本のたび 2013



 学生のころから読書カードを作っていましたが、今時の若者はあまり本を読まないということを聞き、こんなにも楽しいことをなぜしないのかという問いかけから掲載をはじめました。
 海野弘著『本を旅する』に、「自分の読書について語ることは、自分の書斎や書棚、いわば、自分の頭や心の内部をさらけ出すことだ。・・・・・自分を語ることをずっと控えてきた。恥ずかしいからであるし、そのような私的なことは読者の興味をひかないだろう、と思ったからだ。」と書かれていますが、私もそのように思っていました。しかし、活字離れが進む今だからこそ、本を読む楽しさを伝えたいと思うようになりました。
 そのあたりをお酌み取りいただき、お読みくださるようお願いいたします。



No.903 『科学者の卵たちに贈る言葉』

 著者が指導を受けたという江上不二夫さんの語録で、副題も「江上不二夫が伝えたかったこと」とあります。
 その1ページの最初に掲げられていた言葉が「研究はスポーツ競技じゃないんだから、目的は他人に勝つことじやないよ。闘争心を研究の原動カにしたのでは、勝った、負けた、だけにこだわってしまう。他の人と争うような研究テーマにみんなが群がるのはやめて、なるべくみんなが違う課題をいろいろな角度から攻める方がいいんです。それぞれの研究者が、いろんな分野に貢献するからこそ、生命の全休がわかってくるのだから。」です。
 今は、国立大学も国立大学法人として、研究費調達は各大学の自助努力が求められるようになってきたので、ある程度目立つ研究や企業との連携が進められてきていますが、だからこそ、この江上語録のような姿勢も必要なのではないかと思います。あまりに経済効率ばかり考えれば、基礎研究はおろそかになりがちです。
 この本の一番最後に、江上先生に弟子入りし損ねた下村脩氏が偶然にも平田義正さんの研究室に入り、そこでウミホタルの発行物質ルフェリンを精製して結晶化させることに成功し、それで生物物質の権威だったプリンストン大学のフランク・ジョンソンからお呼びがかかり、そしてGFPの発見につながったといいます。
 まさに彼こそ、2008(平成20)年のノーベル化学賞を受賞したその人です。
 なにが科学的発見のきっかけになるかはわからないのですが、江上語録のなかに、「流行っている研究は君がやらなくても必ず誰か他の人がやるに決まっている。そんなテーマをやったってつまらない。自分のやっている研究が一番面白いと思いなさい。面白くないなら、君の手で面白いものにしてやりなさい。そうやって君だけができる研究をやりなさい。」というのがあります。
 おそらく、科学者というのは、テレビなどに登場するのはほんの一部の研究者で、ほとんどが毎日同じような実験の繰り返しをしているのかもしれません。この本を読んでいると、そのように思います。
 今年もあと数日で終わり、新しい1年が始まります。元旦を迎えたと思ったら、あっという間に1年が過ぎ、もう除夜の鐘が鳴り響くのです。まさに「光陰矢の如し」です。
 でも、そのように単調な毎日でも、ときにはあっと驚くような発見があったりするわけで、だからこそ、やめられないのではないかと思います。そして、その大発見が多くの人たちを救うようになれば、それこそ冥利に尽きる仕事でもあります。
 この本に出てくる言葉は、科学者でなくても生きる上で大切なことがらです。来年も、これらの言葉を心に刻みなながら、一歩一歩進みたいと思っています。
(2013.12.30)

書名著者発行所発行日ISBN
科学者の卵たちに贈る言葉(岩波科学ライブラリー)笠井献一岩波書店2013年7月5日9784000296106

☆ Extract passages ☆

 落ち込んだ弟子を励ますためという面ほもちろんあるが、「実験に失敗したら喜べ」という言葉のいちばん重要なメッセージは、実験科学者としての心構えである。期待どおりの結果ならばもちろん喜んでよい。しかし期待と違っても、謙虚に結果を受け止めよう。先入観にとらわれていなかったか、視野が狭くはなかったか、考えが浅くはなかったかなど、自分を振り返ろう。もしかしたら女神さまが未知のものをちらりと見せてくれたのかもしれない。失敗させてくれてありがとう、ものの見方を改めさせてくれてありがとう、あなたの偉大さを悟らせてくれてありがとう、と自然に感謝しよう。そういう心構えをもち続けなさいということなのだ。
(笠井献一 著 『科学者の卵たちに贈る言葉』より)




No.902 『極上の流転 堀文子への旅』

 この本の略歴によれば、1918(大正7)年7月2日だそうですから、今年で満96歳です。しかも、今も現役の画家ですから、すごいものです。略歴には、昨年の美術活動までしか載っていませんが、個展や画文集の出版など、精力的に活躍しておられるようです。
 この本を読もうと思ったきっかけは、この本の表紙絵がヒマラヤのブルーポピーで、その花色がとてもいい色で描かれていたからです。
 本を読み終わっても、やはり一番印象に残ったのはこのブルーポピーなので、どこかのオークションにコピーでもいいからこれが載っていないかと探したら、『図録 堀文子展 画業70年 自然と共に生きて 2007』というのがあり、さっそく入札しました。
 堀文子氏がこの花を視たのは、ネパールのドルボ地区のドゥナイからヘリコプターで行ったところで、標高は4,500mでした。私が初めて見たのは、中国雲南省の大中甸です。ここは1993年にアメリカの小説家ジェームス・ヒルトンの作品「失われた地平線(Lost Horizon)」の中で描かれた土地「シャングリラ」ということから、今ではシャングリラ「香格里拉」と名乗っています。さらに、2003年7月2日に、パリで行われたユネスコ世界遺産大会で、ここが「雲南保護区群の三江並流(Three Parallel Rivers of Yunnan Protected Areas)」としてユネスコの「世界遺産」に収録され、中国では29番目の世界自然文化遺産となっています。ここでブルーポピーと出会いましたが、今でもそのときのことをはっきりと覚えています。
 この本のなかで、『沢やゴツゴツしたがれ場で足を踏みはずしそうになったり、ボンベで酸素吸入したりしながらの登山だった。息苦しくて頭がふらつき、「もうこれ以上登れない」と思ったとき、突如として目の前にブルーポピーがあらわれた……それがその一瞬にいたるまでの堀文子の記憶だった。標高4,500メートルを超えるがれ場に、人間を避けるかのように、草丈20センチほどの可憐な花が、青い花弁を静かに揺らしていたという。そこでブルーポピーをスケッチする写真を見たが、大地の果てとも奥底とも知れぬ太古の岩場と、そこに腰かけてスケッチする堀文子が、まさに一体化しているような神秘的な姿だった。』と描かれています。
 ある図録のなかで、「人間には自分でも自覚していない未知なる力が備わってるのかもしれませんね。ヒマラヤへ行くとそんな力が呼び起こされて、私の中の"軸"が変わってくるのが解ります。旅は自分を改造する一つの方法なんです」といい、まさに一カ所に定住しなかった姿勢をも表しているかのようです。
 そして、メキシコでは、「文化や芸術は、その国の生活なり民族が生むものであり、作るものではないということを痛感しました。私が、原初に返って日本画を学ぼうと決意したのも、メキシコをはじめ3年間の放浪の旅が契機になったと思います。日本人の血を引きながら、自分の国を見ていなかったことに、ようやく気づいたのです。」といい、自分の画家としての立ち位置を確認したようです。
 そういえば、さまざまな外国への旅を通して、「最初は自分の国にないものに憧れ、西洋文化という怪物にわしづかみにされたような恐怖感が、実際に西洋諸国を自分の目で見ているうちに薄れてきて、日本の良さにも気づいてきた」といいます。よく、海外を旅して、結局は自分の国の日本が一番いいということに気づいたという方がいますが、それと同じです。もちろん、画家ですから、その心の内には他人がうかがい知れないような葛藤があるかもしれませんが、結果的には同じです。
 下に抜き書きしたのは、堀文子氏自身の言葉ですが、日本人の失ってしまったものの大きさを感じました。ぜひ、読んでみてください。
(2013.12.27)

書名著者発行所発行日ISBN
極上の流転 堀文子への旅松村友視中央公論新社2013年8月25日9784120045332

☆ Extract passages ☆

 日本人は自然崇拝の心、強さや力より、滅びと無常、弱者への慈悲を思うもののあわれという美を大切にし、その心を追求してきたんです。でもこの素晴らしさに気づく人は今、ほとんどいません。大切なものを捨てたのです。戦後、物質と効率に憧れ日本人は自信と誇りを失ってしまいました。本当に残念なことです。
(松村友視 著 『極上の流転 堀文子への旅』より)




No.901 『仏像の顔』

 12月7日に、東京六本木の東京ミッドタウンのなかにあるサントリー美術館で開催されている「天上の舞 飛天の美」を観ました。
 この企画展は、平等院鳳凰堂 平成修理完成記念として開催されたもので、鳳凰堂内の国宝も特別公開されていました。ここには息子が卒業のときにいっしょに訪ねたことがあり、壁面に掲げられた仏像のほとんどが模刻でした。せっかくここまで来たのにと思いながら、境内の中央にある鳳凰堂手前の阿字池の前に立ち、写真を撮ったことを思い出します。
 今回は、修理中ということもあり、そのほとんどが本物で、その細やかな雲中供養菩薩像に感動しました。とくに、今回の目玉は、雲中供養菩薩像と結縁できることで、選ばれたのが国宝〈雲中供養菩薩像〉南20 天喜元年(1053)で、もちろん模刻像ですが、これがこれから鳳凰堂にオリジナルの代役として掲げられるそうです。ということは、それに直接触れ、結縁し、それがずーっと鳳凰堂にまつられるということです。
 なかなか、このような機会はないと思い、雲中供養菩薩像と結縁させていただきました。
 そして、たくさんの仏像を観ながら、やはり一番気になるのが『仏像の顔』です。「いいお顔をしている」と、こちらも自然と手を合わせたくなります。この本の序章で、『表情研究の第一人者、米国のポール・エクマンらの研究によって、表情には文化に普遍的なものが六種類程度あるとされました。「幸福」「嫌悪」「驚き」「悲しみ」「怒り」「恐れ」で、この六つの表情に表される感情が、基本的感情と呼ばれています。例えば、「幸福」な時の微笑んだ表情筋の動きは、眼のまわりを取り囲む眼輪筋によって眼が細められ、口の上にある大小の頬骨筋により口元が上がり、鼻の脇から頻にかけて溝ができます。表情筋の動きによって、人間の顔はやさしくも、いやしくもなるのです。』と書いています。
 だからこそ、仏像の顔も当然ながら一番気になり、一番大切なところなのでしょう。
 この本を読んでいて、なるほどと思ったのは、「女性の顔は化粧で変えられる特徴が、女らしさを左右するのに対して、男性の顔は化粧では変えられない骨格的な特徴が男らしさを左右している」という部分です。
 今まで、まったく気づかなかったことですが、いわれてみればなるほどと思います。ぜひ、仏像に興味のある方だけでなく、多くの人に読んでもらいたいと思います。
 今、年末の慌ただしさのなかで、この本を読んでいます。今日はクリスマスですが、たまたま仏像のことについての本を読むのも、なんかの縁でしょう。
 来年は甲午です。それで、馬頭観音のことを書いたところがありましたので、下に抜き書きします。
(2013.12.25)

書名著者発行所発行日ISBN
仏像の顔(岩波新書)清水眞澄岩波書店2013年9月20日9784004314455

☆ Extract passages ☆

 馬頭観音は、観音の中で唯一忿怒の相をしています。‥‥観音でありながら明王としての性格が強いからです。馬が草を食べるように、煩悩を食べつくすともされ、六観音信仰では畜生道の救済に当たるとされています。顔は一面、三面、四面などがあり、名前の通り馬頭を頭上に戴き、体全身が赤色です。髪は炎髪を逆立て、眉を逆八の字に上げ、眼を大きく見開いて、牙を左右から出して開口する面相は、観音とは思えない凄味があります。
(清水眞澄 著 『仏像の顔』より)




No.900 『科学歳時記 一日一話』

 たまたま手に取ったのが、この『科学歳時記 一日一話』で、これまた、たまたま『本のたび』の900冊目になりました。
 1日1話ですから、ちょっとの間にも読めて、いつの間にか読んでしまっているという感じです。そういえば、900冊目といっても、これもいつの間に読んでしまったようなものです。読もうとか、続けようとか、そのような気持ちは一切なく、ここまで来たという感じです。もちろん、この前にも、本を読むのは大好きでした。むしろ、若い分だけ、もっとたくさん読んでいました。
 ところが、最近の若者はあまり本を読まないということを聞き、なぜ、こんなにもおもしろいことをしないのかと思い、少しでも興味を持っていただけるようにと書き始めたのが、このコーナー『本のたび』です。だから、これもまったく偶然みたいなものです。
 この本は、さまざまな科学の分野から、その日にあう科学者を取り上げ、そのエピソードを中心に書いています。だから、その生き様のおもしろさもあり、大科学者といえども、なにかしらのきっかけがあり、偉大な発見をされたということがわかります。
 たとえば、2月8日のところに書かれている植物の遺伝法則を発見したメンデルについては、『オーストリアの司祭メンデルは1865年2月8日と3月8日、ブルノ自然科学会の例会で「雑種植物の研究」と題する論文を口頭発表した(翌年、同会の雑誌に掲載)。ブルノの修道院の庭で行ったエンドウマメの交配実験を通して導き出した遺伝法則が、このとき世に問われたのである。しかし、発表の場が地方の小さな学会であったせいもあってか、メンデルの論文は当時、ほとんど注目されることなく埋もれてしまった。「私の研究が認められる日が必ずやっでくる」という言葉を残して、メンデルは1884年に亡くなった。』といいます。でも、その16年後に、メンデルの業績が認められ、注目されるようになったそうです。
 また、すごいと思ったのは、夫の研究に抗議して自殺までしてしまった科学者の妻の話です。これは1月29日の項に書かれていますが、「1908年、ドイツの化学者ハーバーは空中窒素固定法を発見した。空気中の窒素を触媒に通して水素と反応させ、アンモニアを合成する技術である。アンモニアからは肥料がつくられると同時に火薬製造も容易となったことから、ハーバーの発見は第一次世界大戦中のドイツ軍をおおいに利するものとなった。さらにハーバーは1915年4月、毒ガス(塩素ガス)を用いた作戦を指揮、それによってベルギーのイーベルで数千人のフランス将兵が戦死している。その10日後、いかに祖国のためとはいえ、科学者の良心を捨てたかのようなハーバーの軍事へのかかわりに心を痛めた妻は夫に激しく抗議した末、挙銃で自殺した。悲惨な話である。」と書いてありました。
 ところが、さらに悲惨なことには、「これほど国家に尽くしたものの、ユダヤ人であったハーバーは1933年、ヒトラーが政権を取ると国外追放の憂き目に遭う。妻を失うほどの愛国心も、独裁者の前では何の役にも立たなかった。」といいます。しかも、その翌年1934年のこの日、再びドイツの地を踏むことなく、スイスのバーゼルで心臓病により急逝したそうです。
 まさに事実は小説より奇なりです。
 下に抜き書きしたのは、今日12月21日の項に書かれていた「妻がコッホに贈った誕生日のプレゼント」(1871年)です。とても感動的な話しですから、ぜひ読んでみてください。
(2013.12.21)

書名著者発行所発行日ISBN
科学歳時記 一日一話(河出ブックス)小山慶太河出書房新社2013年8月30日9784309624600

☆ Extract passages ☆

「結核に関する業績」で1905年、ノーベル医学生理学箕を受賞したドイツのコッホは、1871年のこの日、28歳の誕生日を迎えた。当時、開業医をしていたコッホに妻はある物をプレゼントした。顕微鏡である。コッホはその顕微鏡を用いて、家畜のあいだに広まっていた炭疽病(牛、馬、羊などがかかる伝染病)の病原菌を発見するに至るのである(『ダンネマン大自然科学史〈10〉』三省堂)。その成果は1876年、「炭疽菌の発生史に基づいた炭疽の病因論」と題する論文にまとめられた。その後も、コッホは1882年に結核菌、83年にコレラ菌を発見している。細菌学の祖となったコッホの業績のきっかけをつくったのは、妻からの誕生日プレゼントだったのである。
(小山慶太 著 『科学歳時記 一日一話』より)




No.899 『人はなぜ集団になると怠けるのか』

 綱引きをすると、何人かは全力を出し切っていないという話しを聞きますが、20世紀の初めにフランスの農業技術の教授であったリンゲルマンは、「個々人は自分の能力や力を集団の中で100%発揮しているのであろうか」という実験をしているそうです。その結果、「1人の力を100%とした場合、集団作業時の1人当たりの力の量は、2人の場合93%、3人85%、4人77%、5人70%、6人63%、7人56%、8人49%となった。つまり、8人で作業する場合、単独で作業するときにくらべて、半分以下しか力を出していないのである。」といいます。これは、いささか大げさなような気もしますが、そのような傾向はあるということは確実なんでしょう。
 この本の副題は『「社会的手抜き」の心理学』とありますが、ではこの社会的手抜きというのは、この本では、「個人が単独で作業を行った場合にくらべて、集団で作業を行う場合のほうが1人当たりの努力の量(動機づけ)が低下する現象を社会的手抜きという」といいます。では、なぜ、このようなことが行われるのかという理由ですが、「1つは集団の中では責任感が希薄になり一生懸命さが失われるからである」と書いています。
 とくに、今の時代は、選挙の時の投票率の低さや不正な生活保護費受給の増大など、新聞にもときどき登場します。これは、とても重大なことで、そのままにしておくと、さらに増えてくるような気がします。この本の後の方で、1つの腐敗が、より悪質な腐敗をもたらすという実験を紹介していますが、1つでも腐ったリンゴをそのままにしておくと、その周りから次々と腐ってくることと同じです。まずは、それを取り除くことが大切です。
 でも、仕事などでは、むしろ、「やる気がない人に罰を与えていることが集団成員にわかるようにすることより、高い目標を設定して集団成員に示すことのはうが社会的手抜きを防ぐためには効果的であることがわかった。この実験から、腐ったリンゴに罰を与えるより、腐っていないリンゴを活性化させるはうが効果的であることが示されたといえる。」とあり、これらの問題は、一筋縄では解決できないようです。
 でも、個人的には、やはり懲罰などでやる気のない人を罰するより、みんなでがんばれる雰囲気をつくることのほうが大切だと思っています。
 この本を読むと、それはなかなか難しそうですが、お御輿を10人でかつぐときに、一生懸命支えているのは2人、かついでいるふりをしているのは6人、ぶら下がっているのが2人では、やはり大変です。せめて、8人ぐらいは本気でかついでほしいものです。
 この本を読みながら、社会的手抜きも少しは許されるような時代が一番幸せかもしれないと思いました。
 下に抜き書きしたのは、福島第一原子力発電所事故のときのことです。これだけは、絶対に間違っても手抜きはしてほしくないものです。ずーっとこれからも。
(2013.12.18)

書名著者発行所発行日ISBN
人はなぜ集団になると怠けるのか(中公新書)釘原直樹中央公論新社2013年10月25日9784121022387

☆ Extract passages ☆

2012年9月18日に、福島第一原子力発電所事故発生後、最後の内閣府原子力安全委貞会が開催されたが、その終了後の記者会見で班目春樹委員長は「経済産業省原子力安全・保安院とのダブルチェック体制で原発の安全性を厳格に審査するとしてきたが、それが形骸化していた」と述べている(『日本経済新聞』2012年9月18日夕刊)。すなわちダブルチェックが機能していなかったことを行政の責任者が認めたのである。
 安全性を高めるための施策が必ずしもその目的を達成しないのは、集団内で社会的手抜きと同様の心理的メカニズムが働いているためであろう。すなわち集団成員の努力の不要性認知(他の人が確認しているのだから自分が一生懸命確認の努力をする必要はない)が高く、逆に、評価(自分の努力が他者から認識され、評価される)可能性や道具性(自分個人の努力が全体の安全の向上に役立っている)認知が低いことが考えられる。また複数の人が関与することによる責任の希薄化(分散)もありうる。
(釘原直樹 著 『人はなぜ集団になると怠けるのか』より)




No.898 『子どものうそ、大人の皮肉』

 この本の副題は「ことばのオモテとウラがわかるには」とあり、子どもと大人とを比較しながらことばを使ったコミュニケーションの大切さを綴っています。
 でも、結果的には、「子どもが乳幼児期に当たり前のコミュニケーションを周囲の大人や友達と日常的にしていれば、相手の話を聞く力は発達段階を経て自然に伸びるはずである。その意味で、本来私たちの聞き手としてのコミュニケーションカにはおそらく個人差はそれほどないと思われる。もしあるとすれば、乳幼児期から学童期に聞き手としての姿勢を育む機会が何らかの理由で奪われてしまった可能性はないか、探るべきである。」とあり、コミュニケーション力をつけるためには、乳幼児期から学童期にかけての期間がもっとも大切だと書いています。
 ということは、この年になれば、ほとんどその力は決まっていると考えられます。でも、家にはこの大切な時期の孫がいて、日々、ことばを上手に使おうとしています。少なくとも、孫たちとつきあうための参考にはなると思いました。
 でも、下に抜き書きしましたが、子どもは、たとえ相手が自分の母親であっても、あまり知識がなさそうな場合には学習しないとあり、ほんとうに子育ては難しいとあらためて思いました。では、信頼されるための話し方はというというと、確信を持って話すことで、そうすれば、3歳児前後までは誰でも無差別に信じてしまう傾向があるというから、これもまた、怖いことです。
 つまり、信じてもらわなければちゃんと聞いてくれないし、だからといって、無差別に信じられても話すほうとしては身構えてしまいそうです。
 でも、この本に書いてあるように、「必要に応じて疑いの心をもつという能力がこの段階では未発達であるということに、周囲の大人は注意を払う必要がある」というのは、やはり考えておくことが必要だと思います。
 この本を読んで、なぜ話しが伝わらないのか、そして、その理由はなにか、ということを考えさせられました。
 今まで、なんとなく無造作に使っていた言葉も、ちょっと考えてみると、いろいろな問題がありそうです。ぜひ、このような本を読んで、普段なにげなく使っている「ことば」というものを考えてみてほしいと思いました。
(2013.12.15)

書名著者発行所発行日ISBN
子どものうそ、大人の皮肉松井智子岩波書店2013年6月25日9784000286244

☆ Extract passages ☆

 情報の信頼性を正しく判断することは、真実を知り、偽りを誤って信じてしまうことを避けるために必要不可欠である。子どもの場合は、2歳前から始まる語葦習や慣習の獲得を含めて毎日が学習の機会であり、その間、正しい情報のみを知識として獲得することは非常に大切なことである。3歳までに話し手の自信の度合いを推測できるようになるのは、効果的な学習を促進するためだと考えられる。相手が母親であっても、あまり知識がなさそうな場合には学習しないという3歳児のクールな一面は、それを具現している。
 その一方で、5歳児と違って、3歳児は強い確信をもった人なら誰でも無差別に信じてしまう傾向があるとも言える。必要に応じて疑いの心をもつという能力がこの段階では未発達であるということに、周囲の大人は注意を払う必要がある。
(松井智子 著 『子どものうそ、大人の皮肉』より)




No.897 『「和漢のさかいをまぎらかす」』

 淡交社は裏千家系の出版社ですが、いろいろとおもしろい本をたくさん出していて、ときどき読みます。この本も、さっと立ち読みして、すぐに選びました。
 副題は「茶の湯の理念と日本文化」で、美術史的なことも書かれていて、興味深く読みました。
 下に抜き書きしたのは、この本の題名にもなった村田珠光が掲げた「和漢のさかいをまぎらかす」という言葉についてです。ぜひ、これを読んでみてください。まさに、日本の文化や美意識というものは、中国や西欧などから入ってきたものを、日本の「和」にまぎらかしてきたことがわかると思います。
 この本では、『困ったときに「内で純化する」のと「外へ求める」がせめぎ合うのは日本の常。幕末の「攘夷」と「開国」も、いってみれば「和漢(洋)の構図」の変形版である。一方でのナショナリズムに加えて、「外へ」が出てくるもとには、最も先進的なものは常に外にある、という東アジアの辺境の意識が横たわっている。これは「和漢の構図」の成立する基本的な要因でもあった。』とあり、なるほどと納得しました。
 でも、この「まぎらかす」という概念はおもしろく、これだけで日本の文化を説明するのは、ある意味、すっきりしています。この本では、これらを図式化し、とてもわかりやすく、そのまぎらかした部分が理解できます。
 それと、副題に茶の湯の理念と書かれてありますが、それほど多くは取り上げられていず、ちょっと肩すかし気味でした。
 それでも、お茶でいう見立てについては、お濃茶を入れる「松屋肩衝茶入」をカラー写真と本文で取り上げ、『中国での記憶をなくした、あるいは剥ぎ取られた「茶色の小瓶」に遺されたのは色と形と肌合い、そして手触りに重み……だけである。茶の湯のことばでいえば「なり(形)」「ころ(比・大きさ)」「ようす(様子)」。これはまさしく「純粋造形」だろう。高麗茶碗の場合にも、朝鮮での用途など気にせずに、そこに「侘び」の感覚が見出されている。「茶」と「茶の湯」は、これらの造形に「茶人」や「抹茶の茶碗」という属性を与えるのだが、そこにはいったんモノそのものへと引き戻す力も働いているのである。』と書いています。
 これは、とてもよくわかります。
 モノそのものを再認識するというか、見方を少し変えるみたいなことで、新しい使い方ができます。私もお茶会でときどき使いますが、これはとてもおもしろく、お客さまも、その意外性に喜びます。
 もう少し、この「和漢のさかいをまぎらかす」ということを考えてみたいと思いました。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。
(2013.12.12)

書名著者発行所発行日ISBN
「和漢のさかいをまぎらかす」(淡交新書)島尾 新淡交社2013年9月8日9784473038838

☆ Extract passages ☆

 此道の一大事は、和漢のさかいをまぎらかす事、肝要肝要、用心あるべき事なり、
 「此道」つまり茶の道でもっとも大事なのは「和」=日本と「漢」=中国との境界を「まぎらかす」ことである。ここが肝要だから、大いに心をもちいなければならない。
 さてこれはどういうことなのか。具体的にはお茶の道具の話とされている。「唐物」つまり中国から持ち込まれた茶碗や墨蹟(禅僧の書)ばかりを使っていた茶の世界に、備前・信楽の焼物など「和物」の道具も持ち込んで、区別なく使おうとする。中国からもたらされた茶を、自分たちの住む「和」の世界に馴染ませる。それによって今に続く「茶の湯」が生まれることになる。
(島尾 新 著 『「和漢のさかいをまぎらかす」』より)




No.896 『植物は動けないけど強い』

 読んでいて気づかなかったのですが、たまたま、ソフトバンク クリエイティブ(株)の本が続いてしまいました。というよりか、いつの間にかソフトバンクは出版の世界でも、じわじわと勢力が伸びてきたのかもしれません。しかも、本が電子化されるかもしれないというときですから、ある意味、そうはならないということにも理解できます。なにはともあれ、本好きには、いいことです。
 植物を見ていると、たしかに『植物は動けないけど強い』と思います。たとえば、雑草といわれるオオバコも、人や車が通るところに生えるのにはわけがあります。オオバコは虫媒花ではないので昆虫を誘う花びらが退化し、そして蜜もつくりません。しかも、オシベとメシベの成熟期をずらし、近親結婚を避け、その種子には粘りけがあるので、人の足や車のタイヤに付着して種子を散布するのです。だから、中国では車前草ともいいますが、人や車に踏まれても、葉にはふつう5本の筋が通っているので、とても丈夫なのです。
 つまり、そのような場所だからこそ、オオバコは生きていけるともいえます。
 この本にも出ていましたが、「ドングリの周期的な豊作についても、周期ゼミと同様に、捕食者から逃避するための知恵と考えられている。毎年、同じようにドングリを実らせていると、毎年、同じように捕食者に食べられてしまう。だが実りを少なくすれば、餌が少なくなるので捕食者の数が減ることになり、何年かに一度たくさん実らせれば、捕食者は食べきれないから、生き残ることができる。」ということです。
 誰に教えられたわけでもなく、おそらくは周期ゼミがなぜ周期的に大発生するのはなぜなのかもしらないはずですが、動けないからこそ、動かなくても生きていけるすべを身につけたのではないかと思います。いや、それを身につけたからこそ、今も生きているということなのかもしれません。
 この本を読んでいて、ほんとうに植物の生き方はおもしろいと思いました。メスのハチに擬態するオフリスや、ガクアジサイのようにおとりの花を用意して昆虫を誘ったりしています。
 また、地盤が不安定なところに生えるフサザクラは、幹をまっすぐに伸ばすより、斜めに伸ばしたほうが太陽の光をたくさん得ることができますし、ほかの植物が地滑りなどで全滅しても、萌芽枝を根際から次々と出し、主幹がだめになっても大丈夫なのだそうです。
 下に抜き書きしたのは、植物の初芽の不思議です。だからこそ、いくら環境が変わったとしても、全滅しないのです。そういえば、北海道の大雪山に行ったとき、キバナシャクナゲが一斉に花を咲かせなかったのは、このような理由からだといわれています。
 植物って、ほんと、すごいですね。
(2013.12.9)

書名著者発行所発行日ISBN
植物は動けないけど強い(ソフトバンク新書)北嶋廣敏ソフトバンク クリエイティブ(株)2013年7月25日9784797374575

☆ Extract passages ☆

 植物は発芽し、根づいたら、その場所でずっと一生を送ることになる。種子は外側に堅い皮を持っており、暑さや寒さ、乾燥などから中身を守っている。だがいったん発芽してしまうと、守ってくれるものはない。もし間違って冬に発芽したら、寒さに耐えられずに死んでしまう。乾燥した時期に芽を出してしまったら、水が得られず枯れてしまうであろう。だから種子は生育に適した環境のもとで発芽する。環境が悪ければ発芽を見送り、種子のままで環境が好転するのを待つ。これを休眠と呼んでいる。
 また野生植物では、発芽に適当な環境にあっても、いっせいに発芽せずに、不揃いに発芽する。一度に全部が芽を出してしまうと、環境が急変したとき、全滅しかねないからである。
(北嶋廣敏 著 『植物は動けないけど強い』より)




No.895 『ハーバードとグーグルが教えてくれた人生を変える35のルール』

 著者の名前の「友愛」って、なんと読むのかという単純なことで、読み始めました。著者紹介をみると、「ともえ」と読むようです。これって、当て字かな、と思いパソコンで打ってみると、ちゃんと出てきました。ということは、多くはなくてもあるということです。ホント、知らなかったあ。
 ところで、著者はお茶の水女子大学附属高校を中退し、16歳で単身渡米し、ボーディングスクールという全寮制私立高校に進学し、オキシデンタル・カレッジを卒業し、いったん帰国して会社を立ち上げたそうです。そして3年後、再び渡米しハーバード・ビジネススクールに入り、2010年にMBA(経営学修士)を取得し、グーグル本社で働き、現在はジョブアライト社を創業しているとのこと、ざっと経歴を読んだだけでもすごいと思いました。
 でも、今のIT社会だからこそできることで、昔なら考えられないことだったと思います。おそらく、このような人生を歩いている人は、今の日本人なら、ある程度はいることでしょう。
 読んでいて、なるほどと思ったことの一つに、『HBSで皆がよく言っていたのは「すべては絶対に手に入らない」ということ。優先順位を立てて、一番重要なものを優先してやるべきです。どんなリレーションシップにおいても、何かしら犠牲を払うことは重要だし、その中で築かれるリレーションシップもあるからです。』というのは、ある意味、当然のことですが、なかなか現実問題となるとそうは割り切れないことのほうが多いようです。でも、「自分にとって何が最優先かというのは、人それぞれ。大事なのは、プライオリティがないと、くだらないことで時間をつぶしてしまうリスクがあるということでしょう。」というのは、とくに若い人の場合はしっかりと考えておくべきことです。
 せっかくの貴重な時間を、流されてしまっていてはもったいないことです。
 そういえば、この本で知った言葉の一つに「FOMO(フォーモー)」というのがあります。これは、Fear Of Missing Out から来ている言葉で、「周りの皆に対してナイスでいたい。すべてに関わっていたい。でないと自分が置いてけぼり″になるのが嫌」という状態を示す言葉だそうです。
 これって、特にありそうです。毎日、携帯で連絡を取り合ったり、フェイスブックで近況を確認したり、なにかに依存するかのような生活をしているのが目に付きます。
 だから、この限られた時間でなにかをしたいとすれば、「くだらないものは、くだらないという判断をしたっていい。自分にとって意味があると判断できたものに優先して自分のリソースを振り分けるべきです。」というのは当然のことです。
 日本人の場合、空気を読むことが大切で、どうも他の人に追随してしまいますが、それも善し悪しです。やはり、アメリカで教育を受ければ、当然のことながらアメリカナイズされてしまいます。
 この本に書かれていることすべてがよいとは思いませんが、日常の自分を反省する尺度にはいいかと思います。
 下に抜き書きしたのは、この本に出てくるミヒヤエル・エンデの物語『モモ』に出てくる、道路掃除人のベッポおじいさんの言葉です。とても示唆に富む話ですので、ぜひ読んでみてください。
(2013.12.6)

書名著者発行所発行日ISBN
ハーバードとグーグルが教えてくれた人生を変える35のルール石角友愛ソフトバンク クリエイティブ(株)2013年7月3日9784797371390

☆ Extract passages ☆

「なあ、モモ。とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おそろしくて、これじゃとてもやりきれない。こう思ってしまう。
 そこで、せかせかと働きだす。どんどんスピードを上げていく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの通路はちーともへっていない。だからもっとすごい勢いで働きまくる。
 心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて動けなくなってしまう。道路はまだ残っているのにな。こういうやり方はいかんのだ。
 一度に道路ぜんぶのことを考えてはいかん。わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。
 するとたのしくなってくる。これがだいじなんだ。たのしければ仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらなきゃだめなんだ。
 ひょっと気がついた時には、一歩一歩すすんできた通路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかはじぶんでもわからんし、息もきれてない」
(石角友愛 著 『ハーバードとグーグルが教えてくれた人生を変える35のルール』より)




No.894 『弘法大師を歩く』

 12月に入り、少し慌ただしいなかでの読書が続いています。でも、そんななかでも、本を読んでいると落ち着くから不思議なものです。
 お大師さまのことを、よく「空海」といいますが、空と海、まさにその大きさがよくわかります。この空海という名前は、阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や土佐の室戸岬などで「虚空蔵求聞持法」を修し、その室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、その洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったことから、空海と名乗ったと伝わっています。
 この本に書かれていますが、『性霊集1』に、「山毫 溟墨を点ず 乾坤は経籍の箱なり」という表現があります。
 「山毫とは、山の形を筆にみたてた表現です。溟墨の溟とは海のことで、海水を墨汁にたとえています。山毫も溟墨も造語です。乾坤とは天地のことであり、経籍とは経典という意味です。」とあり、まさに「山の筆でもって、海の墨をふくませ、そして天地全体をキャンバスにして、仏の説法を書き留めたものが経典である」ということです。
 もう、自然そのものを丸呑みしている感覚です。なんとも豪快な表現です。
 この大師号を授与されたのは、もちろん空海だけではなく、伝教大師や慈覚大師、智証大師、慈眼大師など多くの僧侶がおられます。法然などは七つも大師号を持っているそうで、ちなみに円光大師、東漸大師、慧成大師、弘覚大師、慈教大師、 明照大師、そして昭和36年に昭和天皇から750回忌を期して与えられた和順大師です。
 でも、お大師さまといえば、やはり弘法大師です。
 この本によれば、これまでに大師号をいただいた方は27名と書かれてあり、「黄門は水戸に取られ、大師は弘法に取られる」という話しを紹介しています。この大師号は、ご入定後72年を経た延喜7年10月27日に醍醐寺座主の観賢僧正が醍醐天皇に奏上し下賜されたものです。
 この本は、『弘法大師を歩く』という題名のように、四国遍路から書き始め、高野山の紹介で終わっています。平成27年には、高野山が開創され1,200年を迎えるそうです。
 その記念すべき年を前に、少しでも多くの人たちに弘法大師を知っていただきたい、高野山を知ってもらいたい、という願いから書かれたように思います。
 下に抜き書きしたのは、お大師さまの「遍照金剛」という大日如来の潅頂名についての由来です。
 興味のある方は、ぜひ、お読みいただきたいと思います。
(2013.12.3)

書名著者発行所発行日ISBN
弘法大師を歩く(宝島社新書)近藤堯寛宝島社2013年9月24日9784800216199

☆ Extract passages ☆

恵果阿闍梨は決意もあらたに、お大師さまに真言密教のすべてをおしげもなく授けます。六月上旬、恵果阿闍梨は『大日教』の流れをくむ「胎蔵法」をお大師さまに授けます。‥‥‥
 つづいて七月上旬に、金剛智三蔵から伝えられた「金剛界」が授けられます。同じようにして金剛界マンダラの千四百六十一尊に花を投げたところ、上方にある一印会の大日如来のうえにひらひらと舞い落ちました。奇遇にもまた大日如来と縁が結ばれました。老師は驚嘆します。
 八月上旬には、密教を伝授する資格を得るという「伝法阿闍梨位」の潅頂の儀式が、五百余名の僧侶が参列するなかで開筵されました。不思議にも大日如来のうえに二度も花びらが落ちましたので、恵果阿闍梨は非常に驚き、かつ喜悦して、お大師さまに「遍照金剛」という大日如来の潅頂名を付与しました。平素、私たちがお唱えしています「南無大師遍照金剛」というご宝号は、この場面が由来となっています。
(近藤堯寛 著 『弘法大師を歩く』より)




No.893 『「便利」は人を不幸にする。』

 今日で今月も終わりで、あと1ヶ月で、今年も終わってしまいます。まさに光陰矢の如し、です。
 今年の末にはNoも900を超えるかなあ、と漠然と思っていましたが、特別なことでもない限り、なんとか超えそうです。たくさん読めば良いとは思っていませんが、いつの間にかという程度の積み重ねのようです。これからも、このスタンスを崩さずに、楽しみながら本を読んでいきたいと思っています。
 さて、この本ですが、『「便利」は人を不幸にする。』って、おそらくは一昨年の東日本大震災でもなければあまり意識もしなかったことだと思います。特に、それにともなう福島第一原発の事故がこのようなことを考えざるを得なくなったきっかけです。
 この本では、『「便利」がひとたびシステムとして定着すると、改良したり更新するためのコストがかかるようになり、そのコストが肥大化すると、誰もがシステムを維持すること自体に腐心するようになる。そうなると、システムは環境適応能力を失い、脆弱になり、やがては淘汰されていく。便利は、飽和するだけでなく、ときに身を滅ぼす。』と書いています。
 たしかに、最近の大災害の復旧には、それらが邪魔しているような気がします。世の中には、たくさんのリスクがあります。でも、そのリスクは、確率論的な全体の話と、個別のケースとでは、違うはずです。確率的にとても小さなものだとしても、もし、それが起こってしまったらとんでもない大災害になることもあります。それが東日本大震災でした。たしかに想定外と言ってしまえばそうなのですが、それでは、その地区に住んでいる人たちを納得させることはできません。科学的なこととそこにクラス人たちの実感とは、明らかに違います。ギャップがありすぎます。
 それと思うのは、この本にも書いてありますが、『「異論を封殺する国。小さなマイナスを明らかにすることを忌避する国。そのことは、客からのクレームという目の前の小さなマイナスに即座に対応し、改善するという「きめ細やかなサービス」を磨き上げるというプラスの資質を持っている。しかしその一方で、小さな損失を減らすことに汲々とするあまり、より大きなマイナスを呼び込む危険性を常にはらんでいる。』ということです。
 現在、毎日のようにニュースで流れてくるホテルやデパートなどでの商品表示の偽装問題です。これなども、下地に少数派の正論を封殺し、流れに沿ってしまうという問題を含んでいるように思います。
 下に抜き書きしたのは、フィリピンのカオハガン島を島ごと買い取った崎山克彦さんの話しです。では、なぜ、彼はこの島を買ったのかと聞かれ、「よく聞かれる質問なので、いつもこう答えてるんですが、フォーリン・ラブ、女の子に会って好きになったって別に理由があるわけじゃないでしょう、と。だからそういう感じなんです本当に。もともと海が好きだったというのもありますけど。私もいろんな島に行きましたけど、白い砂浜があって、海がきれいで、ヤシの木があるというような、そういうのが揃ってたので。ほんと、ひとめぼれですね」と答えています。
 もう、納得するしかありません。
(2013.11.30)

