から見る方法もある。下から見る方法もある。左から見る方法もある。右から見る方法もある。別な角度から見る方法だってある。そうすれば、きっと、違う答えが出てくる。ケンカだって両者の言い分は違うのだから。」などです。
この題名は、最後の「あとがき」で明かされます。ぜひそこまで読んでみると、役者としての生きざまを知ることができます。
(2008.04.16)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 脱線者(朝日新書) | 織田裕二 | 朝日新聞社 | 2007年12月30日 |
☆ Extract passages ☆
デビュー作の監督に言われたことがある。
「お前、30秒考えてから、物を言え」
実際、30秒考えていたら、話題は次に移っていて、話にはついていけない。つまり、それは 「喋るな」ということだった。
きみのレベルに話を落としたくはない。きみは物を知らなすぎる。きみのためにいちいち教えていたら、僕らの話は盛り上がらないじゃないか。きみの勉強に付き合うつもりはないよ。
(織田裕二著『脱線者』より)
No.234 『その言葉、異議あり!』
著者はセントルイス生まれのアメリカ人で、70年代からたびたび日本に滞在し、日本文学で博士号を取得したとのこと。しかも趣味は将棋や尺八とか、今の日本人より日本人らしいセンスをお持ちのようです。副題は「笑える日米文化批評集」とありますが、比較せず批評するあたり、おもしろいものがあります。
ただ、ちょっと理解できないことに、レッドネックやホワイト・トラッシュなどの軽蔑語をジョークとするあたりです。ある意味、これらの言葉は、一種の階級差別的表現でもあり、日本でなら田舎者というよりもうちょっと悪い言葉のような気がします。これが多民族国家アメリカの現実なのか、と疑ってもみました。
それでも、日本を外から見たり内から見たりと、その視点を変えることによって浮き出てくるものがあり、その気づきに驚かされました。たとえば、日本で何気なく使っているタレントという言葉を、「日本語では、「タレント」とは、才能に欠ける人を指すことばである。(In Japanese; a "talent" refers to someone without talent.)」と説明されると、タレントのみなではないでしょうが、この意味に当てはまるのも多いのではないかと思いました。また、日本は島国だからとか農耕民族だからといういいわけも、論理性に欠けると思いました。
そう肩肘張らずに読める、というのは間違いありません。ただ、すべて実体験かというと、妄想的部分も感じられ、それがおもしろくさせているのではないかと思いました。
(2008.04.13)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| その言葉、異議あり!(中公新書ラクレ) | マイク・モラスキー | 中央公論新社 | 2007年11月10日 |
☆ Extract passages ☆
あらゆる携帯メディアの中でも、ケータイはとくに矛盾と逆説に富んでいるような気がする。何しろ、他の人とのつながりを促進することが目的なのに、その強烈な支配力によって、むしろ使用者の不安と孤立感を高める。常時メールを確認しないと不安に駆られ、落ち着いて独りでいられなくなるような人間が急増する。また、公共の場で多くの人間に囲まれていても、ケータイの小さな画面にとりつかれているために、まわりの人間(他人とはいえ)がまったく存在していないかのように振る舞う。あるいは、アメリカの場合、レストランと公衆便所とがセルフォーン使用によって、突然同じような(場)と化してしまうこともある。
(マイク・モラスキー著『その言葉、異議あり!』より)
No.233 『桜を撮る』
この本は風景写真講座と銘打ち、同じ出版社であるサライなどでも活躍している写真家・竹内敏信氏が写真などの解説をしています。
ちょうど、4月12日に福島市の花見山に行くことになり、その前夜から朝にかけて読みました。この花見山は東海桜やレンギョウ、花桃、サンシュユなどが盛りと前日のテレビ中継を見て、あわてて読み始めたようなものです。というのは、意外と桜の写真は難しく、撮れそうで撮れません。とくに花色を出すのが難しく、天気にもよりますが白っぽくなりすぎます。そこでハウツー本のやっかいになろうという訳です。
日本各地のさまざまな桜が載り、まさに日本の桜図鑑のようです。しかも、風景の中にある桜の存在感は強く、たった1本でも絵になり、数本だとその色彩に圧倒されます。やはり、桜は日本を代表する花だと再認識しました。それと同時に、やはり桜の撮影は難しいとも思いました。これは、花見山で撮ったあとにも感じましたので、私には難しい素材の一つであることに違いはなさそうです。
(2008.04.12)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 桜を撮る | 竹内敏信 | 小学館 | 2000年4月10日 |
☆ Extract passages ☆
私の桜撮影行脚は、有名桜や桜の名所を避け、それらの周辺を巡ることにしている。そういった場所には、酔っぱらいやボンボリなどの無粋なものがなく、背景の美しい場所が多く、ゆっくりと桜を愛でながら撮影することができる。
ところで、写真を撮るための三大名所がある。それは「学校」「墓場」「発電所」である。桜はなぜか、このような場所に好んで植えられている。学校や墓場は理解できるが、小規模の発電所(ダムによってできた人造湖の沿岸なども含めて)に、どうして桜を植える習慣ができたのかわからない。ともかく桜を撮りたいのなら、古い学校、田舎の学校、山裾の墓場、大きな墓地、谷問の小さな発電所、人造湖の沿岸や周りの山腹へ行けば、必ず美しい桜に出会える。
(竹内敏信著『桜を撮る』より)
No.232 『寅さんは税金を払っていたのか?』
著者は元国税調査官を10年間ほどしていたそうで、その後フリーライターになったそうです。この本は、その経験を生かしたもので、『男はつらいよ』の登場人物を借りて、わかりやすく税金の解説をしたものです。
この本にもなんどか書かれていますが、税金というのは戦後から昭和の時代までは高額所得者や資産家に対しては高い税金を課し、低所得者は見逃していたそうです。ところが、その後は高額所得者や資産家の税金は大幅に引き下げられ、その代わりに低所得者からも多くの税金を取り立てるようになってきたといいます。さらに大企業の税金は引き下げられ、その代わりに中小企業の優遇税制が縮小されました。それが、格差社会を招いた原因の一つかもしれません。
そう考えれば、もう少し税金のことを知ることが必要です。それには、この本のように、寅さんやタコ社長、さくら、博など、『男はつらいよ』でおなじみの人たちを使って税金の話しをすれば、とても親しみやすくわかりやすく感じられました。おそらく、早い人だと、2時間もあれば読むことができるでしょう。
ちょっと変わった税金入門書ですので、機会があればぜひどうぞ。
(2008.04.11)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 寅さんは税金を払っていたのか? | 大村大次郎 | 双葉社 | 2007年11月10日 |
☆ Extract passages ☆
税務署員が、「老舗の会社」として認めるのは、設立後、何年くらいたった会社だと思います?50年?30年?