書名著者発行所発行日ISBN
「便利」は人を不幸にする。(新潮選書)佐倉 統新潮社2013年5月25日9784106037269

☆ Extract passages ☆

 崎山さんは、「聞いた話だけど」、と前置きして、人間の幸福を分数で表すと分かりやすいと解説してくれた。「お金なり物というのが分子にあって、その下に分母がある。分母が何かというとそれは欲望。だから、いっくら努力してお金や物を増やしても、それよりちょっと多めに分母の欲望がふくらんでいくので、トータルの幸福はどんどん減っていく」
 ひょっとすると、心理学か経済学で、何か名前をつけられているモデルかもしれない。直観的にはとてもイメージしやすい。カオハガン島にも、わずかとはいえ「便利」は入ってきているし、テレビやラジオからの情報もある。しかし島の人々は、分母を大きくしない。欲望を解放することをしない。なぜか。
「カオハガンというのは自然がすごくきれいだし、結構我々がいろんなことをやりながら、最低限の便利さみたいなものは入っているし。そこから飛び出て何かをということはあんまり感じないんじゃないかな。やっぱり自然の力ってすごいですね」
(佐倉 統 著 『「便利」は人を不幸にする。』より)




No.892 『化粧する脳』

 この題名のおもしろさで選んだこともありますが、以前読んだこの著者の本で、脳というのは過去のことを自分の都合のよいように書き換えてしまうとかいてあり、まさに化粧することと同じだと感じたことがあります。とくに始末に負えないのが、その都合のよいように書き換えられたのにもかかわらず、それが本当だ、事実だ、と勘違いするところです。
 そのような気持ちでいたので、それについても書いてあるのではないかと思い読んでみました。
 でも、やはり、顔についてのことが多く、それはそれなりにおもしろかったです。たとえば、「そもそも顔は脳のモニターである。心は見ることができない。コンピューターほど単純ではないものの、入力された情報が脳の中で処理され、なんらかのかたちで顔に表れる。そして他者にわかるように顔にモニターされる。脳が「いま、ここ」に限定された個体としての限定から解き放たれて、普遍へと接続する意識を生み出すのであれば、わたしたちは「いま、ここ」に限定された顔の表情から、個別を超えた普遍の生をみることもできるのではないだろうか。」というのは、なるほどと思いました。
 考えてみれば、選挙用のポスターだって、ほとんどが顔写真ですし、ある意味、顔だけで選んでいる人もいるのではないかと思います。だからこそ、顔ではなく、心が大事だと言わざるを得ないのかもしれません。
 そういうことから考えれば、エイブラハム・リンカーンが「四十歳を過ぎた者は、自分の顔に責任を持て。」といったのは、当然なような気がします。
 この本では、女性の化粧についても考察しており、わからないなりにも、そういうことか、と思わせるところもありました。
 巻末には、恩蔵絢子氏の「鏡や化粧を通した自己認知」という論文の寄稿も掲載され、さらには、この本がカネボウ化粧品の基盤技術工学研究所の「感性工学グループ」との共同研究の色合いもあり、著者と、カネボウ化粧品の3名と、さらには恩蔵氏との対談、『「化粧を生きる」という視点』も掲載され、それぞれにおもしろく読みました。
 下に抜き下記したのは、著者の言葉で、なるほどと思った1節です。
 たしかに、人間は他人とのコミュニケーションのときにいちばん喜びを感じるというのは、よくわかります。
(2013.11.27)

書名著者発行所発行日ISBN
化粧する脳(集英社新書)茂木健一郎 著、恩蔵絢子 論文寄稿集英社2009年3月22日9784087204865

☆ Extract passages ☆

 人間の脳がいちばん喜びを感じるのは、他人とのコミュニケーションだということはよく知られている。とくに目と目が合うことはいちばん嬉しいことだ。化粧でもアイメイクが重要視されるのは、このためだ。アイラインをくっきりと引いて、アイシャドウでメリハリを付け、マスカラで陸毛を強調する。そんなメイクの一つひとつに、他者とのコミュニケーションでは大きな意味があるのだ。
 目が合えば「あ、わたしはこの人に注意を向けられている」「関心を持たれている」「心にかけてもらっている」と感じ、脳が喜ぶ。このアイコンタクトは、コミュニケーションの基本である。
 子どもは、困ったことがあったとき、無意識に親のほうを見る。そのときに親がやさしく見つめ返してあげられるかどうかはとても重要だ。見つめ、見つめ返す。見つめ返されれば子どもの脳は喜ぶ。そして愛着が生まれる。アイコンタクトで人間は育つ。幼い時分にこうして親子間でしっかりと育まれたコミュニケーションが、人間社会の基礎を築いていくこととなる。
(茂木健一郎 著、恩蔵絢子 論文寄稿 『化粧する脳』より)




No.891 『そらみみ植物園』

 11月2日放送の「世界板受けたい授業」の1時限目に出ていたのが、この著者で、タイトルは「摩訶不思議!世にも奇妙な植物ワールド」でした。
 たしか昨年だと思うが、この著者の「プラントハンター」というのを読み、たいへん楽しく読みましたが、この番組もたいへんおもしろかったです。その中で問題として出されたのが、「この植物はいったいなんの生き物と仲がいいのでしょうか?」でした。答えは「アリノスダマ」でした。
 この本でも、このアリノスダマは取りあげられていて、「アリえないはど危険なボルネオのアリをうまく利用して、今日もまんまと心地よい暮らしをしている植物がある。高木の日当たりのよい場所を選んで着生し、その胴体のなかにアリが入れるよう通路をあけ、迎え入れて、なかでたくさんのアリを生活させている。アリと生活しているおかげで、動物などからの攻撃を逃れることができ、おまけに胴体のなかでアリが出す排泄物をおまんまとし、栄養に変えて吸収しているのだ。アリにとっても地上にいると天敵であるトカゲやアリジゴクなどに命を脅かされる危険性から守ってやっているのだから、アリノスダマはなかなか大したものである。」と説明されています。
 この本の装丁もよく、CDよりちょっと大きめの正方形で、左に文章が載り、右にイラスト画が載っています。このイラスト画は、そらみみ工房となっていますが、武蔵野美大の4年生(当時)による4名の絵描きユニットだそうで、それぞれに個性があり、楽しめました。
 この本で取りあげられた植物で、見たことのあるものもあり、たとえばレウム・ノビレやタビビトノキ、ボトルツリーなど、種子ではフタゴヤシなども見たことがあります。これはスリランカでしたが、まさにこの本に書かれているように「この種は世界で最も大きく、最もひわいな種」でした。ちょっと説明しにくいので、まずは百聞は一見に如かずです。近くでは、東北大の植物園に展示されています。
 この本を読み、ぜひ見てみたいと思う植物があります。
 それは「アアソウカイ」です。主な原産地はマダガスカルだそうですが、ここにある絶滅危惧種とされる「グランディディエリのバオバブ」という木も見てみたいものの一つです。
 何度かこのマダガスカルに行かないかと誘われたのですが、仕事の関係もあり、なかなかその機会に恵まれませんでした。
 次は、なんとかやりくりして、行ってみたいと思っています。
(2013.11.24)

書名著者発行所発行日ISBN
そらみみ植物園西畠清順・文、そらみみ工房・画東京書籍2013年7月13日9784487808083

☆ Extract passages ☆

 アレキサンドロス大王がソコトラ島を占領した目的は、アロエを手に入れるためだった。先住民を追いやり、代わりにギリシャ人を住まわしてアロエを栽培した。黒幕は、歴史上最大の哲学者のひとりといわれた天才・アリストテレス。アレキサンドロス大王の家庭教師でもあった彼は、アロエがいかに重要な植物かということを知っていて、富国強兵のためにそう進言したのだ。実際、大王が遠征に出かけるときは自軍の兵士のために常に大量のアロエを持参していたという。また、アレキサンドロス大王が占領た地域全てにアロエが伝わっているとさえいわれている。“医者いらず"と呼ばれるほど優れた万能薬だったのだ。
(西畠清順・文、そらみみ工房・画 『そらみみ植物園』より)




No.890 『笑うから楽しい 読むクスリ29』

 お祭りを間にはさんでの本なので、いつどこから読んでもいいような、この文庫本を選びました。
 この「読むクスリシリーズ」も何冊か読んでいますが、それぞれにおもしろく、クスリにならなくても、話題の引き出しに入れて楽しんでいます。この本は、とくに「笑い」についてなので、ときどき笑いなが読ませていただきました。
 でも、その笑いのなかにもなるほどと思うところもあり、たとえば、リーゲルマン効果についてですが、『「心理学者のリンゲルマンが行なった実験では、綱引きに参加する人数が多くなるほど、1人が出すカは落ちていきます」。1人の場合の力を100とすると、2人では一人当たり93に落ちる。3人になると85。「そして、8人では49。なんと1人のときの半分以下になってしまうのです」。すなわち、人数がふえるほど、「自分がやらなくてもわからないし、だれかがやるだろう」とみんなが思い、手抜きするのだ。「これを、社会的手抜き現象、と呼び、組織の中ではよく見られます」』と書いてあり、なんとなく、そのような気がしないでもなかったのですが、これを読んで納得でした。
 また、インドの話しですが、『「インドでは交通事故が起きますと、その後ろを走っていた辛が救急車になるんです」と東京・新宿にある日本ゴーシュ・ヨガ道場のコルナ・ゴーシュさん。……「そして、けがをした人を乗せると、窓から赤い布を出して病院へ向かいます」。その間、事故を起こした車は、ほかの華や通行人に取り囲まれ、逃げられなくなってしまう』といいます。これは法律などで決まっていることではなく、自然発生的に行われるようになっているのだそうで、いかにもインド的だと思いました。
 インドの人たちは、助け合うのが当たり前と思っているようですし、見てみないふりはできない国民性です。現在インドの仏教徒はほんとうに少ないのですが、これこそ慈悲の心です。
 私もインドに行くと、それを感じます。ちょっとお節介に思えるほど、興味津々で近づいてきます。たしかにインドでは信号機なども少なく、交通事故も多いので、このようなことが始まったようですが、とてもいいことだと思います。
 下に抜き書きしたのは、いかに笑顔が大切かを示しています。人は笑顔によって救われることもたくさんあります。
 この本は、東京出張のおりにブックオフで買った1冊ですが、とても楽しく読むことができました。これで105円ですから、これまた笑顔になります。
(2013.11.21)

書名著者発行所発行日ISBN
笑うから楽しい 読むクスリ29(文春文庫)上前淳一郎文藝春秋2001年3月10日9784167248376

☆ Extract passages ☆

 関西福祉科学大学の社会福祉学部長、志水彰さんが、しばらく前ある大学病院の入院患者に、
「あなたはどの看護婦さんが好きですか」とアンケート調査をした。
 対象にした看護婦さんは十数人だった。
「結果は、看護婦さんの技能の高さにも、知識の豊富さにも、経験年数にも、美人かどうかにも関係ありませんでした」
 人気ランキングのトップを占めたのは、「よく笑う看護婦さんでした」
(上前淳一郎 著 『笑うから楽しい 読むクスリ29』より)




No.889 『運がいいと言われる人の脳科学』

 下に抜き書きしたものと、この『人生の達人たちは、人生の早いうちから、生来の才能を発揮しっつ、その陰で、痛い思いを重ねてプロの技を手にしていく。プロとしての人生のスタートには、「生来 得意なこと」よりも、「どうにも不得意なこと」こそが不可欠なのだ。自分が今いるステージ(職場)で、「周囲が当然のように出来ているのに、自分はどうにも苦手」と感じることがあるのなら、最大のチャンスをもらったのと一緒だと心得てほしい。』というフレーズのどちらを「Extract passages」に残したらいいのか、最後まで迷いました。
 どちらも、不得意なものであったり、不完全なことであったりするのですが、それだからいいということに、なるほどと思いました。
 知り合いに、ほとんど受験勉強もせずに有名大学に入学したり、あまり努力をしているように見えないのにそれなりの成果を上げる人がいます。でも、おそらく、そのような人は他人に教えたり、後継者を育てたりはなかなか難しいのではないかと思います。だって、なぜ、そんなにもわからないのか、それがわからないのではないでしょうか。
 そして、「男は、帰るところがあるから、世界の果てまで行けるんだ。船乗りは、港があるから荒海に出られる。バイク乗りは、家があるから荒野に出られるのさ。」という著者の息子さんの言葉にも、男としてはなるほどと思いました。
 よく、子どものときに、なかなか親から離れないのは、その親に座標軸みたいなものがないからだといいますが、まさに子どもは不安だから離れたがらないのです。何時いなくなるかわからないのに、離れる子どもはいません。離れても、必ずここにいるとわかっているから、離れられるのです。つまり、男もそうで、まことに身勝手だと思いますが、男の心理としてそうだと思います。
 この本を読んで、運がいいと言われる人には、それなりの物の考え方があると思いました。それは必ずしも、ずーっと運がいいわけではなく、あるとき、突然に運が舞い込んできます。それを確実に自分のものにできるかどうか、それもまた運かもしれません。
 この文庫本は、たまたま東京出張のおりに泊まったホテルの近くにあったブックオフからたくさん買い求めたなかの1冊です。
 近いということもあり、日に何度か通い、とうとう持ち帰ることができないほどになりました。それで、仕方なく、宅急便で自宅に送りました。当分は、本屋さんに通わなくてもいいぐらい、手元に本があります。それを見ているだけで、本とうにしあわせです。
(2013.11.18)

書名著者発行所発行日ISBN
運がいいと言われる人の脳科学(新潮文庫)黒川伊保子新潮社2011年12月1日9784101279534

☆ Extract passages ☆

 完壁な美女は、心に残らない。完壁なことばも、心に残らない。どこか、バランスを欠いた、はっとするようなポイントがあって、表現というのは、初めて人の心を打つのかもしれない。だからこそ、魅惑の表現には、悪辣な批判がもれなくついてくる。ビジネス提案も同様と見るべきだろう。拒絶や敵を作るのを恐れては、いい仕事はできないのに違いない。
(黒川伊保子 著 『運がいいと言われる人の脳科学』より)




No.888 『ほどほど養生訓 実践編』

 この本を読んで、さあ「本のたび」を書こうとしたら、ナンバーが888でした。まさにぞろ目、しかも8ですから末広がりです。
 選んだわけでなく、たまたまの数字なんですが、もしかすると、この本に書かれていることをすべて実践すれば、この数字にあやかった末永く健康でいられるかもしれません。
 この本のなかで、テレビのことが書いてありましたが、これは私も痛感していることです。つまり、「テレビを見ている間は、ほとんど脳が働いておらず、ストレスがない状態となります。何かを懸命に考えながら見ているときもありそうですが、それでもほとんど頭を使っていないのです。情報を受け取るだけでは脳は活性化されません。自律神経が完全にお休みモードとなり、人によっては血圧まで下がってしまっています。脳を活性化するには、実際に手足を動かして行動することが大事なのです。ほつとするのもほどほどに、というわけです。」と書かれていました。
 私も相当前に実験したのですが、あるテレビを見て、いつまで憶えているかと考えてみると、それが1ヶ月もするとほとんど憶えていないのです。だから、連続ドラマは毎週あるのかと思ったぐらいです。なんかの都合で1〜2回見ることができなくなると、急に興味が失せてしまったりします。
 ところが、本を読むと、それが意外と憶えています。しかも、ある箇所を抜き書きしたりすると、さらに記憶に残っているようです。
 だから、それ以来、なるべくテレビを見ないで、本を読むようになりました。
 この本の題名のように、なにごとも「ほどほど」が肝要で、スポーツでもなんでも少しや過激ではダメなようです。ちょうど良いのが、ほどほどです。
 この本の表紙に「こうすれば健康長寿になれる」とありますが、それだって、必ずしもそうなれるわけではなく、その人その人の持って生まれたものがあります。やらないより、少しはやったほうがいいということのようです。
 この本は、実践編なので、項目ごとにワンポイントが書かれていますので、要点はつかみやすいです。
 ぜひ、実践され、毎日を健康で過ごしていただきたいものです。
(2013.11.15)

書名著者発行所発行日ISBN
ほどほど養生訓 実践編岡田正彦日本評論社2013年3月25日9784535983908

☆ Extract passages ☆

 ただし、飲み過ぎに注意です。基本的には、摂り過ぎた水分は尿として直ちに排泄されるようになっています。血液が薄まってしまうと命にかかわるため、これは大切な仕組みです。ビールなどをたくさん飲んだあと、トイレに行きたくなるのも道理です。
 飲み過ぎの問題は、それだけではありません。水分を大量に、しかも急速に摂ると、血液が一時的に薄まってしまい、こむら返り、疲労感などの症状が出るようになり、重症になると、痙攣、意識障害などが起こることもあります。これを水中毒と言います。
 そこまでいかなくとも、水を飲み過ぎると、吸収と排泄にエネルギーを消費しますから、疲れやすくなり、また胃液も薄まってしまうため食欲が落ちたりします。夏バテの多くは、水分の摂り過ぎによるものです。
 とくに「こまめな水分補給」ほど、胃腸に負担をかけることになるので、要注意です。
(岡田正彦 著 『ほどほど養生訓 実践編』より)




No.887 『仏教の真実』

 「まえがき」のところでも、「あとがき」のところでも、「本書は仏教批判を目的に書いたものではない」とことわっています。でも、おおかたの読者は、やはり仏教批判と思ってしまう内容です。
 でも、著者がいうように、現代の日本はほとんどが宗派仏教で、本来のお釈迦さまの教えに反することが多すぎるように思います。それはある意味当然なことで、だからこそ、上座部仏教と大乗仏教に分かれたわけです。しかし、そうであったとしても、なんか違うんではないか、と私も思います。
 というのは、一昨年はスリランカ、そして今年はミャンマーに行き、上座部の仏教に触れてきましたが、やはり違います。また、民衆の僧侶を見る目も違います。そこには、敬虔なまなざしがありました。
 そんなこともあり、これを読むと、なるほどという思いを強くしました。たとえば、『慈は原語でマイトリーといい、元の意味は深い友情である。つまり「相手の力になること」である。一方、悲は原語でカルナーといい、動詞「坤く」という意味から派生したことばで、同情することをいう。相手と同じ気持ちになる、つまり「相手の身になること」である。慈悲はこの二つの合成語で、相手の力となり、身となることを意味する。慈悲は神の教えでもなく、創造主の教えでもない。人間ブツダの教えである。』とあり、まったくその通りなのですが、それがお釈迦さまの教えだとはっきりわかっているかどうかということです。お釈迦さまの教えは、あくまでも悟るためのもので、いわば人生哲学のようなものです。そこがキリスト教やイスラム教とはまったく違います。むしろ、宗教ではないのではないかとさえ思ってしまいます。
 よく、仏教では、煩悩ということを問題にしますが、それを欲と混同している場合もあります。欲があるから煩悩もある、みたいな言い方もなされます。
 でも、この本では、はっきりと煩悩と欲とは違うといい、「要するに欲そのものは本来悪ではないが、己の思うままにものにはげしく執着して満足できなければ、さらに強く求め続ける。足ることを知らない欲が、悩みや煩わしさを増やし、迷い、惑って苦しみを増加することになる。この妄執がはげしい煩悩となる。」と、とてもわかりやすい説明をしています。
 下に抜き書きしたのも、「空」をわかりやすく説明しています。
 よく、仏教を葬式仏教などと批判的なものいいをしますが、ぜひ、この本を読み、お釈迦さまがどのような教えをしたのか、考えてみて欲しいと思います。ぜひ、おすすめいたします。
(2013.11.12)

書名著者発行所発行日ISBN
仏教の真実(講談社現代新書)田上太秀講談社2013年8月20日9784062882200

☆ Extract passages ☆

 空の原語はサンスクリット語でシューニャという。このことばの動詞語根シュー(腫れる)から派生した形容詞で、「腫れている、膨れあがった」という意味である。もとは医学用語でもあり、病的なむくみや瘤などのような腫れあがった状態を表すことばであった。
 腫れやむくみはもともと無かったのが、何かの原因と条件で現れた症状である。治療すれば、もとの何も無かった状態になる。腫れやむくみは一時の仮のかたちである。この状態を表すことばが、原語のシューニャである。
 腫れものやむくみで腫れあがったところは、何かあるかのように見えるが、治ってみると、跡形もなく消え去ってしまう。・・・・・
「しきそくぜくう」とはこの意味である。つまり肉体に霊魂や神などが宿ると思い込んでいる人に、じつは肉体にはそのようなものは内在していないことを、「空」と教えた。永遠なもの、実体、つねに変わらないものがみな存在しないことを空と言ったわけである。肉体が無いのではなく、肉体に不滅なものは無いと言ったのである。
(田上太秀 著 『仏教の真実』より)




No.886 『なぜ孫悟空のあたまには輪っかがあるのか?』

 別に今日までの読書週間にもう1冊と思ってこれを選んだわけではないのですが、たまたまこの本の題名を見て、そういえばなぜ孫悟空のあたまに輪っかがあるのかと考えたら、読んだ方が早くわかると思ったのです。
 これは、もともと孫悟空が勝手に暴れ回って困るからと老婆に化けた観音さまから三蔵法師が頭巾をくださり、それを孫悟空の頭にかぶせて呪文をとなえると、「あたまが痛いよ!」ところげまわり、とうとう頭巾を破ってしまいました。ところが、その頭巾についていた金の輪っかが頭にしっかり嵌まり、根っこが生えたようになったということです。それを、金箍(きんこ、金の箍)というそうです。
 つまり、めっぽう神通力のすごい孫悟空をあやつる三蔵法師の如意棒みたいなものです。
 この孫悟空は、アカゲザルがモデルらしく、もともと中国にはこのアカゲザルとテナガザル、そしてシシバナザル属のキンシコウ(金糸猴)しかいなく、このキンシコウはほとんど見る機会がなかったので、消去法でいくと、アカゲザルがモデルとわかるのだそうです。
 日本では、サルは漢字で書くと「猿」しかないのですが、中国では「猿」と「猴」をはっきりと分けているそうです。それを下に抜き書きしましたので、確認してみてください。
 それにしても、『西遊記』がこんなにも数字にこだわって書かれていることを知りませんでした。でも、この本を読むと、なるほどと思います。筋立ても数字によるらしく、それも読めば納得です。
 そういえば、何度か手にとってはみるのですが、最後まで読み切った記憶はありません。つまり、途中で、あまりにも荒唐無稽な出来事の連続に、飽きてしまいます。だから、どうも子どもの読み物という意識もあるのですが、本当は「あとがき」を読むと、もともと子どもの読みものではないといいます。つまり、「男としての三蔵法師のからだをめぐる謎のディテールにかなり踏みこんでおりますので、性にか んすることがらが、たくさん書きこまれております」からだそうです。
 来年は午年です。サルとウマは縁があるといいますが、この『西遊記』にも「天界の馬の管理をする役所で弼馬温(ひつばおん)という役職に任命された孫悟空は、じつによく馬の世話をいたします。」とあり、さらに「ここで思いだされるのは、馬小屋のお守りとして駒引ザルの絵馬を吊るすという、日本の古くからの風習です。日本だけでなく、インドから東南アジアにかけても、ひろく分布しているそうです。」とありました。
 来年こそは、『西遊記』を最後まで読んでみたいと思いました。
(2013.11.9)

書名著者発行所発行日ISBN
なぜ孫悟空のあたまには輪っかがあるのか?(岩波ジュニア新書)中野美代子岩波書店2013年9月20日9784005007530

☆ Extract passages ☆

 テナガザルは、猿。アカゲザルは、猴。「猿」という漢字は、ニホンザルしか知らない日本人が、サルのことを指すのに、この字だけを使っておりますが、まちがいです。孫悟空はアカゲザルですから猴です。美猴王とか石猴(石から生まれたサル)とか、び猴(大きなサル)とも呼ばれています。
 猴の別名に、王孫ということばがあります。ふつうは、王や貴族の子弟という意味ですが、王つまりえらい人の子や孫は、小さいときからぜいたくに暮らし、わがままのしほうだい。子どもならまだしも、王が監督できるけれども、孫になると、王の目がとどかないので、わがままいっぱい、やんちゃで手がつけられない。そこで、王孫ということばは、キャッキャッと叫びながら、そうぞうしくさわぎまわる猴のことを指すようになったのです。
(中野美代子 著 『なぜ孫悟空のあたまには輪っかがあるのか?』より)




No.885 『笑いの日本文化』

 「文化の日」をはさんで、この『笑いの日本文化』を読みました。最初はなかなかその要点がつかめず、読み進むうちに少しずつわかってきました。
 笑いという視点からみた日本文化は、とてもユニークで、なるほどと思うところが多々ありました。たとえば、この本の中で、『かつて、少なくとも日本の近世社会において、「ウソ」は悪いものではありませんでした。たとえば、戦国時代の武将、織田信長にも謁見し、三十五年間日本でキリスト教の布教をしたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが『ヨーロッパ文化と日本文化』という本の中で、「われわれの間では人に面と向かって嘘つきだということは最大の侮辱である。日本人はそれを笑い、愛嬌としている」といっています。』とありました。つまり、ウソさえも笑い飛ばし、あまり気にしないようにしてきたとあります。ところが、とくに戦後はウソは悪いものとなり、それにつれて、4月1日のエイプリルフールも少しずつ忘れ去られてきたように思います。
 だから、ある意味では世の中がギスギスしてきたようにも思います。
 この本に書かれていますが、『村八分の怒りは人々の怒りであると同時に土地の神の怒りでもありました。そこで、土地の神の怒りを解き、土地の神との関係修復の仲介をしたのが、「笑い」だったのです。』とあり、村八分にされても、また元に戻ることができるのも笑いであり、笑いには寛容性もあります。1+1は必ずしも2にならないのが世の中で、その不可思議さを笑ってしまえば、その溝を埋めることができます。
 おそらく、笑いこそが世の中の無常や不可思議を救ってくれたような気がします。
 下に抜き書きしたのは、初物を食べるときの風習ですが、私もこのようにします。おそらく、誰かに教えられたものでしょうが、今では私の家族もまねをしてしています。おそらく、ここに書いてあるような気持ちからするようになったと考えていましたが、このようにはっきりと裏付けを書かれると、ちゃんと理解できます。
 おそらく、無意識でされている方もおられるでしょうから、ここに書き記しました。もし、興味があれば、ぜひ読んでみてください。
 11月9日まで今年の読書週間ですから、もう1冊くらいは読めそうです。
(2013.11.6)

書名著者発行所発行日ISBN
笑いの日本文化樋口和憲東海教育研究所2013年6月24日9784486037507

☆ Extract passages ☆

 宗教哲学、神道の専門家、鎌田東二氏は、農業や漁業に従事する人々の習俗について、「その季節に取れた初めての収穫物を食べるとき、東のはうを向いてハハハと笑う習慣が各地にある」(『神道とは何か』)と指摘しています。
 東(日向=ひむかし)は日の昇る方向、太陽が現れる方角です。人々は収穫物を太陽神に捧げ、祝福と感謝を「ハハハ」という笑いで表現しようとするわけです。
 何度も繰り返しますが、かつて人々は、神や異界に恐怖と不安を覚えるゆえに、供え物や笑いによって神を喜ばせ、この世に平安をもたらそうとしました。神に笑いを捧げ、そのお返しに、神からも笑い(恵み)を贈与されることを願ったのです。人々は神との笑いの交換によって、恐怖や不安を「安全と安心」に変えようとしたといってもいいでしょう。
(樋口和憲 著 『笑いの日本文化』より)




No.884 『もののみごと』

 「文化の日」が近いということもあり、副題の「江戸の粋を受け継ぐ職人たちの、確かな手わざと名デザイン」に惹かれて読みました。というより、写真が豊富で、写真集を見るような気持ちでした。でも、写真家の名前がさんずいに首と書いて「みなもと」と読むとは初めて知る名字でした。
 ここに取り上げられたものは、少し前までありふれたものだったようですが、こうして残っているところをみると、それなりの存在理由がありそうです。私もいくつかは欲しいと思いましたし、それを手に入れたい人のために巻末に簡単な説明などもあり、これはいいことだと思いました。
 いくらいいものでも、それを買ってくれる方がいなければ廃ってしまいます。廃ってしまわせないようにするには、少しでも多くの方に実際に買って、その良さをわかってもらわなければなりません。このような品物は、高いとか安いとかという基準では、語れないものです。
 ちょっとビックリしたのは、取り上げられたお店の相当数が独自のホームページを持ち、オンラインショップもあるということです。そういえば、江戸小紋の小宮さんは、「伝統はつくり方ではなく、ものに対する姿勢です」と語っていますが、やはり伝統の上にあぐらをかくようでは残れなかったのかもしれません。
 せっかく、このような本と出会えたのですから、掲載されているホームページには、すべてアクセスしてみようと思っています。
 そして、気に入ったものがあれば、ぜひ手に入れ、その良さがわかるまで、使い尽くしてみたいと思っています。
 そういえば、銅おろし金職人の勅使河原隆さんが、「よく言われたのはね、"さんかく"になるなってこと。三角じゃなくてね、職人の世界では、義理をかくな、欲をかくな、人情をかくな。この3つをかいちゃいけないって」という言葉が印象的でした。このような職人が造るものなら、絶対にまちがいはないと思いました。
 この本の写真家は、『ある職人さんが言った。「昔はみんな、食うために仕事してたんだ。だからさ、仕事が終わったら呑みに行くんだよ。必要以上に稼ごうとするから世の中おかしくなっちゃうの」』と取材した思い出を書いています。
 また、下に抜き書きしたのは江戸鼈甲職人の須貝さんの言葉です。
 この方のも、なるほどと思います。
(2013.11.3)

書名著者発行所発行日ISBN
もののみごと田中敦子 文・みなもと(さんずいに首と書く)忠之 撮影講談社2012年10月22日9784062177924

☆ Extract passages ☆

「江戸時代に鼈甲が流行したのは、南蛮船のおかげ。運ばれてきたタイマイの甲羅が、長崎経由で江戸の町にも入ってきたんです」
 それゆえ、鼈甲を使った細工ものは、日本ばかりでなく、中国や西欧にもある。しかし、「厚させいぜい五ミリほどの甲羅を重ね、厚みを出して細工したのは江戸時代の日本人なんですよ」
 そんなわけで江戸時代、舶来の亀の甲羅をつかった簪や細工ものが大流行。質素倹約を旨とする幕府は贅沢品だと禁止した。しかし、賢い商人は「安いスッポンの甲羅でございます」と言い抜けた。すっぽんは"鼈"と書く。以来、鼈甲。
(田中敦子 文・みなもと(さんずいに首と書く)忠之 撮影 『もののみごと』より)




No.883 『神が愛した天才科学者たち』

 これは偉人伝というより、天才科学者たちのドラマチックな生き方を綴ったもので、驚きと笑いがあり、そして勇気をもらいました。
 まさに、「読書週間」にふさわしい1冊でした。
 とくに偉人の陰にはすばらしい親がいるといわれますが、たとえば、野口英世の母、シカさんもそうです。この本では、「こぼれ話」で紹介していますが、「村の危機を一人で救ったエピソードでわかるように、野口の母シカは、実際にはかなり行動力のある人だった。ぐうたらな夫、病弱な祖母、子ども二人をかかえて夜昼となく働きながら、清作へのいじめを阻止すべく小学校へ乗り込み、いじめっ子と直談判した。清作が高等小学校へ進学を希望していることを小林栄に伝え、学費の援助まで引き出したのもシカだし、野口が医師をめざしたときも、そのことで小林に相談をもちかけている。世界のノダチへのレールを実際に敷いたのは、小林先生でも渡部医師でもなく、母シカかもしれない。」といいます。
 もちろん天才ですから、本人は素晴らしいひらめきを持っているんでしょうけれども、エジソンは「99%の努力と1%のひらめき」と言いながらも、実は講演をするたびごとに90%の努力になったりしているそうです。ある意味、自分だけでなく、多くの人に伝わるときに、少しオーバーに伝わっているのかもしれません。
 この本でおもしろいのは、単なる偉人伝ではなく、人間的な葛藤や秘められた野心、さらには意外と運が良かっただけの話しとか、いろいろと書かれています。
 でも、たとえばパスツールが狂犬病のワクチンをつくったのは、脳出血で倒れ半身不随になってからというから驚きです。おそらく、普通だったら、自分のことを考えるだけで精一杯ではないかと思いますが、人のため、世のため、という強い意志があったればこそと考えられます。
 まさに、天才には天才なりのドラマチックな生き方があったのでしょう。
 若いときならいざ知らず、ある程度の歳になると、なかなか偉人伝みたいなものは読まないのですが、これはぜひおすすめです。今、原子力発電所の事故以来、科学に対する信頼度が揺らいでいますが、だからこそ、読んでほしいと思います。
(2013.11.1)

書名著者発行所発行日ISBN
神が愛した天才科学者たち(角川ソフィア文庫)山田大隆角川学芸出版2013年3月25日9784044094461

☆ Extract passages ☆

1934年、キュリー夫人は病に倒れ、入院、不帰の人となる。享年66歳、死因は白血病であった。
 1894年以来、40年間の研究生活で、彼女が生涯にあびた放射線量は200シーベルトと推定されている。これは通常の生活であびる放射線量の六億倍である。……
 キュリー夫人のからだは、連続して浴びつづけた強力なラジウムの放射線で、完全にボロボロになっていた。……ラジウムの分離に成功してロンドンの科学学会のレセプションに招待されたときも、手や指先が痛くてドレスが自分で着られないほどであった。まさに、その栄光と引き替えの満身創痍である。夫のピエールも同様であった。……
 パリのソルボンヌ大学のキュリー医学研究所に並んで建つ旧ラジウム研究所(現キュリー博物館)には、夫妻の実験ノートが残されているが、このノートは今でもガイガーカウンターが振り切れるほど大量の放射線を発し、危険物としてあつかわれている。
(山田大隆 著 『神が愛した天才科学者たち』より)




No.882 『名医が伝える漢方の知恵』

 第67回「読書週間」真っ最中ですが、たまたま手に触れた新書を読みました。歳も歳なんで、なんとなく自分の身体に注意しなければならず、題名の漢方ということに関心もありましたし、読んでみました。
 2回続けて在日韓国人の著書でしたが、これはたまたまで、出版されたのも今年の7月で同じでした。それと、ものの見方考え方が正当破り少しずれていて、そこにおもしろさが感じられました。この本でいうと、西洋医学を学んだ著者が、大学時代に漢方の勉強に没頭したり、その後、国立がんセンターでガンと免疫の研究をして、またその後で東洋医学総合研究所に移ったり、とまさに西洋と東洋を融通無碍に行き来したからこそ、そこに見えてくるものがあると思いました。
 この本の主題は、人間の体質を、『バランスのとれた「中庸」、バランスの偏った「実証」と「虚証」の三つに大きく分けます。この三つの証は体力の充実度、体質や病気に対する抵抗力などを表すもの』と考えるそうです。
 つまり、自分の体質をはっきりと自覚し、それに沿った活かしたやり方をすればいい、というのがこの本の主張です。そして、「実証」タイプは2割、「中庸」タイプは6割、「虚証」タイプは2割であるとして、その2割の「虚証」タイプの生き方に多く触れています。
 またこの本で初めて知ったのですが、『養生訓』で有名な貝原益軒の名前は、「隠居する以前は損軒という名でした。損なことを散々してきたからそろそろ得をしてもいいだろうということで名前を益軒に変えた」ことや、精神分析学の基礎を築いたジークムント・フロイトは「彼は60代後半でガン(口腔ガンの一種)を発症。以降、30回以上に及ぶ手術を受けながらも後世に残る業績を上げた」ことなどです。それでもフロイトはガンの痛みと闘いながら83歳まで仕事をしたというからすごいものです。
 この本はたまたま読んだだけですが、漢方的な見方という側面もあると考えさせられました。たしかに西洋医学でなければ治せないこともありますが、下に抜き書きしたような未病というような考え方も大切なことと思いました。
(2013.10.29)

書名著者発行所発行日ISBN
名医が伝える漢方の知恵(集英社新書)丁 宗鐵集英社2013年7月22日9784087206999

☆ Extract passages ☆

 未病とは病気として表には現れていないけれども、体内に病気の素を抱えている状態です。そしてこの"未病″の状態で病を発見することこそ、健康を保つ上でもっとも大切な ことなのです。
 未病には二段階があります。第一段階は偏った食生活や過多の飲酒、喫煙、運動不足、過剰なストレス、睡眠不足などによりもたらされます。
 この第一段階を改善もせずに長く続けていると、第二段階の病気に近い"境界領域″に入ります。境界領域では、自覚症状はないけれども検査をすると異常がある、または自覚 症状があるのに検査をするとどこも悪くないという状態です。これはいずれも生活習慣病予備軍です。
(丁 宗鐵 著 『名医が伝える漢方の知恵』より)




No.881 『離島の本屋』

 第67回「読書週間」は、明日の10月27日から11月9日までですが、今年の標語は「本と旅する 本を旅する」だそうです。私は、本も旅も好きですし、なんといっても、ここの題名は『ほんの旅』ですから、ぴったりです。
 この2週間はたっぷり時間をかけて、ゆっくり本を読みたいと思っています。
 さて、この「離島の本屋」ですが、『22の島で「本屋」の灯をともす人たち』という副題のようなものが表紙に書かれていて、どのようにしてこの企画が始まったかを最初の「旅のはじめに」に書いています。それが、一番、心に響いたので、下に載せたように抜き書きさせてもらいました。
 それと、周防大島の「つるや鶴田書店」のところでつぶやいた、『この島にしかいない人がいる。そしてこの島にしかない本屋がある。発信する者、ファンを呼び寄せる場所。互いに立場は違っても、「この島が好き」の思いはきっと同じ。「両者が交錯すれば、もっと素敵なのになあ」』という言葉が印象に残っています。
 この本を読むと、おそらく、普通の本屋さんみたいのは少なく、文房具店と雑貨屋といろいろな複合施設でなんとか本屋さんとして頑張っているのがわかります。
 たしかに今は、本でさえ通販でどこにいても手に入る時代かもしれませんが、本屋で1冊1冊手にとって選ぶような楽しさはありません。本の装丁の良さ、手に取ったときの重さなど、実物でなければなかなかわからないものです。
 たとえば、CDやDVDならパソコンで聞いたり見たり試聴できるかもしれませんが、やはり、本は手にとってこそわかるものがたくさんあります。
 せめて、いくら小さな島でも、一軒ぐらいは本屋さんがあってほしいと思います。
 そのような思いで、読んでいました。
 また、この本にまとめるに当たって、取材したところに電話をかけてみて確認したという行為も、現在の本屋さんの抱える問題が浮き出てきたように思いました。
(2013.10.26)

書名著者発行所発行日ISBN
離島の本屋朴 順梨ころから2013年7月15日9784907239039

☆ Extract passages ☆

 この本は『LOVE書店!』という、NPO本屋大賞実行委員会が発行するフリーペーパーの、約8年問に渡る連載をまとめたものだ。22の島々をめぐって訪れた先には、BOOK愛ランドれぶん(北海道礼文島)のように、図書館と本屋さんが合体した場所もあれば、常設の店舗は凌いけれど、年に一度移動書店がやってくる北大東島(沖縄県)のように、本屋が「ある」とも「ない」とも言える場所もあった。
 その一方で愛知県篠島の小久保書店のように、かつて存在していた店もあれば、小笠原諸島のように、書店はないけれど電子タブレットが、読書の楽しさを教えてくれている島もあった。私自身この連載をスタートさせた頃は、"絵に描いたようを本屋さん"こそが本屋だとばかり思っていた。けれど、あちこちの島を訪ねるうちに、その思いはどんどん小さくなり、しまいには溶けてなくなった。
(朴 順梨 著 『離島の本屋』より)




No.880 『こうして組織は腐敗する』

 副題は「日本一やさしいガバナンス入門書」とあり、ガバナンスを『日本語で「組織の統治」と訳されます。わかりにくい表現ですが、その意味するところは、本来、育ちや性格や考え方の異なる人たちが集まって組織を作るとき、メンバー間の対立や士気の低下などが原因で組織が空中分解したり、糸の切れた凧のように制御不可能な状態になったりしないよう統治するということです。』と説明していました。
 たしかに、そういう意味では、やさしいだけでなく、とても具体的で理解できました。だからといって、これらが理解できたからといって、組織の腐敗が防止できるかといえば、それが人間の本性に関わるところもあり、難しそうです。
 ただ、このようにすれば、少しでも腐敗を少なくできるとか、もしかするとこうすることによってなんとかできるかもしれない、という程度かもしれませんが、やれないこともなさそうです。
 ただ、それには必ず利害関係があり、それの解消が難しそうで、だからほとんどの組織がダメになっていくんじゃないかと思います。
 たとえば、下に抜き書きしましたが、柔道とオリンピックの関係もこのように筋立てすると、わかるような気がします。そういえば、この柔道の問題も、2013年の1月にロンドンオリンピック女子柔道出場選手が強化練習などのさいに、監督から平手打ちによる暴力や「死ね」などといった暴言を受けていたことが明るみに出て、そこからいろいろな問題が次々に出てきました。そして、とうとう外部の人を入れて、オープンな組織にせざるをえなくなったようです。本当は、最初からそうできればいいのでしょうが、一筋縄でいかないのが組織です。それの利害関係です。
 この本を読んで、このようにして組織がゆがんできて、腐敗するんだと思いました。
 とくに、今のNPOが増えてきている現状からみても、このガバナンスはとても大事です。ぜひ、組織に関わる人たちに読んでいただきたい1冊です。
(2013.10.24)

書名著者発行所発行日ISBN
こうして組織は腐敗する(中公新書ラクレ)中島髏M中央公論新社2013年6月10日9784121504579

☆ Extract passages ☆

 興行を開かない柔道には、相撲と違って観客を喜ばせるための「見せる」技術がありません。美学と精神性だけではジリ貧になることを悟った柔道界は、オリンピック種目にすることで国際化の道を歩もうと決意します。しかし、その代償として金メダル獲得が義務づけられ、勝利至上主義が徹底されることになります。すなわち、全柔連のミッションはオリンピックでメダルを獲得し、国民を喜ばせることになつたのです。
 そこに輪をかけたのが全柔連という身内で固められた閉鎖性の高い組織です。外部の目が届きにくい組織のなかで勝利至上主義になれば、勝てさえすればなんでもOKということに なってきます。順調にメダルが獲得できていたときは、仮に練習での暴力や暴言があったとしても表沙汰にならなかったでしょう。ロンドンオリンピックでの成績の悪さが内部告発につながったと思われます。
(中島髏M 著 『こうして組織は腐敗する』より)




No.879 『オールカラー版 欲望の美術史』

 この本は、著者の「あとがき」によると、「2011年5月から現在まで、産経新聞夕刊に連載している「欲望の美術史」の記事を全面的に加筆修正し、図版を増やし、新たな話を書き下ろして加えたもの」だそうです。ところが、これは近畿地方限定だそうで、それ以外の方はほとんど見ることはできません。そこで、光文社新書の1冊として出版されたようです。
 カラー版なので、話しに出てくる絵も掲載され、とても興味深く、理解もできます。やはり、美術ものはカラーでなければならないと思います。これで興味を持ったら、さらに大きな原色版を見ればいいでしょうし、買うのはちょっと大変だとすれば、それこそ図書館で借りればすむことです。
 私はよく写真集などの大型本を図書館で借りるのですが、その全部を見たいわけではなく、ほんとうに興味のあるところしか見ません。だとすれば、借りた方がいいと思います。
 この本のなかで、なるほどと思ったのは、「美術館に行くと、作品ばかりを見て、周囲の空間をろくに見ないことが多い。しかし、同じ作品でも、ちがう空間に設置されると見え方がまるで異なるものだ。日本では展覧会が複数の会場を巡回することが多いが、同じ展覧会を別の会場で見てみると、まったく雰囲気がちがうのに驚かされることがある。」というところです。
 たしかに、これはありえることです。今時の美術館は、それを十分に考えて建てられているでしょうが、いくら「あらゆる作品をよく見せる無色透明な空間」を目指しても、できないでしょう。
 そういえば、だいぶ前のことですが、もともとは教会の壁画だったという絵を観たことがありますが、これなどは、やはりその教会で観るべきものだと感じました。また、仏像にしても、本来の寺院のなかでお詣りするものであって、それを前から後ろから眺めるようにして見ては、不作法ではないかと思います。また、明るさにしても、はっきり見えるからいいというものではなく、見えない部分もあるからこそいいということもあるでしょう。
 下に抜き書きしたのは、第1章「欲望とモラル」の第1話「食欲の罠」の一部です。
(2013.10.21)

書名著者発行所発行日ISBN
オールカラー版 欲望の美術史(光文社新書)宮下規久朗光文社2013年5月20日9784334037451

☆ Extract passages ☆

 あらゆる人間の営みは欲望によって成り立っている。美術といえども例外ではない。美術は、人間の様々な欲望を映し出す鏡でもあるのだ。たとえば、西洋の静物画というジャンルは、食材を描いたものが大半を占めているが、これは食欲が形となったものにほかならなかった。食糧が十分に供給されていなかった時代には、こうした絵が人々の食欲をそそり、安心感を与えていたのである。
 一方、キリスト教をはじめとする西洋の道徳は、つねに野放図な欲望を戒め、それを克服して精神的な価値に導こうと努めてきた。欲望とモラルという相反する力が衝突、あるいは融合し、ある形式をとって美的に昇華したものが美術作品であるといってよいだろう。
(宮下規久朗 著 『オールカラー版 欲望の美術史』より)




No.878 『動物たちはぼくの先生』

 著者はネコ好きだそうですが、イヌは小さいときにかみつかれたことがあり、それがトラウマになったみたいで、あまり好きではないと書いていました。好き嫌いって、意外とこのようなことだと私も思いますが、それをさらりと書いていたので読みたくなったようです。
 つまり、本の好きずきも意外と単純なもので、植物関連のものはすぐにも読むのですが、動物の本は少ないようです。
 でも、この動物の本のなかにも植物のことが書いてあり、それは「いつ葉を落とすかはその植物の戦略の問題である。寒さのくる前に葉の中の養分をすべて枝に引きあげ、すっからかんの葉を落として寒さから身を守るのも一つのやりかただ。寒い地方にはこの戦略をとる植物が多い。けれど北国なのに冬も葉をつけている植物もある。極北に近い地域では冬に葉を落とす植物はほとんでないという。冬に落葉して春に若葉を伸ばすのでは、短い夏に間に合わないからだそうだ。そして冬は植物がすっぽりと雪におおわれ、雪の下はそれほど寒くはならないから、葉を落として身を守る必要もないからだ。」とあり、なるほどと思いました。
 そういえば、シャクナゲもその通りで、寒さに耐えながらも葉は落とさないし、さらに寒くなるとその水分で凍ってしまわないように葉から水分を外に出してしまい、ひからびた状態で生きています。そして、幾分でも寒さが和らぐと、その葉の裏毛の部分にある水分を吸収し、また青々とした葉に戻ります。
 これをみると、いつも植物の越冬戦略ってすごいな、と思います。
 おそらく、動物にもいろいろな生きるための知恵があり、それを調べていくと、とてもおもしろいのではないかと思います。そんな気持ちがどこかにあり、この本を読んだのかも知れません。
 この本に書いてありましたが、ツバメが巣をかけるから店が繁盛するのではなく、ツバメはスズメが嫌なので、そのスズメが人間をいやがって近づかないので、人間が多く集まるところにツバメは巣をかけるのだそうです。つまり、ツバメが繁盛を予言するのではなく、結果なのだといいます。
 とても読みやすいので、動物好きの方はぜひどうぞ。
(2013.10.18)

書名著者発行所発行日ISBN
動物たちはぼくの先生日高敏隆青土社2013年6月15日9784791767076

☆ Extract passages ☆

今考えられる情報はたしかにみんなとりだして、データ・ベースにいれることはできる。けれどいまは考えてもいなかったような情報が欲しくなることもある。
 昔は植物標本からDNAをとりだしてどうとかなんていうことは、考えも及ばなかった。今は化石からDNAを抽出してジュラシック・パークを作ろうという時代になった。これも現物の標本あってのことである。コンピューターのデータ・ベースの情報からDNAをとりだすことはできない。
 「情報」にはそういう意味がある。つまり、必要になったものが情報なのであって、関心のないものは、少なくともその人にとっては情報ではないのだ。
(日高敏隆 著 『動物たちはぼくの先生』より)




No.877 『西南シルクロード 少数民族の旅』

 たまたま図書館でセレクトした「旅」のコーナーにあり、そのなかからこの1冊を選び出しました。というのは、さっと立ち読みしただけでも、だいぶ前に行ったことのある場所があり、とても懐かしく感じられたからです。
 とくに雲南省の昆明や大理、そして麗江などは4回ほど行ったことがあり、しかも最初に行ったのは1985年でしたから、著者の写真の年号からみると、1986年以降のことですから、ダブル部分もあり懐かしくもありました。とくに麗江では、その当時は第2招待所しか外国人が泊まれる施設がなく、夜に離れたトイレに懐中電灯を持って行ったことなどを思い出しました。でも、この麗江は1997年に世界遺産に指定され、その年の春に行っただけで、その後は行く機会がないので、だいぶ変わってしまったのではないかと思います。
 著者はカメラマンだそうで、白黒写真が多いのですが、たくさん掲載されているので、つい思い出すところもたくさんありました。たとえば、大理の古城や三塔などもそうで、点蒼山から眺めた?海などはとても雄大な感じがしました。今では、麗江にも飛行場ができて、昆明から1泊2日でおしりが痛くなるほど揺られて行ったことなどは、昔語りに過ぎなくなったようです。
 でも、旅は時間が短縮なればいいというものではなく、その目的地に着く行程も楽しみの一つです。麗江への峠から眺めた盆地のきれいさは、今でも頭のなかにしっかりと残っています。そういえば、著者は行っていないようですが、麗江の先の大中甸というところにシャクナゲの大群落がありました。それこそ、何百万株という広大なところです。ところが、そこが飛行場になったらしく、今では見たくても絶対に見ることができなくなってしまいました。
 この本に写真の載っている麗江の四方街もそうで、1996年の大地震で古い家並みが崩れてしまいました。私はちょうど1996年と1997年と続けてここを訪ねたのですが、この大地震の影響は大きく、古い町並みはほとんど建て替えられてしまいました。しかし、これは自然災害ですから、ある意味仕方のないことかもしれませんが、この本のように写真が残っていれば思い出のなかにはしっかり残っています。
 それと、大理には歴史上有名な人たちが来ていることをこの本で知りました。「三国時代の諸葛孔明が、雲南省の少数民族を鎮圧するため、南征した際に大理にも立ち寄り、博南道をミャンマーに向け、辺境の民族に兵を進めている。フビライ汗がこの地を征圧して白族を農奴から解放している。1287年にはマルコポーロが、北京から当時開通した駅道、宿駅を通り、雲南に入り大理に立ち寄っている。」といいます。
 おそらく雲南省は、標高が高くいつも雲の上にあり、しかも四川省の南に位置するところから雲南省といわれるようになったといわれていますが、だからこそ、冒険的なあこがれの地であったように思います。私も最初にここを訪ねたときには、そのような思いがしました。
 「母と子でみる」という副題がついていますが、旅好きの方にはおすすめです。
(2013.10.15)

書名著者発行所発行日ISBN
西南シルクロード 少数民族の旅川西正幸草の根出版会2004年5月20日9784876481989

☆ Extract passages ☆

 西南地方の少数民族は、山間に土着の先住民族もいたが、古くは豊かな生活を好み、開けた川沿いの平原に部族集団から民族集団を組織していたが、強い勢力の漢民族や、力を持った民族に追われ、弱い民族は外敵から身を守るため、雲南省と貴州省を結ぶ雲貴高原の山深い高地の山間地に時間をかけて移動し定住していった。
 雲南省は高地で山深く、大河が入り組んだ複雑な地形をして、少数民族の住む辺境の地は、漢民族から蛮人の住む地「蛮夷の国」と恐れられていた。蛮刀もこの地が発祥で、大小の刀と箸を一つの鞘に収める方法で、合理的な刀に思えるが、蛮人が使ったことから蛮刀といわれたのであろうか。
(川西正幸 著 『西南シルクロード 少数民族の旅』より)




No.876 『ブッダとは誰か』

 一気に読みましたが、途中でやめてしまうと話しが続かなくなりそうで、それで読み終えました。でも、今まで気になっていた箇所がいくつかあり、カードを11枚作りました。
 というのは、お釈迦さまが誕生してすぐに7歩歩いて「天上天下 唯我独尊」と言われたところなどです。いくに伝説だとしても、すぐ歩くとか、自ら「唯我独尊」と言われるなどありえないと思っていました。私的には、すべての人が皆尊い存在だと解釈していましたが、やはりちょっとは気になっていました。それをこの本では、『石上説はこの通過儀礼と誕生仏の七歩伝説を結びつけて、七歩あゆむ儀礼が釈迦族の誕生式として行われていたのではないかと考えました。すなわち、誕生した赤児を誰かが抱き、七歩あゆんで誕生の宣言をするという儀式を伝説の源泉として想定したのです。もしそういう儀式があったならば、当時のインド文化圏での関心事である「輪廻を終える」という希望を託して、「これは〔この子の〕最後の生涯である」と宣言することも想像できます。また親として「この子は世界で最も優秀な者である」と言ってもかまいません。誕生の地、ルンビニーのところでも取り上げましたが、当時インドでは誕生を不浄なことと考えていたわけですから、浄化のためにもそのような通過儀礼が必要となります。古代インドの誕生式の研究は進んでいませんが、婚姻儀式の研究によると、花婿と花嫁が手を取り合って七歩あゆみ、結婚の宣言をするという事例が報告されています。』と明快に書かれていました。
 なるほど、これなら理解できると思いました。これは、日本の石上善應氏の説だそうですが、その当時のインドでは誕生を不浄なことと考えていたそうで、だとすればなおさらのこと、通過儀礼は必要になります。たとえば、日本の昔のように、いったん外に置き去りにするとかです。
 もう一つは、お釈迦さまがパーヴァー村で鍛冶工のチュンダから受けた食事がもとで死に至ったことです。そのパーヴァー村にもお釈迦さまが沐浴されたカクッター川にも行きましたが、たった一度の食あたりが原因とは考えられなかったのです。それが、この本では、サンスクリット語やチベット語、漢訳の伝承には、ガンジス河を渡ってナーディカ村を訪ねたときに、この村では疫病がはやっていて、多くの人が亡くなったと記されているそうです。そうだとすれば、そのナーディカ村からヴァイシャーリーに行き、そこで体調を崩され、そこのヴェールヴァ村で雨安居に入ったということとつじつまが合います。だから、ここでお釈迦さまは自らの死を自覚されたのではないかと著者は指摘しています。
 下に抜き書きしたのは対機説法についてですが、この文章に出てくる『たとえ西側に花瓶があっても「花瓶は東にある」と固定化されます』というのは、その前に『例えば部屋に大きなテーブルがあり、その中心に花瓶が置いてあるとしましょう。そのテーブルを囲んで座っている人々にとって、花瓶の位置は東側であったり、西側であったり、さまざまなはずです。ある特定の立場、例えば釈迦自身の立場から「花瓶は東にある」と固定化すると、すべての人に正しい位置を示すことができません。だから相手の立場に応じて説法の内容を変えていくわけです。』という説明があってのことです。
 この本は、お釈迦さまのまさにわかる範囲内での史実に即した書き方で、とてもわかりやすいものでした。
 もし、お釈迦さまのことを知りたいとすれば、ぜひ、この1冊をおすすめいたします。
(2013.10.12)

書名著者発行所発行日ISBN
ブッダとは誰か吹田隆通春秋社2013年2月15日9784393135686

☆ Extract passages ☆

 この「対機説法」という手法は仏教が包容力のある宗教となる根幹をつくりました。決して固定化せずに人々に応じて教えが説かれるわけですから、ある人に説いた説法が伝わ って、後に一つの教義を確立します。また、別の人に応じて説いたものが別の教義として伝わり、「ダルマ」を示唆するさまざまな教えを許容する宗教をつくり出したのです。
 このような教義を限定しない立場を学術用語で「オープン・キャノン」(開かれた正典)といいます。この「オープン・キャノン」というのは対機説法がつくった仏教の最大の 特徴です。これに対する反対語を「クローズド・キャノン」(閉ざされた正典)といい、「真理」の名のもとに教義を固定化する多くの宗教の立場がこれにあたります。この立場では、たとえ西側に花瓶があっても「花瓶は東にある」と固定化されますから、それが事実に反していても「真理」として"信じる"ということが求められることとなります。
(吹田隆通 著 『ブッダとは誰か』より)




No.875 『人生をひもとく 日本の古典 第1巻 からだ』

 この本は『人生をひもとく 日本の古典』の第1巻で「からだ」をテーマに久保田淳、佐伯真一、鈴木健一、高田祐彦、鉄野昌弘、山中玲子の諸氏がそれぞれを担当して書いています。
 第1章は「身体という器」、第2章は「体の保たせ方」、第3章は「衰え行く身体」、第4章は「食事の風景」、第5章は「飲酒さまざま」で、それぞれ6〜7の古典から1節を選んで書いています。
 150ページほどですので、割合気安く読めていまいますが、これで興味を持ったら、それぞれの古典を読んでみるのも楽しいと思います。これらほとんどが学校で習ったような代表的なものですし、注釈本も出ています。そういえば、橋本治「これで古典がよくわかる」(ちくま文庫)でも思ったのですが、古典というのは、今の時代まで長く読み続けられてきたわけですから、おもしろいものであるに違いないのです。心にしみじみと響くものがなければ、時代の流れのなかで消えてしまいます。何百年も残ってきたのですから、それだけでも値打ちがあるというものです。
 もちろん、名著といわれるものでも、好き嫌いや興味のないものもありますが、これだって、食わず嫌いかもしれないのです。
 この本のなかで、真乗院の盛親僧都のことを書いた『徒然草』第60段のところを紹介していますが、「兼好は、盛親を「世を軽く思ひたる癖者にて、よろづ自由にして、大方人に従ふといふことなし」と書いている。……しかし盛親は、「世の常ならぬさまなれども、人に厭はれず、よろづ許されけり」。なぜか。彼は「見目よく、力強く、大食にて、能書、学匠、弁舌人に勝れて」、仁和寺の寺内でも中心的な存在であった。抜群の能力を持つ「やんごとなき智者」だったのである。そして、わがままではあっても、欲張りではない。この人の好物は、「芋頭」である。」といいます。このように、なかなかおもしろい人物を書いているとは、知りませんでした。
 また、下に抜き書きしたのは、清少納言の『枕草子』第30段の「説教の講師は顔よき」の解釈ですが、これだって、一つの見方であって、ほかにもいろいろな見方考え方がありそうです。あるいは、なるほど、とにっこりと納得してしまうことだってあります。古典には、どんな解釈も許されるようなおおらかさがあるような気がします。
(2013.10.9)

書名著者発行所発行日ISBN
人生をひもとく 日本の古典 第1巻 からだ久保田淳 他編著岩波書店2013年6月18日9784000286411

☆ Extract passages ☆

 いくら人間顔ではない、と言いながらも、この清少納言の言葉にほ、何か動かしょうのない本音を聞く思いがする。単に、人間やっぱり顔だ、と言っているのではなく、説経というありがたいものが、美男の講師によっていよいよありがたく感じられる、というすぐれて美的感性に関わる問題なのだ。
(久保田淳 他編著 『人生をひもとく 日本の古典 第1巻 からだ』より)




No.874 『こわれない風景』

 これはジャンル的にいうと「写真集」ですが、文章もあり、それがいかにも写真家らしく好感が持てました。
 その文章のなかに、「一つの旅が終わり空港側の宿に入った時、僕の心の中は充実感で満たされている。部屋で写真機材の簡単な清掃を終えると、次に小袋に入れてある撮影済みのフィルムを、一本一本丁寧に]線セフティケースに詰め込んでいく。その時、フィルムの表面に善かれた日付とナンバリングにチラッと目をやりながら、旅の途中に出会った風景を回想する。その場の光や風がフッと蘇って来るこの瞬間が、僕は楽しくて仕方がない。」とあり、私も昔は銀塩写真でフィルムを使っていたので、この気持ちがとてもよくわかります。現像するまで、どのように撮れているかわからず、旅の終わりになるとできあがりを想像しながら、それを]線かぶりが出ないようにフィルムを鉛のセフティケースにつめたものです。
 ところが今は、ほとんどがデジタルカメラですから、撮影の途中でもできあがりを確認できますし、もと不都合な部分があればパソコンで修正もできます。これでは、著者のように心を込めて撮るなんて、なかなかできなくなります。
 この本を眺めていると、カナダのダイナミックな自然写真もありますが、それよりも、民家や納屋、畑や道、漁村や車など、人の暮らしの気配がとけ込んだ風景写真が多いと思いました。そこにカナダの人たちの生きている証みたいなものを感じました。たとえば、電信柱が木でできているのも、著者の説明を聞くと、なるほどと思います。一番ここで強いのは自然の木で、しかもそれを見ているとまさに風雪に耐えてきたという感じがします。その写真を見ると、さらにその思いを強くします。
 写真の力は、この訴える力だと思います。
 下に抜き書きしたのは、セント・ジュイコブスの町周辺に住むメノナイトの人たちの様子です。でも、宗教上の理由からメノナイトの写真撮影は禁止されているそうですが、「どうしても彼らの素晴らしい生き方を記録し、伝えたかった」として、その村を立ち去る直前に車の中からそっとシャッターを押したそうです。
 その1枚の写真は、まさに今の時代と古き良き時代を同時に写し込んでいるように思います。その馬車の後ろ姿のゆったりズムは、とても優雅な感じさえしました。
(2013.10.6)

書名著者発行所発行日ISBN
こわれない風景吉村和敏光文社2006年6月25日9784334975005

☆ Extract passages ☆

 オンタリオ州の郊外に位置する小さな町セント・ジュイコブス。この町の周辺には、キリスト教のアナバプテスト(再洗礼派)の一派であるメノナイト(オランダのメノ・シモンズに導かれた「メノの仲間たち」という意味)と呼ばれる人々が暮らしている。彼らは現在でも、自給自足の生活を守り、電気は一切使用せず、移動の手段は馬車に頼っている。……
 特に興味深かったのは、この地では、メノナイトが一般の人たちと垣根のない暮らしをしているということだ。彼らが住む家のすぐ隣には、最新の電気製品で溢れ、車を運転したりするいわゆる「今風の人たち」が生活している。
 でもお互いの生活文化が大切に守られ、そして後世へと受け継がれているのだ。冷静になって考えてみれば凄いことではないだろうか。
(吉村和敏 著 『こわれない風景』より)




No.873 『人は見た目が9割』

 この本はだいぶ前に出版されたものだが、最近、また書店で平積みされるぐらい人気が出て、また、この題名にも心引かれ、読んでみました。
 著者は、現在は著述業ということですが、「はじめに」のところで、「さいふうめい」というペンネームで、劇作やマンガ原作を仕事としているとかいていて、さらに舞台の演出や俳優教育などをしているそうで、だからこそ、この題名が生まれたのではないかと思います。
 アメリカの心理学者であるアルバート・メラビアン博士(Albert Mehrabian)はいろいろ実験した結果、人は他人から受けとる情報の割合は、顔の表情が55%、声の質(高低)、大きさ、テンポが38%、そして話す言葉の内容が7%だという研究発表をしています。これをメラビアンの法則というのですが、たしかにそのような面があることを否定できません。
 そういえば、あの平安時代の『枕草子』第30段に、「説教の講師は顔よき」ほうがというくだりがありますから、いつの世もこれと似たようなところがあるようです。でも、内容がたった7%というのも、なんか割り切れない数字ではあります。
 おもしろかったのは、マンガの表現で、具体的に書いてあるのでとてもわかりやすく、納得できました。もともと、マンガを読むことがないので、くわしくはわからなかったのですが、その表現法の多彩さにはびっくりしました。なぜマンガはモノクロが多いのかも理解できました。まさに東洋の墨絵のようなものだと知り、書き込み過ぎを防ぐとは、思いもしませんでした。
 また、東京新宿歌舞伎町で警官が未成年者を補導するとき、未成年かどうかの判定に、対象者が大人びた服を着ていたら未成年で、子どもっぽく見せていたら年がいっているという判断は、なるほどと思いました。前髪を垂らしただけで、3〜4歳は若く見えるというから、まさに見た目で変わるわけです。
 さらにおもしろいと思ったのは、抜き書きしたところで、メイクや服装などでも訳者は変わるというところです。この文章の後に、「アメリカの心理学者フィリップ・ジンパルドがこんな実験を行っている。新聞で公募した24名を、無作為に「囚人役」と「看守役」に、半分に分ける。囚人役は、警官に逮捕された後、取調べを受けて囚人服を着せられ、監獄に入れられる。看守役は、制服を着て、警棒を下げ、囚人を監視する。どちらも、それらしく振る舞うよう指示されるわけではない。ところが、服を着せるだけで、本物らしい振る舞いになっていったのである。囚人は卑屈な態度を取り、看守は命令口調になる。」といいます。
 つまり、人は服装によってだけでも、言葉遣いや行動が変わり、ついには思考方法も変わってくるということになります。
 この本を読み、着るものは気をつけよう、と思いました。
(2013.10.3)

書名著者発行所発行日ISBN
人は見た目が9割(新潮新書)竹内一郎新潮社2005年10月20日9784106101373

☆ Extract passages ☆

 長い間演劇に携わっていても、いまでも驚くのが「役者は何故これほど変わるのだろう」ということである。メイクや衣装で、見栄えだけでも相当違って見える。が、変わるのは外見ばかりではない。立ち居振る舞いから、極端な時には人格までも変わってしまったのだろうか、と驚くことがある。
 一人の役者に医師の役を当てる。普段着で練習する時はそうでもないが、白衣を着せると途端に医師に見えてくる。役者だから、当然といえば当然だが、医師風の歩き方、所作、話し方に変わっていくのだ。同じ役者に、今度は兵士の役を当て、兵隊の衣装を着せる。すると、兵士の歩き方、喋り方になり、果ては思考方法まで兵士に変わっていく。
(竹内一郎 著 『人は見た目が9割』より)




No.872 『365日を穏やかに過ごす心の習慣。』

 著者は天台宗ハワイ開教総長で、ハワイに渡り大変な苦労を続けながら天台宗や日本文化を広めた方です。おそらく、それだけではわからないかもしれませんが、あの独特の絵と言葉を組み合わせた仏画は、1枚でも見れば、あれっ、と思い出すかもしれません。私自身は、板東33観音札所巡礼で訪れた第31番の笠森寺で何枚か見たことがあり、絵はがきになったものを買ったこともあります。
 この本にも、挿絵のように掲載されており、たとえば、巡礼姿の母子の絵に「親を愛する者は人を恨まない 親を敬う者は人をあなどらない 親に親しむ者は人と争わない」という文字が添えられています。また、僧衣姿のお坊さん二人の絵に「失敗して利口になる 挫折して強くなる 人生に無駄はないんだな」と書かれています。
 この本は、このような挿絵が21枚もありました。最後の1枚は、僧衣姿のお坊さんが一人は座り、一人は横になっていて、「いまが幸せと思わないと 一生幸せになれないよ」とあり、たしかにそうだと思いました。
 これだけ描ければ、絵で食べていると思われるかも知れませんが、それはあくまでもハワイやアメリカ本土の布教のためだといいます。まさに絵は方便であり、僧侶としての役割を第一に考えているようです。
 文章も講演で話されているようなわかりやすさで、たとえば、「私たちは、誰しも心のなかに、過去に対する後悔や現在に対する不満、将来への不安をかかえています。けれども、悲しいこと、つらかったことなどを、いつまでもくよくよと引きずらないことです。」といい、そのような堂々めぐりをしないで、楽しかったことやうれしかったことなどを思い出して、そちらの方向に心の向きを変えることを教えています。
 読んでみると、どれもが当たり前のことですが、著者の語り口に会うと、それがすんなりと心に響くから不思議なものです。
 また、絵に言葉が添えられているからわかりやすいのかもしれません。自分も絵をうまく書ければいいなあ、と思いました。
(2013.9.30)

書名著者発行所発行日ISBN
365日を穏やかに過ごす心の習慣。荒 了寛フォレスト出版2013年1月29日9784894515444

☆ Extract passages ☆

 自分の気持ちをわかってほしいと思うなら、先に相手の気持ちを理解し、受け入れる側に回ることです。自分が不満なら相手も不満、自分が怒っていれば相手も怒っているのです。そうした、感情が堂々めぐりするのは実につまらない話です。それを絶つのは自分次第。自分が変われば相手も変わるということを知る必要があります。
 我を張る人は、人間としての器が小さいと心得るべきで、一度、そのこだわりを捨てれば、人とのきずなが強まり、自分をとりまく人たちがたいせつに思えてきて、人間的にも大きくなるはずです。
(荒 了寛 著 『365日を穏やかに過ごす心の習慣。』より)




No.871 『桜がなくなる日』

 著者は植物学者で、とくにレッドデータプランツにも関わり、日本の絶滅危惧植物の解説や本なども出版されています。この本の副題も「生物の絶滅と多様性を考える」で、桜を取り上げてはいますが、植物全般のことに言及しています。
 そういえば、著者とお会いしたのは中国雲南省昆明で、1986年7月に開催された「96年東アジアの植物の特徴と多様性についての国際会議」のときでした。多くの植物学者といっしょで、私は挨拶程度しかできませんでした。でも、それをきっかけとして、何冊か著書を読ませていただきました。
 この本も、今までいろいろなところで解説等をしてきたことと同じで、より一般向けのような気がします。桜という、日本の代表的な植物を取り上げ解説し、まだ大丈夫だけれど、このままでは必ずや桜までもどうなるかわからないと警鐘を鳴らしています。
 では、絶滅危倶種の調査研究の目的はというと、「生物多様性の現状を指標するモデルの描出」だそうで、ある種が絶滅すると困るということではなく、「一種でも危険な種があるということは、それだけ生物圏全体に危機が及んでいる現実を指標する。生き物は一種一種が勝手に生きているのではなく、長い進化の歴史を背負って、すべての生き物が相互に直接的間接的な関係性を分かち合って生きている。そのうちのある一種の絶滅は、生き物全体の生に変化が生じているきびしい現実を指標している。」ということです。
 つまり、自然の生き物たちは、それなりの関係を保って生きているわけで、1種の絶滅がどのような影響を及ぼすかはなかなかわからないことで、だからこそ、それら1種1種を大事にしていかなければならないということになります。
 あるいは、絶滅したことに後から気づいても手後れという事態にならないとも限らないのです。
 そういう意味では、桜のようにほぼその心配がないものであっても、将来的にはどうなるかわからないという認識で考えていかなければならないということなんでしょう。
 下に抜き書きしたのは、里山の大切さで、それこそが日本人のこころの故郷というべきもののようです。
 自然や植物に関心があれば、お読みください。
(2013.9.28)

書名著者発行所発行日ISBN
桜がなくなる日(平凡社新書)岩槻邦男平凡社2013年6月14日9784582856866

☆ Extract passages ☆

八百万の神の住処としての奥山を、野生生物の聖域として崇め、自分たちの生活のために開発させていただいた里地には氏神を招来し、奥山の依り代としての鎮守の杜で護って、地域の人々の平穏無事を祈念し、里山を緩衝地帯として野生生物との共生を、列島全域を対象に生きてきたのは日本人の特有の生き方である。局地的にはそれに似た生活形態は見られたとしても、日本列島全域という規模で展開する里山に比すべき生き方は、地球上で他には見当たらない。
 その意味で、里山は日本人のこころ、はまさに言い得て妙の表現である。
(岩槻邦男 著 『桜がなくなる日』より)




No.870 『生命の逆襲』

 2012年6月にフェルメールの名作「真珠の耳飾りの少女」と「真珠の首飾りの少女」が相次いで来日し、大々的に展覧会が催されました。そのときに、NHKの新日曜美術館で著者を見て、あの太くて濃い眉毛がとても印象的でした。それ以来、何冊か読ませていただきました。この1冊もその流れです。
 著者はよほどフェルメールが好きなようで、「真珠の耳飾りの少女」の真珠のことを、「絵は着々と完成に近づいていきますが、何かが足りません。それは一点の光のしずくでした。フェルメールは妻に内緒で、妻の真珠のピアスを少女につけさせます。メードがそのようなことをすれば何が起こるか。それは明らかです。少女のまなざしの中にあるおびえと決意はまさにここに由来しているのでした。」と絵解きしています。
 ちょっとだけ著者はフェミニストと思える内容もあり、そう解釈もできるけど、本当にそうなのかなあ、と思います。でも、著者は、「なんでだろうねぇ」という疑問を抱き続けることに意味があるといいます。つまり、センス・オブ・ワンダーです。そういえば、阿川佐和子さんとの対談集でも、この「センス・オブ・ワンダー」を取り上げていました。そうそう、たしか、「センス・オブ・ワンダーを探して」という本でした。
 著者もまさに興味津々で、何が本職なのか、ちょっとわからないものがあります。だからこそ、このような本が書けるのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、第5章「ヒトという困った生物」のなかの「縄文人のゆっくりズムがうらやましい」からです。縄文時代は、1万数千年も続いたといわれていますが、このゆったりとした時間だからこそ、長続きしたのではないかと思いました。しかも、1日に2〜3時間しか働かず、著者がいうように、あとの残った時間はなにをしていたのでしょうか。たしかに、うらやましいような時間をすごしていたのではないかと想像されます。
(2013.9.25)

書名著者発行所発行日ISBN
生命の逆襲福岡伸一朝日新聞出版2013年4月30日9784023311954

☆ Extract passages ☆

 青森県の三内丸山遺跡の盛土構造物はさらに長期、ざっと1500年間もの継続工事だったことがわかっています。縄文人たちは何世代にもわたって、絶え間なく手を加え、常に作り続けていた。つまり、どんなものがいつできるのかということよりも、バトンタッチを繰り返しながら、それぞれの人々が、今、作っていることに参画しているという事実のほうに重きをおいていたのです。
 考古学者の小林達雄氏は、「記念物を完成させることに目的があったのではなく、未完成を続けるところにこそ意味があったとみなくてはならぬ。むしろ完成を回避して、未完成を先送りし続けることに縄文哲学の真意があったのである」(『縄文の思考』)と述べています。
(福岡伸一 著 『生命の逆襲』より)




No.869 『科学にすがるな!』

 たまたま岩波書店の本が続きましたが、私はほとんど出版社から選ぶということはないので、まったくの偶然です。でも、偶然にしては、とてもおもしろい本と出会いました。
 副題が「宇宙と死をめぐる特別授業」ということで、フリー編集者の艸場よしみさんが理論物理学者の佐藤文隆に教えてもらうという設定です。しかも佐藤さんは山形のご出身だそうで、もうそれだけで親近感が増しました。
 でも、さすが物理や量子力学というとなかなか理解できなかったのですが、その考え方は少しはわかったような気がしました。宇宙の見方・考え方も、今までよりはすっきりと整理できたように思います。
 艸場さんが「死ぬ意味、生まれてきた意味」を知りたいと思い、宇宙研究の最前線を切り開いてきた佐藤先生から直接伺いたいという思いで手紙を差し上げたことがきっかけで、この本ができたように思います。科学者だからこそ、はっきりした答えが返ってくると期待したでしょうが、帰ってきた言葉は、この本の題名になったような「科学にすがるな!」でした。
 でも、その答えが導かれる道筋を読み、それこそが科学者の良心であるような気がしました。
 過大な期待を持たせず、わからないものはわからないと答えること、それこそが科学者の態度です。そういえば、お釈迦さまが死について尋ねられたとき、答えなかったといわれていますが、一脈、それに通じるものがあります。
 それと、量子力学が確率と深く結びつき、たとえば電子の運動を説明するときに、その電子が存在する場所は確立でしか表されないと知り、びっくりしました。ということは、パソコンの中身も携帯電話やスマートフォンも確率で動いているということではないですか。たしかに、判断する材料として確率は使えますが、その確率で世界が動いていると思ったら、ちょっと怖いような気もします。
 もしかしたら、だからこそ、科学にすがるな、と警鐘を鳴らしたのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、知識についての佐藤先生の話です。これを読むと、知識にはふたとおりあるというのがわかるかと思います。でも、実感としては、本を読むことは「足す知識」のような気がしないでもありません。
(2013.9.22)

書名著者発行所発行日ISBN
科学にすがるな!佐藤文隆・艸場よしみ岩波書店2013年1月25日9784000052153

☆ Extract passages ☆

「ぼくは前から、知識にはふたとおりあるといっている。足す知識と入れ替える知識です」
 入れ替える?
「新しい知識を得たとする。そのとき、自分の知識のおもちゃ箱に新しく一つ加えるみたいなのが足す知識。でもこういう知識はしみ込まない。だが、もともとつまっていたものと入れ替える知識は、しみ込みます」……
「真実を知ってそれまでの誤解を解くことを「正す」という。「正す」とは入れ替えることです。物質のもとは原子より小さいクォークだと知ったとき、いままで原子だと思っていた知識と入れ替えているんです。なのに、次々と新しいものを買ってきて箱をいっぱいにしていくのが科学だと考えている人がいる」
(佐藤文隆・艸場よしみ 著 『科学にすがるな!』より)




No.868 『「幸せ」の経済学』

 会計学というと、企業の損得を計算するものという認識が一般的ですが、私の専攻した「社会会計学」というのは、この社会そのものを会計的な手法で計算し、そのことが本当に良いのか悪いのかを判断する資料にするということでした。
 ということは、経済学だって、人を幸せにするための判断材料を提供するということがあってもいいのではないかと思い、読み始めました。もちろん、お金だけで幸せになれるものではないけれど、お金もないと食べてもいけません。だとすれば、経済成長だけが幸せの道ではなく、今の失速経済のなかでも、幸せを感ずることができるのではないか、それを考えるいい機会ではないかと思いました。
 この本のおもしろさは、1万人を超えるアンケート調査の結果や、さらには内外の統計データを基に推論するところで、ある意味、多くの人たちはこのように考えているということでもあります。たとえば、2005年のリチャード・レイヤーというロンドン大学政治経済学部の専門家が主に欧米諸国を対象にしてまとめた図表のなかで、アメリカの女性が1日のうちで何時頃が一番幸福かという問いに、「夜中が一番幸せ」と答え、逆に一番不幸の不幸は「朝起きた時」と答えたそうです。そして、何をやっている時が一番幸せかという問いに、第1位がセックスで、次いで社会的な活動、リラックス、そして4番目がお祈りや瞑想、説教を聞くなどと並んでいます。そして最後が勤労や通勤があり、働くというのが最下位にになっています。また、育児やコンピュータなどが下の方にあるということは、あまり幸せなことではないということかもしれません。
 このように、幸せというのは、とても心理的なことですが、アンケートの結果などをこのような表にまとめてみると、ある傾向が読み取れます。
 下に抜き書きしたのは、相対的なことですが、野心や嫉妬なども、この幸せと結びついています。あまり、考えもしなかったのですが、そういわれればそうかもしれない、と思ったのでここに紹介します。
 題名はちょっと難しそうですが、もともとは2012年7〜8月に行われて「岩波市民セミナー」の講義録が基になっているそうですから、読みやすいと思います。興味がありましたら、ぜひ読んでみてください。このような経済学もあるのかなあ、という気持ちになること請け合いです。
(2013.9.19)