違います。10年なのです。
会社というのは、10年間経営を続けられれば老舗といえるのです。10年間続く会社というのは(休眠などせずに)、全体の1割くらいのものなのです。それくらい、会社というのは存続し続けるのが難しいものなのです。
(大村大次郎著『寅さんは税金を払っていたのか?』より)
No.231 『団塊漂流』
著者の海江田万里さんを知らない人はいないでしょうが、1949年生まれのまさに団塊の世代です。副題は、「団塊世代は逃げ切ったか」といういささか「何から」という意味がわからないまま読み始めました。しかも、新書の「角川oneテーマ21」シリーズを2冊続けてです。
結論からすると、やはり民主党に属する政治家で、税金や経済問題などを国会論戦のように書いています。もう少し、政党を離れて、個人的見解でもいいから、つっこんでもらいたかったというのが本音です。たしかに、政治家である以上、それから離れて書くことはできませんし、今までも政治家が出版された本の内容がマスコミなどで問題になったことがありました。公人は、いかなるときもそこから離れられないものなのでしょう。
そう考えれば、これも一つのマニフェストの形だと思えます。年金一つ取ってみても、国会論戦だけからはなかなかわかりにくい内容も、本という体裁をとれば、その資料も内容も分かるまで読み返すことができます。選挙が近づいてからあわてて出すマニフェストと違い、中身が濃いとも感じます。たとえば、公的年金制度は「修正賦課方式」であると知ってはいましたが、それがなぜ採用されたのかとか、スウェーデンなどのやり方と同じなのか違うのかなどは分かりませんでした。
もし、民主党の年金や雇用法などの考え方を知りたいときには、ぜひ読んでみてください。自民党との違いが浮き出てくるかもしれません。
(2008.04.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 団塊漂流(角川oneテーマ21) | 海江田万里 | 角川書店 | 2007年12月10日 |
☆ Extract passages ☆
小泉元総理は7年前、「自民党をぶっ壊す」といって自民党の総裁、そして日本国の総理になったが、彼がぶっ壊したのは、日本の中流社会だったのです。
現在の日本の政治・経済の状況を見ていると、中流崩壊の現象はまだまだ続くと考えざるを得ません。脅かすわけではありませんが、これから、さらに厳しい選択、選別が日本の中流階層を襲い、「中の下」から「下」に落ち込む人々の数が増えることを、考えなければなりません。
(海江田万里著『団塊漂流』より)
No.230 『粗食で生き返る』
著者の幕内秀夫さんは、「FOODは風土」を提唱する管理栄養士です。そして、伝統食と民間食事療法の研究をしているそうです。その成果がこの本なのでしょう。
今、日本食が海外でもブームで、それが本当の日本料理かどうかを検定しようと政府がもくろんでいるそうですが、では今の日本人がその日本料理を食べているかというといささか疑問です。朝はパン食だったり、昼はパスタやピラフを食べたり、夕食もハンバーグや魚のムニエルだったりします。そう考えれば、下に抜き出した「Extract passages」の通りです。おそらく、子どものおやつだって、ケーキやクッキー、そしてジュースなどではないでしょうか。
だとすれば、日本人が昔から食べていたものとは、だいぶ違います。昔は野菜などは生で食べるよりお浸しや酢の物にしたり、スープではなく味噌汁を常食していました。お米と味噌汁と漬け物、それが日本食でした。
もちろん、病気は食生活からくるとは限りません。ストレスや運動不足など、さまざまな要因が考えられるでしょうが、やはり、生活習慣病のもっとも大きな引き金が食生活だと思います。ぜひ、今だからこそ、昔の粗食をもう一度考えてみたいと思います。粗食で元気、それが今のお年寄りのような気がします。
(2008.04.08)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 粗食で生き返る(角川oneテーマ21) | 幕内秀夫 | 角川書店 | 2007年11月10日 |
☆ Extract passages ☆
世界的には日本食が健康食として注目されています。生活習慣病が蔓延する日本の食事が、健康的と言われるなんて不思議です。
これは、「伝統的な日本食」と「現在の日本の食事」がずれてしまっている影響でしょう。つまり、世界がよいと認めたのは日本古来の伝統的な日本食だったのに、現代の日本人は食生活の欧米化、間違った栄養教育などによって、伝統食をおろそかにしてしまい、健康とは
かけ離れた食生活を送っているのです。
現在の日本では「無国籍」「無地方」「無季節」「無家庭」「無安全」の「五無」の食生活が中心になっているように感じます。「飽食の時代」と呼ばれ、物質的には豊かになったはずが健康を脅かしている。この現実に早く気づき、本当の意味で豊かな食生活とは何かを考えてみて欲しいものです。
(幕内秀夫著『粗食で生き返る』より)
No.229 『不都合な真実 ECO入門編』
この本は、一昨年話題になった『不都合な真実』の映画や本をさらに理解しやすいようにするためと、より多くの人たちに読みやすいように作られたものだそうです。そういえば、確かに写真も多く、活字も工夫され、簡単に読み進めることができました。
著者のアル・ゴア元アメリカ副大統領を知らない人はいないでしょうが、彼がなぜこのような本を書くようになったのかを知る人は少ないでしょう。この本には、「私はよく、父といっしょに農場の隅から隅まで歩いたものです。父は歩きながら、自然についていろいろなことを教えてくれました。雨が降ると、降った雨水が小さな流れを作って、肥沃な表土を流してしまいます。どうやって石や枝を置いたら土を守ることができるかを、父はやってみせてくれました。今では、その農場は私の農場になっています。父が私に教えてくれた『土地を大事に守るという務め』を、子どもたちや孫たちといっしょに歩きながら伝えています。」と書かれています。
また、「できることからはじめよう」として、自宅の省エネや車などの移動時の排出量を減らすこと、さらには消費そのものを減らし節約することなど、具体的な方法が書かれています。下の「Extract passages」に抜き書きしたように、自らが変化をおこす推進役にならなければならないのです。誰かではなく、自分から一つでもいいから始めたいと思います。
(2008.04.05)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 不都合な真実 ECO入門編 | アル・ゴア | ランダムハウス講談社 | 2007年6月27日 |
☆ Extract passages ☆
地球温暖化ほどの大きな問題を考えると、圧倒されそうな気がして、無力感を感じてしまうかもしれない。「自分ひとりぐらいやったって、何にもならないのではないか」と思ってしまうかもしれない。しかし、そのような気持ちに負けてはいけない。私たちひとりひとりが責任を負わないかぎり、この危機は解決できないからだ。自分やまわりの人々を教育・啓発すること、自分の資源使用量やむだを最小限にするために自分にできることをやること、今より政治的にも活動的になり、変化を求めることーーこのようなさまざまな方法によって、私たちひとりひとりが事態を変えていけるのだ。
(アル・ゴア著『不都合な真実 ECO入門編』より)
No.228 『パワーストーン大事典』
ネパールやインド、中国などに行くと、けっこう宝石を扱うお店があります。雲南省には4〜5回程度行っていますが、ここは特に翡翠が人気です。それもそのはず、この本を見ると翡翠は「中国では玉と呼ばれ、儒教でいう五徳(仁、義、礼、知、信)の備わった石として、王の象徴とされてきました。また、魔よけやお守り、治療用として、死者の霊魂を鎮める石として、特別に扱われてきたようです」とありますが、この項を立ち読みし、興味を持ちました。
最近はネパールに行くことが多いのですが、ここではトルコ石(ターコイズ)の装身具を露天でも売っています。この石は、「この石は、あらゆる害悪から身を守り、幸運をもたらすといいます。旅の守護石として尊ばれてきました。持ち主に危険が迫ると変色したり、身代わりとなって割れることも。」とありますから、チベット遊牧民に好まれるはずです。
著者は、「意志には"意思"があるように思います」と言いますが、私には"変わらないもの"にこそ石の価値があるように思います。
(2008.04.03)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| パワーストーン大事典 | 森村あこ | ナツメ社 | 2008年1月10日 |
☆ Extract passages ☆
ダイヤモンドのように地下150km以上の深部で1000℃を越える高温と数万気圧の極限状態のなかで生まれる石もあれば、火山活動やプレートの影響などによって誕生するエメラルドやクリスタル、ジェード、ルビーなど、生まれる環境は異なるものの、数億〜数十億年かけて地球内部ではぐくまれたパワーストーンたち。そんな気の遠くなるような年月をかけて生まれたパワーストーンには、地球からのメッセージが込められているような気がしてなりません
(森村あこ著『パワーストーン大事典』より)
No.227 『ひみつの植物』
本屋さんで何度か立ち読みをしたのですが、内容のほとんどを知っていることだったので、あえて、買ってまで読まなくてもいいと思っていました。でも、図書館で見つけたら、もしかすると意外な秘密のことが書かれているかも知れないと思い、借りてきて読みました。
それほど、秘密めいたことが書かれているわけではありませんでしたが、このような本を形にするのは大変だろうな、と思いました。まず、ある程度は掲載しようとする植物を育ててみたいでしょうし、それをいろいろな角度から写真を撮らなければならないし、自分が知っていると思いこんでいることが本当のことなのかどうかも確認しなければならないでしょう。さらに許可を得なければ掲載できないこともあるでしょうし、広がりをもつためにも各種データを添付することもあります。そう考えれば、1冊の本をつくるということは大変な作業だと思います。本をつくるには、著者だけでなく、校正や印刷や製本などにも関わる人たちの協力も大切です。
そう考えれば、出版は文化を支える大きな役割を担っています。でも、いい本ほど売れない時代なんだそうです。本屋さんに行っても、立ち読みをしている人は多いのですが、買っている人は少ないようです。
みなさん、いい本をたくさん買いましょう!
(2008.04.01)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| ひみつの植物 | 藤田雅矢 | WAVE出版 | 2005年5月5日 |
☆ Extract passages ☆
ほんの二百年前には、そうしてひとりの人間の生涯をかけて収集された植物も、いまでは簡単に手に入れることができます。グラジオラスの球根を手に入れるのに、何ヶ月も船に乗ったり、ハイエナに追われたりすることもありません。お茶の間で、種苗会社の通販カタログをみながら注文書に記入するだけです。あるいはちょっと冒険をするなら、ネットサーフィンの波に乗って、世界中に珍しい植物の種子を探し求めることもできるのです。紅茶を飲みながらのお茶の間プラントハンターもいいものだと、文明の進歩にありがたさを感じる瞬間です。
(藤田雅矢著『ひみつの植物』より)
No.226 『大山鳴動してネズミ100匹』
著者の福井栄一氏の肩書きは、「上方文化評論家」で、各地で上方文化に関する講演やテレビ・ラジオにも出演しているそうです。でも、ネズミと上方文化がどのように結びつくのか、それは全部読んでみてから考えようと思い、読み始めました。
すると、ネズミを生態学の立場から書いたのではなく、ネズミと一般の人たちとの結びつきを取り上げ、いかにネズミさんが人との生活に深く馴染んでいたかを書いています。ネズミをイヤなものと考えず、ネズミに優しいまなざしを投げかけているように感じました。
ほとんどが2ページで終わる読み切りの文章で、それを100編集めたのがこの本で、題名にも通じます。副題はいかにもの「要チュー意動物の博物誌」です。おそらく、今年がネズミ年なので、その関連で出版したものでしょうが、ウシ、トラ、ウ、と続くかどうかは、著者の力量にもよるでしょうが、ひとえに読者の関心にかかっています。干支と日本人の生活習慣とはかなり密接な関連があるので、年の初めにこのような本を読み、今年一年を考えてみるのもいいことかと思います。
そのためにも、この本をお薦めいたします。
(2008.03.29)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 大山鳴動してネズミ100匹 | 福井栄一 | 技報堂出版 | 2007年12月20日 |
☆ Extract passages ☆
漢字だらけの字面や、いかにも漢語調の言い回しのせいで、多くの人は、この成句を中国由来と思っているが、それは誤解である。実のところ、その淵源は、「山が産気づいた。そして、ネズミを1匹生み落とした。」というギリシアのことわざである。詩人ホラーティウス(紀元前65〜紀元前8年)は、著書『詩論』の中でこの句をひき、詩人たちに向かって、作品が龍頭蛇尾とならぬように注意を促している。
ちなみに、このことわざは、有名な『イソップ物語集』に取り入れられて寓話化され、日本には16世紀頃、キリスト教文化の流入とともに伝えられたようだ。
(福井栄一著『大山鳴動してネズミ100匹』より)
No.225 『「まじめ」をやめれば病気にならない』
「簡単! 免疫生活術」とありますが、そもそも免疫って何、という感じで読み始めました。この本によれば、「免疫は、生体のホメオスタシス(恒常性)を維持するはたらきを担っています。ホメオスタシスとは、「生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず、生体の状態を一定に保とうとする」機能を指します。この生体のホメオスタシスのはたらきによって、私たちは健康に生活することができるわけ」なんだそうです。
特におもしろかったのは、お医者さんの立場でありながら、なるべく薬に頼らない生活をすべきだと書いてあることです。しかも、定期的な健康診断を受ければ、知らなくてもよい病気が見つかったり、過剰な診療につながるからあまり勧められないというあたりは、ちょっと意外でした。それでも、その理由を読みますと、納得できる内容で、このような考え方もあると初めて知りました。
読み終わってから、著者の経歴を見ますと、免疫学の世界的権威だそうです。その免疫学の立場から、生活習慣病にいかにして対処するかという記述などは、ぜひ読んでいただきたいと思いました。2月1日に第2刷が出たそうですから、多くの読者にも支持されているようです。
最後に書かれている付録の「免疫力を高め生きる力を発揮するための十三カ条」は、今までの自分の生活を反省し、これからいかに健康で生きるかの指摘でもあります。毎回している切り抜きも、今回は17枚で、ぜひ記憶しておきたいと思うことがたくさんありました。
なんだかんだ言いましても、ただ長生きすればいいものではなく、生きている意義といいますか、それなりの社会貢献をしながら人生を送りたいと私はつねづね考えています。
(2008.03.26)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 「まじめ」をやめれば病気にならない(PHP新書) | 安保徹 | PHP研究所 | 2008年1月7日 |
☆ Extract passages ☆
野生動物は病気になると、何も食べないでじっと回復を待っています。それは、本能的にからだの声を聞いて病気を治そうとしているからです。
ところが人間は、病気を治すためには食べないと、からだが消耗するだけだと考えます。からだがほんとうに栄養を必要としているのならば、病気になっても自然に食欲が増すはずなのです。ところが無理に栄養補給をするからかえって病気が治らずに、長引いて寝たきりが続くのです。
(安保徹著『「まじめ」をやめれば病気にならない』より)
No.224 『冬の日』
この本のジャンルは、いちおう写真集です。副題が「里山の一日」とありますから、冬の里山の一日の風景などを撮ったものだと思い、見始めました。あるページの写真は、どこにでもあるような風景で、ある種の懐かしささえ感じました。ところが、最後のページに、「写真は全て、琵琶湖周辺の里山で撮影したものです。」と書かれてありました。そういえば、写真スタジオも琵琶湖を望む田園風景のなかにあるそうです。
もちろん、写真集ですから、文字による記述はホンの少しなのですが、それでも「白い世界は、人の想像力を豊かにしてくれる。」などという言葉は、雪の様々な色合いを知っている北国の人にとっては、その雪の下に眠る大地まで見透かしたような気持ちにさせてくれます。
この手の本は、読むというより見るというもの、いや、鑑賞するものです。ですから、時間をおいて、ときどきは引っ張り出して見る、そして忘れたような頃に、またまた引っ張り出すという繰り返しのなかから、何か感じるものがあるのかもしれません。これも後から気づいたのですが、この本にはページもありませんでした。ということは、どこから読み始めても、どこから見始めてもいいということで、たった1枚の写真だけを見てもかまわないということです。
思うに、写真集は以前よりだいぶ安くなったと思います。それと、豪華本も少なくなりました。そういう意味では、誰でも気軽にいい写真集を手元に置けるいい時代なのです。
(2008.03.24)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 冬の日 | 今森光彦 | アリス館 | 2007年12月15日 |
☆ Extract passages ☆
だれもいない冬の田園は、青空も木々も、白い雪も、みんなひとりじめです。植物も昆虫も動物も深い眠りのなか。こんなときこそ、自然とじっくり向きあえるまたとない機会です。生き物たちは、冬の寒さから身を守るため、地面の下で丸くなったり、枯れ葉にそっくりな形となってぼくの前にあらわれます。この静的な美しさは、どの季節にもない魅力です。
(今森光彦著『冬の日』より)
No.224 『冬の日』
この本のジャンルは、いちおう写真集です。副題が「里山の一日」とありますから、冬の里山の一日の風景などを撮ったものだと思い、見始めました。あるページの写真は、どこにでもあるような風景で、ある種の懐かしささえ感じました。ところが、最後のページに、「写真は全て、琵琶湖周辺の里山で撮影したものです。」と書かれてありました。そういえば、写真スタジオも琵琶湖を望む田園風景のなかにあるそうです。
もちろん、写真集ですから、文字による記述はホンの少しなのですが、それでも「白い世界は、人の想像力を豊かにしてくれる。」などという言葉は、雪の様々な色合いを知っている北国の人にとっては、その雪の下に眠る大地まで見透かしたような気持ちにさせてくれます。
この手の本は、読むというより見るというもの、いや、鑑賞するものです。ですから、時間をおいて、ときどきは引っ張り出して見る、そして忘れたような頃に、またまた引っ張り出すという繰り返しのなかから、何か感じるものがあるのかもしれません。これも後から気づいたのですが、この本にはページもありませんでした。ということは、どこから読み始めても、どこから見始めてもいいということで、たった1枚の写真だけを見てもかまわないということです。
思うに、写真集は以前よりだいぶ安くなったと思います。それと、豪華本も少なくなりました。そういう意味では、誰でも気軽にいい写真集を手元に置けるいい時代なのです。
(2008.03.24)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 冬の日 | 今森光彦 | アリス館 | 2007年12月15日 |
☆ Extract passages ☆
だれもいない冬の田園は、青空も木々も、白い雪も、みんなひとりじめです。植物も昆虫も動物も深い眠りのなか。こんなときこそ、自然とじっくり向きあえるまたとない機会です。生き物たちは、冬の寒さから身を守るため、地面の下で丸くなったり、枯れ葉にそっくりな形となってぼくの前にあらわれます。この静的な美しさは、どの季節にもない魅力です。
(今森光彦著『冬の日』より)
No.223 『日本人の春夏秋冬』
「季節の行事と祝いごと」という副題が付いていますが、日本の季節感はたしかに行事や祝いごとと深く結びついています。季節の行事をすることによってさらに季節感が深まりますし、毎日の生活に深みと潤いを与えてくれるように思います。