書名著者発行所発行日ISBN
「幸せ」の経済学(岩波現代全書)橘木俊詔岩波書店2013年6月18日9784000291026

☆ Extract passages ☆

野心が強いということは、現状に満足していない可能性が高いので、その時点では幸福度は低く表明されると考えてよいでしょう。嫉妬も人を羨ましいと思うのであるから、現状に不満を感じているだろうと考えられ、その時点での幸福度は低く表明される可能性が高いでしょう。こう考えると、人間として野心の強い人、あるいは嫉妬心の強い人は、現状において幸福度を低く表明する可能性が高いし、逆に野心や嫉妬のない人は現状において幸福を感じる程度が高いと想像できます。
 このように野心・娯妬と幸福の関係を理解すると、野心を持つな、嫉妬を感じるな、ということが人びとの幸福感を高めるためには有効な方策になるかもしれません。
(橘木俊詔 著 『「幸せ」の経済学』より)




No.867 『爆笑問題と考える いじめという怪物』

 このテレビを見ていたので、この本を読んでみようと思いました。「いじめ」って、昔もあったし、先日英語圏の人と話をしていてその国にもあるというし、人のいるところには大なり小なりあると思います。
 でも、日本の最近のいじめは、マスコミなどの報道で知る限りは、だいぶ陰湿で、徹底的にいじめ尽くすような感じがします。それでは、問題です。と、思っていたので、関心もありました。
 最初は、太田光の「生きて、問い続けよう」という題で、自分自身が体験したことや現在の仕事を通して感じていることなどを書いたもので、次は「"いじめ"のない学校訪問記」で、何人かで東京シューレ葛飾中学校の取り組みなどを紹介するものです。ここはいわゆるフリースクールで、いじめにあったこどもたちが多く通っています。そして、そこのこどもたちにもいろいろ質問しながら、ここの特徴などを浮き彫りにしています。
 そして最後に「〈バクモンいじめ調査委員会〉座談会・いじめ問題を考える」で、バクモンのほかにサヘル・ローズ、尾木直樹、滝充、志茂田景樹、ROLLY、春名風花などが出席し話し合ったことを書いています。おそらく、これがテレビで放映されたのではないかと思います。
 あらためて、小学校6年生の春名風花さんの「僕は、自分に自信のない人が、自分に自信のない人をいじめると思うんですよ。だから、いじめている側はからかい半分でも、いじめられている側は自分に自信がないから、それをいじめだと思ってしまう。それに対して、そうじゃないって言えないからどんどん深みにはまると思うんです。」と発言したのがとても印象に残りました。風花さんは、女の子ですが、「僕」っていうのが子役タレントらしい物言いです。
 でも、この自分に自信のない人がいじめたりいじめられたりするというのは、なるほどと思います。それを聞いて尾木さんは、「小学校でいじめっ子だった子は、中学生になるとほとんどの子がいじめられるんです。小中学校時代を通してずっといじめっ子のままの子はいないわね。本当に見事にひっくり返ります。」と発言したのです。
 下に抜き書きしたのは、太田 光さんの実体験ですが、これもなるほどと思いました。限りがある、というのは、ある意味で救いかもしれないと思います。
(2013.9.16)

書名著者発行所発行日ISBN
爆笑問題と考える いじめという怪物(集英社新書)太田 光、NHK「探検バクモン」取材班 著集英社2013年5月22日9784087206913

☆ Extract passages ☆

 いじめられている生徒に考えてほしいことは、俺は高校の時に友達がいなくてけっこうっらかったのですが、「でも三年だよな」というのが、すごく自分の中にありました。学 校は年数が限られているし、つらいことが続いたとしても、この環境は三年で終わることなんだと思っていました。卒業して、大学に行くなり、仕事をするなりしたら、そこで環 境がガラッと変わるわけだからということを、俺はとても励みにしていたのです。(太田 光)
(太田 光他 著 『爆笑問題と考える いじめという怪物』より)




No.866 『下山の思想』

 著者の本は何冊か読んでいますが、名前が一字だけ同じということもあり、ちょっと気になる作家のお一人です。これは3.11の東日本大震災以降に書かれたもので、このことにも大きく影響されていると思います。副題は「もう、知らないフリはできない。」ですし、「未曾有の時代にどう生きていくか。究極のヒント」とあり、たしかにこれからは下山の時代かな、と思わせます。
 私も元山岳部ですから、登るときと下るときの違いはわかりますし、たとえば山菜採りに行ったときでも、帰りに採るからと思っていても、いざ下るときになって気づかずに来てしまうことも多々あります。つまり、登るときには見えていたものが、下りには見えず、下りには別なものに気づくということでもあります。
 下に抜き書きしましたが、下るには下るための心構えが必要だということです。
 著者も言うように、もともと人間というものは、「自分が欲する現実しか見ていない。レンズの焦点のようなものだ。何か一点につよくピントを合わせる。するとその間題だけがクリアに浮かびあがる。」のです。写真を撮るとわかるのですが、花だけにピントを合わせると、当然ながら背景や周囲はボケてきます。そのボケが大きければ大きいほど、いいレンズなのです。だからこそ、自分が撮りたいものがはっきりと浮き出てくるのです。
 つまり、山全体を見ているようでも、じつは見ていなくて、見たいところだけははっきり見えていても、それ以外はぼんやりと映っているだけです。だから、下山するときには、下山するなりの見方が必要なのです。むしろ、登山の場合には、登るときよりも下山するときのほうが難しく、遭難も多くなります。だからこそ、下る技術もあるのです。
 下山といいながらも、この本では、いろいろなところに言及しています。たしかに、著者が言うように雑文の部分もあります。だから読みやすいのかもしれません。
  (2013.9.13)

書名著者発行所発行日ISBN
下山の思想(幻冬舎新書)五木寛之幻冬舎2011年12月10日9784344982413

☆ Extract passages ☆

 登山するときと、下山のときでは、歩きかたがちがう。心構えがちがう。重心のかけかたがちがう。
 見上げるときと、見はるかすときとでは、視点がちがう。ゆっくりと、優雅に坂を下っていかなければならない。
 宇宙へ向いていた視線は、逆に個々の身体の奥へ向けられる。生を死の側からみつめる必要も生まれてくる。慈の思想にかわって、悲の思想が大きく浮上してくるだろう。そんな時代に、いま私たちは、直面しているのだ。
(五木寛之 著 『下山の思想』より)




No.865 『【辞書、のような物語】』

 これは『辞書のほん』(第4〜8号)に収録された作品に加筆・改稿し単行本としてまとめたものだそうです。ですから、辞書にこだわるのは当然で、辞書を中心にした物語です。
 そういえば、この大修館書店は「大漢和事典 全15巻」諸橋轍次著、を出版しているところで、私もどうにもわからない漢字があると、年に数回はお世話になります。親字数も多いのですが、熟語数も多く、まさに世界に誇り得る辞書の一つだと思っています。
 この『辞書のほん』 は、いわば書店のPR誌のようなもので、高等学校の先生や全国の書店への直接配布をしているので、なかなか一般にはお目にかかることの少ない冊子です。そこに収録されていたのですから、これらを読むのは初めてだという方のほうが多いと思います。もちろん、私もそうです。
 とくにおもしろかったのは、大竹 聡「ほろ酔いと酩酊の間」で、なじみの酒場でいっぱいやりながら電子辞書をひくという設定で、「ほろ酔い」とか「酩酊」などもひきます。
 じつは私も酒場ではないのですが、よく電子辞書をひきます。いまのものは、国語辞書だけでなく、和英や英和辞書、さらにはことわざ辞書など、10冊以上が収録されています。暇なときにひいて遊んでいると、瞬く間に時間が過ぎていきます。
 言葉というのは、意味不明なだけでなく、ちょっとうろ覚えのものもあり、そんなときにはやはり辞書が必要です。また、漢字などはなんとか読めても書くのは難しいのもあります。以前、あるCMで、「バラって漢字で書けますか?」っていうのがありましたが、それと同じです。たとえば、「ゆううつ」なんてときどき使いますが、漢字で書くと「憂鬱」です。これは、もともと『管子』や『韓詩外伝』などの中国古典が出典だそうで、「憂」は「心配」「悩み」「とどこおる」といった意味です。そして「鬱」は、「茂る」「群がる」「盛ん」のほか、「ふさがる」「こもる」「蒸れる」の意味もあり、憂鬱とは「気持ちがふさいで、晴れないこと」と辞書にはあります。
 電子辞書だと、さらに憂鬱はメランコリー(melancholy)で、ギリシア語のmelagcholiaに由来し、7つの大罪の前身となった8つの枢要罪の一つと書かれてありました。こんなことが、あっという間にわかるわけですから、とても便利なものです。
 私も辞書も好きだし、本も好きということで、机の上には必ず各種辞書と電子辞書のいくつかがあります。だからこそ、この本にも、すーっと手が伸びたのかもしれません。
 もし、機会があれば、読んでみてください。辞書好きには、おもしろいかと思います。
(2013.9.10)

書名著者発行所発行日ISBN
【辞書、のような物語】明川哲也ほか大修館書店2013年4月30日9784469291001

☆ Extract passages ☆

本棚というのは人の性格を顕著に表してくれる家具なのかもしれない。背表紙に並んだアルファベット、Nの文字の上に「〜」と波がついているのが暗号のように見える。旅の本もあれば、歴史の本もある。並べられた本たちは、愛情をもって読まれたくたびれ方をしていた。自分が興味のある本など一冊もなさそうだと思った瞬間、一番下の段、もう何年も棚から出されていないであろう一冊の本に淳志の目が止まった。まだ取っておいてあるのかよ、と淳志は呆れながらも懐かしそうに、その本を見た。
(明川哲也ほか 著 『【辞書、のような物語】』より)




No.864 『縄文人に学ぶ』

 縄文時代とか弥生時代とかは、学校で習った程度の知識しかありませんが、この本は読んでいてとてもおもしろかったというのが第一印象です。
 ただ、著者の縄文に対する熱く語ることに、ほだされたみたいです。頭の一方では「それって本当かな?」と思いながら、片一方では「言われてみると確かにそうかもしれない!」と思う自分がいました。どだい、縄文時代のことなんて、はっきりとわかる人なんていないわけだし、ただ推論するしかないのですから、その脈絡につながりがあれば納得できるという程度のものです。
 著者は縄文研究を30年来のライフワークとしてきたようで、専門の建築学の立場から竪穴式住居のことなど、とても興味深いものがありました。たとえば、奥様が家計を預かるのも、玄関で靴を脱ぐことも、あるいは冬になると鍋料理が恋しくなるのも、縄文の文化につながっているといいます。そのなかには、まさか、というのもありましたが、読み進めるうちに、もしかするとそうかもしれない、と変わっていました。その一つが鍋料理で、「鍋料理は縄文人が炉を囲んで、炉の火にかけられた土器たぶん深鉢土器から、直接、食物を取ったであろう伝統を引きついでいるようにわたしにはおもわれる。冬になると日本人が鍋料理を恋しくなるのも、そういった縄文DNAがいまなおわたしたちの身体のなかに生きている証拠ではないだろうか。」と書いています。
 また、定住したのは稲作をするようになった弥生時代だと思っていましたが、この本では、すでに縄文時代に定住し始めたとあります。その理由を、下に抜き書きしたのでぜひ読んでみてください。
 おそらく、日本人の自然観とか生き方みたいなのは、この縄文時代から引き継いできたものがあるのではないかと思います。その一つに旬を大事にするということがあり、旬のものを食べるだけで「初物75日」ということわざがあるぐらいで、「初物を食べると命が75日延びる」ということになります。著者は日本料理屋で高いお金を払うのも、物を食べるというよりは旬を感得するところだから、それは当然だと言います。
 これは理屈抜きでおもしろい本ですから、縄文に興味がありましたら、ぜひお読みください。
(2013.9.8)

書名著者発行所発行日ISBN
縄文人に学ぶ(新潮新書)上田 篤新潮社2013年6月20日9784106105241

☆ Extract passages ☆

……旧石器人のあとに日本列島にやってきた縄文人は、大動物ではなくじつは「大自然」を相手にする道をえらんだ。そこが決定的に違うところである。
 そのためにかれらは部族やバンドを解体し、親族単位で海の近くの尾根筋などに割拠し、その地で女たちが火を焚き、男たちは火を絶やさないためのすまいを作り、そのすまいで囲まれた広場で子供と老人と犬が遊び、また女たちはそこで日々、天候を観測し、その観測にしたがってすまいの外の半径三キロぐらいのテリトリーで四季折々の葉っぱ、木の実、茎、根、小動物、魚介類などを採集し、それらを貯蔵穴に保存し、土を焼いて土器を作り、採集物を煮炊きし、不要となった物を貝塚に捨てて、日々、食程と安全を確保しっつ大動物に頼らない生き方を獲得したとおもわれる。
 つまり、定住を果たしたのである。
(上田 篤 著 『縄文人に学ぶ』より)




No.863 『インターネットを探して』

 この本は、おもしろかった。その視点ととらえ方がとてもユニークで、今まで読んだインターネット関連でも秀逸だと思いました。
 しかも、この本の出版が、ミステリーやFSものが得意な早川書房というのも頷けました。まさに、私もインターネットを始めたころは、なぜ世界と簡単につながるのか、不思議でした。まさに現代版ミステリーです。もちろん、理論的には納得できるのですが、それがしっかりと分かっていたかというと疑問でした。
 そもそも、この本を書くきっかけになったのも、自宅のパソコンのケーブルをリスにかじられてインターネットができなくなったことから、その物理的なものとしてのインターネットとはなんだろうか、と考えたところから始まります。
 そして、下に抜き書きしたように、ネットワークを構成するインターネットを3つの領域に分け、現実に見える機械とそれらの信号が通るケーブルとそのケーブルを設置している実際の場所というように、五感を使ってわかるインターネットを探しに出かけたのが本のテーマです。だから、確実に見えることだけですから、とても理解しやすいわけです。
 この本を読んで、とくにびっくりしたのは、その見える範囲内だけでも、とてつもなく多量の電気を使うということです。もちろん、自分のパソコンでも、冷却するためにCPUやPCケース、さらには電源にもファンが付いて四六時中回っています。最近では、ビデオカードにもほとんどファンが付いています。だから、熱に弱いということは分かっていましたが、たとえば、規模の大きなデータセンターでは使用する電力は小さな都市の照明をまかなえる50メガワットにもなるそうです。だから、2010年のグリーンピースの報告では、世界の電力使用の2%はこれにデータセンターによるものだそうです。
 もちろん、インターネットをするための他の施設でも、巨大なクーラーが常時回っていて、それがとんでもなくこの地球上に散らばっているわけですから、その電力使用量もすごいはずです。
 ケーブルでつながっている、というのは漠然とですがわかっていました。というのは、私がインターネットを使い始めたころは、電話回線を使っていて、とても写真など送れるような速度ではありませんでした。ワープロソフトで作成した文章より、テキストで送ったほうが早いなどという時代です。このころのことも書いてあり、とても懐かしく読みました。そもそもTCP/IPが標準化されたのが1983年正月ということですから、いわばそれがインターネットの黎明期でもあります。私が使い始めてからでも20年ほど経っています。まさに、インターネットの世界は、とてつもなく大きく広がってきたということになります。
 これは、とてもおもしろい本ですし、いままでなんとなく解せないことも、少しは納得できるようになるかもしれません。
(2013.9.5)

書名著者発行所発行日ISBN
インターネットを探してアンドリュー・ブルーム 著、金子 浩 訳早川書房2013年1月25日9784152093530

☆ Extract passages ☆

ネットワークを構成するインターネットは、三つの重なりあう領域に存在していると考えられる。まず論理的な、つまり電子信号が移動する魔法のようで(ほとんどの人にとって)不可解な領域。次に物理的な、つまり機械とそれらの信号が通っているケーブルの領域。そして地理的な、つまりそうした信号が届く場所という領域。論理的な領域にはいるには高度な専門知識が必要とされる。ほとんどの人は、この領域をプログラマーとエンジニアにまかせている。それ以外のふたつの領域」物理的領域と地理的領域は、完全になじみ深い世界の一部だ。五感を使ってアクセスできる。ただ、ほとんどの場合、それらは人目につかない。それどころか、物理世界と電子世界の隙間についての先入観が、それらを見るのを邪魔するのだ。
(アンドリュー・ブルーム 著 『インターネットを探して』より)




No.862 『「家訓」から見えるこの国の姿』

 「家訓」や「社訓」などを調べたことがありますが、その他に遺言みたいな「遺訓」などというものもあります。もともと、「訓」という文字は、言と川の会意兼形声だそうですが、もともと川というのは難所やしこりを貫通して流れることで、訓とは言葉で何台をほぐして通すという意味になります。
 つまり、自分が経験したことなどを基に、なんとか次の世代に教えや戒めなどを書き記し、残そうとしたものです。
 それは、おそらく、下に抜き書きした理由などがあるでしょうが、うがった見方をすれば、書き残そうとした自分がこんなにも大変なところから努力して今がある、みたいな自己顕示も見え隠れします。
 ただ、著者が「さまざまな時代にそのような願いを持って、それぞれの厳しい現実に処し、そのなかから獲得したものを何とかして次代に伝えようとして生きた人々の声に耳を傾けようとすることは、我々がその願いを実現させようとするために取るべき望ましい方法の一つであるように思われる。このことをおこなうことによって、我々は今現在どのような現実に向かい合わされているのかということを確認することができるようにもなるからである。多くの「家訓」が語りかけてくるそれぞれの声に、耳を傾けていただければと思う。」と最後に書いていますが、家訓がつくられたその時代を暗に物語っているようです。
 やはり、応仁の乱にはそれなりの処世訓があり、太平の江戸時代にはそれなりの生き方があります。また、明治のような大変革のときには、それに合わせざるを得ないことも多いと思います。だから、家訓も少しずつ書き換えられたり、新たに書き加えられたりした可能性もあります。それでも、つくられた当時から、そのままというものもあるかもしれません。それこそが、時代が変わっても、変わることのない大切な教えです。
 この家訓から見えてくるものも、いろいろあると思います。
 いまの時代のように、先が見えないときこそ、このような家訓などに耳を傾けることが大切なような気がします。
(2013.9.2)

書名著者発行所発行日ISBN
「家訓」から見えるこの国の姿(平凡社新書)山本眞功平凡社2013年5月15日9784582856804

☆ Extract passages ☆

彼らが「家訓」を残すための筆は明らかに、それぞれに迎えた危機的な状況のなかで、自家や一族の将来に明確な見通しが持てなくなった事態への必死の対応として執られるものなのである。
 だが、そうした「家訓」が成立するためには、もう一つの条件が備わっていなければならないだろう。それは、将来に明確な見通しが持てなくなった状況ではあっても、ここで何らかの方策を講じ、その方針を徹底すれば、自家や一族の存続が可能となる、という確信である。これがあるからこそ、人々は自らの経験にもとづ.いた教戒を、知恵をしぼり、かなりの手間隙をかけてまでも「家訓」という形で後代に残そうとするのだと言える。
(山本眞功 著 『「家訓」から見えるこの国の姿』より)




No.861 『口説きの技術』

 著者の名前を聞いて、「あのダブル不倫の」と思った人は多いかと思います。大桃美代子さんと離婚が成立する前から麻木久仁子さんと交際していた、あのことです。
 でも、私はAPF通信社社長の肩書きに、そういえばミャンマーで取材中に兵士に銃撃され亡くなられた長井健司さんのことを思い出しました。彼は、APF通信社の記者だったからです。ほかに何人記者がいるかどうかさえ分からないのですが、この事件はとても印象に残りました。そして、ミャンマーという国の現状も知りました。ところが、今年の2〜3月に実際にミャンマーを訪ねて、このどこであの凄惨な事件が起きたのかさえわからないほど、街は平穏な印象でした。
 著者のこの二面性はどこからくるのか、あるいはそれは同じことなのか、ちょっと不思議な気持ちで読み始めました。「はじめに」というところで、「女性を口説くということ、世間を口説くということ」、それは同じだといいます。つまり、それは大枠においてそれほど変わることではない、といいます。
 たしかに、「聞き上手」とか「相手を安心させる笑顔」とか、仕事にも当然必要なことで、この本のテーマが「交渉術」というのもうなづけます。人に自分というものを分かってもらうためには、まず、相手を知ることです。それもまた、当然なことです。
 でも、第4章のなかで、「プライドを捨てる」と書いてあり、これはどうも納得できない、と思いました。「プライドを捨てることによって貫ける信念というものもある」といいますが、プライドのない信念なんて、それは信念ではありません。人間からプライドを捨て去ったら、生きる意味もなにもなくなってしまいます。
 プライドを捨てて、人受けがいいなんて思われるより、自分は自分という確固とした信念を持つ方が潔いと思います。それでは戦場では生きられない、というかもしれませんが、それでもいいと思っています。
 「笑顔」と「プライドを捨てる」ということには、なんの関係もありません。
 下に抜き書きしたのは、笑顔の大切さに言及したところですが、これはなるほどと思います。出会った瞬間に最高の笑顔を見せる、これはとても大事なことだと思います。笑顔で挨拶できるのは、人間だけだといいます。もし、言葉がわからなくても、笑顔で接することができれば、それだけでもコミュニケーションは成り立ちます。
 この本のおもしろさは、その笑顔の大切さを説いているところではないかと、思いました。
(2013.8.30)

書名著者発行所発行日ISBN
口説きの技術(角川oneテーマ21)山路 徹角川書店2011年12月10日9784041101063

☆ Extract passages ☆

 出会う前の準備などは考えず、出会った瞬間に最高の笑顔を見せることが最高のスタートです。
 理屈で物事を考えすぎず、まず安心感を持ってもらう。
 そういうあり方が、人と付き合いはじめる際の理想的な第一歩です。
 女性とうまく交際できないような人は、仕事もできないと私は考えています。
 人と付き合う、人を口説く――ということに関しては、仕事も恋愛も、本質は変わらないからです。
(山路 徹 著 『口説きの技術』より)




No.860 『一生に一度は泊まってみたい奇想天外ホテル』

 この本は、どちらかというと写真集のような装丁で、とても楽しく読めました。この世界には、こんなにも奇想天外なホテルがあるのか、と驚きもしました。
 もしかすると、驚かすのがこの本の主題なのかもしれません。
 それでも、取り上げられた30のホテルのなかで、ここなら泊まってみたいというホテルがありました。その一つは、フィンランド北部のラップランドにある「ホテル カクシラウッタネン」で、まさにオーロラをベットに横たわりながら見られるといいます。このオーロラを見に行った方に伺うと、夜中に寒いなかを立ち尽くし、首が上を向いているので痛くなり、もう限界だと思ったころに見え始めたと聞いたことがあります。それはつらいなあ、と思ったことがあります。  そういえば、天体観察も同じで、彗星を探して見ているうちに首が痛くなったことがあります。
 そのような苦痛をすることなく、暖かい快適な部屋のベットから見れるなんて、それはぜひ体験してみたいと思います。そのホテルの紹介を下に抜き書きしましたので、読んでみてください。おそらく、これなら泊まってみたいと思うはずです。
 もう一つは、一番最後に取り上げられていたギリシャのサントリーニ島の「ウインドミル ヴィラ」で、ウインドミル、つまりそのものずばり風車ホテルです。しかもこのヴィラは1,500平米の広さに2軒しかなく、それぞれ30メートルほど離れているそうです。しかも、それぞれに専用のプールやテラスがあり、3階建てになっています。1階はワンルームでリビングやダイニング、キッチンとして使われ、2階は寝室とバスルーム、さらに3階は台形の主寝室にバスルームもあり、どの部屋からもナクソス島やアモルゴス島、アナフィ島などが眺められるといいます。
 このホテルは、島の中心となるフィラと美しい町イアを結ぶ海沿いの道にあり、この2つの風車を残すためのプロジェクトの一環として建てられたそうです。
 まさに、長い風車の歴史とすばらしいエーゲ海の眺望を楽しめるホテルのようです。
 やはり、ここにも一度は泊まってみたいと思いました。
 もちろん、この他のホテルにも泊まってみたいですが、泊まってみたいと思うところは、ほとんどが自然環境のすばらしいところばかりでした。この本を見ながら、自分の好みが手に取るようにわかったように思いました。
(2013.8.27)

書名著者発行所発行日ISBN
一生に一度は泊まってみたい奇想天外ホテルディミトリス・コッタスエクスナレッジ2013年5月24日9784767815893

☆ Extract passages ☆

 近未来的なガラスのイグルーで、サンゴバン社のクオンタムガラスによるEガラスのテクノロジーを使い、リスト・エレポヒヤが設計した。ゲストは、この一帯の自然が織りなすマジックを存分に楽しむことができる。ラップランドといえばオーロラだが、もちろん各イグルーは、この幻想的な自然現象を満喫できるように考えられている。カクシラウッタネンは、8月の終わりから4月の終わりまで観測できるので、オーロラを楽しむにはピッタリだ。
 イグルーに使っているガラスと窓枠には、加熱システムが取り入れられているので、雪が溶かされて、どんな天気であっても空がはっきりと見える。室内も快適な温度に保たれているので、ゲストたちは息をのむほどのオーロラの光を、ぬくもりのあるベッドから楽しむことができる。吹雪の日でも、すばらしい景色が臨めるのだ。
 ホテルの敷地内には、さまざまな施設がある。その年ごとに建てられるスノーレストランでは、水晶のように澄んだ氷のテーブルで食事をすることができる。池のそばにある世界最大のスモークサウナは2つに分かれていて、計100名が利用できる。勇気がある人は、氷の張った池で泳いでもいい。
(ディミトリス・コッタス 著 『一生に一度は泊まってみたい奇想天外ホテル』より)




No.859 『マタギとは山の恵みをいただく者なり』

 マタギと聞き、今もそれを生業として生きているのだろうか、というのが正直な感想でした。もし、そうだとしたら、今の時代にさまざまなことを教えてくれるのではないか、と思いました。
 でも、読み進めるにしたがい、ある老マタギがいうように、熊を仕留めるのはハンターになってしまったというのもあながち間違いではないような気がしました。それでも、山菜やキノコを採って食べ保存するという技に、ある種のノスタルジアを感じました。
 著者の本業は写真家だそうで、多くの写真が掲載されているのも読みやすさの一つでした。また、熊やウサギなどの生肉の強烈な鮮やかさも、写真ならではのものです。これを文章で伝えるのは、とても難しいのではないかと思います。また、獲物を仕留めたときの写真も、妙に生々しいものです。さらにそれをさばく様子などの写真も、これからは貴重なカットになるかもしれません。
 著者は、はじめのところで「マタギ食堂にようこそ」と書いています。そして、「マタギのベースは山の民として生きる力にほかならない」と言い切っています。その源こそ「食べること」です。
 だから、この本のほとんどが食べることが中心に描かれています。
 読みながら、私も昔やった野ウサギのワナ獲りとかカジカの夜突きとか、思い出しました。今、こうして多くの写真を見ながら、懐かしく思い出しました。そのありふれた当時のことが、今では特殊なことになってしまいました。
 下に抜き書きしたのは、この本の終章「マタギの過去、現在、そして未来」の最後に出てくる老マタギの言葉です。山に住むには、山の掟があるだけでなく山を知らなければならないはずです。山を知って、その恵みをいただかなければ山で生きてはいけません。つまり、それらすべてを自分でやらなければならず、そこに楽しみを見つけなければ、やはり、山では生きられないのでしょう。知っているだけでは、ダメなのです。
 そこにこそ、マタギの生き様があるのではないかと感じました。
(2013.8.25)

書名著者発行所発行日ISBN
マタギとは山の恵みをいただく者なり田中康弘竢o版社2013年4月10日9784777926671

☆ Extract passages ☆

人工物に溢れて人もモノも金も激しく動く都心部は確かに豊かなのかもしれないが、阿仁とは大部質が違っている。
 すべてを周りの山々から集めて衣食住を賄ってきた先人たちの遺産を受け継ぎ、楽しみも与えられるのではなく自分たちで創造する。自分たちとは無縁の人や社会に振り回されることなく生きてきたマタギの名残が、私には心地良かったのかもしれない。
「天気が良い日は山をずーっと歩くのが好きだなあ。ここは何でも自分でせねばならねんだ。そうしねば何も楽しみがないからな」
(田中康弘 著 『マタギとは山の恵みをいただく者なり』より)




No.858 『人間、このタガの外れた生き物』

 この本を読まなくても、人間という生き物は、タガが外れてしまったのではないか、と思ってしまうことがよくあります。
 たとえば、子が親を殺したり、親が子を殺したりしたのをニュースで見ると、世の中、何かがおかしいと思います。あるいは、放射能物質の最終処分ができないのに、原発を造ったり、その事故が起きても、どうしようもないことが次々に起こってしまったりすると、これも何かがおかしいと思います。
 たとえば、この本のなかで、「エネルギーの分布と、エネルギーの量と、エネルギーの調達が、すべての世界戦略に関係していて、この世界はみんな、結局はエネルギーによって決められている。個人として一番重要なのは食べ物だけど、食べ物がそもそもどれだけできるかはエネルギーによって決められている。「エネルギーがどうなるか」というのが、この世界がこれからどうなるかという最大の問題だ。それによって、すべてのシステムが変わってしまう。」といいます。まさに、このエネルギー問題が、今の緊急の課題です。
 でも、何からそのエネルギーを調達するか一つにしても、たとえば太陽光や風力、波動、地熱だって、すべて一長一短があります。もちろん、原子力発電だって、福島第一原発の事故を考えれば、とてもいいとは言えないでしょう。むしろ、反対するのが当然だと思います。
 つまり、人間がこの地球の主人公になったかのような錯覚が多すぎます。その結果、これからどのように変化するのかさえ、推測が難しくなってしまいました。天気予報だって、数日の予報の精度はたしかに高くなっていますが、長期予報はあまり当たらなくなったように感じます。
 この本のなかで、ライオンは狩りがへたで、だからこそバランスがとれているという話が出ていますが、まさにその通りです。ライオンがいくら百獣の王だといっても、狩りがうまくて手当たり次第に食べてしまったら、ついには食べるものがなくなってしまいます。ライオンだって、ほかの動物たちがいるから生きていけるのであって、自分だけがあまりにむちゃくちゃなことをすれば、自滅してしまいます。
 下に抜き書きしたのは、アフリカにいたホモ・サピエンスが今から10万年前ぐらいに世界各地に散らばっていったときのことです。
 たしかに、この行動にはロマンがありますが、その結果、自然が次々と破壊されていったということでもあります。つまりは、人間というのは、その初期の段階から、自然破壊をする生き物だったということです。
 だからといって、このままでいいわけはなく、タガが外れているという認識から、次の新しいステージが始まるような気もします。まさに、アフリカを出て、新天地を目指したホモ・サピエンスのように・・・・・。
(2013.8.22)

書名著者発行所発行日ISBN
人間、このタガの外れた生き物(ベスト新書)池田清彦KKベストセラーズ2013年5月20日9784584124062

☆ Extract passages ☆

 今まで住んでいた所のほうが、餌のありかも狩りの場所も分かっているし、どこにフルーツがなるかなども、みんな分かっているわけだから、住みいいに決まっているのにもかかわらず、どこかに行くというのは、そうとう危険だ。それをあえて冒していくというのは、危機的な状況にならなければやらないと思うのだけれど、危機的な状況ではなくてもやったかもしれないとしたら、それは、好奇心があるということだろう。今だって「好奇心のある人」とか、「命を賭けて危険なことをする人」はいる。・・・・・でも、そういう人 がいたお蔭で、人類が、おそらく世界を席巻したのだろう。
(池田清彦 著 『人間、このタガの外れた生き物』より)




No.857 『今こそ日本人の出番だ』

 著者の本は何冊か読んでいますが、この本もとてもおもしろく読みました。副題は『逆境の時こそ「やる気遺伝子」はオンになる!』です。
 たしかに著者のいうように、今の日本人は自信をなくしているというか、日本の良さを評価しないというか、おそらく海外の人たちの日本人評価より、だいぶ低いような気がします。この本でも取り上げていますが、江戸から明治までの日本の評価は世界的にも高く、訪れた外国の人はその徳の高さにびっくりしたそうです。それなのに、今の日本のていたらくは目に余るものがあります。毎日のニュースを見るのもいやになるほどです。著者は、戦後の教育などの影響だと見ているようです。
 それでも、一昨年の東日本大震災のときより、少し流れが変わってきたといいます。日本人の冷静な態度や、「私」を最優先させない行動など、他人を思いやる気持ちが強く表れていて、海外の人たちをも感動させました。それこそが、本来の日本人の遺伝子だと、著者はいいます。
 このような遺伝子を持つ日本人こそ、これからの逆境の世界を救うことができるといい、このような本の題名が生まれたようです。
 日本人は、いい意味では、丸く収めてしまうところがあり、少しばかりの差異を気にしません。そこが一神教の世界と違うところです。一神教のように、自分の考えが一番で、それに同調させようとするから、摩擦が起こります。あるいは、些細なことから、戦争なったりもします。
 でも、違いを認めることは大事なことで、この本で紹介されていたのですが、「アフリカで、マラリアが流行って多くの村が全滅の危機にさらされる。しかし必ず生き残る人がいる。調べてみると遺伝子に異常があって、通常、赤血球は真ん中が凹んだドーナツみたいな形をしているのですが、その人たちの赤血球は草刈り鎌のように変形している。赤血球に異常があるから酸素を運ぶには適さないけれど、マラリアに打ち勝つ抵抗性を持ったのです。いいかえれば、もし、そういう人たちが存在しなければ、村はマラリアによって全滅していたかもしれないのです。」とありました。ここでは、遺伝子の異常も一種の多様性だといいます。
 つまり、長い人類の存続について考えれば、遺伝子の多様性は必要で、これは人間だけでなく、自然そのもの、あるいは地球そのものもそうだと思います。
 この本の最後に、「やる気遺伝子オン」になる方法を書いてありますので、それを紹介します。
○食事は日本食を中心に腹八分目、○早起きをする、○できるだけ動く、○笑う、○心がワクワクする生き甲斐を持つ、○寺社など聖なる場所に行く、○祈る。本気で祈る、○異性にときめく、○明るく前向きに生きる、○ビンチはチャンスと考える、○人を喜ばす、○社会のため、人のために働く、○サムシング・グレートに気づく、
 の13項目です。ぜひ、実践してみたてください。
(2013.8.19)

書名著者発行所発行日ISBN
今こそ日本人の出番だ(講談社+α新書)村上和雄講談社2013年3月19日9784062727945

☆ Extract passages ☆

 大自然の不思議な力を、マザー・テレサは「サムシング・ビューティフル」といいました。ヘレン・ケラーは「世の中でもっとも美しくて、もっとも素晴らしいものは、目にも見 えなければ、手にもふれられない、ただ心で感じるのです」といっています。その大いなる存在を感じとる感性を、日本人はごく最近まで持っていました。
 ひと昔前の日本には、「お天道様」という思想がありました。お天道様というのは太陽のことではなく、天地をつかさどり、すべてを見通している大自然の偉大な存在のこと。まさに、私のいうサムシング・グレートのような存荏です。
「お天道様が見ていますよ」
 かつて、日本の大人たちはそういって子どもたちをさとしたものです。だれが見ていなくても、お天道様は自分のしていることをきっと見ている。現代人の多くは、人様にバレなければ何をやってもいい、法にふれなければいいと思いがちですが、以前はこんなことをしたらお天道様に恥ずかしい、申し訳ない、という倫理観を持っていたのです。
(村上和雄 著 『今こそ日本人の出番だ』より)




No.856 『増補版 仏像学入門』

 旧盆だから、という訳でもないのですが、たまたま手に取ったのがこの『増補版 仏像学入門』でした。おそらく、その理由は、日本の仏像とインドや中国などの仏像との違いがなぜ生まれてきたのだろうかと考えていたからです。その雰囲気が違うだけだと、国民性の違いや好きずきなどで違ってくるのはわかります。でも、仏像の名前が違ったり、持ち物や印相が違うのはなぜだろうか、あるいは二臂と四臂、六臂、さらには十二臂などが生まれてくる理由など、いろいろと詳しく知りたいと思っていました。
 それと、インドやネパールに出かけたときに、何気なく求めてきた仏像が、もともとはどのように信仰されてきたのかを知りたいとも思いました。
 この本の副題は「ほとけたちのルーツを探る」ですから、それらの目的にちょうど合致したわけです。
 この初版は2004年2月27日だそうですが、しばらく絶版になっていたこともあり、この増補版が出たようです。でも、もともとはそんなにも書き換えなくてもよかったようで、必要最小限の訂正・補筆したみたいです。
 この本を読みながら、昨年12月にインドの仏跡を訪ね歩きましたが、そのときのことを思い出しました。とくにサールナート考古博物館の「初転法輪仏座像」は印象が強く、その前で数10分ほど動けませんでした。なぜ、「初転法輪」が大切なのか、なぜ「梵天勧請」が必要だったのかなど、いろいろと考えました。それをこの本では、『「梵天勧請」は仏陀となった釈迦が、苦しむ人々への慈悲の眼差し、つまり(救い)を決意したエピソードといえるのである』として前田恵学『釈尊』山喜房仏書林の説を紹介し、さらに『「梵天勧請」は、自己完結的な(悟り)ではなく、(救い)主としての仏陀の誕生を意味したといえよう』とあり、そのときに考えたことととてもよく似た感情でした。
 やはり、自分が悟っただけでは、おそらく今の世までお釈迦さまは伝えられて来なかったと思います。その悟りを多くの人たちに伝え、そこに多くの悩み苦しむ人たちを救うという優しいまなざしがあったからこそだと思います。だからこそ、そこにブッタを象徴する姿、つまり仏像が求められたように思います。
 下に抜き書きしたのは、たくさんの仏さまが生まれるようになった要因です。
 ちょっと専門的な本ですが、もし仏像にふとした疑問を感じたら、お読みいただきたい1冊です。また、NHK出版協会の『ブッダ――大いなる旅路3』もとても参考になると思います。
(2013.8.16)

書名著者発行所発行日ISBN
増補版 仏像学入門宮治 昭春秋社2013年5月20日9784393119068

☆ Extract passages ☆

 紀元前五世紀ないし前四世紀の釈迦の在世中には、釈迦の像はもとより、信仰対象の尊像や図像は何もなかった。釈迦が始めた仏教は絶対的・超越的な存荏を崇拝したり、それに帰依したりする宗教ではなく、自らの努力によって苦しみの世界からの開放を目指す哲学的な宗教であった。その意味で無神論ともいえるものであった。しかし、仏教が僧(比丘)のみならず一般の人々に受け入れられていく過程で、釈迦に対する信仰、また仏教の思想的展開、さらに信者が生きていた時代の仏教外の異宗教・異文化の受容、これらの要因が融合することで、信仰対象としての仏教諸尊が誕生し、形成されていく。
(宮治 昭 著 『増補版 仏像学入門』より)