この本を読んでいる今、季節は春彼岸ですが、この彼岸という言葉は、「彼岸というのは春秋2回あり、春分と秋分の日をそれぞれ中日としてその前後3日ずつ、合わせて7日間」という意味です。さらに仏教的な意味合いは、前後の6日間で六波羅蜜を1つずつ実践し、真ん中の中日だけは六波羅蜜全部を実践してみようということです。
現代の生活は、多くの国々との安定的な結びつきで成り立っています。だからこそ、日本人としてのメンタリティを大事にしなければならないし、それを深く理解し、多くの国々の人々とも友好的な関係を結ぶことができます。自分を抑えて、人と人との結びつきが良くなることはあり得ません。
この国際化の流れの中で、改めて日本人としてよって立つ伝統的文化を考えることは大切なことです。この本は、カラー写真も少し載っていますし、あとがきに「この小さな本は、春夏秋冬の季節の行事の由来について、日本民俗学から現代社会へ向けて進呈するささやかを報告書である。」と書かれていますが、行事そのものもしっかりした裏付けがあり、とても読みやすいものでした。
(2008.03.23)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 日本人の春夏秋冬 | 新谷尚紀 | 小学館 | 2007年12月5日 |
☆ Extract passages ☆
時間雇用の企業社会では、一見、勤務時間と自由時間とが峻別されているかにみえる。しかし、実際はそうではない。企業社会とは競争社会である。勝ち抜くためには時間外の超過勤務や自主研修という自縛から逃れられないのが現実である。
そうではあっても、基本的に仕事のはかどりとは、「はか」をとること、出来高にほかならない。それを確保しようとしてきた伝統的な生業の知恵とは何か。それは無理をしないこと、上手に休みを取ることであった。
私が忘れられないのは、中国地方のある村の、峠越えの荷物運びをしていた老人の昔語りである。彼の指差す山道の路傍には、数か所の休み場の跡があった。どんなに余力があっても必ずそこで休むのが決まりで、それを無視した力自慢の若者は、あとでみんな身体を壊したという。
(新谷尚紀著『日本人の春夏秋冬』より)
No.222 『大地と人を撮る』
副題は『アンデスを歩きつづけて』とありますが、1973年から毎年ペルーやボリビアなどの南米諸国に通い続けている写真家の本です。おそらく、ジュニアの皆さんに一つの目標を定めて見続けると、必ず何かが見えてくる、ということを言いたいのではないかと思いました。最近は何をしていいのかわからない、という若者が多くいますが、ぜひ、読んでいただきたいものです。何かをしているうちに、ひとりでに見えてくるものがある、そのような気がします。
この本のなかに出てくるエピソードの一つですが、2年に1度だけ1月に開かれるインカ時代から続く縄の吊り橋の架け替えを見るためにカナス地方に行ったそうですが、すでに10日前に終わっていました。ということは、次は2年後ということになりますから、それまで待つしかないわけです。しかも、クスコ市内にいては、地方のお祭りや行事に詳しい人はほとんどなく、やはり足で調べるしかないのです。逆から見れば、そのような苦労をして撮った写真は、ほとんど誰も撮っていないということになります。
この本には、カラーのページも随所にあり、そのような苦労をしながら撮られた写真を見て、感じるものがありました。何度も何度も通っているからこそ撮ることができた、と私は思います。たった1枚の写真でも、おそらく気の遠くなるような時間がかかっているし、考えられないような苦労を重ねられたのではないかと思います。まさに、オンリーワンの写真です。
私は、生き方も同じで、自分が納得できれば、それでいいと思っています。
(2008.03.20)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 大地と人を撮る(岩波ジュニア新書) | 高野潤 | 岩波書店 | 2008年1月22日 |
☆ Extract passages ☆
アンデスの山は大きく高原は広い。だが、そこで作物を育てることは一瞬たりとも気が抜けず、繊細過ぎるほど繊細な面を持つ。どちらにころぶかわからない不利と有利の条件が、同一線上で重なるところが彼らの農地になっているからでもある。放牧地も同じで、寒冷だからこそ良質な純毛をはぐくむアルパカは、わずかの雪が草原を覆って2日間ほど凍結しただけでも餓死してしまう。
そのさびしい環境を相手にして、村人たちは朝早くから起きて家畜や畑の作物を心配しながら、夕闇が訪れるまで、それこそ働きづめの日々を過ごしている。そんな生活を見ていると、彼らはいつも希望を追いかけ、1日1日を希望でつないでいるようにも思われてきたのである。
(高野潤著『大地と人を撮る』より)
No.221 『ジャガイモの世界史』
副題は『歴史を動かした「貧者のパン」』とあり、元中日新聞社記者として社会面を担当していた幅の広さが『ジャガイモの世界史』の広がりにも通じているのではないかと思いました。現在は桜美林大学教授として環境史を担当しているそうで、ところどころに環境問題を取り上げているのもこれで頷けます。
おそらく、この本を1冊読めば、相当なジャガイモ通になれます。そういえば、No.204 『キュウリのトゲはなぜ消えたのか』でもジャガイモを取り上げていますが、こちらは1冊丸ごとジャガイモだけを取り上げています。だいぶ以前、『トマト革命』石黒幸雄著、草思社、という本を読んだことがありますが、そのときもトマト一つで1冊の本が書けるとびっくりしましたが、この本の場合は読むに従ってもう1冊ぐらいは書けそうだと思いました。それだけ、ジャガイモが世界中の人々に大きな影響を与えている証なのかもしれません。
特に、冷凍ギョウザ問題に端を発し、食の安心・安全に関心が集まっている現在、もう少し日本の野菜の現状や食料自給率の問題など、食に関わることなどを真剣に考えなければなりません。そのときには、この本も役立ちそうです。
(2008.03.17)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| ジャガイモの世界史(中公新書) | 伊藤章治 | 中央公論新社 | 2008年1月25日 |
☆ Extract passages ☆
ジャガイモの栽培は、種イモを地中に植え付けることから始まる。万一、種イモがウイルスや病害虫に侵されていれば、収穫されるジャガイモは全滅となる。このためわが国では指定種苗制度に基づき、種イモの生産と流通は、独立行政法人種苗管理センターによって、厳重に管理されている。
種イモの元になるのが原原種。「元だね」とも呼ばれるこの原原種がジャガイモ生産の出発点だから、管理は厳格をきわめる。人里離れた、種苗管理センターの八つの農場でだけ隔離栽培される。それが特定の原種農家で増殖され、採種農家におろされるはか、余裕のあるときは種イモとして一般農家にも出荷される。採種農家で増殖されたものはすべて種イモとして一般農家に出荷される仕組みだ。
原種農家、採種農家が増殖したイモも、植物防疫官の厳しい検査を受ける。合格したイモだけが、「種馬鈴しょ検査合格証」が添付され、種イモとして販売できることになるのだ。
(伊藤章治著『ジャガイモの世界史』より)
No.220 『山頭火を行く』
この本は、山頭火の句のイメージを写真で表現しようとしたものですから、読むというより見るというものです。ですから、パッパッパッとめくってしまうと、ものの30分で見終わってしまいます。で、何が残るかといえば、おそらく印象としてはあまり残らないのではないかと思います。写真は、1枚1枚をゆっくりと見て、山頭火の句を味わって、その後にどんな余韻が訪れるかです。
種田山頭火は、生涯に約84,000句を詠んだと言われていますが、この本で取り上げているのはそのホンの一部です。今、手元に『山頭火大全』(講談社)を置き、ときどき参照しながら読み進めていますが、これには山頭火の行脚地図や句の索引もあり、とても使い勝手がいいものです。もし山頭火に興味があれば、ぜひ手元に置いていただきたい1冊です。
ところで、山頭火の句のイメージといっても、みなそれぞれに違いますし、それを写真で表現したとしても、それはあくまでその写真家のイメージでしかありません。たとえば、あの有名な「分け入っても分け入っても青い山」の句には、深緑色の常緑樹のなかに紅葉した樹があり、そこがスポットライトで照らし出されたかのような空間の写真が載っています。私なら、この句そのままに、青く霞んでしまうような山が重なり合っている様子をイメージします。
ある意味、読者自身がいろいろのイメージができるように、著者である写真家はまったく違うイメージを持ってきたのかもしれません。そう考えて、もう一度見始めると、また違ったイメージが広がり、一粒でなんども美味しいのではないかと思ってしまいました。
(2008.03.14)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 山頭火を行く | 四宮佑次 写真 | 講談社 | 2006年11月1日 |
☆ Extract passages ☆
山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆふべもよろし
(四宮佑次 写真『山頭火を行く』より)
No.219 『すべては脳からはじまる』
脳科学者としていろいろのマスメディアに出てくる茂木健一郎さんの本です。話題も政治から食べ物、そしてIT問題まで、いわば何でもありです。
というのも、もともとは「読売ウイークリー」や「中央公論」に連載されたものだそうで、その時々の話題を俎上にあげているからです。ご自分でも、週刊誌に毎週書くということはプレッシャーだったが、それがある種のリズムになり、「今週は何を書こう」と楽しみにすらなったといいます。だからこそ、このように書き続けられたのでしょう。
また、読む方も、話題が変わることから、どこから読み始めてもどこで読み終えてもいいわけで、ちょっとした時間の隙間でも案外気楽に読めました。それでも、随所に脳科学者としての分析みたいな解説があり、無意識でしていることが、ある種の脳からの指令で動いているのかもしれない、と感じました。題名通り、『すべては脳からはじまる』に間違いはなさそうです。
本を読むときには、ただ読みふけるだけでなく、気に入ったところは抜き書きしたり、メモを取ったりしているのですが、この本の抜き書きは19枚にもなりました。ということは、ある意味、とても気に入って読んだということです。ただいま3版ですから、多くの人たちにも読まれています。ぜひ、おすすめいたします。
(2008.03.12)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| すべては脳からはじまる(中公新書ラクレ) | 茂木健一郎 | 中央公論新社 | 2006年12月10日 |
☆ Extract passages ☆
創造性の程度は、側頭葉に蓄えられた「体験」と、前頭葉によって創られる「意欲」のかけ算で決まる。経験なしに創造性は生まれない。2006年に生誕250周年を迎えたモーツァルトも、幼少期よりたくさんの音楽に接してその体験を側頭葉に蓄えたからこそ、あのように驚くべき創造性を発揮することができたのである。年齢を積み重ねるほど、体験の厚みも増す。
高齢になると創造性が落ちる、と一般に言われるのは、「意欲」が低下するからであろう。逆に言えば、意欲的な高齢者は「最強」だということになる。
(茂木健一郎著『すべては脳からはじまる』より)
No.218 『したたかな生命』
副題に「進化・生存のカギを握るロバストネスとはなにか」とあり、そのロバストネスそのものが分からず、それを知りたいと思い、読み出しました。ところが、これがとても難しい本で、進化や生存だけでなく、糖尿病や癌などの病気をシステムとして考えているようです。そこで、分からない語句を一つ一つ調べていくと興味をそがれるので、さーっと読み続けました。おそらく理解度は20パーセントかもしれません。
まず、このロバストネスですが、その定義は「システムが、いろいろな擾乱に対してその機能を維持する能力」だといいます。つまり、ロバストネスを議論する際には、「システム」が、どのような「擾乱」に対して、どの「機能」が維持されるのか、されないのかを明確にして議論する必要があるというのです。それで考えると、私には、糖尿病がなぜ起こるかという問題より、吉野家はどういう戦略を展開するかという問題のほうが、このロバストネスについての理解はできました。たしかに、癌をシステムで考えるでは、その癌の多様性や抗ガン剤開発の難しさなどは、その内容が分からずともその大枠は理解できます。しかし、ロバストネスの発想で癌の治療を考えるとなると、何度読んでもなかなか理解はできそうもありません。
おそらく、これは基礎学力の問題で、システムそのものが理解できていないからのようです。でも、何が分からないかが分かれば、今度はそれを分かるようにすればいいわけで、いつかは理解できるようになります。まあ、そう期待して、今回は理解度20パーセントでも仕方ないと思いました。
(2008.03.09)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| したたかな生命 | 北野宏明・竹内薫 | ダイヤモンド社 | 2007年11月15日 |
☆ Extract passages ☆
われわれの体にはグルコースがないと生きていけない重要な細胞が2つあります。1つは神経細胞。もう1つは、マクロファージやモノサイトといった、自然免疫系細胞です。
われわれの祖先が生きていく際に、進化的スケールではなにが脅威だったかというと、猛獣などの天敵と、病原体です。それに対応するためには、
神経系の機能が十分維持されていなくてはいけないでしょうし、免疫系も十分に活性化されていなくてはいけないでしょう。・・・・・
インスリン抵抗性は、血液中のグルコースが脂肪細胞や骨格筋細胞へと取り込まれることを低下させます。少ない食料摂取という環境下で、血液中のグルコースレベルを維持するという観点からは、インスリン抵抗性によって、中枢神経系やマクロファージへのグルコース供給が必要以上に低下することを回避できる非常に都合のいいメカニズムだったのではないでしょうか。
(北野宏明・竹内薫著『したたかな生命』より)
No.217 『昭和の子ども生活史』
最近、昭和30年代がブームだといいますが、そのきっかけとなったのは西岸良平原作の『三丁目の夕日』(小学館・ビッグコミックオリジナル)だといわれています。私は読んだことがありませんが、それが2005年に『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画になり、いちやくブレーク、まだその余波が続いているようです。「映画生活」というホームページによると、「昭和33年の東京。短気だが情の厚い則文が営む鈴木オートに、集団就職で六子がやってきた。小さな町工場にがっかりした六子を、一家のやんちゃ坊主・一平は、「もうすぐテレビがくる」と慰める。鈴木オートの向かいで駄菓子屋をする茶川は、芥川賞の選考に残った経験がありながら、今は少年誌に冒険小説を投稿する日々。ある日茶川は、淡い思いを抱く飲み屋のおかみ、ヒロミに頼まれ、身寄りのない少年、淳之介を預かることに。」という筋書きだそうです。
でも、この本はそれとはまったく関係がなく、純粋に学問的に『昭和の子ども生活史』を豊富な資料をもとに書いています。ただ、個人的には、自分の育った時代のことは懐かしさや郷愁などで楽しく読めますが、戦前のことについてはただあらすじだけを追っていたようです。でも、戦後の団塊の世代のことになると、今との比較で良いこと悪かったことなどがたくさん思い出され、なかなか前に進みませんでした。
とくに、子どもの置かれていた社会環境の違いは、今と比較すらできないすことも多く、失ってしまったことも多いと気づかされました。単純に昔は良かったとばかり言えませんが、少なくとも子どもたちの目は輝いていたように思います。
何はなくても、いっしょに遊ぶ仲間がいました。悪いことをすると、大きな声で叱ってくれる大人がいました。みんな夕暮れまで、お腹がすきすぎてへとへとになるまで遊ぶ時間がありました。
ちょっと読むには高すぎる本(定価7,500円+税)ですが、子どもたちの育成に関わっている方たちには図書館から借りてでも読んでいただきたいものです。
(2008.03.06)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 昭和の子ども生活史 | 深谷昌志 | 黎明書房 | 2007年9月30日 |
☆ Extract passages ☆
子どもが、群れを通して、どのような遊びをしたかは問題でないような気持ちがする。多様な仲間から構成される群れの中に身を置いて、集団の中での行動の仕方を身につけていく。そして、どの子どもも「町の子」「村の子」として育っていく。そうした意味では、子どもの群れは子どもの人間性を育てる場だった。なお、子どもの群れ集団には大人の影は見られない。換言するなら、家庭や学校での子どもは、大人の目を意識して行動する。しかし、遊び仲間は子どもだけで作るコミュニティーで、それだけに、他とは異なる集団としての独自の機能を果たしたと考えられる。
(深谷昌志著『昭和の子ども生活史』より)
No.216 『絵本のあたたかな森』
副題に「たいせつなひとに伝えたい、愛のかたち」とありますが、著者がおすすめする絵本を40冊選び出したものです。下に抜き書きした通り、新しい絵本も、いくら時代が変わっても読み継がれていく絵本もあります。
最近、孫ができたこともあり、絵本や童話に関心が出てきました。まだ6ヶ月ですから、絵本を読み聞かせるなんてことはまだできませんが、してみたいとは思っています。絵本の持つ温かさや優しさ、そしてある種のファンタジーなどは、子どもの想像力をかき立てるものだと思います。テレビなどのメディアはすべて見せてしまうので、なかなか想像する部分はないのですが、絵本はそれなりの想像力がなければ読んでいてもおもしろくありません。いや、おもしろいように想像力をたくましくするのかもしれません。
ここには40冊の絵本が紹介されていますが、すぐ読んでみたいと思うのが数冊ありました。この本の前作が「はじまりはじまり ー 絵本劇場へどうぞ ー」だそうですから、これらの本からあまりなじみのない絵本を探してみたいと思います。
そういえば、先日郵便局に行ったら、お知らせコーナーに「絵本のある子育て 絵本の定期便 童話館ぶっくくらぶ」というパンフレットがありました。今は、自分で選ばなくても専門家が年齢にあわせて選んで送ってくれるみたいですが、選ぶことも楽しみの一つです。数多くの絵本のなかから、これなら読ませたいという絵本を選び出す、それも大きな愛情ではないでしょうか。
何回でも読んで聞かせたい、角がすり切れたり少し破れたりしても大事にいつまでも持っていたい、そんな絵本を探してみたい、とこの本を読みながら思いました。
(2008.03.03)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 絵本のあたたかな森 | 今江祥智 | 淡交社 | 2001年4月8日 |
☆ Extract passages ☆
今日出たばかりの1冊も、40年前に出合った1冊も、その面白さ、愉しみようでは同格です。子供から大人にまで、それぞれの心にしみる1冊。絵本のあたたかな森に分け入って、私なりに見つけたすてきな獲物を、ほんの少しばかりお目にかけましょうか ー それが本書の意図です。
(今江祥智著『絵本のあたたかな森』より)
No.215 『文章のみがき方』
これは1975〜88年にかけて朝日新聞の「天声人語」を担当した辰濃和男の文章の書き方です。今はどうか知りませんが、以前はこの「天声人語」の文章が簡潔で要領を得たものでいわば文章のお手本にされていました。しかし、たしか昨年だったと思いますが、「天声人語」風に書き直すパソコンソフトというのがあることを知り、唖然としました。それに従って文章を作成すると、何でもかんでも自分の考える方向に結論を持って行ったり、どちらにでも解釈できるようなものに仕上がります。それが、このソフト作成者の「天声人語」文章の思いなのかとしばらく考えてしまいました。