No.855 『医者と薬に頼らない生き方』

 お医者さんその人が「医者と薬に頼らない生き方」の本を書くというのはとてもおもしろく、さらに添え書きが「医者だけが知っている」ということで、じゃあ、知っているなら読んでみようと思って読み始めました。
 さらに『新たにおさえておきたい16の「健康習慣」』という副題があり、やはり、この年になると、健康を考えるようです。「はじめに」のところで、イギリスのチャーチル元首相は、記者に「人生に勝つ秘訣は?」と聞かれて、「元気で長生きすることだ」と答えたと書かれてありましたが、たしかに、そうです。
 生きているから、生き方を考えられるわけです。死んでしまえば、医者とも薬ともおさらばです。
 でも、お医者さんがこのような本を書くって、すごいプレッシャーでしょうね。略歴を読むと、1995年の阪神淡路大震災が大きな契機になっているそうで、「21世紀の医療・医学を考える会」を仲間とともに発足させ、さらに2001年には本音で答えるウェーブサイト「e-クリニック」をスタート、広くすべての人々を対象に情報発信を続けているそうです。このような下地があるからこそ、まさに本音で書けたのではないかと思います。
 前作は『実はまちがっていた健康の「常識」』や『9割の病気は自分で治せる』ですから、その方向性は一貫しています。
 でも、おそらく、一番言いたいことは、副題の『新たにおさえておきたい16の「健康習慣」』ではないかと思います。やはり、健康な習慣こそ、長生きの秘訣だからです。「おわりに」のところで、「やはり、生きていることはただごとではありません。せっかくそんなただごとでない大チャンスに恵まれた私たちなのですから、元気に長生きをして、物見遊山よろしく人生を大いに楽しもうではありませんか。」と書いていますが、まさにその通りです。人生を楽しむ、という気持ちがなければ、精神的にだんだんと追い詰められてくるように思います。今日は楽しかった、今日もおもしろかった、という実感こそが大切です。
 下に抜き書きしたのは、腹式呼吸の方法です。これを毎日最低でも30回以上すると身体の緊張状態を強いる過度なストレスを緩和できるといいます。やってみると、意外に簡単な方法ですし、気持ちもいいので、ぜひおすすめします。さらに、この本を読めばいいのでは ないかと思います。
(2013.8.12)

書名著者発行所発行日ISBN
医者と薬に頼らない生き方(だいわ文庫)岡本 裕大和書房2012年12月15日9784479304142

☆ Extract passages ☆

 腹式呼吸は、単に緊張をほぐしてくれるだけではありません。習慣として毎日続けていくと、体温が上昇したり、リンパ球の数が増えたり、免疫力を有意に高めることもよくわかっています。
 結論から入ってしまいますが、1日に最低30回、できれば100固くらいやっていただくと、きっと皆さんの健康度は格段にアップするはずです。
 やり方はいたって簡単。まずは10秒くらいかけて、ゆっくりと口か鼻から息を吐いていきましょう。
 このとき、できるだけゆっくりと、体中の空気をすべて出し切ってしまうように、お腹も引っ込めて吐いていきます。
 吐き切ったら、今度はいつもどおり鼻から空気を吸い込みます。このとき、お腹が膨らむように意識すれば、腹式呼吸は完了です。あとはこれを繰り返すだけです。
 慣れてきたら、だんだんと吐く時間を延ばしていくといいでしょう。要は、長くゆっくりと吐き切るということだけを意識すれば、それでOKです。
(岡本 裕 著 『医者と薬に頼らない生き方』より)




No.854 『植物はそこまで知っている』

 植物たちは、人間と同じように、見たり聞いたりはできません。もちろん、著者も慎重に「知っている」と表現していますし、人間と同じようにはできないと考えています。それでも、この本の筋立ては、第1章「植物は見ている」、第2章「植物は匂いを嗅いでいる」、第3章「植物は接触を感じている」、第4章「植物は聞いている」、第5章「植物は位置を感じている」、第6章「植物は憶えている」となっています。
 そして、最後の「エピローグ」で、「植物性の知能」に触れ、一朝一夕に全員が共有できるとは思えないとしています。でも、問うべきは「植物は知っているのか?」であり、それならイエスと答えています。そして、「植物は光や色の微妙な違いを知っており、赤色と青色、遠赤色、紫外線を見分け、それぞれに反応する。植物は周囲に漂う香りを知っており、空中にある微量の揮発性物質に反応する。植物は何かに接触したときそれを知り、感触の違いを区別できる。重力の方向も知っていて、芽を上に、根を下に伸ばすよう姿勢を変えることができる。過去のことも知っている。以前に感染した病気や耐え忍んだ気候を憶えていて、それをもとに現在の生理作用を修正する。」として、だからこそ、この本を書いたようです。そのような植物たちと、どのように関わり合えば良いのかと問うためにです。
 だいぶ前に『植物の神秘生活』や『恋する植物』など、いずれも工作舎から出版されたものですがそれらを読み、本当かな、という疑問を持ったことがあります。それは、おそらく、人間と同じようにと考えたからそう思えたわけで、その流れからおおむね近いという程度で類推すれば、当たらずとも遠からずと考えたのかも知れません。今回読んだ本は、たしかにその程度の『植物はそこまで知っている』ということです。
 下に抜き書きしたのは「プロローグ」に書かれているものですが、このように考えれば、その生きる知恵はすごいものです。むしろ、動物のように動けないからこその知恵でもあります。環境を変えることができないからこそ、そこで生き切ることができるとも考えられます。
 もし、機会があればこの本を読んで、その生きる姿勢を学んでみてください。きっと、参考になることと思います。
(2013.8.9)

書名著者発行所発行日ISBN
植物はそこまで知っているダニエル・チャモヴィッツ 著、矢野真千子 訳河出書房新社2013年4月30日9784309252803

☆ Extract passages ☆

動物なら暮らす環境を自ら選ぶことができる。嵐が来ればそれを避ける場所を探し、食料やつがいの相手を求めてうろつき、季節の移り変わりに合わせて渡りをすることもできる。いっぼう、植物はよりよい環境に移るということができないぶん、気まぐれな気候に順応し、侵害してくる雑草や害虫に抵抗するすべを身につけなければならない。つまり植物には、変化する状況に合わせて生長できるよう、複雑な感覚機能と調整機能を進化させる必要があったということだ。たとえばニレの木は、何かの陰になつて日光を浴びられないというとき、光に向かって自身を伸ばす方法を知っていなければならない。レタスはアブラムシに食い荒らされそうになったとき、アブラムシを殺すような有毒物質をつくる方法を知っていなければならない。北米の太平洋側に生育するベイマツは、強風にへし折られないよう幹を頑丈にする方法を知っていなければならない。サクラはいつ花を咲かせればいいかを知っていなければならない。
(ダニエル・チャモヴィッツ 著 『植物はそこまで知っている』より)




No.853 『別冊太陽 寺山修司』

 「太陽」はときどき興味のある企画だと読んでいますが、『本のたび』では一度も取り上げてきませんでした。ところがうかつにも、昨年3月に亡くなられた吉本隆明氏とごっちゃになり、たしか吉本氏は米沢市内の現山形大学工学部に入学したから、そのときのことが書かれているかもしれないということで読み始めたのです。当然のことながら、米沢のことは出てきませんでした。でも、1983年5月4日肝硬変と腹膜炎のため肺血症となり47歳で逝くまで、ある意味、壮絶な生き方をしたことを追想することになりました。まさに、ひょうたんから駒みたいなものです。
 もちろん、読み進めるにしたがい、天井桟敷の活動などが今更ながらのように思い出され、その取り上げられる言葉にも時代を感じました。
 そうそう、たまたまですが、この雑誌を読むちょっと前に、『歌うヘッドライト 〜コックピットのあなたに〜』をシリーズを聴き始め、その「初恋」のディスク1のオープニングの次にカルメン・マキの「時には母のない子のように」の曲がありました。この曲は寺山氏が作詞(作曲は田中未知)したもので、それを聴きながら、学生の時の学園紛争や内ゲバまで、もう忘れてしまっていたときのことを鮮明に思い出しました。
 たとえば、「書を捨てよ、町へ出よう」(芳賀書店)を読んだことや、「60年代は、ガラクタばかり。そして、60年代とは、ガラクタのもっとも光り輝いていた時代でもあったのだ」という言葉までも思い出されました。
 さらに、「過去は1つの異国である」とか「もしかしたら、私は憎むほど故郷を愛していたのかも知れない」とか、次々と昔にメモった言葉が浮かんできました。
 下に抜き書きしたのは、「天井桟敷」のマニフェストのなかの1つです。これは知らなかったのですが、おそらく、その当時にこれらの言葉を読んだとしても、なかなか理解はできなかったのではないかと思います。
 とても、演劇の考え方の1つとしてもおもしろい考え方なので、ぜひ読んでみてください。
(2013.8.6)

書名著者発行所発行日ISBN
別冊太陽 寺山修司湯原公浩 編平凡社2013年5月4日9784582922073

☆ Extract passages ☆

・・・・・私は、台本というのは、読本ということではなく、地図のようなものだと考えたい。実際、地図の歴史は文字の歴史よりも古いといわれており、すでに先史時代にも人は「自分がどこにいて、どこまで出かけるのか」を知るために、図的記述を必要としたのである。図として記述された土地が、「足で踏みしめることのできる」範囲ならば歴史が領し、「足で踏みしめることのできない」範囲――たとえば想像された庭園、室内、そしてまた対人関係の荒野、密接した体温地帯といったものに及んだならドラマツルギーが領することになるのである。
・・・・・地図のさまざまな読み方が、出会いの偶然性を多様化するように、劇の台本もまた観客をふくむ演劇的な幻想の共有がトリップであり、内部領域と外化された地理とのあいだの往復のための案内図であるのだ、という認識を欠いてはいけない。
(湯原公浩 編 『別冊太陽 寺山修司』より)




No.852 『旅の根源史』

 お盆前の旅行シーズンに、たまたま見つけたこの本を読み、旅そのものにも歴史があると感心しました。副題は「映し出される人間欲望の変遷」とあり、たしかに旅にはいろいろな欲望があるものだと思いました。
 下に抜き書きしたのですが、今と違って、昔の旅は相当違っていたようです。今は行きたいから行くわけですが、昔は行きたくないけど行かなければならないようで、やはり、ちょっと切ないです。それは、相当な負担と危険があったからということもあったんでしょうね。
 そういえば、観光という熟語も最初に使われた明治時代には、『観光という熟語は、中国五経の一つ「易経」のなかの「国の光を見る。もって王に賓たるに利ろし」(=国の威光を見るために訪れ、その国王から賓客のもてなしを受け、その国事に力を致すがよろしい)からとられたこともあって、この光とは国の光を意味した。つまり国の栄華、威光を示すような場所、建築物、文化などである。だから観光は国のこのような見所の視察・見物を意味した。』とこの本には書かれています。
 でも、現在は娯楽が先行しているようで、むしろ日常生活から離れて開放的なな雰囲気を楽しむことのほうが優先されているような気がします。
 この本を全部読んでみて、旅って、時代によっていろいろあることがはっきりとわかりました。古くは防人も公務の国司も旅をしなければならず、さらには遣隋使や遣唐使も命をかけた旅でしたし、漂白の歌人だっていたわけです。そして、徳川時代には参勤交代も伊勢参りなどの巡礼も、間宮林蔵などの辺境の旅もありました。
 もちろん、徳川時代から明治時代にかけての海外使節団もあり、それぞれに旅は新しいものに出会い、今まで見えなかったものが見えてきて、自分も変わらざるを得ません。だからこそ、そこに旅のおもしろさがあるような気がします。
 この本のなかで、芭蕉の「旅人と わが名呼ばれん 初しぐれ」というのが載っていて、さていつ旅に出ようかと不安と期待に戸惑っている句がとても印象的でした。それと、「おもしろや 今年の春も 旅の空」も、いかにも旅を住処とする生活をしていたことがしのばれます。
 そのような旅に関するさまざまなことが書かれていて、つい、カードを17枚もつくってしまいました。それだけ、私も旅へのあこがれがあるのかもしれません。また、後ろにたくさんの参考文献が載っているので、おもしろそうな本を抜き書きしておいて、自分が旅をするときに、持って行こうかと思っています。
 今週読んだある雑誌には、個人旅は忙しいから本よりも音楽がいいと書いてありましたが、旅には絶対に本がいいと思います。むしろ、個人旅は本を読むぐらいの時間のゆとりが必要だと思っています。
(2013.8.4)

書名著者発行所発行日ISBN
旅の根源史田村正紀千倉書房2013年5月10日9784805110157

☆ Extract passages ☆

 現在では多くの旅立ちは自発的であり、旅人は期待に胸をふくらませて目的地に向かう。家を出立するやいなや、何ともいえぬ解放感に包まれる。旅の途中でも、目的地についても、そのまなざしは、日常生活では体験しなかった新しい、未知のものに向けられる。日常生活とはまったく異なる時間、空間に取り巻かれ、そのなかで非日常性を楽しむのである。居宅からの距離が離れれば離れるほど、この感がますます強くなる。
 防人の旅はこれとまったく逆である。・・・・・かれらの多くは後に残してきた、それまでの日常生活世界につねに後ろ髪を引かれている。引いているのは父であり母であり妻である。
 防人の歌は望郷の想いで満ちあふれている。
(田村正紀 著 『旅の根源史』より)




No.851 『シャーロック・ホームズはなぜ外見だけで人を見抜けるのか?』

 よく、人は外見だけではわからない、といいますが、この本は外見だけで人を見抜こうという立場で書いています。たとえば、やせ型は神経質だとか、肥満型は開放的な性格とかいいますが、これらはすべての人に当てはまるわけではなさそうです。でも、血液型と同じで、ある程度のタイプを示すのかもしれないと思い、読み始めました。
 たとえば、ブランド品を身につけるのはある種の劣等感の補償行為だといわれますが、そういう人もいるような気はします。でも、中には、そのデザインが好きだという人もいるはずで、ブランド品を買うのはこのような人だと決めつけるわけにはいかないようです。ただ、お金もないのにブランド品を買いあさるような人には、自分の社会的地位を高めて劣等感を克服したいという気持ちは強そうです。
 この本では、表情や姿勢、容姿からも人間性を見抜くとしていろいろ書いていますが、なるほどと思う面とそれは違うのではないかと思うところがありました。でも、それは違うといっても、もしかすると相手はそのように見ているかもしれないので、それはそれで考えておいたほうが良さそうです。
 そうそう、容姿というと、時代劇でよく出てくる昔の貴族の眉のない顔っていうのはとても不気味に感じますが、この本では、眉は感情や気分を表す機能をもっていると書いています。ということは、「眉を剃り上げている人や能面の表情を不気味に思ったり、恐ろしく感じたりするのは、本能的にも経験的にも人は眉に人の感情や気分が表れることを知っていて、眉がない人間はその表情を読み取ることができないから不気味に感じてしまう」のだそうです。たしかに、そうです。それと、お歯黒だって、不気味です。でもこの本は『シャーロック・ホームズはなぜ外見だけで人を見抜けるのか?』ということなので、日本の風俗習慣には当然のことながら触れてはいません。
 下に抜き書きしたのは、姿勢からうける印象ですが、これはなるほどと思いました。
 もし、気持ちから入っていくのが苦手なら、このように姿勢から、つまりは形から入っていくのも、ありだと思います。いまいち自分に自信が持てない人は、このようにまず姿勢を直すのも1つの手だと思います。
(2013.7.30)

書名著者発行所発行日ISBN
シャーロック・ホームズはなぜ外見だけで人を見抜けるのか?(宝島社新書)齊藤 勇宝島社2013年5月24日9784800205346

☆ Extract passages ☆

 このように自分の心理状態が姿勢を作るのです。しかし面白いことに、肩を丸めている人が無理をしてでも肩を後ろに引き、背筋を伸ばしてみると、言動も自然と堂々としたものになり、周りの評価も変わっていくのです。このように、実際に姿勢によって心理状態までも変化してくるのです。
 これを証明した実験があり、同じ仕事をするのでも、姿勢が良いときのほうが自分に自信が湧き、良い仕事につながるという結果が出ています。
 いまいち自分に自信が持てない人は、まず姿勢から改善するのも手でしょう。
(齊藤 勇 著 『シャーロック・ホームズはなぜ外見だけで人を見抜けるのか?』より)




No.850 『ビブリオバトル』

 この本の題名である「ビブリオバトル」って、わかる方が何人いるでしょうか。私は何が何だかわかりませんでした。でも、副題が「本を知り人を知る書評ゲーム」とあり、それで何となく読みたくなりました。
 このビブリオバトルという単語はもともとどういう意味なのか、ちょっと気になりましたが、著者がつくった造語だそうで、つけるときに持っていたイメージは、「特撮ヒーローモノの名前として、しっくりくるようなポップさ」だったそうです。
 この「ビブリオバトル」は、簡単にいってしまうと「本の紹介ゲーム」だそうです。公式ルールもあり、
 1.発表参加者が読んで面白いと思った本を持って集まる。
 2.順番に一人5分間で本を紹介する。
 3・それぞれの発表の後に参加者全員でその発表に関するディスカッションを2〜3分行う。
 4・全ての発表が終了した後に「どの本が一番読みたくなったか?」を基準とした投票を参加者全員一票で行い、最多票を集めたものを『チャンプ本』とする。
 というたった4つの項目だけだそうです。
 でも、これは最小セットであるそうで、たとえばレジュメを使ってはいけないということもここに入ってはいませんが、なるべく5分間でどう話すかが大切ですから、それに縛られることはよくないといいます。つまり、これは禁止、ということではなく、それをするとまず勝てないからやめた方がいいというポジションです。
 詳しくは、ビブリオバトル公式サイトもあり、「http://www.bibliobattle.jp/」で、検索エンジンでも検索できるそうですから、確認してみてください。
 その効用はといいますと、下に抜き書きしましたが、いろいろあるようです。著者自身が書いているのですが、「スピーチ能力を高められることに注目してビブリオバトルを始めたが、むしろ、他の人の新たな一面を観察できるのが最近は楽しい」とか、「面白いってだけでやっていたけど、最近本当に本を読むようになったよ!」とか、あるようです。
 しかも、この著者自身がこのビブリオバトルの発案者だそうで、ネット時代の新しい本と人との出会いが生まれるようにつくられているそうです。1978(昭和53)年生まれで、現在立命館大学情報理工学部知能情報学科准教授だそうで、理系らしくない本の紹介ゲームです。つまり、本というりは一人で読んで一人で納得するものだけれど、このビブリオバトルなら読書をみんなで分かち合えるということです。
 でも、本は文系も理系もなく、そういう意味では、多様性のある読書ゲーム理論かな、と思います。
(2013.7.28)

書名著者発行所発行日ISBN
ビブリオバトル(文春新書)谷口忠大文藝春秋2013年4月20日9784166609017

☆ Extract passages ☆

 ビブリオバトルの表面に現れる効果や目的は様々ではあるが、ビブリオバトルというゲームの裏には、一本の確かな軸が一つの哲学として通っている。数ある目的や機能、適用例などは、その表面的な現れなのだ。ビブリオバトルの設計の背後にある一貫した考えは「知識は人に紐付いている」ということだ。人格を持った一個人に知識が結びついているからこそ、ダイナミックな活動の中でしか、人が人を理解したり、人が人を通して知識を得たりする活動は促進されないと考えられる。そのような考えを知識の象徴としての書籍に当てはめ、設計されたのが「書評を媒介としたコミュニケーションの場づくり」、つまりビブリオバトルなのだ。
(谷口忠大 著 『ビブリオバトル』より)




No.849 『ことばの魔術師 井上ひさし』

 たまたまですが、岩波書店の本が続きました。
 そういえば、だいぶ昔の話ですが、私の知り合いに岩波書店の本しか読まないという強者がいました。もちろん、教科書は仕方ないでしょうが、それ以外の自分で選べる本は、すべて岩波書店から出版された本だけで、本棚にはズラーッと岩波文庫が並んでいたことを思い出しました。
 私もときおり上京した時には、神田神保町を訪ね、古本屋街を歩くのが好きです。そして、必ず岩波書店にも行き、まだほとんど人の手に触れていないような岩波文庫や岩波新書などを手にして、何冊か求めてきます。そのときの、インクのにおいがするようなまっさらの本は、手垢の付いた古本とは違ったすがすがしさを感じます。
 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、井上ひさしのこまつ座の演劇は、必ずチケットがまわってくるので、だいぶ観ることができました。また、再演も観る機会がありましたが、役者が違ったり、演出が違ったりすると、まったく新しいような芝居になることも知りました。演出家の鵜山仁さんの「稽古場から劇場へ」という文章のなかに、サッカーの試合と芝居とを引き合いに出して「芝居では、台詞がボールみたいなもので、そのボールの動きを巡って、サッカーならば11人、相手チームも加えると22人が様々な動きを繰り広げて、それが一体になって、有機的なアンサンブルをつくりだしています。そうでないと芝居は面白くならない、ゲームは面白くなりません。」と書いていますが、『人間合格』という演劇でそれを感じました。まさに掛け合いです。台詞のキャッチボールでした。
 そもそも、この本は世田谷文学館で2012年6月に「ことばの魔術師 井上ひさし」という本と同じ題名で各氏が講演されたものに、さらに7月7日にロジャー・パルバース「ひさしとわたし――35年のつきあいの中から」という題で同所で行われた講演を収録されたものだそうです。だから、聴衆に語りかけているようで、とてもわかりやすく感じました。
 下に抜き書きしたのは、阿刀田 高氏の「小説の書き手として、読み手として」のなかに出てくる箇所ですが、小説と演劇というものの違いを作者の側から指摘しています。なるほどと納得しましたし、両方やれるのはすごいことだとも思いました。
 もちろん、井上ひさし氏は、小松のご出身です。たとえ、読みにくい方言が出てきても、ルビを振られてなくても読めてしまいます。あの『吉里吉里人』でさえ、すぐに理解できるのは、同じ方言を使っていた同郷だからでもあります。
 ロジャー・パルバース氏も書いていましたが、もし2010年に他界せず、2011年3月11日を経験したなら、それについて何を書いたか、何を言ったか、それを何よりも知りたいと思いました。この本を読んで、さらにその思いを深くしました。
(2013.7.25)

書名著者発行所発行日ISBN
ことばの魔術師 井上ひさし菅野昭正 編岩波書店2013年4月23日9784000229241

☆ Extract passages ☆

小説というのは、一つのモチーフを軸にらせん状に集約されていく、つながりながら深く、一筋に入っていくのが普通の姿なんですね。井上さんは、その場面、その場面の面白さをどんどん散りばめていくんです。ちゃんと集約はするんだけれども、全体の構造としては、あまりいろいろなものが散りばめられてしまうと、らせん状に集約していくプロセスが散漫になってきてしまいます。
 だから、井上さんの小説というのは、面白い場面はいっばいあるし、「ああ、そうだな」と思わせられるところはたくさんあるんだけれども、なかなか小説的に、一つのらせんをたどりながらだんだん深まっていって、「ああ、そうなんだよなあ」というふうにはならないようなところがあるんです。芝居のほうは、どんどんそれをやっていい世界で、何カ所も途中で面白いところがあって、最後に「あ、そういうことが言いたかったのか」「うん、それもいいな」となっていく。それが芝居には適しているのだろうと思います。(阿刀田 高)
(菅野昭正 編 『ことばの魔術師 井上ひさし』より)




No.848 『旅立つ理由』

 表紙絵がおもしろい、と思って読み始めましたが、文章もアフリカや南米などの行ったこともないところがふんだんに出てきて、興味深く読み終わりました。後から、略歴を見たら、小説家で翻訳家、そしてラテンアメリカ文学の研究者だそうです。でも、そのような肩書きより、おそらくは自分で体験したものがベースになっているこの小説がおもしろかったです。
 著者が「熱帯の恋愛詩」と題したところで、「通り過ぎる車のラジオからはスぺイン語の歌と広告の断片が流れてくる。商店からは観光客目当ての正続的な英語が聞こえてくる。道端からは、動詞の活用形が省略されたクレオール英語が地を這うように響いてくる。明らかにカリブ海に着いたんだ、と彼は思う。ことばなんて、手近にあるものを適宜便利に組み合わせて使っていけばいい。人生は整理整頓されてなくていい。パッチワーク、寄せ集め、ミクスチャーでいい。」と書いていますが、言葉なんてほとんど話せなくても旅はできます。そこに行ってみたい、という強い気持ちさえあれば、あとは少しのお金も必要ですが、それだけで旅はできます。余計なことを考えると、旅に出るきっかけを失ってしまいます。
 その同じ題のところで、ケニア出身のアミーナが、「歩くというのは面倒なことで、つらいことで、必要や目的があるならばやるし、仕方がなけれはいつまででもやるけれども、必要がなけれはやらないに越したことはない、という行為だった」と書いていますが、なるほどと思いました。
 また、「どうしてジェラバを着ないのか」で、見知らぬ町で初めて飲食店に入るのは勇気のいることと書いてありますが、実は私も同じで、なかなかスーッとは入っていけません。さんざん考えて、とうとう食事を抜かざるを得ないことも何度かありました。自分と同じような思いをした方がいると思うと、ちょっとは心強く感じました。
 下に抜き書きしたのは、一番最初に掲載されている「世界で一番うまい肉を食べた日」のなかに出てくるもので、父親つまりは作者と息子のイタリア旅行の一コマです。おそらく、このような思いは、観光旅行に行くと出てくるのではないかと思います。
 でも、それはあくまでも観光旅行であって、本来の旅ではないような気がします。ここが見たい、と思ったら、そこに滞在すること、その時間の濃密さが大切だと思います。いや、だんだんと旅を重ねるにしたがい、そう思うようになりました。
(2013.7.22)

書名著者発行所発行日ISBN
旅立つ理由旦 敬介岩波書店2013年3月22日9784000258845

☆ Extract passages ☆

 観光旅行はひとたび始まると、見なけれはならないものが意味もなく増殖する。せっかくローマに来ているんだから、と父親はあっというまにきょろきょろしはじめ、次から次へと行き先を詰めこみだした。コロッセオを見ないわけにはいかないよな、ベルニーニの傑作も近くにあるんだし、『ローマの休日』の「真実の口」も、それに、やっぱりカラヴァッジオも……。
 フィレンツェに行くと、なおさら忙しくなった。ミケランジェロの聖地だからだ。ダビデ像を見て、メディチ家のために彼が作った墓所を見て、彼が設計した図書館を見て、彼が暮らした家を見て、彼の手になる数少ない油絵が収められている美術館を見て、そして、最後には彼のお墓、と予定は詰まっていた。なにしろ、「ミケランジェロを見に行きたい」というのがこの旅行の目的だったのだから。教会めぐり、美術館めぐり、列に並んで、古いものばかりを見てまわる。……せっかくイタリアに来たんだから。せっかくフィレンツェまで来たんだから……。
(旦 敬介 著 『旅立つ理由』より)




No.847 『私はコーヒーで世界を変えることにした。』

 飲み物の中で、緑茶に次いで好きなのはコーヒーです。昔は、コーヒー豆を買ってきて、自分でブレンドをし手動ミルで挽きながらドリップして楽しんでいましたが、最近ではブレンドされた豆を買ってきて、電動ミル付きドリップで手間暇をかけずに飲んでいます。もちろん、いつかは時間をかけて、もう一度、ゆっくりとコーヒーを楽しみたいとは思っていますが、なかなかできません。
 副題は「夢をかたちにする仕事道」とあり、著者は、子どものころからずっと中南米に行きコーヒー栽培をしたいと思っていたそうです。そのエルサルバドルに行くきっかけになったベネケ大使に教えられたのが「ストリート・スマート」ということだそうです。それは、『「どんなときでも何とかなる」、「どんな状況でも何とかする」、「常に楽しくおもしろく生きる」という生きるための心構えであり、生き抜くために覚えておくべき究極のポジティブ思考だった。さらに、それは「自分自身のためだけでなく、自分を必要としているすべての人のために、自分ができることはすべてする」という生き方でもあった。ベネケ大使は、自身の持てる能力やネットワークを必要としている人のために使うということ、そして、ネットワークは自分のためではなく、他者のために利用することで広がっていくということを教えてくれた。』といいます。
 人生はいい出会いで決まる、といいますが、まさにその通りでした。もちろん、自分自身の意思の強さも大事ですが、多くの人に助けられ、支えられ、そしてそれらを確実に自身で生かしていくということです。この本を読むと、そのような出会いがたくさんあります。その一人が欠けても、おそらくは今とは違った人生になってしまったような気がします。
 下に抜き書きしたのは、コーヒーをワインと比較しての思いです。たしかに、ワインは適正な評価をするソムリエが多くいますが、コーヒーはどちらかというと緑茶より価格差がはっきりしないような気がします。コーヒーはコーヒーであり、あまりにもありふれた飲み物です。おそらく、缶のコーヒーも入れ立てのコーヒーも同じコーヒーにち違いないのですが、私は別物だと思っています。そういえば、世界で一番おいしいコーヒーを飲みたかったら日本へ行け、という時代は過ぎてしまったようです。
 それを考えさせられたのが、この本です。もう一度、自分でゴリゴリと豆を挽き、ネルのドリップで漉し、お気に入りのコーヒーカップでゆっくりと楽しみたいと思いました。
(2013.7.19)

書名著者発行所発行日ISBN
私はコーヒーで世界を変えることにした。川島良彰ポプラ社2013年5月10日9784591134597

☆ Extract passages ☆

 コーヒーもワイン同様フルーツから作られ、ワインに勝るとも劣らない奥深い飲み物である。それなのに、コーヒー業界ではそうした市場を作ってこなかつた。日々の生活に潤いを与え、特別な日に華を添えることができるコーヒーはワインに匹敵するというのに。
 さらに、ワインはできあがったものを瓶に詰めて売る製品だが、コーヒーは生豆を輸入し、その後焙煎し消費者の元に届けられる原材料である。だから、同じ銘柄でも、挽き方や滝れ方を工夫すれば、家庭でさまざまな味に変化させることができる。
 コーヒーの酸味とコクは、スイーツやチョコレートとの相性がよい。豆によって酸味やボディの強弱、感じられるフレーバーの個性が豊かなので、どんなコーヒーにどんなスイーツやチョコレートが合うのかをいろいろと試してみるのもおもしろい。
 たとえば、ナッツ系のスイーツに合わせてライトに飲みたいのなら、荒く挽けばいい。甘めのスイーツなら、細かく挽けば深い味わいになる。
 このように、コーヒーは銘柄だけでなく、共に食するものに合わせた抽出方法でもマリアージュ(組み合わせのよさ)を楽しむことができる。
(川島良彰 著 『私はコーヒーで世界を変えることにした。』より)




No.846 『知の逆転』

 この本の「あとがき」の冒頭にバートランド・ラッセルの「必要なのは、信じるではなく、それとは正反対の、知ろうとする心である。」というのが書かれてありますが、それこそがインタビューをしたいと思った方々の生きざまであるように思います。
 同じそのページに、それらの方々を、「ダイアモンドは静謐にして鋭い室内楽、チョムスキーは鮮明にして華やかなオペラ序曲、サックスはカラフルで心地よいジャズ、ミンスキーは一つのテーマにクールに焦点を当てたソナタ、レイトンはドキドキするほど生きのいいロック、そしてワトソンはサイエンスを基にしたコンチェルト」と評していますが、全部読んでみると、私もそのように感じました。というよりは、そのような雰囲気で編集されたのかもしれません。
 彼ら6人は、まさにそれまでの学問の常識を逆転させたわけで、その意味からも『知の逆転』という題名もそこから生まれたようです。
 ある程度は、いわば常識程度は知っていたのですが、とくにトム・レイトン氏のアカマイ・テクノロジーズ社のことについては知りませんでした。しかも、ほぼ毎日お世話になっているインターネットのかなり重要な部分をしっかりサポートしていようとは、まさに陰の部分とはいえ、まったく知りませんでした。そして、その会社の設立に関しても、まさに秘話であり、さまざまな偶然もあったようです。
 下に抜き書きしたのはノーム・チョムスキー氏の言葉ですが、彼は現在はマサチューセッツ工科大学(MIT)を代表するインスティチュート・プロフェッサーで、名誉教授です。もともとは言語学者ですから、このような言葉が生まれるのです。
 たしかに、簡単に情報が手に入る時代ですが、むしろあまりにも多すぎて、その真偽を判断するだけでも困難です。また、あまりにも複雑になりすぎて、一人ですべてを考えるには、大変な時代です。そこに共同研究が生まれる素地があります。
 でも、最後に登場したジェームズ・ワトソン氏は、『成功したのは、よく考え、よく読み、よく知っていたからだと思います。ビジネスでも同じことが言えるでしょう。他の人が知らないことを知っていて、それがいいとわかっているので、利益に繋がる。私の大学院でのモットーは、「知識と判断をもって勝つ」ということでした。「生まれ」や「影響力」や「美貌」ではなく「知識と判断」をもって勝つということです。』と言い切っていますが、やはり集団と個の両方が大事だということでしょうか。
(2013.7.16)

書名著者発行所発行日ISBN
知の逆転(NHK出版新書)吉成真由美 インタビュー・編NHK出版2012年12月10日9784140883952

☆ Extract passages ☆

 世界事情も同じで、垂れ流しの情報があってもそれは情報がないのと変わりません。何を探すべきか知っている必要がある。そのためには、理解あるいは解釈の枠組みというものをしっかり持っていなければならない。これを個人で獲得するのはたいへんです。機能している教育制度や組織が必要だし、他の人たちとの交流が必要になる。視点というものが形作られ発展していくためには、構造を持った社会が必要になります。
 ちょうど科学分野における大学院のようなものです。MITの私たちの学部では、学生は個人で研究するということはありません。みなグループで研究する。何かアイディアがあれば、他の学生や教授たちと話をすることで、彼らからアイディアをもらい自分からもアイディアを提供するという、双方向の交流がある。仕事は共同作業であり、相互作用です。物事を理解するうえでも同じことが言えます。(ノーム・チョムスキー)
(吉成真由美 インタビュー・編 『知の逆転』より)




No.845 『ふしぎの博物誌』

 この本の副題は、「動物・植物・地学の32話」で、読んでいるうちになぜか関西圏の話しが多いなあ、と感じていました。読み終えて、執筆者プロフィールをみると、ほとんどが関西の研究者で、とくに姫路工業大学が多かったです。つまり、自分たちのフィールドから発信しているということで、ちょっと東北では知り得ないことなどもあり、一長一短なような感じでした。
 でも、身近でないからこそ興味がわくこともあり、読んでいて楽しかったです。
 たとえば、サイの化石について書いた三枝晴生氏の「夢の中の世界はおもしろい。なぜかというと、現実の世界では決して一緒にならないような、場所、事物が勝手気ままにつながりあい、しかも、夢を見ている本人は、そのなかで当たり前のような顔をしているからである。しかし、眠りから覚め、いまさっき見た夢の断片を拾っていると、なんともいえない不思議な気分になってくる。」といい、そのなかでは日本の風景も外国の風景がさまざまに組み合わさり、さらには登場する人物もいろいろで、そこにこそなんらかのヒントが紛れ込んだりするといいます。まさにこのような夢の中の話などは、ほのぼのとした研究テーマを感じさせてくれます。
 そういえば、だいぶ前の話ですが、大陸が動くというプレートテクトニクスの考え方は、読んでいた新聞紙が破れたその形から思いついたということを聞いたことがありますが、 下に抜き書きしたのは、ホットスポットについて発見したときの様子を書いたものです。この理論は、一昨年の東日本大震災で何度も取り上げられ、さらに最近でも大きな地震推測のときの説明にも使われ、一般化してきました。でも、地下深くで起こることが、なぜわかるのかと思っていましたが、やはり天才科学者のある種のひらめきがあったと知り、とても深く感動しました。
 やはり、自然はふしぎの塊です。1つ知るとまた1つ知りたくなり、そしてそれが連鎖反応するというのが自然のおもしろさです。
 このような本の東北版ができれば、すぐにでも買って読みたいと思います。
(2013.7.13)

書名著者発行所発行日ISBN
ふしぎの博物誌(中公新書)河合雅雄 編中央公論新社2003年1月25日9784121016805

☆ Extract passages ☆

 プレートテクトニクスの枠組みができあがったころ、すでにカナダのトロント大学のJ・T・ウィルソンはこのような壮大な地球のドラマが、数千万年から数億年単位で繰り返され、今日に至っていると考えていた。実証せよといわれてもとうてい不可能なこの壮大なドラマを、ウィルソソ・サイクルという。
 彼はまた、ハワイ海山列や天皇海山列と両者の折れ曲がりを、ホット・スポット(移動するプレートの下、上部マントルに固定されたマグマを生産する場所)を想定することにより説明した。そのとき、彼はソファーに座り、パイプをくゆらせながら、タバコの煙の動きからヒントを得たという。地球規模の科学の世界では、このような超人的な発想が科学の歩みを一挙に加速させるのだろう。(小林文夫)
(河合雅雄 編 『ふしぎの博物誌』より)




No.844 『街路樹を楽しむ15の謎』

 著者の本は、「イタヤカエデはなぜ自ら幹を枯らすのか」や「アセビは羊を中毒死させる」など、何冊か読んでいますが、その森林インストラクターとしての経験が生かされていると感じられ、とても楽しく読ませていただいています。
 この本もそうでした。街路樹は、日本全体で高木が約667万本(平成19(2007)年の統計による)あるそうですが、あまりにも身近な存在であるか、あるいは来るまでさーっと通過するだけなので気づかないのかどうかはわかりませんが、こんなにもあるというのが第一印象です。
 地元の米沢市内には、一般的なイチョウやシダレヤナギなどもありますが、最近は北国に多いナナカマドや冷温帯に広く分布しているヤマボウシなども植えられています。
 とくにナナカマドは、北海道の街路樹で一番多く植栽されているそうで、まさに北国の代表的な街路樹です。でも、樹木は、寒くなると内部の水分が凍ってしまい、枯れるのが多いのですが、寒冷地の植物は細胞内部の水分の糖度を高めて凍りにくくするそうです。そういえば、甘いものは凍りにくいのですが、それと同じような理屈です。たとえば、ナナカマドは−35℃までは凍らないといいます。さらに、道管(幹の中の水を吸い上げるパイプ)がのなかの水分が凍ったり溶けたりして気泡が発生し水を吸い上げる力が低下しても、道管以外にも水を吸い上げるバイパス的な器官を備えているというからびっくりです。
 あの冬の吹きさらしの道路に立ち尽くしているナナカマドをみると、ちょっとかわいそうになりますが、このような寒さに耐える力が備わっているとわかると、なぜか安心してしまいます。
 そういえば、一昨年の東日本大震災の際の大量のがれきをまだ処分もできずに残っている、と聞きますが、この本に関東大震災の時のがれき処理のことが載っていました。それは「平成8年に日本大通りの地下に駐車場を造ることになり、その調査のためにイチョウ並木の地下を掘削したことがあった。すると、地下1メートルのところから、大量の「震災瓦礫」が出てきた。震災で焼け野原となった横浜の中心地は、瓦礫の上に土を盛って、再建された街なのである。ちなみに氷川丸がある山下公園も、関東大震災で発生した瓦礫で海を埋め立てて建設した公園としで知られている。」とあり、放射能を帯びたがれきはできないでしょうが、それ以外のものは直近の再建のためには、このようなこともありではないかと思いました。
 まさに植物の力はすごいものです。
 あのすさまじいがれきでさえも、しっかりと根で抱え込み、地面を支えていたのです。
 これからは、当たり前のように植えられている街路樹を見ても、いろいろな感動があるのではないかと思います。そういう意味でも、この本をおすすめいたします。
(2013.7.10)

書名著者発行所発行日ISBN
街路樹を楽しむ15の謎渡辺一夫築地書館2013年4月25日9784806714545

☆ Extract passages ☆

 両者(ハナミズキとヤマボウシ)の祖先はハナミズキタイプの単果をもつ木で、広く北半球に分布していたのだが、その中から、ユーラシア大陸にヤマボウシタイプの複合果をつける突然変異が出現した。ユーラシア大陸のサル(ニホンザルの仲間であるマカク属)は、そのヤマボウシタイプの果実を好んで食べたために、よく種子が散布され、増えていったという。ヤマボウシタイプの果実は、赤くて目立つだけでなく、甘くて、サルにとっても食べやすかったのだろう。
 一方、北米大陸では、サルが赤色を識別できなかったり、ミズキ属の分布域とサルの分布域が重ならなかったりして、サルに食べられなかった。かわりに北米大陸では鳥がよく食べたため、鳥が食べやすいハナミズキタイプの単果が存続しっづけたという。
 ユーラシア大陸のサルは、長い年月をかけて、ヤマボウシが大きくて甘い果実をつけるように「品種改良」してきたといえるかもしれない。
(渡辺一夫 著 『街路樹を楽しむ15の謎』より)