そこで、ネットで調べたら「だれでも簡単に天声人語風コラムを作成できるソフト」というもの見つけました。ソフト名は「便利な!天声人語風メーカー ver.2.2」です。興味がありましたら、自分で確かめてみてください。
それはともかく、確かに文章を上手に書くというのは難しく、いままでも多くの方々がいわば文章読本なるものを書いてきました。たとえば、谷崎潤一郎『文章読本』、丸谷才一『文章読本』、三島由紀夫『文章読本』、水上勉。瀬戸内寂聴『文章修行』、井上ひさし他『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』など、たくさんあります。
しかし、そのどれもがスープの作り方は教えられても、それだけの時間と手間をかけられるかという問題があります。まずは、つねに書き続ける、それが大切ではないかと、この本を読んで思いました。
読み終えてカレンダーを見ると、今日が2月29日、閏年にしかない4年にたった1日の日、貴重な1日でした。もしかすると、思い出に残る1冊の本になるかもしれません。
(2008.02.29)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 文章のみがき方(岩波新書) | 辰濃和男 | 岩波書店 | 2007年10月19日 |
☆ Extract passages ☆
自分の心に向き合うことが難しいように、自分の文章に向き合い、自分の文章ににじみでている邪心を見つめるのも難しい。いい文章を書くための道には、果てがありません。自分の文章の拙さ、思いの浅さにのたうちまわってくやむこともあるでしょう。しかし、幸いにも、「いい文章」を書くための道は、果てしないが、つづいているのです。そして、その道を地道に歩きつづけるものだけが、それなりの果実を手にすることができるのではないでしょうか。
(辰濃和男著『文章のみがき方』より)
No.214 『サブプライム問題とは何か』
最近よく耳にするサブプライムって何だろう、という素朴な疑問から読み始めました。ニュースを見るにつけ、相当大きな経済的な問題だとわかりますし、これからの世界経済にも大きな陰を落としそうな気配が感じられます。でも、そもそもこのサブプライムって何なのかをくわしく紹介したニュースを見たことがありません。
それでこの本に出会ったわけですが、ここではサブプライムが生まれたときから書き起こし、その問題点をアメリカ取材を絡めながら解説してくれます。日本では、住宅ローンを借りるときには銀行などの金融機関に直接融資を申し込むのですが、アメリカでは住宅ローン・ブローカーが複数の金融機関の住宅ローンを取り扱い、顧客に斡旋するのだそうです。そして金融機関は、住宅ローンをまとめてパッケージして、証券化して売るといいます。
なんとなくわからなかったのは、日本とアメリカの住宅ローンの仕組みそのものが違い、さらには世界経済がそのアメリカの住宅ローンの仕組みに乗せられてしまったことのようです。最初に住宅ローンを組んだ個人も、最終的にその住宅の債権者が誰なのかわからないこともありえるようです。いわば、日本のバブル時代に土地転がしが横行したようなことが、アメリカで住宅を中心に行われたということなのかもしれません。副題にも「アメリカ帝国の終焉」とシンボリックな表現が見られました。
もし、この問題に関心があれば、ぜひお読みいただきたいと思います。サブプライム問題とは何か、がすっきりと理解できます。
(2008.02.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| サブプライム問題とは何か(宝島社新書) | 春山昇華 | 宝島社 | 2007年11月24日 |
☆ Extract passages ☆
サブプライムローンは、低所得者層でも住宅を持てるようにするという目的で、住宅ローン商品の一つとしてひっそりと生まれた。サブプライムローンが対象とするのは、中南米からの移民や、黒人、ヒスパニックなど、アメリカ社会のマイノリティと呼ばれる人々が中心である。彼らの多くは、銀行口座さえ持っておらず、普通の住宅ローンの申請基準を満たすことができない。極端に言えば、どこの誰ともわからないが、ただ家を持ちたいという夢だけは持っている人々、である。当然、信用力も担保力もない。
そのような人々への貸付自体が悪いというわけではない。法の規制が不十分であったため、返済のために借金を繰り返すような、日本のサラ金の多重債務ソックリな状態を生んでいったことに問題がある。
(春山昇華著『サブプライム問題とは何か』より)
No.213 『こんなに使える経済学』
経済学というと、世代的には近経かマル経かとか、普通の感覚からすれば株価や景気の予測など、実際の経済問題を分析する学問のように思ってしまいます。しかし、この本で経済学の役割としているのは、「社会の制度を作っていく上で一番重要なのは、人々がどういう価値を重視するかを把握することだ。公平性を重視するのか、それとも効率性を重視するのか、どういう価値観をもっているのか。そのような価値観のもとで、人々が最も豊かになれるように、無駄が生じないようなシステムをどのようにして作るかということ」だとしている。
副題も、「肥満から出世まで」と、いままで経済学であまり扱わなかったような事項にまで切り込み、その経済学の手法の必要性を説いています。この他に、「たばこ中毒のメカニズムを解く」や「セット販売商品はお買い得か」、「日本人が貯蓄をしなくなったワケ」、「相続争いはなぜ起きる」など、全6章で、27の問題を解説しています。
なるほど、と思うものや、いや、違うんじゃないの、と思うものまで、いろいろありますが、読んでいただければそれなりに納得はすると思います。ぜひ、お勧めいたします。
(2008.02.22)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| こんなに使える経済学ー肥満から出世まで(ちくま新書) | 大竹文雄編 | 筑摩書房 | 2007年1月10日 |
☆ Extract passages ☆
経済学は、制度設計や政策を決定しなければならない時に、無視をしてはいけないポイントを教えてくれて、大きな間違いを防いでくれるという意味で役に立つ。中でも、因果関係をきちんと考えることと、人々のインセンティブを無視してはだめだということが、経済学の考え方で最も重要だ。
(大竹文雄編『こんなに使える経済学』より)
No.212 『定年バックパッカー読本』
最近、団塊の世代の話題が多くなってきていますが、この本も、「団塊は、世界をめざす!」という勇ましい副題がついています。
文章のなかで、「団塊の世代のオヤジは、その青年期から、すでに数度の海外旅行を経験している人が多く、少なくとも海外旅行の基本は押さえている。しかも、この世代は前の世代のように群れない。過剰に多い世代内の競争相手との、生存競争を続けてきた結果、俺は俺、お前はお前という、個人主義的な性向を、その宿命として背負っています。」としていますが、たしかにその通りで、群れそうで群れないようです。私も、どちらかというと、一人旅派で、なによりも気楽です。下の「 Extract passages 」に抜き出したとおりです。
ここには、自分が若いときにバックパッカーをしていて、さらに今、自分なりに体力の衰えなどを考えると、団塊の世代らしいバックパッカーがあるのではないかという提案です。そして、その実践です。
著者は、最近、ネパールのポカラに熱を入れているそうですが、たしかにポカラはいいところです。定年にでもなったら、数ヶ月、のんびりと本を読みながら過ごしてみたいところでもあります。
とすれば、私も団塊の世代の考え方のようです。
(2008.02.19)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 定年バックパッカー読本 | 大嶋まさひろ | 集英社 | 2007年8月29日 |
☆ Extract passages ☆
一人旅は、自分の心にまとわりついた、こんな皮膜のような「誰か」を脱いで、生身の自分を外気に晒して生きることに似ている。突然風に晒された生身の自分は、その冷たさにピリピリと緊張して、無防備な我々の五感は鋭く研ぎ澄まされる。炬健の中でぬくぬくとしていた猫が、常に周りを警戒し、俊敏に動く野良猫に変貌するようなものだ。
我々は、妻や、コミュニティなどに依存しなくても、自分で生きていく。そんな自立したオヤジに、一人旅を通して変貌する。
(大嶋まさひろ編『定年バックパッカー読本』より)
No.211 『生きるために、一句』
著者は、現役の聖路加国際病院副院長で小児科医で、これらの文章もエーザイ株式会社がお医者さんに配っている「CLINICIAN(クリニシアン)」という雑誌に1998年8月号から2007年6月号まで連載された俳句をネタにしたコラムだそうです。
しかも、山形県河北町のご出身ということで、ところどころに自分が育ったころの山形の風景や生活習慣などが出てきて、同年代ということもあり愉しく、思い出しながら読ませていただきました。そして、いかにも小児科医らしい、やさしい文章のなかにもキラリと光る言葉があり、飽きさせません。
最近、小児科や産婦人科のお医者さんになる人がいないという話しを聞きますが、収入のことだけを考えると、昔も大変だったようです。著者は、「小児科は面白いかもしれないが、食うのに困るぞ」と内科医の父に言われたそうですが、それでもなろうとする方がおられたわけです。そして、「あれから四半世紀たって五十歳になった今、病棟で両手を水平に広げて飛行機になって走ってみたり、ウルトラマンになりきっているおちびに、バルタン星人になって向かっていったりしていると、やっぱり小児科医でよかったなと思います」と言えることは、とても素晴らしいことです。
折しも、この本を読んでいるときのニュースで、ある病院の麻酔科の医師がいなくなり、年俸3,500万円出して医師集めをすることにしたそうです。たしかに、お金も大切ですが、食うことに困っても、面白いことや喜ばれることをしたいという気持ちはより大切なような気がします。