No.843 『おどろきの中国』

 この本は、「まえがき」にも書いてありますが、「3人の社会学者が、中国という社会の原理について、中国の過去と現在について、今後の日中の関係について論じた鼎談である」といいます。そして、その鼎談の進め方は大澤さんと宮台さんが疑問を提起して、橋爪さんが応答するという形式が基本になっているそうです。ある意味、だから読みやすかったのかもしれません。つまり、常々疑問に思っていたことを明快に答えてもらえるからです。
 たとえば、毛沢東やケ小平などの中国のリーダーは軍の力や共産党員の支えだけを後ろ盾にしているのかと考えるとそうでもないようで、それに対する答えが「トップリーダーは、有能でなければならない。儒教が禅譲を理想としていることからもわかるように、これは、中国の人びとにとって、第一公理なのです。でも現実には、トップリーダーは世襲される。世襲なら、有能とは限らない。ではどうする。それならブレーンが、有能でなければならない。君主の手足となって働く行政官僚が有能ならよいのです。トップリーダーとブレーンが、全体として有能ならいい。これは、中国の人びとにとって、第二公理なのです。」とあり、なるほどと思いました。つまり、昔の科挙のように有能な行政官僚を養成するのが儒教というわけです。
 また、漢字にも秘密があり、それを書き抜いたのを下に載せました。おそらく、漢字という言葉をこのように解釈するのは、相当中国に詳しくなければできないと思います。また、言われてみれば、そのような側面もあると思いました。
 現在、日本と中国の関係は冷えているというのが大方の意見です。実際の統計でも、2010年の時点で中国に対する親近感は、「親しみを感じない」というのが77.8%(内閣府大臣官房政府広報室「外交に関する世論調査」より)といいますから、日本の対中感情はよくないと思います。
 でも、今の中国との関係をこのまま冷えたままでいいのかというと、おそらくほとんどの方がそれでは困ると考えているようです。
 この本には、中国人のものの考え方やこれまでのいきさつなどを詳しく書いてありますので、とても参考になります。ここに書かれてあることを念頭において改めて中国というものを考えてみると、多くのことがすっきりと整理できそうです。
 やはり、いろいろなものごとがごちゃごちゃと頭に入っていては、どうも理解できません。交通整理が必要です。
 この本は、そういう意味では、とても役立つ1冊です。ただ新書版といえども、381ページもありますから、読むには時間がかかります。ほとんどの新書版は2〜3日で読み終わりますが、この本は5日ほどかかりました。
(2013.7.8)

書名著者発行所発行日ISBN
おどろきの中国(講談社現代新書)橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司講談社2013年2月20日9784062881821

☆ Extract passages ☆

漢字は、パソコンの絵文字かアイコンみたいなもので、それをどう読むかは、ローカルな言語共同体の勝手なんです。
 飛行機で中国映画に、漢字の字幕がついているでしょう。広東語の映画は字幕がないと、北京語の人にわからない。北京語の映画は字幕がないと、広東語の人にわからない。漢字の字幕は、どちらの言葉でも読めるんです。
 ということで、漢字による言語共同体ができあがった。漢字はすばらしい発明で、いいことずくめみたいですが、欠点もある。この共同体で、漢字を使える人のコミュニケーション能力はきわめて高くなり、統一政府も構成できる。でも、漢字を使えるのはほんのひと握りの人びとに限られる。漢字の数は概念の数だけあるわけだから、とても多い。そして漢字は、習得がきわめて困難。そこで大多数の人びとは文字が読めないままになって、大きな情報ギャップが生まれる。これが儒教の、ひと握りの官僚/大多数の農民、という構図として固定化する。農民ほ、反抗しようにもそもそも、団結できない。少し遠方の人びととは、言葉が通じないから。これが、漢字の秘密なんですね。(橋爪大三郎)
(橋爪大三郎×大澤真幸×宮台真司 著 『おどろきの中国』より)




No.842 『薬草の科学』

 「おもしろサイエンス」の1冊で、薬草をわかりやすく解説してあり、とてもおもしろく読みました。
 表紙に、「薬草は医薬品やサプリメントの原料として、人類文明と長くて深い関わりをもっています。現代医学でもその効能・効果が見直されており、世界的な需要増から資源確保が問題となっています。」と書かれていて、これがこの本のなかで、詳しく解説してあるわけです。
 なかでも、京都大学の霊長類研究所のグループがアフリカのカメルーンのチンパンジーの研究をしたときのことが載っていて、「毎日大量に食べる植物と、たまにしか食べない植物がありました。あるとき、ぐつたりとしているチンパンジーが、たまにしか食べない植物をたくさん食べだし、その後、元気になったことが観察されました。この植物を集め成分を調べると、寄生虫を殺す成分が見つかりました。その植物はキク科のヤンバルヒゴタイ属で、噛んで見ると苦く、食べにくいものでした。この苦い植物をチンパンジーは病気の時には食べていました。この苦い植物の葉を揉んでカメルーンの人は食用にしていました。葉を揉むことで苦味をなくすことを人類は会得したのでしょう。この成分を小清水弘一名誉教授が分析したところ、苦味成分にはステロイド配糖体とベルノダリンが含まれていることがわかりました。チンパンジーは毒性のない枝の髄の汁のステロイド配糖体を選んで飲んでいました。」ということです。やはり、というか、なるほどと思いました。
 おそらく、人間のほうが、野生動物たちの行動を見ていて、それを学習したのではないかと思いますが、とくに薬草などはその傾向があると思います。最近の薬学はもちろんそうではないのですが、昔から利用されている薬草は野生動物や原住民から教えてもらったことのほうが多いでしょう。
 だからこそ、2010年10月に名古屋で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で取り上げられたようなことが起こるのです。つまり、植民地時代やつい最近まで先進国の人たちが勝手に植物などの資源を持ち出して薬や食品の形で商品化し、大きな利益を上げているという不公平感、さらには自分たちが先祖代々地元で使っていたものなのに勝手に特許をとってしまい、利益還元どころか、お金を払わざるを得なくなるのではないかという不安まであるのです。
 薬草は、いわば自然からの贈りものです。その贈りものを一部の人たちが独占するようなことではなく、多くの人たちの健康に寄与するような形で使われることを願っています。
(2013.7.3)

書名著者発行所発行日ISBN
薬草の科学(B&Tブックス)佐竹元吉日刊工業新聞社2013年2月26日9784526070211

☆ Extract passages ☆

 西洋医学では病気の原因を追求し、その臓器のみに目が行きます。それに対して漢方では、病気になるのは体のバランスの乱れが原因と考え、治療はそのバランスを整えます。診断も局所だけを見ることはせず、全人的な見方をします。漢方では診断時の患者の状態を「証」といいます。簡単に言うなら、「実証」は体力のある人、「虚証」は体力のない人で す。漢方薬はこの2タイプに応じて処方します。いわゆるオーダーメイド医薬品です。
(佐竹元吉 著 『薬草の科学』より)




No.841 『森の力 植物生態学者の理論と実践』

 著者を知ったのはそんなに古くではなく、2005年のNHKの「知るを楽しむ この人この世界」で、「日本一多くの木を植えた男」を読んでからです。もちろん、植物生態学者などということも知らず、ただ「日本一多くの木を植えた男」ということに興味を持っただけでした。
 でも、それを読みながらも、あまり学者というイメージはなく、むしろ木を植えたという実践のほうに目が向いていました。
 その後、新潮選書の『木を植えよ!』などを読み、そして今回の『森の力』を読み、学問的な裏付けがあり実践されてきたことに強い感銘を受けました。とくに、1989(平成元)年3月に完成した『日本植生誌』全10巻は、やはりフィールドワークなくしては絶対にできないもので、各巻約500ページ以上で、さらに各群落の完全な群落組成表の別刷と12色刷り50万分の1の現存および潜在自然植生図をも加えてあるそうです。その重さが、なんと、35キログラムにもなるそうで、機会があれば見てみたいと思いました。
 だから、そのような裏付けがあるからこそ、自信を持っていろいろな提言ができたり、実践できるのだと思います。そして、それが何年か、何十年か後には現実のものとなり、さらにそれが大きな活動の輪につながっていくというわけです。
 先日、あるところでオオバコの話しをしましたが、このオオバコも人や車に踏まれてしまうようなところに多く自生しています。でも、むしろそのような過酷な環境だからこそ、競争相手もなく、生き残れるわけです。著者は、「植物群落を含めた生物社会では、生理的な欲望がすべて満足できるところは競争も激しい危険な場所。むしろ、少し我慢を強要される状態こそが長持ちするための最適条件だということを植物社会の長い進化の歴史が教えてくれます。健全な生存、生活を維持するための最高条件と最適条件は異なるのです。」と書いていますが、まさにその通りだと思います。
 とくに、東日本大震災があってから、防災の意識も格段に高まりました。あの巨大な防波堤が、ものの見事に崩れ去ってしまうのですから驚きです。やはり、著者が言い切っているように「防災・減災の基本は、非生物的な人工の材料と何千年もそこに生き続ける緑の構築材料をどう使い分け、使い切っていくかにかかっています。死んだ材料は当然生き抜こうとはしません。一方、生きている緑は自ら必死になって生き抜こうとします。ここに大きな違いがあるのです。」と、緑の森の必要性を提言しています。その典型が、下に抜き書きしたような日本古来の鎮守の森です。
(2013.6.30)

書名著者発行所発行日ISBN
森の力 植物生態学者の理論と実践(講談社現代新書)宮脇 昭講談社2013年4月20日9784062882040

☆ Extract passages ☆

 典型的な多層群落の森である日本古来の鎮守の森。そこは、地域住民の心の拠り所であり、災害時には防災避難地としての機能も果たしてきました。古くから、自然災害が多発する日本列島における国づくりと安全保障の根幹を成してきたのかもしれません。
 日本人もまた、生活のためにと森を切り開いて田畑や村や町をつくってきました。ですが、世界で唯一日本人だけが森を皆殺しにはしなかった。鎮守の森をつくり、残し、守ってきました。「ふるさとの木によるふるさとの森」を守ってきました。しかし、第二次世界大戦後、私たちはそのことを忘れてしまったのではないでしょうか。
「いのち」を守る「ふるさとの森」づくりとは、二一世紀の鎮守の森を再生するための取り組みです。それはまた、日本人の心と魂を取り戻すための活動なのです。
(宮脇 昭 著 『森の力 植物生態学者の理論と実践』より)




No.840 『岩合光昭と 動物園・水族館を歩く』

 今年の4月初旬の春休みのときに、孫といっしょに仙台市の八木山動物公園に行ってきました。本物のゾウの大きさにびっくりしたり、キリンの首の長さに驚いたり、孫にとっては忘れられないいい体験をしてきました。
 そんなことがあって、この本を見つけ、パラパラと読んでみると、その八木山動物公園で見たインドゾウやアミメキリンなどが生き生きとした写真で紹介されていました。おそらく、その顔つきを見ても、同じ動物たちに違いありません。なんか、それだけでも親しく感じるから不思議なものです。それで、読み始めたようなものです。
 知らなかったのですが、仙台市八木山動物公園は東北でも一番大きな動物園だそうで、著者がホッキョクグマを撮っている写真は、私も似たような構図で撮ったことを思い出しました。おそらく、何時間もかけて動物園や水族館のなかで撮っているはずですが、それにしても、よくこのような自然な雰囲気で撮れるものだと感心してしまいます。また、行きたいといわれているので、この次にはこの本を参考にして、表情豊かな生き物たちを撮ってみたいと思っています。
 下に抜き書きしたのは、「おわりに」のところの部分で、著者の撮影観のようなものが言い表されているように思いました。この文章の後に、『「自分はセイウチに似ているかもしれない」とまで思った・・・・・』とありますから、セイウチもその表情もとても気に入り、夢中で撮りまくったようです。
 写真は、その情熱というか、良い写真を撮りたいという思いみたいなのが、とても大事だと思います。私はほとんど動画は見ないのですが、写真などの静止画のほうがなぜか記憶に残るような気がします。
 その撮ったときの思いが、こちらにも強く伝わってくるからかもしれません。
 あるいは、一瞬を止めた写真だからこそ、その一瞬に込められた思いが伝わりやすいのかもしれません。
 もう、1ヶ月ほどで子供たちの夏休みが始まりますが、動物園や水族館に行ったときには、この本を参考にして、思い出に残る写真をぜひ撮ってほしいと思います。とてもわかりやすく、解説してあります。
(2013.6.27)

書名著者発行所発行日ISBN
岩合光昭と 動物園・水族館を歩く岩合光昭朝日新聞出版2013年4月30日9784022510693

☆ Extract passages ☆

この1枚というのは、その人それぞれに必ずあるものです。たくさん撮って、上手に撮れた写真がほかにあっても、「でも私はこの1枚がいちばん好き」っていう1枚が、絶対にあるものです。
そういう写真は、決して目指している写真ではなくて、偶然のチャンスであり出来事がもたらすもの。
光の当たり方、そのときの顔の表情・・・・・。自分が意図しない美しさにのまれたとしか言いようがありません。
撮影した日は、ずっと寝床につくまで、この日のセイウチの表情が脳裏を離れませんでした。
(岩合光昭 著 『岩合光昭と 動物園・水族館を歩く』より)




No.839 『植物はヒトを操る』

 この本は、少し前に求めていたものですが、たまたま今月3日から17日まで市立図書館が蔵書点検のため休館で、借りていた本をみな読んでしまい、この本があることを思い出しました。もちろん、気になって求めていた本ですから、あっという間に読み終えました。
 また、対談ですから、テンポが良く、難しい言葉を使っていないということで読みやすいということもあります。竹下大学は千葉大園芸学部卒業後キリンビールに入社後、花の育種プログラムを立ち上げた方で、いわば育種家です。まさに植物との関わりが深く、下にも抜き書きしましたが、育種にはある種のインスピレーションが必要だと思います。
 それと、いかに多くの原種を持っているかも大切なことで、「野生種は地球上から絶滅しない限り残っていますから、たとえばキャベツの野生種が残っていたら、そこにはいまのキャベツの全遺伝情報が眠っているということです」というように、野生種はとても大事なものです。
 普通に栽培するには、やはり園芸種の方が花も大きく、見栄えもよいことから、栽培されます。でも、それらは育種家やアマチュアの方が手を加えたもので、自然のものではないのです。
 そういえば、遺伝で有名なのはメンデルの法則ですが、この育種でも大切なことだそうです。竹下さんは「交雑育種で品種改良を行う場合、育種家は交配してすぐの子の世代よりも、孫の世代に期待しています。子供には親の長所も短所も出てしまいますが、孫の代では両親が持つ遺伝的特性全部がシャッフルされて表れるんですね。だから、孫をたくさん育てれば、一人ぐらいはおじいちゃんおばあちゃんの良いところだけを併せ持ったすごい孫が現れるかもしれない。これが園芸的に価値ある新品種になります。」と話しています。
 私も少し実生をするのですが、やはり親から種子を採取し、それを蒔いても、なかなか親を超えるような良い花をつける個体はほとんどありません。でも、その次の世代、つまり孫の代になると、良いものが混じってきます。この山形県の天童市でアズマシャクナゲの白花を実生から作り出した方がおられますが、やはり孫の代の種子から、さらに苗の段階で選抜をして、ほぼ98パーセントの確率で白花が出るようになったということでした。その実生苗を分けてもらいましたが、たしかに白花ですが、それにも個体差があり、何千株のなかから自分の好みの白花を探すのは、とても楽しく、おもしろかったことを今でも覚えています。
 ほんとうに植物がヒトを操っているのかどうかはわかりませんが、植物にある程度左右されるような気はします。
(2013.6.25)

書名著者発行所発行日ISBN
植物はヒトを操るいとうせいこう×竹下大学毎日新聞社2010年5月30日9784620319896

☆ Extract passages ☆

育種をする時に大事な言葉が二つあります。・・・・・・「表現型」と「遺伝子型」というのですが、表現型というのは、表面に表れている色や形などの特徴のことで、遺伝子型とは、どのような性質がどのように子々孫々に伝わっていくかという目に見えない特徴のことです。育種家はこの両方を見ていなくちゃいけない。
 同じ赤い花でも、タネを播いたらほかの色が咲く可能性があるのかないのか。草丈や病気への耐性などが子孫に遺伝するのか、しないのか。目に見えている表現型だけでなく、常に遺伝子型のこともよく理解することが僕らの仕事です。
(いとうせいこう×竹下大学 著 『植物はヒトを操る』より)




No.838 『つなぐ力 つながる作法』

 この本は、総合月刊誌『潮』の2011年11月号から2012年12月号まで掲載された「協調力――だれてせも見方にする方法」に加筆・訂正したものだそうで、この協調力のほうがわかりやすいような気がしました。最近の本の題名は、なかなか内容がわかりにくいものがあり、たとえば、最近のCMと似ているかも知れません。最後の最後まで読まないとわからないようなものです。
 著者は、もとは総理府に入省したキャリア官僚で、2007年からは昭和女子大の学長をされているそうです。そういえば、『女性の品格』というベストセラーもあり、この本も女性らしさがにじみ出ているように思いました。
 装丁は新書版程度の大きさで、手軽に持って読めますし、文章もストレートな表現なので、とてもわかりやすく、たとえば、「良い人間関係づくり」などはとても参考になります。また、夫婦や親子関係、さらには育児など、それぞれのアドバイスは的確で、それを各章の終わりに短くまとめられていて、それもわかりやすさのポイントではないかと思います。
 また、第6章の「社会をつなぐ」では、地域とのつながり、「老境」を豊かに生きるなどで締めくくっています。ここでも、ボランティアやサークルなどの難しさを実際の経験から指摘していますが、とくに団塊の世代が大勢老境を向かえると、それは大きな問題になりそうです。もともと、いつも競争をせざるを得なかった世代ですから、そこでもなんらかの形で競争原理が働き、それに嫌気をさす人も出てきます。それをしっかりまとめるには、有能なリーダーや世話役が必要になってきます。
 下に抜き書きしたのは、子どもの環境についてです。やはり、これも女性ならではの感覚で、たしかにそうだと思いました。
 もし、機会があれば、とくに女性の方に読んでいただきたいと思います。
(2013.6.22)

書名著者発行所発行日ISBN
つなぐ力 つながる作法坂東眞理子潮出版社2013年4月20日9784267019326

☆ Extract passages ☆

 子どもが親から離れて過ごすメリットの一つに、「親以外の大人と多様な人間関係を結べる」ということがあります。最近は核家族化が進み、祖父母と別居している家庭が増えています。しかし、親族や近所を排除した核家族だけの世界は、とても豊かな成育環境とは言えません。
 子どもたちは祖父母から昔話を聞き、行儀作法やしきたりを学びます。また、周囲の大人たちとの会話を通じて、一つの物事にもさまざまな見方があることを学びます。
 多くの大人と触れ合う中で、子どもたちは人間関係の結び方を学び、感情豊かで賢くたくましい人間に育っていくのです。何よりも、「親以外にも自分を愛してくれる大人がいる」という実感は、子どもの心を豊かにします。親に叱られたとき、友達とケンカしたときに受け入れてくれる場所がどこかにあれば、子どもはどんなに救われることでしょうか。
(坂東眞理子 著 『つなぐ力 つながる作法』より)




No.837 『僕は旅で生まれかわる』

 旅の本のほとんどは、旅先で読んでいますが、これも仙台に数日泊まるので書架からだいぶ前のものを持ち出したものです。前半の部分に読んだ記憶があるので、読み通せずにそのままにしていたようです。
 著者は2010年2月8日に多臓器不全でなくなっていますが、大法輪に連載中だった『良寛』は未完の絶筆となり、ちょっと残念でした。この本は、あちらこちらに掲載された旅つながりの小エッセイをまとめたもので、旅先で読むにはうってつけでした。というのは、なんの脈絡もないので、急に読むことをやめても、どこからでも読み続けることができるのです。いい意味で、著者の旅に似ていると思いました。
 そういえば、著者が初めてカトマンドゥに行ったときのことやインドのことなどは、私自身の旅とダブることもあり、ちょっと懐かしさを感じることもありましたが、そもそも旅はとても個性的なものですから、こんなにも違うように感じるのか、その差異がとても新鮮でした。たとえば、「ここは本当に象徴のあふれた町で、神様が、我々の感覚でいえば八百万の神様みたいなのが、人間の数より多いくらいにあっちこっちにいる。町を歩き回ると、一歩ごとに懐かしくも恐ろしい物の怪の住んでいるような薄闇がある。町中に神様がひしめいているなと思ったよ。そういう宇宙的世界のことについて語るうまい言葉を持ってないけれど、ただ、町の中を歩いて感じる、根源的な懐かしさみたいなのは何だったろうか。」などというのは、今でもまったくその通りだと思います。でも、「インドでは自然の妥協のない顔を都市にまで映す。都市とは人間にとっての自然な森林、つまり人工の世界であるが、インドの都市は天地の運行をそのまま感じさせるほどに自然である」などということはあまり感じない、というのが私の思いです。
 そうはいうものの、旅先で読むので、軽く字面を追っているということもあり、自分と同じことなら素直に「うん、うん!」といい、ちょっと違うと、サーッと読み進めてしまいます。それでは読んだということにはならない、と思いながらも、つい退屈しのぎで読んでいるので、そうなってしまうのかもしれません。
 下に抜き書きしたのは、旅についての考えで、これはなるほどと思いました。
(2013.6.19)

書名著者発行所発行日ISBN
僕は旅で生まれかわる立松和平PHP研究所1993年12月17日9784569542010

☆ Extract passages ☆

 旅とは、一人がいるところはせいぜい点で、いくら動きまわっても点と点とを結ぶ線にすぎない。子供の頃、雑誌に点がまるで無造作に散らばっているページがあった。点の脇には番号がついていて、番号順に点を結んでいくと、ライオンや馬や漫画の主人公や、いろんな形が浮かび上がってくる。点の数が多いほど、絵は精密になるというわけである。
 旅が点だというのは、そういう意味だ。旅をくり返すということは、点を少しでも多くするということなのだ。私の打つ点には番号がふってあるわけではないが、ここまで生きてきた成果として、ヤポネシアの像がぼんやりと浮かび上がってきたのだ。
(立松和平 著 『僕は旅で生まれかわる』より)




No.836 『清冽 詩人茨木のり子の肖像』

 だいぶ前の話ですが、自分で詩集を出したいと思い、ある自費出版社を訪ねたことがあります。でも、その高さにびっくりして、原稿も見せずに帰ってきました。今では、恥をかかずによかったと思っていますが、青春の思い出でもあります。
 この本のなかで、詩人は「青春は美しいというのは、そこを通りすぎて、ふりかえったときに言えることで、青春のさなかは大変苦しく暗いものだとおもいます。大海でたった一人もがいているような。」といったといいます。まさにその通りで、そのもがき苦しんだことが詩を書かせたんだと自分でも思います。
 でも、この詩人の詩のいくつかは知っていましたが、まさか山形県とつながりがあるとは思ってもいませんでした。このなかで、「それは藤沢の小説世界の地色ともなって流れているが、控え目だけが庄内気質ではない。冬場、吹きつける雪の中、あえて顔をそむけずに歩き進むのが庄内人という言葉を古老から耳にした。作家と詩人。棲んだ世界は隔たり、作風もテーマ性も異にするが、庄内平野を歩きつつ、通底する精神のいぶきのようなものを感じたものである。それは、時勢におもねることなき姿勢、寡黙ななか.に秘めた芯の強さ、単独の表現者として立つ潔さ、といった人としての原質である。」という箇所は、とくに庄内人の気質を現していて、それがよく読んでみると、詩にもあるような気がします。
 同じ詩人の評では、吉本隆明氏の「言葉で書いているのではなく、人格で書いている……この人の持っている人間性そのものが、じかに表現に出ている」というのが、いかにもという感じがしました。
 「あとがき」をみると、この本は「婦人公論」の2008年3月22日号から11月22日号まで、17回にわたって連載されたものが骨格となっているそうで、版も現在は4刷となっていて、多くの読者がいるようです。
 また、この本の最後の「そう、茨木のり子は静寂が好きだった」というのが印象に残りました。やはり、終わりよければすべて良しです。
 下に詩人が永瀬清子の詩を引用しながら女性と男性のことを書いてあるところを抜き書きしました。男性には、少しばかり都合の良い考えですが、たしかにその通りだと思いました。ぜひ、読んでみてください。
(2013.6.16)

書名著者発行所発行日ISBN
清冽 詩人茨木のり子の肖像後藤正治中央公論新社2010年11月10日9784120040962

☆ Extract passages ☆

 永瀬の詩を引用しっつ、茨木はこう書いている。
《男性は何歳になっても、わんぱく小僧時代と変わらないで、やりたい放題、ちらかしっばなし、どうともなれ式に息絶えます。そのぶざまさを人々の目から隠し、きれいなジ・エンドとして形を整えてあげ、水がいっぱいでもちきれない壷を抱えてゆくような悲しみに耐えるのが女の本当の仕事なのだと言っています。(中略)
 手ひどい死別の悲しみを味わった女性は「悲しめる友よ」から、きっと深い慰めを得るだろうとおもいます。もちろんこの中の男性には、父や男兄弟なども含まれてしまうでしょう。
 女は女一人としても存在理由があって、シャンと立っているべきなのですが、永瀬清子が表現したように、ずいぶん損な役まわりではあるけれど、男よりあとに残って悲しみを抱きとってゆく仕事も、たしかに女の仕事の重要な一部分なのだと、悟らされるのです》
(後藤正治 著 『清冽 詩人茨木のり子の肖像』より)




No.835 『文化の樹を植える。』

 前回に引き続き、今回も、私にとっては初めての出版社の本を読みました。とはいっても、このネコ・パプリッシングは1976年の創業で、主に「車、鉄道、おもちゃを中心に趣味関連の雑誌・書籍の発行を手掛け」ているそうで、そのような趣味に私自身があまり関心がなかったから知らなかったに過ぎないようです。
 でも、この本そのものは、『「函館 蔦屋書店」という冒険』が副題で、本屋をつくろうとするその企画そのものが本になっています。また、それがおもしろかったのです。
 函館といえば、北海道の港町で、100万ドルの夜景とか教会などの洋風建築などもあるところですが、そこに8,000坪もの大型書店を作ろうとするわけですから、すごい企画です。そして、この「函館 蔦屋書店」を1号店にして、このようなコンセプトで100店舗つくろうと考えているそうで、だから本の題名のような「文化の樹を植える」ということなのでしょう。
 この本の最初のところで、「いま、日本の"地方"は、その多くが退潮の危機に瀕している。かつての商店街は"シャッター通り"に変容し、消費生活の舞台はロードサイドの、効率的ではあるが没個性で画一的なスーパーなどに移行した。"街角"に存在していた地域のコミュニティは成立基盤を失って拡散し、人はそこで生じた空白の時間を埋めるために、例えばパチンコ店に集まる・・・・・・。そんな"地方"の日常のイメージを脱し、住人の力を引き出すような施設が創れないものか? それが「函館蔦屋書店」計画の原点にある想いだ。」と書いてあります。
 だから、この本の表紙に「地方都市の日常にルネッサンスを!」と書いてあるのだと思いました。
 都市には都市の良さがあり、地方には地方の良さがある、とはよくいいますが、ではなぜ今、地方都市の人口が減っているのか、それが問題なのです。むしろ、インターネットの普及で、都市部に住むより住環境のよい地方都市こそいいのではないかと思うのですが、それでも、なぜか地方都市の人口は減少傾向に歯止めがかかりません。
 この本のなかで、山形交響楽団の音楽監督である飯森範親氏は、地方にしかできないことがあるといいます。まさに名言です。
 下に抜き書きしましたので、ぜひ読んでみてください。
 そして、文化とは何か、をもう一度考えてみては如何かと思います。そのきっかけになる本だと、私は思います。
(2013.6.13)

書名著者発行所発行日ISBN
文化の樹を植える。楽園計画 編ネコ・パプリッシング2013年4月1日9784777053414

☆ Extract passages ☆

「例えば東京圏の人口は3000万以上。一方で山形市は30万に満たない。当然、文化基盤が弱い部分はあります。でもそれを言い訳にしても仕方ないし、愚痴っでも意味はない。その前提条件をどう捉えるか? その捉え方によって、行動は変わってくるのです。人口のことだって逆に考えれば、山響は20数万人の全員に、その存在を知ってもらうことだってできる。3000万人がひとり残らず知っているというのは、まずあり得ないけれど、20数万だったら可能性はあるでしょう。そしてそうなったら、今度は20数万を満足させられる演奏をしようという使命感が生まれ、楽団のクオリティが高まっていく。東京の楽団では、まず持ち得ないスパイラルです。地方の楽団にできて、中央の楽団にできないことだって、実は数多くあるはずなんです」
(楽園計画 編 『文化の樹を植える。』より)




No.834 『運のいい人、悪い人』

 「きずな出版」って聞いたことないな、と思っていたら、この本が最初の出版だそうで、しかも著者の櫻井秀勲氏が立ち上げた出版社だそうです。櫻井氏は、光文社に入社し、39歳で3人の仲間と祥伝社を立ち上げ、その後独立し、さらにまたまたこのきずな出版を立ち上げたわけですから、まさに出版界とともに歩んできたような方です。
 さらにもう一人の本田氏は、経営コンサルティング会社やベンチャーキャピタル会社などを経営する「お金の専門家」だそうで、2002年より出版活動をしていることから、ある意味、出版つながりの本でもあるようです。
 つまり、出版社としての最初の本で失敗を許されない企画でもあり、まさにいい運を得ようとするものですから、そのきずなの中から生まれたようです。副題も「人生の幸福度を上げる方法」で、一般向けの聞き心地の良いものです。
 でも、ところどころにいい言葉があり、たとえば「なにかチャンスがめぐってきたときに、計算しすぎると運を逃してしまうこともある」とか、「運の流れを変えたいと思ったら、自分でハンドルを握るしかない」とか、いろいろ考えさせられる言葉が出てきますから、興味があれば、お読みください。
 下に抜き書きしたのは、本田健さんの「人は誰でも本質的な才能を持っている」で10種類に分けているものです。やはり、自分の才能に気づくということが大切で、そのヒントになるのではないかと思い、ここに掲載させていただきました。ぜひ、参考にしてみてください。
(2013.6.10)

書名著者発行所発行日ISBN
運のいい人、悪い人本田 健、櫻井秀勲きずな出版2013年3月15日9784907072001

☆ Extract passages ☆

 (1) アーティスト
  自分の内なるイメージを自分なりの方法で、自由に表現できる
 (2) クリエイター
  新しいコンセプトや企画を考え、オリジナルなアイデアにあふれている
 (3) 問題を解決する人
  情報収集、情報処理に優れ、どんな場合にも的確な判断を下せる
 (4) リーダー
  いま何をすべきかを判断して、率先して行動に移すことができる
 (5) チャレンジャー
  新しい可能性や未知の領域を開拓、冒険していく
 (6) サポーター(縁の下の力持ち)
  献身的で、細やかなところに目が行き届く
 (7) オーガナイザー(まとめ役)
  物事を正確に処理し、人から信頼される
 (8) ものをつくる人
  現実的、実際的で、行動力がある
 (9) コミュニケーター
  人が好きで、他者の気持ちを敏感に察する力がある
 (10) 世話をする人(癒やす人)
  誠実で献身的。一対一で深く人と関わり、相手を元気にする
(本田 健、櫻井秀勲 著 『運のいい人、悪い人』より)




No.833 『つい、そうしてしまう心理学』

 最初は一人で書かれているとばかり思っていましたが、一番後ろの下段に「取材・執筆協力」とあり、岡村友之氏の名前がありました。彼はフリーランスのライター兼編集者だそうで、だから編著なんだと、妙に納得してしまいました。でも、このようにはっきり書くというのは、ちょっと潔いという感じがしました。
 というのは、影にゴーストライターみたいな人がいるんではないかと想像してしまうような本が結構あると思うからです。もちろん、企画の段階から編集者などに多くのアドバイスをもらいながら書き進めることもありそうですし、当然のことながら、書くためには参考にした人や本だって、たくさんあるはずです。それは悪いことではないのですが、それをちゃんと書いてあるということは、なぜか潔いと感じるのです。
 ちょっと話しがずれてしまいましたが、本の内容も多岐にわたり、読んでいておもしろかったです。たとえば、「自分の気持ちなどをある程度まで正直に話すことのできる人は、精神的に成熟していると見ていい」ということなどは、それって確かにあるよな、と思います。世の中を生きていくためには、100%本音だけでは生きられませんし、だからといって建て前だけでは寂しすぎます。いい意味での大人なら、その本音と建て前を上手にミックスさせているはずです。
 また、「単調感は、疲労を生み、労働意欲を低下させ、最悪の場合は心身症や事故の原因となる」というのも、当たり前といえば当たり前の話しです。ずーっと本を読み続けていると、頭のなかがこんがらかってきます。そこで窓から外を見るだけで、なんとなく気はやすらぎます。さらに、お茶やコーヒーなどを飲めば、気持ちが落ち着いてきます。だから、気分転換は必要なのです。それを「単調感は一種の不快感であり、この不快な気持ちが、はじめはプラス方向に向いていた動機をマイナスの方向に作用させるのである」などと心理学的な味付けで書かれると、なるほどと納得してしまいます。
 でも、書いていることと自分が常日頃していることとは、まったく同じことでも、それなりの裏付けをもらったようで、楽しくなります。これもこの本の効用ではないかと思います。
 下に知的好奇心と慣れについての記述を抜き書きしましたが、つい、そうそうと思いました。
 もし機会があれば、お読みください。
(2013.6.7)

書名著者発行所発行日ISBN
つい、そうしてしまう心理学深掘元文 編著日本実業出版社2010年3月1日9784534046819

☆ Extract passages ☆

人間の心には知的好奇心(内発的動機づけ)の仕組みが備わっている一方で、一般に「慣れ」と呼ばれる仕組みが備わっており、そのため、ある状況に興味を引かれたり引かれなかったりする。
 では、なぜ人には「慣れ」のような仕組みが備わっているのだろうか?
 それは、日常的な状況にまでいちいち反応していると、精神的な緊張状態が持続されて心身ともに疲れてしまい、生存を維持することが難しくなるためだ。
 だから、わたしたちは慣れるというやり方で――もう少し詳しくいえば、目や耳や鼻などの感覚器官から繰り返し入ってくる同種の刺激に対する感受性を低くするやり方で――日常的な状況に自然と"順応"し、自己の生存を維持しやすくするのである。
 そういう意味では、人が知的好奇心を示す背景にも、精神的な緊張をほぐし、状況に順応しようとする心理が働いているといえる。
(深掘元文 編著 『つい、そうしてしまう心理学』より)




No.832 『[定本]樂歴代』

 樂焼の茶碗は、おそらくお茶を飲むためだけに考案されたもので、それだけお茶とともに歩んできた長い歴史があります。いつかは、1つくらいは樂焼茶碗を持ちたいと思い、数十年前に現在の第15代吉左衛門の赤樂茶碗を手に入れました。ときどき、眺めるだけで、一度もお茶を飲んだことがありません。
 というのは、なんかザクッと壊れてしまうような気がしたり、あるお茶会で飲んだ樂焼茶碗がちょっとカビ臭かったこともあり、なかなか使えなかったのです。
 この本には、「長い間保管されている間に、仕覆や詰め物の綿などが湿気を帯び、臭いが生じます。それが茶碗の素地の中に入り込み、茶を点てた時、湯気とともに出てくるからです。新しい茶碗ほど素地の粒子に臭いが入り込みやすく、トラブルが多いようです。原因は充分に乾かさないでしまい込んだこと、乾いていると思っても、素地の中にはまだ水分が多く含まれているものです。」と樂焼の扱い方がQ&A形式で書かれていて、とてもわかりやすく、使い始めとしまい方など、これからは使えそうな気がしました。
 そういえば、もうだいぶ前のことですが、ヨーロッパで「樂歴代展」があり、その報告会的な展覧会が東京であり、それをたまたま上京したことで観ることができました。そのときに感じたことは、樂焼の歴代にも得意不得意があり、さらには奇数代にいいものが多かったように記憶していますが、今回もこの本を読み、その観をさらに強くしました。まさにメンデルの法則のような優性遺伝の法則を感じました。
 おそらく、それは単なる好きずきの問題かもしれませんが、茶碗を眺めているだけで、そのように感じるのです。
 監修は樂美術館となっていますが、この美術館には何度か行ったことがあります。そこでのワークショップのできごとですが、ある小学生たちの疑問に答えたのが下に抜き書きしたものです。
 小学生たちの容赦のない質問もおもしろいのですが、それに答える樂さんの答えもとてもわかりやすいと思いました。たしかに黒色は、すべてを含むとはいっても、子どもたちには下のような話しのほうがすんなりと理解できそうです。
 前回の『和菓子』もそうですが、このような豪華本は、図書館から借りて読んだほうがいいと思います。読みながら見るというか、見る部分が多いので、あっという間に読み終わりますが、眺めている時間はさらに数倍も長くなります。
 もし、また見たくなったら、図書館から借りてこようと思っています。
(2013.6.4)

書名著者発行所発行日ISBN
[定本]樂歴代樂吉左衛門・樂篤人淡交社2013年4月8日9784473038623

☆ Extract passages ☆

「何で黒ばっかりなんや」と彼ら。「おお、それか、それ夜空や!野原で大の字に寝てみ、空、広がっとるやろ。」と私。「星ないで!」と彼ら。「見てみ、じっと見てみ!」と私。すると「あそこに見えた、ここにもある」。てんで勝手に夜空の星を彼らは黒い小さな茶碗の中に見つけ出す。彼らに導かれ口をついた言葉「夜空!」。しかし同じ回答は二度と成立しない。それは言葉が文脈を成立させる以前、言葉の結ばれぬ先に発せられたもの、何の言説も介在せずに、彼らと長次郎の黒樂茶碗と夜空と私は、一瞬に結ばれ一つになる。兼好の「両夜の月」と小学生が長次郎の黒樂茶碗にみる「夜空」、決して無縁とはいえないイメージの接近がある。玄玄としたモノトーンの広がり、それは相対的世界を超脱して、美そのもの、認識そのものを呑み込み、闇たる宇宙の彼方、生死の入り口まで続いている。そこは老子曰く「玄のまた玄」すなわち「衆妙の門」であると。
(樂吉左衛門・樂篤人 著 『[定本]樂歴代』より)




No.831 『和菓子』

 お茶を続けてきたこともあり、いつもお菓子には興味があり、旅行に行ったときも、その所の銘菓といわれるものを探します。さすが銘菓と思うときもありますが、そうでもないと感じるときもあります。
 それと、お茶の盛んな土地では、たしかに銘菓もありますが、美味しいと思うものも多いようです。お茶にお菓子は付きもので、やはりそのような関係性はありそうです。
 この本を初めて見たとき、こんなにも豪華な本が売れるのだろうか、あるいはこのような和菓子だけを写真で紹介するような本を著したのは誰だろうかと思いました。著者のプロフィールを読むと、「中村ハジメ事務所」を主宰し、デザイナー、商品プロデューサー、コンサルタント、企業理念構築など、幅広く活躍されているとのこと、だからこそ、今までの和菓子の本のようにただ並べただけではなく、その和菓子を真ん中から切って、その中身までちゃんとわかるようにしたところはすごいことです。
 私は小豆の中でも粒あんが好きなので、お菓子屋さんで中身を聞くのですが、なかにはあまりそのようなことを聞かれたことがない店員さんがいて、しどろもどろのこともあります。もちろん、お菓子は菓子職人が作っているので、店員さんにそのような質問をするのはあまりいないのではないかと思います。
 私は、この本の秀逸さは、菓子を半分に切って写真に載せたことではないかと思っています。また、写真も黒地で撮っているので、お菓子の色合いがはっきりわかります。
 写真を見て、食べてみたいと思ったのは、お菓子そのものも大事ですが、お菓子の銘も案外重要なものだと思いました。たとえば、千本玉壽軒の「星月夜」は葛製で黒こしあんですが、その葛の薄さに中から金箔が光るように見えます。また、亀屋良長の「ほたる」は粒あんをきんとんで包んだものですが、その上に黄色みのある寒天のなかに黒ごまが入り、いかにもホタルが光っているかのように見えます。さらにおもしろいのは、紫野源永の「藻の花」で、琥珀羹に本物のジュンサイが入っているそうです。
 著者も書いていますが、「こんな和菓子は初めてみました」。
 まさに、和菓子は日本の文化です。
 ぜひ、菓子好きも甘い物は苦手な人も、この本を見て、和菓子の奥深さを感じてみてほしいと思います。もし、本物を見たら、ぜったいに食べるのは惜しいと思うかもしれません。
(2013.6.1)