(2008.02.17)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 生きるために、一句 | 細谷亮太 | 講談社 | 2007年10月19日 |
☆ Extract passages ☆
「水澄む」というのは秋の季語です。
暑い夏が過ぎ、爽やかな秋がやってきました。空気もキラキラした透明感を持つようになると、水も澄んで清らかで、冷やかに見えます。このような季語に出会うと、私たちの先人の細やかな感覚に、心の底から感心してしまいます。
春に青、夏に朱、秋に白、冬に黒を連想したり、春の「山笑ふ」、夏の「山滴る」、秋の「山粧ふ」、冬の「山眠る」という表現を思いついたり、「ことば」 への愛着が強いという点で、日本人は特別であるといえます。
(細谷亮太著『生きるために、一句』より)
No.210 『「感情の整理」が上手い人下手な人』
この本は、以前は『「感情コントロール」で自分を変える』という名で出ていたそうですが、それに若干の補筆をして改題したものだそうです。たしかに題名が変わると中身まで違うように見えますから、意外とこの題名は大事なものなのかもしれません。
ちなみに、この本はとてもすらすらと読めて、気がつくと読み終わっていたのに気づくようなものです。しかし、その簡単な行間に潜む精神科医としての指摘は的確のもので、感情を自らコントロールすることの大切さが伝わってきます。
たとえば、心の黄信号では、「最初に挙げたいのは「思い込み」です。ただの「思い込み」が「確信」になってしまい、聞く耳を持たない状態になることです。二番目は「完全主義」です。仕事でも家事でも、手抜かりなく完全にやり遂げなければ気分が収まらないといった状態です。」とありました。ということは、これらの黄信号をいくらかでも自覚できたら、良い方向に軌道修正するよう心がけなければならないようです。
そして、精神分析のトレーニングを受ける人は原則的に、自分自身も精神分析家からカウンセリングを受けるルールがあると知り、少し驚きましたが、自分のことが一番わからないとはよく言いますが、まったくその通りだと納得しました。
(2008.02.15)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 「感情の整理」が上手い人下手な人 | 和田秀樹 | 新潮社 | 2007年11月22日 |
☆ Extract passages ☆
機嫌よく生きるというのは、自分のありのままを見つめ、背伸びしないということなのですから、特別な能力や経験が要求されることではないのです。中高年の感情生活がむずかしくなるのは、むしろ中高年なりの能力や経験が邪魔をするからだということさえあるのです。したがって、若々しい感情生活を取り戻すためには、自分の中にある「偉そうにしたい気分」をまず消し去ることです。それに代わって、「もっと成長したいな」という素直な成長願望を持つことが大切になってくるのです。
(和田秀樹著『「感情の整理」が上手い人下手な人』より)
No.209 『老春も愉し』
この本は、「続・晴美と寂聴のすべて」と副題が付いているように、75歳から85歳までの自分自身のことを書いたものです。ちなみに、「晴美と寂聴のすべて」では生誕から75歳までのことを自らの言葉で綴ったもので、文庫版では2冊に分かれています。この『老春も愉し』には、白黒写真ながらアルバムもついています。
それにしても、この10年間のご活躍はすごいものです。八面六臂とでも形容するしかないようで、本職の小説以外でも多岐に亘るさまざまな活動をしているようです。おそらく、ご本人も、みずからこれを書きながら、よくもまあ、これだけやってきたものだ、と考えてしまったのではないかと想像しました。この本のなかでも、「どうにか書き終わった時は、書いている時の辛さも苦しさも一瞬にかき消えて、とうとうやり遂げた達成感だけが喜びとなって、強いエネルギーになって噴き出てくる。この瞬間の喜びの強烈さが忘れられないので、書いている間は、もうこんな仕事は二度とやれない、もう止めようと、幾度となく頭の中で繰り返したのも、たちまち忘れてしまう。」のだという。
そして、筑紫哲也氏の手紙を紹介していますが、「世間はとかく老いると枯れるのが当然、否むしろ、それが上品で美徳のように言い習わしてきているけれど、それはもっての外のことで、人間は年をとるほど枯れてはならないのだ。」とありました。
まだ、自分では若いと思っていますが、いずれ老人になったら、この気概は持ちたいと思いました。
それにしても、年々親しい人との別れの話しが増えてくるのも、まあ、致し方のないことなのだと納得しました。
(2008.02.13)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 老春も愉し 続・晴美と寂聴のすべて | 瀬戸内寂聴 | 集英社 | 2007年10月10日 |
☆ Extract passages ☆
私は好きなことを50年間、律義にしつづけているだけだ。幸い51歳の時仏縁を得たので、それ以後は仏に守られているという安心感がある。仏のみ心のままにと、自分をゆだねきってしまえば、悩みもない。心にいつでも風が吹き通っている。それが元気の素であろうか。
肉体に迫る老いはさけ難い。しかし長く生きると、それだけこの世の想い出の数は増える。人との別れも増えるが、出逢いの記憶の方がはるかに多い。想い出をなぞるだけでも退屈しない。私は近頃、老いの愉しさが漸くわかってきたような気がする。
(瀬戸内寂聴著『老春も愉し』より)
No.208 『シーボルト 日本植物誌〈本文覚書篇〉』
シーボルトの『日本植物誌』は植物好きには有名な本ですが、なかなか読む機会がなく、必要な箇所だけ拾い読みをしていました。でも、この本文の覚書は初めて翻訳されたもので、シーボルトの植物に対する造詣の深さを読み取ることができます。なかには、何度も読んだアジサイの項もありますし、ツクシシャクナゲなどは今では少し訂正せざるを得ないところもありますが、その当時の見方や植物の取り扱いなどがわかり、とても参考になりました。
そもそもこの『シーボルト 日本植物誌〈本文覚書篇〉』は、「わが国におけるシーボルトの植物学についての、基礎的資料の不足を補う目的で、シーボルトとツッカリーニ共著『日本植物誌』に収載された、シーボルト自身の手で記されたと考えられる「覚書き」の部分を翻訳したもの」です。
全部で151の植物が載っていますが、127のネズまではシーボルトが書き、128のイブキから151のサワグルミまではシーボルトのノートを引用するかたちでミクェルが覚え書きを書いています。全体を通してこれを読むと、「シーボルト自身の観察ならびに後述するようにさまざまな機会をとらえて、シーボルトが収集した見聞や文献によって書かれており、江戸時代の化政年間を中心とした民俗植物学、植物資源学の重要な資料であるだけでなく、シーボルトがこうした覚書きをものすることを可能にさせた、当時の日本人が有していた植物についての知的水準と日本人学者の資質の高さを示すものとしてたいへん興味深い。単に多様性の保護のためだけに植物をみるのではなく、それを資源として利用することを通じ、当時の人々はいかに野生植物と身近に接していたことか。」という大場先生のご指摘通りのことが分かります。
もし、機会があれば、ぜひお読みいただきたい植物文献の1つです。
(2008.02.10)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| シーボルト 日本植物誌〈本文覚書篇〉 | 大場秀章監修・解説/瀬倉正克訳 | 八坂書房 | 2007年10月15日 |
☆ Extract passages ☆
古代の大和(日本の古名)原住民が持っていた、自国の驚異的な産物に対する嗜好、驚くべき被造物への崇敬の念は、植物界に関して言えば、宗教家の園芸から始まったことである。そういった園芸によって、小さな庭園と境内に可愛らしい植物や斑入りの植物、あるいは八重咲きの花、奇形の葉や人工的に切り込みを入れられた葉をもたらしたのである。つまりそれは、神官や僧侶がはるか昔から続けてきた手慰み、世事から身を引いた隠遁生活の日々の営みであり、百年の太平が生み出した楽しみ事なのであって、そこから地上でもっとも豊穣で美しい植物相に無数の変種植物が作り出され、園芸の汲めども尽きぬ源泉が我々にもたらされることになったのである。
(大場秀章監修・解説/瀬倉正克訳『シーボルト 日本植物誌〈本文覚書篇〉』より)
No.207 『お坊さんだって悩んでる』
芥川賞作家の玄侑宗久氏が書いたもので、もともとは月刊誌の『寺門興隆』に連載されたものだそうです。それに、大幅に加筆・修正したものですが、もともとお坊さんしか読まない月刊誌ですから、お坊さん向きの本でもあります。
しかし、同じような悩みを抱えている一般の人たちもいるわけで、27の問に答える形で話しがすすんでいきます。それを大きく6章に分け、第1章お葬式とお墓、第2章お布施の値段、第3章現代社会の生と死、第4章お寺の本当の役割、第5章伝統と習慣を見直す、第6章お寺の後継者と檀家、となっています。
それぞれに今を生きる人たちの悩みでもあり、それを単純明快に答えるわけで、なかにはいくつもの答えがあるわけでしょうが、それでも自分ならこう考えるというのが見え隠れして、とてもおもしろく読みました。悩みをおもしろくというのも不謹慎ですが、岡目八目ではないのですが、悩んでい当人より、周りの人のほうが見えている場合も多く、そのおもしろさです。
「めでたさ」でも書いていますが、「めでたい」の「たい」は願望の助動詞ですから、「愛でる」という行為をしたいという人にだけやってくる「めでたさ」なのです。ということは、良いことがあっても自分の意志で愛でようと思わなければめでたくないということになります。
つまり、めでたさも自分の気持ち次第というわけです。いつもめでたいと思うことが大切だということになります。そう、雪が降っても、雨が降っても、晴れたとしても、それはそれでめでたいことです。その愛でる自分がここにいるということですから・・・・・。