書名著者発行所発行日ISBN
和菓子中村 肇河出書房新社2013年1月30日9784309273853

☆ Extract passages ☆

菓子を扱うときに使うお箸、ずっと香道で使う銀の火箸を使っていました。香道には細くていいのですがお菓子ではよく滑り、落としそうになります。
このあいだ、和菓子職人さんとそのことを話していましたら、生菓子のお箸は職人さんが自分で作るものだそうです。それで、作ってもらうことになりました。これでもう滑ったりしないし、細かい部分を修正したりできます。
(中村 肇 著 『和菓子』より)




No.830 『始める力』

 たしかに、何事も始めるときには、それなりのきっかけが必要です。それを具体的に書いているのがこの本です。
 最近の傾向として、「○○力」というのが流行ですが、そんなに力こぶを入れなくても始められるというのがこの本の趣旨ですから、サラッと読んで、できるところから初めてみるのがいいと思います。
 「できる」とか「できないかも」ではなく、「できそうだ」と思うことです。
 この本に出てくる「コンフォートゾーン」というのは、自分が快適だと思う所だそうで、いわば「変化のないぬるま湯」状態です。もちろん、そこにいたほうが楽ですし、それが動物としての種の本能だと著者はいいます。でも、そこにいる限り、新しい世界は絶対に見えてはきません。そこから一歩でも進むことによって、おもしろい世界に出会えるかもしれないのです。それには、別の人からの「誘い」しかないと書いてあります。
 そして、新しいことにチャレンジしたら、あまり飛躍しないで、少しずつでも進むことを考えたほうが長続きするといいます。1日5分だって、365日やれば、1,825分、つまり30時間以上になります。これはすごいことです。「たった」と考えずに、それだけでも続ければすごいことだといえます。
 下に抜き書きしたのは、習慣化することの大切さですが、たしかに著者の言うとおりです。ぜひ、シートベルトと同じように、しないと気持ち悪いというところまでいければ、もうこっちのものです。だから、いいことなら、ぜひ習慣化してみてください。
 また、環境を整えるということも大切です。先日、ある講習会で「アルコール依存症から抜け出す法」というのがありましたが、この本でも、「アルコール依存症から脱却するには、専門の施設に入り、まったくお酒のないところで過ごす時間が必要です。施設を出てからは、自宅にお酒を置かないことはもちろん、お酒を出す店にも近寄らないようにしなければなりません。それは、アルコール依存症の人の意志が弱いからというよりも、環境が整わなければ人間は望ましい行動が取れないからです。」と書いてありました。  まず、始めようと思ったら、毎日少しずつやる、やるだけの環境を整え、さらにはそれを習慣化してしまう、ということです。考えてみれば、読書も同じようなものです。
(2013.5.30)

書名著者発行所発行日ISBN
始める力(幻冬舎新書)石田 淳幻冬舎2013年3月30日9784344983007

☆ Extract passages ☆

 あなたが良い人生を送りたければ、良い習慣を多く持つに限ります。
 ところが、「習慣」と言うと、あきらめてしまう人が多いのです。「もう身についてしまったもので、変えようがないのでは?」と。
 しかし、どんな習慣も、あるときから「始めた」にすぎません。・・・・・・
「車に乗ったらシートベルトをする」という習慣のない人も、昔は多くいました。そのための重大事故が絶えませんでした。「面倒くさい」「わずらわしい」などの言い訳を聞いたことがあります。しかし、法令化して罰則が加えられるようになり、渋々装着しているうちに、すっかり習慣化して、今は「シートベルトを締めなければ不安」と思えます。運動や勉強も同様で、「それをやらないと気持ち悪い」というところまで習慣化してしまえば、こちらのものです。
(石田 淳 著 『始める力』より)




No.829 『国語辞典の遊び方』

 昔は国語辞典を読むのが好きで、最初は必要な箇所を探すのですが、つい隣をみて、つぎにまたその隣をみているうちに、なんとなく次のページまで読んでしまったということもありました。知らない言葉に出会うと、なんとなく得したような気分になり、使う必要がないのに使ってみたりしたこともあります。
 だから、この本を見つけると、すぐに買ってしまいました。でも、著者の名の「サンキュータツオ」ってペンネームだと思っていました。おもしろいペンネームだというぐらいにしか感じませんでした。
 ところが読んでみると、オフィス北野に所属する芸人だと知り、びっくりしました。でも、書いてあることはとても共感でき、読み進めながら早大大学院の文学研究科日本語日本文化専攻されたと知り、またまたびっくりしました。
 でも、とても読みやすく、理解しやすく、もともと辞書好きということもあり、あらためていろいろな辞書を見てみたいと思いました。
 もともと、辞書には個性があると思っていましたが、これほどまでとは思ってもいませんでした。たしかに、このようにキャラで表現すると、わかりやすいかもしれません。
 たしかに、副題にあるように「学校では教えてくれない!」し、辞書に個性があると言ってしまうと、授業に差し支えありそうです。あるいは、表現に点数をつけようとすると、本来は難しいことなのに、さらに難しくなりそうです。だから、それらの表現の統一を図るために、最初から辞書を1種類しか使わせないところもあります。それでは、日本語のおもしろさがわかるはずもありません。
 最後の「ことばのぬまのおくがき(あとがき)」で「国語辞典は、確実に、ひとりの人間がひとつの編集方針、哲学をまとめ、携わった人間たちがみな、なるべく主観を抑えて記述しているのですが、よく読むと、実際は語釈以外の品詞分類や用例などにも、その人の性格がにじみ出ています」と書いてあり、だから自分の必要とする、あるいはおもしろそうな辞書を探す楽しみがあるわけです。
 ぜひ、この本を読み、国語辞典で遊んでみてください。これほど遊べる本は少ないと思います。もし、孤島に1冊だけ持っていくとすれば、やはり国語辞典がいいと思いました。
(2013.5.27)

書名著者発行所発行日ISBN
国語辞典の遊び方サンキュータツオ角川学芸出版2013年3月25日9784046532749

☆ Extract passages ☆

一番大事なのは、紙の辞書は記憶しやすいということです。「手を使う」ということと脳の活動に関してはまだわかっていないことも多く、脳科学等の分野でさかんに研究されていますが、だいたい手を使って調べたことは記憶に残りやすいと言われています。計算にしても手を使うとまちがえにくく、早くできると言われているので、「知識を定着させる」ことを目的にするのなら紙の辞書は必須です。調べた場所、匂い、紙の手触り、そのすべてが記憶に関連するからです。
(サンキュータツオ 著 『国語辞典の遊び方』より)




No.828 『日本一の巨木図鑑』

 この本は、「列島自然めぐり」とタイトルにあり、さらに副題のように「樹種別日本一の魅力120」とありました。
 表紙には「縄文杉」が載り、裏には「日本一の巨木はどれなのか7年の歳月をかけ800本以上を実測、ついに完成を見た樹種別日本一がわかる初の巨木図鑑」と書かれています。これは読むというよりは、写真を眺め、気になったところの解説を読むということでしょう。
 先ず、気になったのはシャクナゲで、徳島県の津志嶽のシャクナゲが一番と出ていました。でも、解説では「一般的にシャクナゲといえば、ホンシャクナゲを意味する」とあり、ちょっとそれでは困ると思いました。日本には12種類のシャクナゲがあり、それぞれに個性を持ったもので、その変わり種だってあります。あまりにひとくくり過ぎるようです。
 ここのホンシャクナゲの幹周は1.82m、樹高8m(2010年)で、樹齢は不明だそうです。写真で見る限り、シャクナゲにしては大木で、下に人が写っていますから、それと比較しても相当に太い幹です。
 さらに、ツツジ科のものでは、「静岡県の猪之頭のミツバツツジ」や「石川県の妙法寺のドウダンツツジ」なども載っていて、見ているだけで、それらの木々の歴史を感じました。
 巨木は、そこにあるだけで、不思議な存在感があります。
 それで、自分の蔵している本を見てみると、巨木関係の本は意外と多くあります。しかも、写真が豊富に掲載されたものがほとんどで、やはり巨木のすごさが伝わってきます。
 ところが、今年の2〜3月に訪れたミャンマーでは、ある人の説では、「ミャンマーの人たちは大きな木は嫌いだ」というのです。その話を聞いた直後に、すごいブティアの巨木を見つけ、花が真っ盛りだったこともあり、写真をたくさん撮りました。そして、その幹元に近づいてびっくり・・・・・・。その太い幹にまさかりで切ったばかりの跡がくっきりと残っていたのです。おそらく、この木は最後の花を思いっきり咲かせたのではないかと思いました。
 なぜ、このような大木を切るのか、不思議でした。やはり、「ミャンマーの人たちは大きな木は嫌いだ」なのかもしれません。
 その数日あとには、実際に大木を切っているところに出くわし、なぜ切るのかをうかがったのですが、今年の秋に近くに家を建てるので、もし何かで倒れると困るからという話しでした。でも、近くにはいくらでも土地がありそうです。詳しいことはわかりませんが、その木を切らなければならない理由はあまり現実的ではないようです。
 それに引き替え、日本は巨木の国です、巨木を大切に護っていこうとする国です。
 ミャンマーから帰国して、たくさんの木々を見て、やはり日本に生まれてきてよかったと思いました。
 下に抜き書きしたのは、「縄文杉」の解説です。たしかに謎に満ちている樹で、見上げると自然と畏敬の念を感じました。
(2013.5.24)

書名著者発行所発行日ISBN
日本一の巨木図鑑宮 誠而 写真・解説文一総合出版2013年3月10日9784829988015

☆ Extract passages ☆

「縄文杉」は謎に満ちている。樹齢も、その成育過程も正確にわかっていない。かつて樹齢7,200年といわれたが、最近の科学調査で様々な事実がわかってきた。空洞化した最深部の炭素年代測定で約2,700年と いう結果が出た。さらに、合体木ではないかといわれてきたが、これも1本の木であることが証明され、倒木更新の痕跡も発見されている。
 これらの事実を総合すると、樹齢は3,000年から4,000年、芯部に古木があり、これに発芽したスギが倒木更新によって巨大に成長したように思われるが、これもまだ推測の域を出ない。
 幹周16.1mとされる幹には圧倒的な迫力がある。地上7mで主幹と大小の幹2本に分岐、主幹はさらに10mで2分岐する。斜上した幹の先端から枝が水平に出て先端は垂れない。着生木が多く、主幹には縦にしわが波打つように入り、こぶも多い。垂直に立ち上がる一本杉とは異なり、成長過程に複雑な要因が加わったようだ。このことが材として不適切と判断され、伐採から逃れたというから、運命とは不思議なものだ。背後は大きく根元が膨らんで、中ほどに空洞がある。主幹にこぶやしわが多い様子は、内部にも空洞があることを予感させる。
(宮 誠而 写真・解説 『日本一の巨木図鑑』より)




No.827 『鳥と雲と薬草袋』

 題名の鳥と雲はなんとなくわかるけれど、なぜ「薬草袋」なのか、ちょっと理解できずにいました。すると、「あとがき」のところに、『いつだったか、ずいぶん前のことだが、旅をしたことのある土地の名が、ふとしたおりに、「薬効」のようなものを私に与えてくれていると気づいた。「薬効」、と意識すればそれだけでまた、効果は倍増する。そういうこともあり、薬草袋ということばを、タイトルのどこかに入れたく思った。』とあり、なるほどと思いました。
 このエッセイは、2011年から2012年にかけて「西日本新聞」に連載されたものだそうで、読者が九州管内ということもあり、九州のことが多く取り上げられていました。でも、それとはつゆ知らず、なぜ、東北が出てこないのかといぶかっていました。後から考えれば、対象者が九州地区ですから、当然といえば当然です。
 それでも、エッセイのなかに、ほんの少しだけ、温海近くの「由良海岸」などが出ていました。それと、新潟の十日町市にある「星峠」も、その名前の良さに惹かれて、この本を読んでよかったと思いました。
 人というのは勝手なもので、なぜ九州ばかり出てくるのかと不審に思ったり、ちょっとこのような素敵な地名が出ただけで読んでよかったと思うのですから、単純です。
 この星峠に行ってみたいと思い、地図を見たら、ここの棚田は日本一だという記事を見つけ、さらに行ってみたくなりました。そもそも農業は高齢化が進み、この棚田のような手の掛かる作業はおそらくだんだんとできなくなるのではないかと思います。だとすれば、なおさらのこと、早く行かなければもう見ることはできなくなるかもしれないのです。
 だとしても、星峠から見る星空は、いくら時代が変わっても、昔のままのような気がします。
 それだって、おそらくは、そうあってほしい、という願望に過ぎないのかもしれません。
 この本には、もうすでに消えてしまった地名なども多く書かれていますから、そのように思ってしまうのでしょう。でも、早く行きたいものです。
(2013.5.20)

書名著者発行所発行日ISBN
鳥と雲と薬草袋梨木香歩新潮社2013年3月30日9784104299089

☆ Extract passages ☆

 生きることはその人だけの山脈を征くことに似ている。思いもかけない谷戸や隈に入り込み、原や鼻にさまよい出て、様々な坂を越えつつ、けれどあるとき決定的な峠を越えると、これまでとは全く違う世界が待っている。ああ、ここでゆっくりできる、と思っていても、しばらくすると実はもう既に次の峠に差し掛かっていることが分かる。
(梨木香歩 著 『鳥と雲と薬草袋』より)




No.826 『センス・オブ・ワンダーを探して』

 「生命のささやきに耳を澄ます」と副題にあり、何かを判断したり、決定したり、選択したりするときに、その物事を考える基点になるのが「センス・オブ・ワンダー」だといいます。その「センス・オブ・ワンダー」を探すのがこの本なのです。
 自分自身は生まれてこの方ほとんど変わらないと考えてしまいますが、じつは、福岡伸一氏によれば、「筋肉だったら二週間くらいで半分が、血液の細胞でも数か月で入れ替わるので、半年から一年も経てば私たちは分子のレベルでは全く別人になってしまう。だから、久しぶりならお変わりありまくり。別人なんだから約束なんか守らなくてもいい(笑)。けれども、一方では、私は私という状態を保ってもいる。つまり絶え間なく動いているにもかかわらずバランスがとれているのは生命のもっとも大事な側面なんです。その動き方もそのときどきで適応しながら動いている。もし何か不足があればそれを埋め合わせるように動くし、過剰があればそれをできるだけ少なくするように動く。」のだといいます。
 つまり絶え間なく動くものと、ほとんど動かないもの、そのネットワークを考えると、新たな不思議さを感じることができるかもしれません。でも、そこにも基点が必要で、それを探すのが理系と文系の融合のなかにあると福岡氏は言っているような気がします。
 目から鱗だったのが、下に抜き書きした動的平衡の考え方です。つまり、生物は機械のように1つのパーツに1つの機能が対応しているのではなく、1つのパーツが複雑に絡み合っていくつかの機能を持っているといいます。
 この動的平衡とは、「秩序あるものすべてが乱雑さや破壊・喪失へと向かうというエントロピー増大の法則に先回りして、自らを壊し再構築するという自転車操業的なあり方のこと」だそうで、たしかに、自然環境などもこのように捉えるとわかりやすいような気がします。
 対談なので、比較的読みやすいので、機会があればお読みください。誰しも、自分なりの「センス・オブ・ワンダー」があることに気づくかも知れません。
(2013.5.17)

書名著者発行所発行日ISBN
センス・オブ・ワンダーを探して福岡伸一・阿川佐和子大和書房2011年11月1日9784479392163

☆ Extract passages ☆

福岡伸一 ・・・・・・動的平衡の考え方をベースにすると、生命の部品は一つのパーツが一つの機能を持っているんじゃないんです。互いにほかと協調しながら、その共同作業の中である機能を持っている。
 それに、生命の部品はジグソーパズルのピースと違ってもっとユルユル、ヤワヤワなウエットなものなのです。たとえば真ん中のピースがなくなったら、周りの八つのピースが真ん中の役割を覚えていて、そこにはまることができる。もし最初から真ん中のピースがなければないなりに、周りのピースがその欠落を埋めるように動いて、新しい動的平衡を作りだしてくれるんです。
(福岡伸一・阿川佐和子 著 『センス・オブ・ワンダーを探して』より)




No.825 『琳派のデザイン学』

 この本を読むまでは、日本の屏風絵や浮世絵が西洋美術に大きな影響をあたえと感じてはいましたが、これほど深く強い影響を与えていたとは思っていませんでした。
 たとえば、パリやロンドンの万国博覧会で日本の着物が紹介されると、「コルセットで締め付けられていた当時の女性たちにとって、日本のキモノは開放的で自由度をもった服であり、その豊かな色彩と美しい紋様の華麗で優雅なファッションによって彼女たちを大いに魅了しました」といい、ここからキモノブームがはじまり、西洋の女性たちを解放した服飾革命が起きたといいます。それほどまでに、強烈な印象を与え、大きな影響を与えたということです。
 そういえば、出光美術館の開館40周年を記念して「国宝 風神雷神図屏風―宗達・光琳・抱一 琳派芸術の継承と創造」展を観ましたが、そのときのことがありありと思い出されました。しかも、これら3つの屏風が一堂に会したのは過去に3度しかなく、しかも最後の昭和15年の京都展からでも66年ぶりのことでした。何度も何度も見比べ、その違いのおもしろさを知りました。
 その時も思ったのですが、作者の個性はもちろんですが、その流れの継承があるからこそ文化として続くので、それが日本の文化を形づくっているようです。
 この本の中で、『琳派の目指した表現は、「粋」と「風流」が真骨頂です。この粋の精神や風流という洒落の心意気は、琳派や洒脱な江戸の人々の真髄であります。どちらも俗っぽさがなく気品があり、あか抜けした風情をもっていることを意味しますが、さらに洒落感覚に富み、色気すら漂う魅力と融合した情緒的で官能的な感覚であり、日本人独特の洒脱な感性といえるでしょう。』とあり、まさに日本人の感性であるように思います。
 今、これを書きながら、あらためてそのときの図録を見ていますが、何時間観ていても飽きない奥深さを感じます。いろいろと解説も書かれてありますが、ほとんど見ません。むしろ、その屏風絵そのものを食い入るように観るだけです。たしかに学芸員の方たちの見識はすごいと思いますが、自分で勝手に想像する楽しみもあるはずです。
 下に、日本人の自然観の成り立ちをちょっと抜き書きしました。
 興味のある方は、ぜひ、この本を読んでみてください。新たな発見がいくつもあるはずです。
(2013.5.13)

書名著者発行所発行日ISBN
琳派のデザイン学(NHKBooks)三井秀樹NHK出版2013年2月25日9784140912027

☆ Extract passages ☆

四方を海に囲まれた国土の環境が、自然に対する脅威と、畏敬の念という相反する自然観を日本人に共有させることになつたともいえます。
 災害が襲うたびに敢えて崩れやすい木と紙でつくられた家に建てかえては住み、再生をくり返してきました。この日本人の自然観に対し、西洋人ははじめから自然災害に耐えうる強固な石の家をつくるという対極の姿勢は、日本と西洋の自然観の差異を如実に裏付けています。
 こうして私たち日本人は先祖代々、自然の脅威に怯えながらも、それを素直に受け入れ、山や海の幸の恵みを受け、日々生活してきました。つまり日本特有の風土が、日本人の生活や文化を育んできたといえるのです。
(三井秀樹 著 『琳派のデザイン学』より)




No.824 『数字でわかる仏教文化財の名称』

 監修者は京都や奈良などの文化財についての執筆も多く、現在は伝統文化財保存研究所の代表をしているそうです。
 ただ、監修者というだけで、誰が書いたのかの記載はなく、おそらく出版社が数字から拾って仏教文化財を並べて解説を加えたようです。ところが、不思議なことに、最後のページに監修者が著者として略歴が載っていますし、さらに「あとがき」には、「監修者を名乗ることに実に忸怩たる思いである」とあり、ますます誰が書いたのかわからなくなりました。
 でも、数字と仏教との関係に目をつけたのは、おもしろい視点です。下に抜き書きしましたが、「五百」という数字が出てくるたびに、なぜ五百なのか不思議でしたが、それには数字というよりはたくさんという意味合いの方があるのではないかと思いました。昨年の12月ですが、第1回目の結集が行われた七葉窟にいきましたが、そこに五百人の人が集まることのできる空間はありませんでした。さらに、ときどき説法されたという霊鷲山も、100人も座ればぎゅうぎゅう詰めになるようなところです。
 この五百という数字は、後の中国唐時代末以降に天台山を中心に五百羅漢信仰が生まれ、その流れが日本にも伝わり、多くの図像や彫像などが制作されました。でも、この場合の五百は、実際に日本人の律儀さもあり、ほんとうに五百体あるからすごいものです。この羅漢とは「阿羅漢」の略称で、「仏や菩薩に至る修行に達することができる人。また尊敬すべき者・供養を受けるにふさわしい者とされる。」とあり、いかにも辞書的な解説がされていました。
 仏教というのはインドで生まれただけのことはあり、自分でも調べてみると、数字がたくさん出てきます。だから、文化財という視点だけでなく、仏教という教義そのものにも焦点を当てると、それだけで大部の本ができあがるのではないかと思います。
 ぜひ次は、そのような本を探してみたいと思います。もし、ご存じの方がおられましたら、教えてください。
(2013.5.9)

書名著者発行所発行日ISBN
数字でわかる仏教文化財の名称石川登志雄 監修淡交社2013年3月15日9784473038067

☆ Extract passages ☆

 釈迦滅後、第一回の遺教の結集である第一結集に、またカニシカ王(二世紀頃のクシャーナ朝の第三代国王)のときの第四回結集に五百人の羅漢が集ったという。
 五百の数字には、釈迦在世中、常に随従して説法を聞いた五百人の弟子、釈迦の仏滅直後の経典の編纂に集った五百人、釈迦十大弟子の第一といわれた摩詞迦葉が釈迦の弟子に集るようにと呼びかけ、五百人が集ったといわれる記述や伝えがある。
(石川登志雄 監修 『数字でわかる仏教文化財の名称』より)




No.823 『日本の香り物語』

 著者は1992年より「香り花房・かおりはなふさ」を主宰しているそうで、肩書きが「香り研究家」です。
 この本は2011年に初版第1刷が発行された、その新装版です。装丁も小冊ながらきれいで、カラー写真もちりばめられ、まさに馥郁たる雰囲気を持っています。「あとがき」に書いてありますが、「先人たちの残り香をたどり、それぞれの人生に寄り添うように漂う香りを見つめながらその奥深さを伝えていきたい」という気持ちがこの本には現れているようです。だから、副題が「心に寄り添う香りのレシピ」です。
 ゴールデン・ウィークは、多くの人たちにとってはゆっくりと休める大型連休ですが、私にとっては忙しい毎日です。でも、疲れているときほど本を手に取りたいと思うのですが、その思いとは裏腹にただ字面を追っているだけのときもあります。この本は、どこから読んでもよく、どこでやめても理解でき、忙しいときには最適です。
 しかも、その香りの由来から、香りまで伝わってくるようで、読書後もさわやかさがのこるような感じがします。著者も「香りは目にうつらないものですが、それゆえに心にソッとはいりこみ、私たちの眠っていた素直な感情に語りかけるのかも」しれないようです。
 この本を読んでいて、若いとき、京都の香屋さんで「紅花」という銘の伽羅を買ったことを思い出しました。山形出身なので「紅花」という銘に惹かれたと思うのですが、源氏物語の「末摘花」も紅花のことで、「すべてにおいて魅力の乏しい末摘花ですが、色あせながらも格式のある家柄の方ゆえ、彼女のまわりに漂う高貴な香りは源氏の心に深く染み込み、やがて終生の面倒をみる特別な女性のひとりとして迎えられていくのです」を読み、この「へにバナ」という伽羅にもそういう意味があるかもしれないと思い至りました。
 やはり、香りは奥が深く、なかなか侮れない存在だと感じました。
(2013.5.6)

書名著者発行所発行日ISBN
日本の香り物語渡辺敏子八坂書房2013年1月25日9784896941487

☆ Extract passages ☆

 「カヲル」とは、香りや煙が、どこからともなく漂い感じられるように目にうつらない精神的な風情の美しさを表すことに用いられました。
 それに対して「ニホウ」とは、古代において視覚的色彩の美を表す言葉でした。「丹(ニ)」とは魔除けの意味をもつ朱もしくは赤を、「穂(ホ)」とは突出することで、「ニホウ」という言葉は「赤があざやかに美しく外に輝きだす」という意味に使われていたのです。
 ゆえに、「薫君」と「匂宮」と言う彼らの名前からも、内面的美と視覚的美という二人の美しさの違いが感じ取れるでしょう。
(渡辺敏子 著 『日本の香り物語』より)




No.822 『大人の上質』

 チェリストの溝口肇さんの本で、CDは何度か聴いていますが、書かれた本を読むのは初めてでする。
 印象はというと、演奏家らしい感受性に満ちていて、とても楽しく読みました。とくに、レコーディングするときのことなどは、なかなか伝わってこないのでわからないことだらけですが、こうして書かれたものを読むと、大変さとおもしろさがわかります。これを読むと、よく海外でレコーディングされるアーチストのことが話題になりますが、納得できます。施設や機材も大事なんでしょうが、その環境も影響することがわかります。
 チェロはとても繊細な楽器だそうで、その日の気温や湿度でも音色が変わるそうです。駒が0.1o動いただけで音が変わると言います。だから季節によっても、演奏する場所によっても変わり、さらには弾き手の気持ちも大きく影響するそうです。
 著者は、「幸せな気持ちは、幸せな音になります。1秒前にはすばらしい音を出していたかと思えば、僕が何か心にモヤを作った瞬間、音にもそれが反映されます。繊細でストレートな楽器なのです。」といい、だから毎日の練習がかかせないとしています。
 それを読んで、だからおもしろいのではないかと感じました。子どもが吹くリコーダーなんかは、誰が吹いてもあまり変わらないような気がします。もちろん、ある程度は上手下手はあるでしょうが、吹く人の感情が音色に影響を及ぼすということはなさそうです。
 でも、チェロはあるといいます。ある意味、楽器をなだめすかしながら演奏することもあるのではないかと思います。
 この次にCDを聴くときには、レコーデングの違いなども聞き比べながら聴けば別の楽しみ方につながるのではないかと思います。そして、作曲に関しても、自由な発想というよりは、いろいろな制限や枠があるからこその自由だというのが印象に残りました。
 たまには、あることに精通した方の随想を読んでみることも新たな発見につながる、と思いました。
(2013.5.2)

書名著者発行所発行日ISBN
大人の上質(マイナビ新書)溝口 肇マイナビ2013年2月28日9784839943981

☆ Extract passages ☆

 コンサートの舞台上でチェロがあれば、それはチェロであってそれ以外の何ものでもありません。僕の楽器がストラディヴァリウスなのかそうじやないのか、というのは問題ではありません。
 弾き手が溝口肇かどうか、です。

 ピアノであってもヤマハなのかスタンウェイか、ベーゼンドルファーかは、関係ないのです。ピアノはピアノ。どんなにその楽器が粗悪で弾きにくかろうが、観客には関係ないのです。気にするのはあくまでも演奏者自身であって、聴き手側は完壁で美しい演奏を求めているにすぎません。
(溝口 肇 著 『大人の上質』より)




No.821 『アウン・サン・スー・チー』

 この本はミャンマーに行く前に古本屋で買っていたのですが、なかなか読む時間を見つけることができなかったのですが、4月30日にほとんどを読み終わりました。まさに一気に読んだという感じです。
 この4月にこの題名のアウン・サン・スー・チーが来日され、それも読むきっかけにはなったようです。この本は自宅軟禁が続いていた1995年7月11日までの年表で終わっていますが、結果的には2010年11月13日まで軟禁状態は続きました。
 副題は「囚われの孔雀」とあり、もともとは1991年に講談社より出版されたものが、後から文庫本化されたものです。
 これを読んで、今まで漠然としていたものが、少しはすっきりしたようで、なせあんなにもミャンマー人に人気があるのかがわかりました。やはり、いくら軍事政権がやっきになってみても、ダメなことがよく理解できます。たとえば、1990年5月27日の総選挙では、ラングーンから300qほど離れたアンダマン海に浮かぶココ島の選挙区は約700人の有権者の大多数が軍関係者だそうですが、ほとんどがアウン・サン・スー・チーさんのNLDに投票していたそうです。これはアウン・サン・スー・チーさんの人気もさることながら、軍内部にも現政権批判があることを証明しています。
 著者は、この本を書き上げるためにアウン・サン・スー・チーさんとも会い、さらには軍事政権側からも話しを聞いています。だから、情報や資料も少ないミャンマーのことをここまで詳しく書いてあることにびっくりしました。
 そして、この本は1995年で終わっていますが、それから15年も自由を束縛され続けながらも耐え抜いたアウン・サン・スー・チーさんには驚くばかりです。
 今月13日朝に成田空港に到着したとき、少しもその大変さが感じられず、報道陣の呼びかけに「ありがとう」と爽やかな笑顔で応えられたニュースを見て、とても感動しました。そして、ミャンマーを訪ねたとき、ある家庭にアウン・サン・スー・チーさんの写真が飾られていたことを思い出しました。
 この本はだいぶ前に出版されたものですが、もし、機会があれば読んでみてください。
(2013.4.30)

書名著者発行所発行日ISBN
アウン・サン・スー・チー(講談社文庫)三上義一講談社1995年7月15日9784062630696

☆ Extract passages ☆

 ビルマの人々は辛抱強く、長い長い忍耐の持ち主である。非常に寛容でもある。それはこの世ではひたすらパゴダへお参りをし、僧侶にお布施をして功徳を積み、来世の幸せを願う敬虔な小乗仏教が多いことの影響だといわれる。社会よりも個人の救いを中心に考え、悪政のもとでもできるだけ耐え忍ぼうとする。そのため権力には、とにかく服従する。楽天的で、行き当たりばったりだとさえいわれる。

 「ビルマはさかんな仏教国で、住民は極度に低い生活で満足していますから、人の心もおだやかです。よくいえば欲がなく、わるくいえば無気力です。あれだけの資源があり、国民の教育程度もたかいのに、近代の世界の国と国との競争に落伍したのも、これが一つの原因です」(竹山道雄『ビルマの竪琴』)
(三上義一 著 『アウン・サン・スー・チー』より)




No.820 『ヘタウマ文化論』

 この本を読んでいて、たしかに「ヘタウマ」ってあると思いました。しかも、日本人はそれらを受け入れているようで、なんでこんなに小学生のような絵がいいのかまったくわからないのもあります。
 むしろ、ヘタなものに強さがあったり、親しみやすさがあったり、多くのメッセージがあったりするようです。あまりウマいと、「ああ、ウマいな」というところで止まってしまいますが、ヘタだとその先になにかがあるような気がして、ついそれを探そうとします。まさにヘタなものには著者が言うような「鞭毛性」があるようです。この鞭毛性を「ある種の生命体が持っているからみついて離れない機能」と書いています。やはり、それもヘタなものの大きな力です。
 これはピカソなどのキュビズムとはまったく違い、たとえばピカソなどはまさに天才的な画家で、写実的な絵から意図的に抽象画を作り出していくようです。でもヘタウマは、ヘタさを前面に出し、そこにおもしろさや味わい、雰囲気などを醸し出そうとするようです。
 下にヘタウマのモャーッとした特性を抜き書きしましたが、やはり、これは日本人だからこそわかるようなもので、外国人にはまったく理解できないことかもしれません。
 でも、日本文化をこの「ヘタウマ」の視点から見てみると、最近のゆるキャラブームも理解できます。また、テレビなどで取り上げられる事なども、なるほどと思えます。
 著者は「あとがき」で、しかも自筆をそのまま印刷してあるのですが、「モウロウ頭に浮かんだアバウトな記憶を綴っただけのものだから、あまり信用しない方がいい。資料的価値もありませんし、文章だってヘタです。それは仕方ないでしょう。なにしろ「ヘタは面白い」という趣旨の本だから。」と綴っています。
 いわれてみれば、その通りなのですが、このような「ひとり節」だからこそおもしろいし、核心を突いているのかもしれないと思いました。
(2013.4.28)

書名著者発行所発行日ISBN
ヘタウマ文化論(岩波新書)山藤章二岩波書店2013年2月20日9784004314158

☆ Extract passages ☆

 日本の文化は、とくにサブカルチュアという現代的で大衆参加的な産物は、「運動」というより「現象」である。誰が、いつ頃から、どういう必然性で、いかなる理論で、そういう現象になったかはよくわからない。
 あいまいで、なんとなく、モヤーッとした気分の中で、ヘタウマ的なものが流行っていた、というのが日本の特性なのだろう。これじゃ美術史の辞典に載せられない。外国人に説明するのもむずかしい。
 〈ちゃんと描けばウマいものが描けるのに、それを殺して、わざとへタに見えるように描く、無理論の文化運動〉・・・・・・これじゃ外国語に訳せない。
(山藤章二 著 『ヘタウマ文化論』より)




No.819 『熱帯植物巡紀』

 この本の副題は「観葉植物の原生地を巡る熱帯・亜熱帯植生誌」とあり、どちらかというと熱帯植物のなかでもとくに力を入れてるのが観葉植物のようです。
 ここ数年、私も熱帯から亜熱帯の植物を見る機会がありますが、その植生の豊かさに驚かされます。日本では、ほとんどお目にかかれない植物も多く、科や属の分類すらできないものもあり、ただただ、その個性豊かな植物たちを見て写真を撮るだけです。でも、専門の方と一緒ということもあり、その名前などを聞くのですが、ほとんどが初めて聞くような名前で、それにもびっくりしてしまいます。
 たとえば一昨年にスリランカでジャックフルーツを食べましたが、それについては「パラミツ(Artocarpus heterophyllums)は世界最大の果実で、大きいものは20Kgにもなるが、全部が食べられるわけでなく、種子の周りの果肉だけしか食用とならない効率の悪い熱帯果樹である。英名はジャックフルーツ(jack fruit)。インド、マレー、ビルマを原生地とするクワ科の植物。高さ20mになり、果実が幹に直接なる幹生果である。」とあり、今年もモャンマーで食べてきましたが、とても美味しかったことを思い出しながら読みました。写真も撮りましたが、やはり幹に直接なるのは不思議なもので、あまり日本では見かけない実の付き方だからかもしれません。
 ただ、残念なのは写真がモノクロがほとんどで、カラーは最初の数ページだけだったことです。やはり植物はカラーでないと、その雰囲気はなかなか伝わってきません。花色もわからないし、葉の濃淡もわかりません。
 そういえば、以前読んだ『熱帯植物紀行』もそうでした。また、「巡紀」という言葉もわかりにくく、以前の「紀行」のほうが一般的には理解しやすいのではないかと思いました。
 もちろん、本の題名には著者の思いや考えがあるでしょうが、最近は編集者の意向もあるといいます。やはり、名は体を表すといいますから、考えて欲しいところではあります。
 もし、熱帯植物に関心がありましたら、読んでみられるといいと思います。そうすると、世の中にはこんなにもおもしろい植物があるのか、と実感されること請け合いです。
(2013.4.25)

書名著者発行所発行日ISBN
熱帯植物巡紀田中耕次誠文堂新光社2013年2月1日9784416913345

☆ Extract passages ☆

 サトウキビ以外で砂糖を採る植物としては、熱帯地方ではヤシ科のココヤシ(Cocos nucifera)、サトウヤシ(Arenga pinnata)、オオギヤシ(Borassus flabellifer)がある。これらの植物の花柄を切り、集めた樹液を煮詰めると黒砂糖になる。いずれも食べたことがあるが、固めるのに石灰を使わないので味がまろやかである。ほかには現在、北海道で栽培されている甜菜(Beta vulgaris)、別名サトウダイコン、ビートと呼ばれるアカザ科の植物がある。・・・・・・
 砂糖を採る植物としてはほかに、カエデ科のサトウカエデ(Acer sacchaarum)がある。北米原産で、カナダ国旗のデザインに使われている。日本では古来、ナツヅタ(Parthenocissus tricuspidata)の樹液を煮詰めたアマズラと呼ばれるものや、干し柿の表面に出る白粉などを甘味料として用いてきた。
(田中耕次 著 『熱帯植物巡紀』より)




No.818 『本の声を聴け』

 この本は、「ブックディレクター 幅允孝の仕事」について書いたもので、ブックディレクターって何、と思って読み始めました。
 この本を読むと、ブックディレクターとは「本棚の編集者」だそうで、たしかに書店の本棚は欲しい本が決まっていれば探しやすいけど、なにを買おうかと思いながら見ていると、ちょっと味気ないものがあります。だから、そこに本棚に本を並べるディレクターが必要になるわけです。
 私も自分なりに考えて本棚に本を整理するのですが、やはり収納に限りがあるので、つい、ぎっちり詰め込み、さらにはその前にも何冊が置いてしまいます。つまりは、積み重ねておくのと変わりなく、本探しをしなければならなくなります。でも、時にはボーッと本棚を眺めていると、その背表紙から読んだときのことが思い出されます。背表紙からだけでも、中身がわかります。
 幅さんは、「たまたま見つけた本が、次の本を呼び込んでいくような、ちょうど波紋と波紋がぶつかるように、興味と興味がどんどんつながっていくような感じ。それがものを知る喜びだと思っています」といいますが、それって、よくわかります。だからこそ、「本を読んでいる間は、誰にも邪魔されず独りだけの時間をもつことができる」のです。
 旅の本を読んでいると、自分もそのなかで旅人になれるし、絶対に自分では経験できないことも、本の中では疑似体験をしています。まさに本は、ワンダーランドです。
 下に抜き書きしたのは著者の思いですが、それは最近ときどき神保町を訪ね、感じることでもあります。古本屋もいいですが、新刊本を扱うところもいろいろあっていいと思います。つい最近、佐賀県武雄市図書館が4月1日からリニューアルオープンしたことがニュースで大きく取り上げられましたが、ここはレンタルソフト店大手TSUTAYA(ツタヤ)を運営するカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)が指定管理者となっているそうです。だから、スターバックスも出店したり、今までの図書館では考えられない盛況だそうです。
 ただ、これにも問題があり、あまりにも商売が前面に出過ぎことも懸念されそうですし、静かな雰囲気が保てないおそれもあります。
 よく、本を読む人が少なくなったという声を聞きますが、その環境が整えば、多くの人たちが訪れるということがわかっただけでもこの試みは成功したと思います。
 ぜひ、この本も読んでみてください。とてもおもしろい本へのアプローチの仕方だと思います。
(2013.4.21)

書名著者発行所発行日ISBN
本の声を聴け高瀬 毅文藝春秋2013年1月15日9784163760308

☆ Extract passages ☆

 本と対話する。本屋で本をじっくり選び、こんな本があるのかと驚き、店主の見識に密かに感銘を受け、よくぞ置いてくれたと感謝する。棚がいろいろなことを語りかけ、触発された頭の中が、ぐるぐると回るような感覚に襲われる、そんな刺激的な場所だったのではないかという記憶が消し難くある。
 もっとワクワクさせる本屋はないのだろうか。本棚を見ているだけで、気持ちが飛翔し、想像力がどこまでも膨らんでいくような感覚にさせてくれる本屋はないのだろうか。
(高瀬 毅 著 『本の声を聴け』より)