(2008.02.06)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| お坊さんだって悩んでる(文春新書) | 玄侑宗久 | 文藝春秋 | 2007年8月25日第4刷 |
☆ Extract passages ☆
正坐というのは、世界のなかで日本人だけがとるスタイルです。そのため、足腰の丈夫さ、腹式呼吸人の多さなど、日本人の特徴の多くもそれに依って培われたものと思われます。
ちなみに、和式トイレも最近では少なくなってきましたが、あのときの蹲踞に近い姿勢をとれる人も外国には殆んどいません。それがどうした、とおっしゃるかもしれませんが、あのスタイルは自然に腸が刺激され、力まなくてもお出ましいただける優れた姿勢なのです。あれが辛いといって洋式トイレに変えるお宅が多いですが、それによってトイレでの脳血管障害などは却って増えていると思います。
(玄侑宗久著『お坊さんだって悩んでる』より)
No.206 『「うるさい日本」を哲学する』
この本は、「偏食哲学者と美食哲学者の対話」という副題が付いていますが、中島義道と加賀野井秀一のお二人が手紙をやりとりするという形を取っての対話集です。それも、街頭の音がうるさいという一点に絞って、それを哲学するわけです。とてもユニークでおもしろい題材です。
この街頭の音とは、具体的に、「日本国中、人が集まる所にかならず撒き散らされる注意・勧告、お願い・依頼等々の野しい放送なのです。初詣ででも、お花見でも、花火大会でも、海水浴場でも、遊園地でも、「押さないでください! 押さないでください!」とマイク片手で警察官や警備会社員ががなりたてている。そして 「〇〇〇〇をお願いします! ××××をしないでください!」という放送もまた絶え間なく放出される。」などのうるさい音です。
このお二人は25年に及ぶお付き合いだそうですが、同じ哲学者でもこれだけものの見方や考え方が違うということがわかります。むしろ、その違いを明確にすることで、問題点が浮かび上がるのかもしれませんが、対談だと、少しずつなれ合いになるのですが、手紙という一方的な書き方なので、その個性も際だちます。
最初は、うるさいと思っていた音さえも、これだけで哲学できると知り、最後まで一気に読んでしまいました。日本人は、いかに日本人なのかを突きつけられたようです。知るとか知らないとかいうより、そうあることを哲学することのおもしろさを感じました。
(2008.02.03)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 「うるさい日本」を哲学する | 中島義道・加賀野井秀一 | 講談社 | 2007年8月15日 |
☆ Extract passages ☆
われわれは、「みんな」 が規則を守れば規則を守り、「みんな」 が規則を破れば規則を破るのです。規則それ自体より、「みんな」 のほうが数段重要なわけですから、「みんな」 が規則を破っている限り、自分も規則を破ることには、ほとんど後ろめたさを感じない。むしろ、「みんな」 が規則を破っ
ているのに、自分だけ規則を守ることのほうが、よっぽど後ろめたく居心地が悪い。もしかしたら、自分は 「みんな」 に迷惑をかけているのではないかとすら思い悩んでしまう。わが国の傷つきやすい人々は、規則を破ったから傷つくのではなく、「みんな」 に迷惑をかけたから傷つくのであり、つまり、規則を破ることより「みんな」 に迷惑をかけることのほうが数段悪いと思って、傷つくのです。
(中島義道・加賀野井秀一著『「うるさい日本」を哲学する』より)
No.205 『山を読む』
この本は、初版が出版されて15年ほどたつそうですが、新装ワイド版として再発行されたものです。この「自然景観の読み方」シリーズには、「森を読む」(大場秀章著)、「雲と風を読む」(中村和郎著)、「日本列島の生い立ちを読む」(斎藤靖二著)、「地図を読む」(五百沢智也著)があり、最後にあげた「地図を読む」だけ読んだことがあります。
このシリーズは図解が多く、活字も大きく読みやすく、数々の風景からのメッセージがわかりやすく解説されています。この『山を読む』も、写真(残念ながら白黒写真です)や図解が多く、とてもわかりやすく書かれています。
たしかに、日本の風景は、山があっての広がりです。この本に書かれていましたが、日本の国立公園28のなかで、山が含まれていないのは釧路湿原国立公園だけだそうです。しかし、この湿原の彼方には阿寒の山々が連なり、景観を引き立てています。ということは、日本の風景は、山が基本だと言っても言い過ぎではなさそうです。
山を知らずに、日本の風景を論じることはできません。その山がどのようにしてできたのか、そのメカニズムや成り立ちの歴史を知ることは、その前提になるはずです。
(2008.02.01)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| 山を読む | 小疇尚 | 岩波書店 | 2007年7月5日 |
☆ Extract passages ☆
山地の環境はさまざまな要素の複雑かつ微妙なバランスの上に成り立っていて、私たちはそれをトータルな姿、すなわち景観としてとらえています。したがって山の環境変化は景観の変化として目に映ります。川の源である山地の環境の悪化は水資源の枯渇や、水質汚濁、洪水の頻発などを招きかねず、大勢の人が住む下流域に影響をあたえることが危倶されます。美しい山の景観を末永く楽しむためにも、自然の均衡を乱さないように心がけたいものです。
(小疇尚著『山を読む』より)
No.204 『キュウリのトゲはなぜ消えたのか』
副題が、サプライズな「野菜学」とあるように、野菜は自然からの贈りものであるだけでなく、品種改良や流通、そして生産者の立場など、多方面から解き明かすもので、楽しみながら読むことができます。普段何気なく食べている野菜にも、いろいろなエピソードがあることがわかります。
著者は、恵泉女学園大学で教鞭をとっていますが、講演やテレビなどの解説、さらには家庭菜園の指導などもされており、まさに理論と実践を兼ね備えていることから、お話をかがっているかのような錯覚に陥ってしまうようです。書き方も、そういえば、話しをされるような文体です。
今、食品の安全性が揺らぎ始めています。だから、家庭菜園が注目されています。自分で野菜を作っている人たちは、
・収穫の喜びを自分で味わえる
・旬の野菜を栽培しながら、季節の移り変わりを感じられる
・安心・安全で、新鮮なとれたて野菜が食べられる
と話されているそうです。
まさに家庭菜園は、これからのスローライフにぴったりの魅力に満ちています。
(2008.01.28)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| キュウリのトゲはなぜ消えたのか(学研新書) | 藤田智 | 学習研究社 | 2007年11月15日 |
☆ Extract passages ☆
コロンブスは新大陸の「発見」で知られています。しかし、コロンブスの本当の功績はそうした冒険とか発見とかいったものではなく、実はヨーロッパをはじめとした世界へ、さまざまな野菜が広まるきっかけをつくったという点にあると、私は思っています。コロンブスが西インド諸島へ到達したのは、1492年です。それから約10年はどの間に、アメリカ大陸を原産とする次のような野菜が、ヨーロッパへもたらされています。
トマト、ジャガイモ、ピーマン、トウモロコシ、カボチャ、サツマイモ、インゲンなど
コロンブスがいなかったら、コロンブスが新大陸を「発見」していなければ、これらの野菜が広まるのはずっと遅れたことでしょう。それだけ品種改良も遅れた。だから、おいしい野菜を今食べられるのはコロンブスのおかげです。
(藤田智著『キュウリのトゲはなぜ消えたのか』より)
No.203 『ニッポンを繁盛させる方法』
東国原英夫さんが宮崎県知事になり、ちょうど1年が過ぎましたが、その人気はいまだ衰えを見せません。また、マスコミへの露出度も当選当時とほとんど変わっていないような気がします。ある広告代理店が試算したところによると、この1年間の経済効果は約1,000億円だそうです。しかし、その宮崎県に9,000億円以上の借金があるそうですから、その舵取りはやはり大変なようです。
一方の島田紳助さんは、もちろんタレントとして活躍していますが、その他にも大坂や東京で飲食店を経営しているそうなので、商売人としての側面もあります。
その旬の二人が『ニッポンを繁盛させる方法』と題して話したことをまとめたのが、この本です。短いのですが、それぞれコメントのようなものも書いています。
でも、彼らの話すことですから、まさに一気に読むことができました。それと、そのものの考え方の違いもおもしろいと思いました。たとえば、よく東京などで見られるラーメン店の行列なども紳助流に解釈すると下の (☆Extract passages☆) のようになります。
さて、これを読んで、皆さまならどのように考えますか?
このようないろいろな考え方があり、それらをすくい上げられる柔軟性が今求められているような気がします。1日でゆっくり読めると思いますので、機会があればぜひどうぞ!
(2008.01.25)
| 書名 | 著者 | 発行所 | 発行日 |
| ニッポンを繁盛させる方法(角川oneテーマ21) | 島田紳助・東国原英夫 | 角川書店 | 2007年11月10日 |
☆ Extract passages ☆
「東京のラーメン屋には人が並ぶけど、なぜ大阪のラーメン屋には並ばないのか」
大阪人には「ラーメン1杯にわざわざ並んでられるかい」という気持ちがあり、わざわざ並ばなくても、他に楽しい遊びがいっぱいあるし、面白い友だち、面白いおかんがいる、というような感覚がある。大阪人は楽しみをいっぱい持っているからわざわざラーメン屋に並んでムダな時間を過ごすようなことはしないんだ。
ところが東京ではお金がないと楽しめない。
カップルが、「明日の日曜日どうする?」という話をして、「どこどこのお店の醤油ラーメンがおいしいらしいよ」と電車に乗って出かけていく。1時間、2時間も並んで待たされて、食べる。
2時間も並んだらおいしいに決まっている。その間に腹が減るからね。「おいしかっ