No.817 『どうしてこの国は「無言社会」となったのか』

 本の装丁がチャックのイラストで、いかにも口にチャックという感じがします。たしかに、「無言社会」といわれれば、そのようにも思います。
 たまに東京に出かけると、ほとんど口をきかなくてもあまり不自由はなく、自販機ではまったく無言で買い物ができます。もちろん、それがいいかといわれれば、やはりおかしなことだと思います。
 だが、一方ではあまり人にかまってもらいたくないという気持ちもあり、自分で好きなことを我慢せずにやれればその方が良いという気持ちもあります。おそらく、そのへんの線引きが難しいのではないかと想像します。人は一人では生きられない、でもあまり制約されるのもイヤだ、という思いは誰にでもありそうです。
 ただ、最近は後者の思いのほうが強くなってきているようです。おもしろい考えだと思ったのは、「クリスマスなどは、とりわけクリスチャンでもない日本人にとっては、いいとこどりできるイベントだ。信仰があるわけではないから、イベントそのものに意味はない。だからこそ、守るべき面倒な手続きや儀式も省ける。楽しそうなことだけやればいい。クリスマスツリーに電飾、プレゼント交換、踊るサンタクロースの人形、ケーキ、シャンパン、ゲーム。解体寸前の家族をつなぎとめるのは楽しさの共有だけ。そういえそうな状況になっている。」というのは、ある意味、なるほどと思います。
 昔からの行事や祭りにはそれなりの縛りやルールがあるけれど、新しいものにはそれがほとんどなく、あってもそれを取り入れなければいいだけの話しです。つまり、都合のいい部分だけをやればいいという考え方でもあります。
 でも、この世の中は、いいところがあれば悪いところもあり、楽なところがあれば窮屈なところもあるというのが普通です。いいとこ取りだけですまそう、とすれば必ず将来はおかしなことになります。
 あまり話したくないとすれば、スムーズにコミュニケーションがとれなくなり、いずれは支障をきたします。
 だから、「無言社会」がいいとは思いません。それをなんとか解決する方法がこの本にも書かれていますが、それはあくまでも一つの提案であって、みなそれぞれに考えることが大切だと思います。
 興味のある方は、読んでみてください。
(2013.4.18)

書名著者発行所発行日ISBN
どうしてこの国は「無言社会」となったのか森 真一産学社2013年1月5日9784782571033

☆ Extract passages ☆

 しあわせは「幸せ」とも書くが、もともとは「仕合わせ」と書いていた。「仕合わせ」は「仕」「合わせる」ことである。「仕」は「動詞『する』の連用形『し』の借字」(『新明解国語事典第五版』)だから、誰かと誰かが「する」のを「合わせる」わけだ。それで「運命のめぐり合わせ」という辞書的な意味になる。
(森 真一 著 『どうしてこの国は「無言社会」となったのか』より)




No.816 『「編集手帳」の文章術』

 おそらく、最初から文章をスラスラ書ける人はほとんどいないと思います。だからこそ、このような文章術というハーツー本が出版されるようです。
 でも、その文章は、使用目的によって技術も異なるはずで、そのような理由もあって、いろいろな本が出版されます。この本の著者は、読売新聞のコラム「編集手帳」の6代目執筆者で、読書家でもあるそうです。だから、長年このような仕事に就いていれば、それなりの技術もあるはずで、それを楽しみに読んでみました。
 著者の執筆手順は、「まず、マクラを書く。次に、真ん中を飛ばしてサゲを書く。最後にアンコに取りかかるのが私の執筆手順です。普通にマクラ、アンコの順で書いていくと、サゲで字数が足りなくなり、ついついサゲを端折ることになります。読者の読後感をつくりだすのはサゲであり、尻切れトンボに終わればコラム全体が台無しになります。サゲは削れません。存分に字数を費やして書き、削るべきはアンコで削るのが「編集手帳」の流儀です。」とあり、なるほどと思いました。
 やはり文章にも起承転結が大事ですが、コラムのような短い文章では、マクラという書き出し部分、そしてアンコという本題、そしてサゲという余韻部分の三つで構成するそうです。
 この「編集手帳」は、現在458文字ですから、まさに短い文章ですが、「之字運動」のようなジグザグ航法を心がけているそうです。つまり、書き出しのマクラを読んだだけでは本題が何であるかまったく見当がつかないが、本題のアンコで簡潔にその概要を説明し、サゲの部分ではあまり本題を意識せず、「笑いを誘うもよし。涙を誘うもよし。ホッと息をつけるような、あるいはしみじみするような、読者を本題の緊張から解き放つ文章をもって最善とする。筆者の人生観がしのばれて、かつマクラと関連した締めくくりならば申し分ない。」といいます。そして、キーワードは「余韻」だそうです。
 なるほど、なるほど。
 やはり、技術はあるようで、後進の者は、やはりハーツーでもなんでも、学んだほうが得のようです。
 もし、文章を書こうと思ったら、そして、なるべく簡潔な短い文章ならなおのこと、この本を読んでみてください。必ず参考になると思います。
(2013.4.15)

書名著者発行所発行日ISBN
「編集手帳」の文章術(文春新書)竹内政明文藝春秋2013年1月20日9784166608966

☆ Extract passages ☆

 将棋が好きで、NHKの将棋番組をよく見ます。あるとき、解説役の高段者が話していました。「プロの棋士は第一感を捨てるものです」。ある局面でどういう手を指すか。真っ先に浮かんだ手は採用しない、捨てるというのです。
 なぜ捨てるかまでは説明してくれませんでしたが、想像はつきます。自分が容易に思いつく指し手ならば当然ながら、相手だって同じ手に気づいているはずです。何か手ごわい対策を練っているかも知れない。用心、用心、別の手を考えよう、というわけでしょう。コラム書きの発想に似ているな、と思いました。
(竹内政明 著 『「編集手帳」の文章術』より)




No.815 『昆虫学ってなに?』

 格式張った書き方をしないので、著者の本は大好きです。しかも、本当に昆虫好きっていうのが、伝わってきます。この本のなかでも、小さいときのことが書かれていますが、昆虫少年だったようで、いわば「虫屋」です。
 だから、そこに昆虫がいるかのような書き方で、とても臨場感があります。よく、そのような細かい点まで見ているよな、という驚きもあります。何気ない動きにも、それなりの理由があるというのがよくわかります。
 たとえば、ユスリカなどが一ヵ所に集まって飛ぶ「群飛」も、それなりの理由があると初めて知りました。しかも、切実な理由でした。
 そこで、下に抜き書きさせてもらいましたが、なるほどと思いました。
 また、シリアゲムシやガガンボモドキなどは「婚姻贈呈」をするそうですが、それにもいろいろのバリエーションがあり、まさに人間と同じではないかと思いました。クリスマスに贈り物をしたり、あるいはバレンタインデーにチョコレートを贈るなど、それなりの思いが込められています。それらをより直感的に表現したものが昆虫の世界です。そう考えてこの本を読むと、人間がこれら昆虫のやり方を真似たのではないかと思うところもあります。まあ、そんなことはないでしょうが。
 そうそう、まだセミの鳴き声を聞くにはだいぶ時間がありそうですが、あのセミの鳴き声は、『腹の付け根の下側には大きな白い膜でできた耳がある。メスのセミはこの耳でオスの鳴き声を聞き、しっかりした声で鳴いているオスのところへ飛んでいく。夏のいわゆる「せみ時雨」は、オスがメスを呼び、メスが丈夫なオスを選ぶプロセスなのである。』と知り、あのうるささも納得しました。
 この本は、昆虫学というよりは、昆虫そのものの珍しい生態が多く載っていて、読んでいて楽しくなります。奥本大三郎が「ファーブルと日高敏驕vという題で解説を書いていますが、まさにファーブルを呼んでいるような感覚です。
 そういえば、著者はファーブルの本も翻訳されていますから、似てくるのもある意味当然なのかもしれません。
(2013.4.12)

書名著者発行所発行日ISBN
昆虫学ってなに?日高敏青土社2013年2月20日9784791766895

☆ Extract passages ☆

 群飛(swarm)をする虫は、どこででも育つような虫である。たとえばユスリカは、ちょっと水のあるところならどこででも育ち、その場所で成虫になる。もしオスがメスを探して飛んでまわるとしたら、オスはそれこそそこらじゆうを飛んで探さねばならない。メスはどこにいるかわからないからである。
 チョウのように、特定の植物の上で育ち、その近くで成虫になるのとはちがう。チョウのオスはその植物のありそうなところを飛び、似たような葉の植物を見たらそこへ近寄っていく。そして目ざす植物の匂いがしたら、そのあたりを丹念に探すのである。
 ガ(蛾)は夜の閣の中でオスがメスを探すが、ガのメスはそれぞれの種に特有のフェロモンを放つ。オスはその匂いを探して飛びまわり、匂いを感じたらその中でメスの姿を探す。けれどユスリカのメスはフェロモンなど出さない。そういう虫のオスとメスがうまく出合うにはどうしたらよいか、そこで採用されたのが"群飛の戦略"である。
(日高敏 著 『昆虫学ってなに?』より)




No.814 『はじめての植物学』

 この本は、ミャンマーからの帰り道、東京駅近くの八重洲ブックセンターで買ってきた1冊です。なんのことはない、たまたま著者の新しい本だと思い、求めたものです。
 副題は「植物たちの生き残り戦略」とあり、著者は「はじめて」のところに「この本は・・・・・・植物のことを少しでもよく知る参考になればと思って、書いた」と書いてますので、いわば植物はそれぞれいろんな生き方をしているのだということにスポットを当てているようです。
 著者と直接お話ししたのは、鎌倉である会の総会をしたときのことで、小野川温泉にもなんどか泊まったことがあるということで話しが盛り上がったことを今でも覚えています。そして、植物だけではなく、いろいろなところに興味を持たれる方だと感じました。だからこそ、植物を多方面から見て、その謎解きもできるのだと思います。
 たとえば、この本のなかでも、枝につく葉との間の軸の役割についてです。あまり重要だとは考えてもいませんでしたが、「軸状のつくりをした葉柄の重要な役割は、葉の太陽に対する位置や角度を太陽の動きに合わせて調整することにあるといえる。太陽の光に直交するように葉身面の位置を変えることで光合成の効率は高まり、生産活動も効率よく進むからだ。」と知り、なるほどと思いました。さらに、「葉柄をもつことで、葉を茎や枝から飛び出した位置に配置できるメリットもある。光の受容に効果的なだけではなく、茎や枝に密着しているよりは、大気中の二酸化炭素ガスの吸収に効果的ともいえるだろう。」というのです。
 まさに目から鱗です。たかが葉と枝をつなぐ軸ではないのです。「葉柄はちっぽけな存在にすぎないが、その役目はかなり大きなものがあるといえそうである」ということです。
 著者の目を通すと、なんでもないことが、ちゃんと理由があってそうしている、ということがわかります。
 帰宅の途中の山形新幹線のなかで読み、その後、ミャンマーの写真や資料を整理するのに追われてなかなか読むことができずに、4月の新年度に入り、少し落ち着いたころから、また読み始めました。好きな対象物は、どこから読んでも、いつ読んでも、スーッと思い出すこともなく続けられます。
 もし、これから春になり、少しは植物たちとも触れ合いたいな、と考えているなら、ぜひお勧めの1冊です。
(2013.4.9)

書名著者発行所発行日ISBN
はじめての植物学(ちくまプリマー新書)大場秀章筑摩書房2013年3月10日9784480688958

☆ Extract passages ☆

 樹齢100年を優に超えるスギやイチョウなどの大木に限らず、道端に生えるハコベやオオバコなどの草も含めて、ほとんどの植物は大地に根を張って暮している。それがゆえに植物は簡単には移動できない。その点は楽に移動できる動物と根本的に異なるところだ。たとえ現在暮している場所が、暮しに不向きになったからといって他の場所に移動することは植物には叶わない。移動するには種子が、親元(母株)から離れたところで発芽定着するのを待つしかない。自分の代では移動できないのが植物であり、哺乳動物や鳥類などのように日々大地や空中を動きまわって暮す多くの動物とは大ちがいである。まさに植物の植物たるゆえんは、大地に根を張って暮し、移動できないことにあるといってもよい。
(大場秀章 著 『はじめての植物学』より)




No.813 『みちくさ道中』

 著者は、木内昇(のぼり)という2011年に『漂砂のうたう』で第144回直木賞を受賞した作家ですが、略歴も知らずにこの本を読み始め、なかなかおもしろいと思って、後から略歴をみました。この本は、いわばエッセイですが、その目の付け所が他の人とは違い、そこにおもしろさを感じたのです。
 たとえば、読書にしても、これは私もそう思っているからでしょうが、「読書は、ともかく自由だった。六ムシのように人を集める必要もない。いつでも、どこでも、ひとりで愉しめる。しめた、これはいい遊びを見つけた、というのがその頃の感覚だったと思う。未だにこの感覚はあまり変わっていない。風評をあてにしたり、流行に鑑みたり、批評や分析をすることもなく、好きな本を自由に選び、純粋 に読書を楽しんでいる。」というのはいいと思いました。この中の「六ムシ」というのは遊びだそうですが、もし、どのような遊びか知りたかったら、この本を読んでみてください。
 本を読むきっかけは、著者の言うように、どんなことでもいいと私も思っています。
 1冊本を読むと、次に読む本のきっかけになります。きっかけがきっかけをつくり、いつの間にか自分の本のワールドが決まってきます。
 だから、本にもみちくさが必要だと思います。たまたま手に取った本がおもしろかったとか、偶然にある人から教えてもらった本がたのしかったとか、この「本のたび」で知った本を読んでみたとか、なんでもきっかけになりうると思います。
 希望としては、この「本のたび」のコーナーで紹介された本を読んだらおもしろかった、と言っていただけるのが一番ですが、それはあくまでも希望であって、そういうこともあればなあ、という程度です。
 この本を読むと、世の中にはいろいろな見方や考え方がある、ということがわかります。しかも、この本を読んだだけで、著者がまさか時代小説みたいなものを書いているとは考えつかないと思います。それも興味深いものの一つです
(2013.4.6)

書名著者発行所発行日ISBN
みちくさ道中木内 昇平凡社2012年12月25日9784582835922

☆ Extract passages ☆

 まさに流れ流されの浮き草人生。しかしそんな身ゆえ、心がけていることがひとつある。自分に起こつた事柄は引き受ける、という単純な決め事だ。それが不可抗力であれ、自らの意志とは関わりないことであれ、背負ってしまったほうが楽だと、これまたあるときから開き直った。もちろんすべてが容易に背負いきれるものではないが、といって嫌なことがあったとき元凶となるところをしつこく恨んだとしても状況が改善するわけではないからだ。それよりも、どうすればいいかな、と考える。どうにもいい案が浮かばぬときは、あまり思い詰めず「なんとかなるさ」と一旦据え置く。あまりに相手が悪ければ、潔く退却する。そうこうするうち、あっという間に一年が経ってしまい、「今年もバッとしなかった」と肩を落とすハメになるのだが、この、ひとつひとつ小石を積み重ねていくような作業が、いつの日かなにかしらの形を成すのではないかと、あくまで楽観的に構えている。
 人生、思い通りにいかぬところにこそドラマがある。そう自分を慰めつつ、たとえどんな時代を生きても、「これはこれで面白かった」と思える胆力をつちかえれば、と実は密かに、贅沢な夢を抱いているのだ。
(木内 昇 著 『みちくさ道中』より)




No.812 『老年力』

 どちらかというと、曽野綾子の本はときどき読むが、この本の著者の本はほとんど読んだことがないことに気づきました。だいぶ前に文化庁長官に就任したことがあるとは知っていました。だからといって、読んでみたいとは思いませんでした。
 この本を読んではみたものの、あまり印象はなく、そこで著者略歴を調べてみると、1995年に出版された『大老年 老いて発見する男の生きがい』海竜社、があり、あまりにも似た題名にびっくりしました。この本の副題も「老境こそ第二の人生」とあり、これもなんかに似ているなと感じました。
 でも、なるほどという箇所もあり、たとえば、「第一の人生は自分が選んだというよりも、環境に与えられた、という面が強い」とあり、「第二の人生は、それが本来的に自主的なものだということに特徴がある」と書かれていました。考えてみれば、当然といえばその通りですが、このように言葉にしてみるとなるほどと思います。とくに、作家との交流の話しは、同じ作家という立場だからこそ、見えてくるものがあります。
 また、曽野綾子の話しは、まさに身内だからこその話しで、むしろ、そのことが今まで曽野綾子の本を何冊か読んできて、なるほどと思い当たるところがありました。
 たしかに、年を感じるようになれば、それこそ第二の人生の始まりです。それには個人差もあり、それなりの心と体の準備も必要ですが、急にやって来られると、慌てふためくかもしれません。そのようなことがないように、この本を読んでおくのもいいかもしれません。
(2013.4.3)

書名著者発行所発行日ISBN
老年力三浦朱門海竜社2012年12月9日9784759312812

☆ Extract passages ☆

 職業は特定のタイプの人間を要求するものではなく、それなりの能力は期待はするが、さまざまな性格の人間たちによって、構成されている。たとえば銀行は違う個性の行員たちの、その個性の差の働きが、銀行の運営と発展によい結果となることを期待する。
 こういうさまざまなタイプの人間が集まって仕事をしているのだから、人間的なトラブルが起きないほうがおかしい。そのトラブルを通じて、銀行は現在の状況や、未来の見通しに、多くの問題があることを知りうるのだし、内部の争いの結果として、銀行の未来の形が作られてゆく。
 その意味ではウツプンは大切なものなのである。ある組織の中の人間はそのウツプンについて誠実であらねばならない。そのようなものを感じないで、体制の中で、何も感ぜずに、何の問題意識も持たずにやってゆける人というのは、いわば銀行備えつけのコンピューターのソフトのようなもので、便利ではあるが、それだけのものである。
(三浦朱門 著 『老年力』より)




No.811 『わたしの山小屋日記 〈秋〉』

 論創社という出版社の本を初めて読みました。著者は、ヘンリー・D・ソローの『ウォールデン 森の生活』や『シートン動物記』などの訳者として知ってはいましたが、訳本以外は読んだことがありませんでした。
 副題は「動物たちとの森の暮らし」で、カラー写真がふんだんに使われ、あっという間に読み終わりました。ページ数は、たったの96ページです。でも、装丁も丁寧で、ときどき引っ張り出しては読んでみたい1冊です。
 内容はといいますと、ほとんどの人があまり興味を持たないようなモグラやヒミズ、そしてアカネズミなどですが、リスやムササビなども登場するので、とてもおもしろいです。なかでも興味を引いたのが、都市の鳥、カラスやハト、そしてスズメの共存です。これは「知恵は小さなものにつく」の項で、この本のために書き下ろされたものだそうです。そういえば、この本のほとんどが朝日新聞の別刷PR版に載ったものだそうです。
 普通に考えれば、もしパンくずが落ちていれば、最初にハトが見つけたとしても、あの悪賢そうなカラスが横取りするはずです。たしかにそうですが、ハトはあまり大きなパンくずでは細かくしないと食べられません。カラスが大きなパンくずを突っついて持ち去った残りの大きさがちょうどいいらしいのです。さらに、それをハトが突いて飛ばしたもっと小さな小片はスズメのものになるというわけです。
 つまり、いくらパンくずがそこにあったとしても、それだけでは自分のものではありません。くちばしでつまんだパンくずだけが自分のものです。つまめないものは、だれのものでもなく、みんなのものだというわけです。さらに驚いたことに、小さな種ほどすばしこくて、たとえ追い払えたとしても、捕まえることはできないのだそうです。ということは、これらカラスやハトもスズメも、みんな生きられるというか、ある意味、共存関係にあるということになります。
 人間は、どうしても強いものに巻かれやすい傾向がありますが、鳥たちはみなそれぞれに自分の個性で生きていると思いました。そして、著者のように、少ししつこいぐらいに見つめ続けなければ、その共存関係は見えてこないのではないかと思います。
 小冊ながら、写真もいいし文章も慈愛に満ちていますので、ゆったりしたいときにでもお読みください。
(2013.3.31)

書名著者発行所発行日ISBN
わたしの山小屋日記 〈秋〉今泉吉晴論創社2012年10月15日9784846011758

☆ Extract passages ☆

 わたしのリスの道は、シートンがいう木の上の道をモデル化して、人の背の高さほどのところに再現するものです。もし、これをリスがふだんの暮らしでよく使い、地面の道ははとんど使わないことが明らかになれば、シートンの言葉が裏付けのあるものであることを証明できます。
 さて、わたしの山小屋をとりまくリスの道(一周約60メートル)をつくって4年たちました。リスはその道を使って毎日のように山小屋のまわりを走っています。でも、わたしが見るかぎり、地面を走って山小屋を一周したリスは1匹もいません。
(今泉吉晴 著 『わたしの山小屋日記 〈秋〉』より)




No.810 『哲学のヒント』

 新聞の書評欄を見ていたら、この本が紹介されていて、ちょっとおもしろそうだと思って読んでみました。哲学って、取っつきにくいと思っていましたが、基本的な学問だということがわかりました。
 著者も、田辺元の『哲学入門――哲学の根本問題』の中に書いてある「哲学は自分が汗水垂らして血涙を流して常に自分を捨てては新しくなり、新しくするというところに成立つのです」という言葉に出会い、哲学の道に進むきっかけになったそうです。
 やはり、哲学はすべてをきっちりと見ていかないとできないそうで、たとえば上座部仏教には「白骨観」というのがあり、それを第3章「死」虚無のまなざし、で柳田聖山の『禅思想』(1975年)から引用していました。ここでも、ちょっと長いけれど引用させてもらうと、「塚原や墓地のあちこちに、無数の死体がころがっている。観察者は、それらの一体を選んで近くに座をしめる。日光にさらされて、死体が膨張し、腐敗し壊滅してゆくのを、何ヵ月もじっと見守るのである。食事や用便のために、しばらく席をはなれることがあっても、たえず変形してゆく死体のすがたが眼底にやきついて、瞬時も消えぬように工夫をかさねるのである。死者の髪や皮膚が風でとびちり、白骨が雨水にあらわれて露出する。それもやがて風化して四散し、土にかえる。まさしく四大みな空に帰するのである。骨肉は土と化し、血は水と化し、熱は火にかえり、息は風となる。」というのが、白骨観だそうです。
 まさに厳しい修行ですが、実際にはインドのバラナーシーに行くと、それが日常茶飯事に行われています。昨年12月にも行きましたが、生活の場が火葬の場でもあり、そこここに死体が無造作に転がっている感じです。目を背けたくなる光景ですが、インドの人たちはそれが当たり前のこととしてほとんど無関心のようでした。
 前回は『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』という本を読みましたが、そのような光景を毎日見ていたら、死ぬのも生きるのも大差ないという感じになるのかもしれません。
 「はじめに」というところで、「生きた哲学を求めて」とありましたが、まさに生きるも死ぬも、どのようにするのが一番いいのかを考えることが大切だと思います。
 そのためには、やはり哲学は必要なんだろうなと感じました。興味のある方は、ぜひお読みください。たった760円+税で、哲学のヒントがつかめます。
(2013.3.29)

書名著者発行所発行日ISBN
哲学のヒント(岩波新書)藤田正勝岩波書店2013年2月20日9784004314134

☆ Extract passages ☆

 私たちの普通の経験では、ものは、観察者がどの位置に立つかによって、また、明るさや光の当たり具合によって、それぞれ違ったように見えます。同じコインであっても、上から見れば円に見えますし、横から見れば長方形に見えます。斜め上から見れば楕円形に見えます。茶色の銅貨が光の当たり具合によって金色に輝くということもあります。また同じ月でも、ただ単に彼方にある天体としか見ない人もいれば、自分にほほえみかけてくれるものとして受けとめる人もいます。同じものでも、どこから見るかという、その位置によっても、また、見る人の関心や気分によっても、大きく遣って見えます。
 しかし自然科学は、ものの真の姿は、そういうそれぞれの見え方のなかにではなく、その偏りを取り除いたところにあると考えます。つまり、通常私たちは、たとえばコインを見るとき、自分の視点からしかそれを見ることができないのですが、そのような観察者の視点に左右されないで、ものがニュートラルに観察されるような三次元空間を想定して、そのなかにコインを置き直して見るということを科学はします。特定の視点というものでゆがめられない、つまり、主観の影響をまったく受けない、もの本来のあり方というものを想定するのです。
(藤田正勝 著 『哲学のヒント』より)




No.809 『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』

 たまたま手に取って、ちょっと目次を見て、ちょっと読んでみただけでしたが、そのまま著者の世界に引きづり込まれた感じです。つい、「そうそう」と思いながら読んでいました。
 本を読むときには、ちょっと離れたところから読んでいると、著者の意図がわかるように思いますが、この本のように引きづり込まれると著者の思うつぼにはまります。それもまた、本の醍醐味ですが、ついついカード記入も14枚ほどになってしまいました。
 この題名は、おそらくほとんどの人が意識するしないに関わらず関心のあることだと思います。おそらく、「死ぬのが怖い」というのが本音だと思います。では、なぜ「死ぬのが怖い」のか問われても、なかなか答えられるものではないようです。著者は、システムデザイン・マネジメント研究科の慶大大学院教授ですから、このような学問分野横断的な本も書けたのではないかと思います。というよりは、個人の資質にも大きく依存した内容になっているように感じます。
 では、この本を読んで、ほんとうに「死ぬのが怖い」ということがわかったか、あるいは「死ぬのが怖い」ということがなくなったか、というとやはりそうはなりませんでした。著者の考え方はわかりましたが、誰も死んでその体験を解説してくれたわけではないので、やはりわからないというのが本音です。だから、「死ぬのが怖い」わけです。
 お釈迦さまは、死後の世界はわからないといって、その質問にいっさいお答えにはならなかったそうです。それが一番誠実な答えであるように思います。
 だって、見たことも直接経験者に聞いたわけでもないのに、つまりはなんにもわからないのに、答えられるわけはありません。
 ただ、この本を読んで思ったのは、「死」ということをときどきは考えながら生きていくべきではないかということです。つまりは死に対する心構えです。たとえは悪いかもしれませんが、いわば大震災が起きたときの避難訓練みたいなものです。急にやってきて慌てふためくよりは、常々考えておくことによって冷静に対処できるような気がします。あるいは、できないとしても、よりよく生きることはできると思います。
 まさに死と生は表裏一体の関係です。死を考えることは、生を考えることでもあります。
 いかに死を迎えるかということは、いかに生を生ききるかということでもあります。
 もし、「死ぬのが怖い」という方は、ぜひお読みいただければと思います。
(2013.3.26)

書名著者発行所発行日ISBN
「死ぬのが怖い」とはどういうことか前野隆司講談社2013年1月8日9784062177429

☆ Extract passages ☆

 今と、生まれてから今までと、今から死ぬまでが、あなたにとってのすべての世界なのだ。それだけだ。
 メタファーとしては、宇宙と似ている。宇宙は、前にも述べたように、あなたから離れるほどつぶれていき、百三十七億光年の彼方では何と長さがゼロになるのだ。そして、その外という概念はないのだ。想像はできるが、ないのだ。これと似ている。
 あなたの主観世界は、今という中心が巨大で、今のクオリアが(幻想とはいえ)、生き生き、ありありとしている。今の前後も、ありありと想像したり、思い出したりできる。しかし、所詮は、想像したり、思い出したりするだけだ。体験はできない。
 つまり、あなたには「今」しかないのだ。もちろん、僕にも。
「過去についてくよくよしたり、未来について悩んだりせず、今を生き生きと生きよ」という人がいるが、そうではなく、今しか、生き生きと生きられないのだ。
(前野隆司 著 『「死ぬのが怖い」とはどういうことか』より)




No.808 『ミャンマーの国と民』

 先月25日から今月8日までミャンマーに行ってきたということもあり、なぜかミャンマーについて書かれた本をつい手に取ってしまうようです。この本もその1冊です。
 これは著者がミャンマー語を覚え、それを駆使しながらミャンマーの農村に滞在し、直接自分が体験したり聞き書きしたりしたものを日本の村と比較対照しながら書かれたものです。だから、副題は「日緬比較村落社会論の試み」です。
 この本のおもしろいところは、直接自分が体験したことが基になっているところで、出身地の房総半島の南端に位置する村で生まれたそうで、しかも農家の長男で末っ子だそうです。そこには住んでいないにもかかわらず、「跡取り息子」の立場から父が倒れたら農業の手伝いをしなければならなくなり、そこの様々なおつきあいまでも引き受けざるを得なくなったそうです。その経験も村落比較の対象になっています。
 私もミャンマーの村に行ってびっくりしたのは、おそらくその家の主人だと思うような振る舞いをしていたので、そのように信じていたのですが、まったくの他人で同じ村に住む住人だそうです。この本にもそのような記述があり、「村で会った者はちょっとあごを上げるくらいで何の挨拶もしない。挨拶もせずに、屋内に入り込んで新聞を読んだりお茶を飲んだりしている者もいる。そして、その茶飲み茶碗はその家で普段使っているものだったりする。村には明確な挨拶の言葉はなく、黙ってスーツと敷地や屋内に入ってくるのが普通である。家々の簡素な造りゆえに家族の会話も筒抜けである。・・・・・・どうもミャンマーの場合は目的や形式がルーズであり、その分頻繁に往来しているように見える。」とあり、私もまったく同じように感じました。だから、その家の主人だと勘違いもしたわけです。
 だから、下の抜き書きとあわせて考えるとよくわかるのですが、さらに「抑圧的体制の中でもミャンマーの村人が自由に見えたのは、農地国有制や供出制のような国家管理から自由である、すなわち農地からも国家管理からも自由である二重の意味で自由な土地なし村民が多数存在するという経済的な構造だけでなく、村人は対人関係からも集団からもいつでも離脱できるという社会的な基本構造の故である。」といいます。
 やはり、ちょっと通りすがりの旅行者には見えないことがいっぱいあります。この本を読み、あらためて納得したこともたくさんあります。
 もし、ミャンマーに少しでも興味がありましたら、ぜひお読みいただきたい1冊です。
(2013.3.23)

書名著者発行所発行日ISBN
ミャンマーの国と民橋昭雄明石書店2012年11月10日9784750337012

☆ Extract passages ☆

 ミャンマーの村では、国家の閉鎖的体質とは異なり、家も村も外部に開かれている。だからこそ、村落法によって村落外の者の宿泊に障壁を設けたり、外国人の訪問を報告させたりする必要があったのである。このように、「開かれている」という意味で、家も村も個人が内部であるいは外部と繋がる中間集団であるにすぎない。こうした構造が個人に自由をもたらし、外部の異邦人に対する寛容性を持たせることになった。ただし、村の壁が薄いために強権的な政策が内部に浸透しやすく、それに対し個人が下級役人と結びついて供出制度や土地管理制度を換骨奪胎したり、最悪の場合は別の村に移動したりして厳しい政策を緩和させることによって、かえって硬直的な政策が長続きすることにもなった。
(橋昭雄 著 『ミャンマーの国と民』より)




No.807 『禅寺モノ語り』

 3月17日から春彼岸で、今日は彼岸の中日です。それも陰に陽に影響したのかもしれませんが、今、『禅寺モノ語り』を読んでいます。
 モノにはすべて来歴があり、特に宗教的なモノには起源があり、その変遷をみると、そのモノそのものが見えてくるように思います。でも、他のモノと違い、宗教的なモノには宗派の違いや中国や朝鮮半島をへて入ってきたこともあり、そもそも宗教とどのような関わりがあるのかも薄れてしまっている場合があります。
 この本は、もともと臨済宗妙心寺派の『花園』に平成22年4月から24年3月まで連載されたものがベースになっているそうです。つまり、一種の機関誌ですから、臨済宗妙心寺派の法具や荘厳具が中心です。なかには、同じ禅宗である曹洞宗や黄檗宗では同じものを違う名称で呼んでいることやその違いなどにも言及されています。
 読んでみて、宗派による違いや、もともとインドから派生したモノではなく中国から使われはじめたモノもあり、なかなか興味深いものがありました。
 たとえば、位牌などは中国の影響によるものですが、『中国人は、人間は「魂」と「魄」からできていると考えていました。魂とは、すべての物質を構成している元素である気が純化・均質化されたもので、魄は血・肉・骨といった濁った濃い気を指します。人間が生きている時には、この魂と魄とは一つに合わさっていますが、死ぬと魂と魄は分離し、魂は天に帰り、魄は地に帰ってしまうと考えられたのです。先祖のお祀りは親孝行の一環として、中国では義務とされていたのですが、お祀りをする時には、天地に分散した魂と魄を合わせて祀る必要がありました。肉体である魄は墓に埋葬してあるので問題ありませんが、天に散った魂は呼び戻す必要があります。そこで魂を集め宿す場所として位牌が作られたのです。』と儒教で行われていたことを裏付けています。
 このように、さまざまなモノの解説をしていて、とてもわかりやすいと思いました。
 また、数珠は古い時代のインドから始まったモノですが、このようなことが書かれているという一つの例として下に抜き書きしました。
 これを読み、興味を持たれたら、ぜひこの本を読んでみてください。
(2013.3.20)

書名著者発行所発行日ISBN
禅寺モノ語り玄侑宗久 編春秋社2012年10月15日9784393135648

☆ Extract passages ☆

 その由来は大変古く、インドでは仏教が生まれる前から、すでに礼拝の道具として使われていたという記録があります。
 木や草の実などを糸でつなぎ合わせ、神々の名前や祈りの言葉などを何度誦えたか、爪繰りながら数えるための道具だったとされています。
 それが長い歴史を経て、世界中に広まってゆきました。
 インドの古い言葉(梵語)では「ジャバマーラー」などといいますが、「ジャバ」は呟き念じること、「マーラー」は(花の)輪を意味します。
 これが古代キリスト教に取り込まれ、カトリック教会などで用いられている「ロザリオ」になったとされていますし、イスラム教やその他の宗教でも独特の形に発展したものが使われています。
 日本へは仏教とともに伝えられましたが、珠や房の数、材質、色、形、大きさなど、宗派や時代によって色々に違いがあり、その功徳もさまざまに説かれます。
(玄侑宗久 編 『禅寺モノ語り』より)




No.806 『草木の種子と果実』

 副題に「形態や大きさが一目でわかる植物の種子と果実 632種」とあり、なかの種子の写真も同じ青いカッターマットのような方眼紙の上に載せて写真を撮っています。だから、そのまま大きさを表すスケールにもなるというわけです。
 この本は読むというよりは、見るとか調べるもので、裏表紙には「一般向けでは初めての本格的な種子果実図鑑」とありますから、位置づけとしてはやはり図鑑です。
 でも、眺めているだけで、世の中にはこんなにもいろいろなタイプの種子や果実があるのかと驚いてしまいます。一昨年、スリランカで見た「フタゴヤシ(ダブルココナッツ)」は、「世界のオモシロ種子&果実」の一番最初に取り上げられていました。この種子は、世界でもっとも大きなもので、セイシェル諸島原産で1属1種の珍しいヤシの仲間で、長さは35〜40センチ、重さは20キログラムにもなります。まさに世界最大の種子です。
 この種子というのは何かというと、その定義をこの本から抜き書きしたのを下に載せました。参考にして、種子やその作りなどを考えてみてください。植物にとって、とても大事なものだということがわかるかと思います。
 この本の中には、ところどころに問題も出ていて、その答えが最後のほうに掲載されています。
 そういう意味でも、まさに一般向けで、著者も学者というよりは写真家や植物ライターやフリーランスの編集者だったりするので、とても読みやすく構成されています。
 普通の植物の本は春に出版されるのが多いのですが、種子や果実を扱うので、わざと秋に出版されたのではないかと思いました。やはり、このような図鑑は、いつも手元に置いておくことが大事です。もし、わからない種子や果実を見つけたら、これですぐ調べてみる、そのような習慣をつけることが大切です。
 花や葉や幹模様の図鑑はありますが、このような種子や果実だけの図鑑はあまりありませんので、植物好きなら、必携の1冊です。
(2013.3.17)

書名著者発行所発行日ISBN
草木の種子と果実鈴木庸夫・高橋 冬・安延尚文 共著誠文堂新光社2012年9月28日9784416712191

☆ Extract passages ☆

 種子とは、裸子植物と被子植物が持つ生殖器官の1つであり、受精卵から成長した胚を元の植物とは離れた場所に散布し、胚を発芽させる役割を持つ。また条件が悪い場合には、一定の間、胚を休眠させておくこともできる。
 種子はおおまかに受精卵が成長した胚と発芽などに必要な栄養を貯めている胚乳を、種皮が包みこんでいる。種子の中には、マメ類のように胚乳が退化し、代わりに子葉に栄養分を貯めているものもある。また胚珠の柄や胎座が変化して種子を覆った、仮種皮を持つものもある。
(鈴木庸夫・高橋 冬・安延尚文 共著 『草木の種子と果実』より)




No.805 『「心の時代」にモノを売る方法』

 最近、モノがなかなか売れないという話しを聞きますが、その根拠を聞くと安いところから買うのでというのがその理由のようです。ということは、モノが売れないのではなく、買い方が違うようになってきたからのようです。
 たしかに、必要とするモノは通販で取れるし、しかも価格比較して少しでも安いところから手に入れようとします。
 ところが、この本の副題には「変わりゆく消費者の欲求とビジネスの未来」とあり、その通販生活すら変わりつつあるように思います。そのような気持ちから、この本を読みました。
 たとえば、この本では、食というものの消費も推移すると考え、東大大学院農学生命科学研究科教授の中嶋康博氏の説を取り上げ、「胃袋を満たす時代には、とにかくお腹さえ膨れれば、それでよかった。それが舌で味わう時代になってくると、おいしくなければならない。いろいろなものを食べてみたい、盛り付けが素敵といった要素も加わってくる。さらに頭で楽しむ今の時代になると、これはどこで採れたものだろうか、どんな人が作っているものだろうといったことなどが、食べることに関わってくる。生産者が社会貢献を行っていたり、安全性確保にレベルの高い取り組みをしたりしていることなども、評価につながってくる。」と書いています。
 たしかにその通りで、胃袋を満たすことさえできないとすれば、地球環境を護ろうといっても、それは何処吹く風でしかないでしょう。昔の川柳に「ひもじさと 寒さと恋を比べれば 恥ずかしながら ひもじさが先」というのがありますが、まさにそのことを突いています。
 でも、今の日本は違います。だから古い流通形態や販売方式では売上を増加させるのは難しいのです。つまり、先の話でいえば、「頭で考える時代」ですから、それに対応するやり方をしなければならないはずです。
 でも、この本では、その具体的方法はあまり書かれていません。ヒントはたくさんありますが、職種が違い地域が違えば、その対応する方法も違ってきます。
 先ずは、ヒントを参考にして実践してみることです。その良い例が著者のいう「実践知」という考え方です。
 それを自転車に乗れるようになることを参考にして書いていますから、下に抜き書きしました。
 とてもわかりやすいたとえなので、ぜひお読みください。
(2013.3.14)

書名著者発行所発行日ISBN
「心の時代」にモノを売る方法(角川oneテーマ21)小阪裕司角川書店2012年11月10日9784041103531

☆ Extract passages ☆

 実践知というのは耳慣れない言葉かもしれない。そこで、その性質を理解するためのわかりやすい例として、自転車を取りあげよう。
 あなたは自転車に乗れるだろうか? 乗れるとしたらあなたは、「自転車に乗る」という実践知を身につけていることになる。
 自転車に乗る練習こそ、まさに実践知を得るプロセスだ。最初は怖いし、転倒して怪我をしたりもするが、とにかく乗らなければ乗れるようにならない。そして乗っているうちにコツをつかみ、上達し、ある日、他の乗れる人たちと同じように乗れるようになる。
 これが実践知の持つ典型的な性質である。
 それゆえ、実践知を磨くためにはまず、実践することだ。自転車に一度も乗ることなく自転車に乗れるようにはならない。そして、とにかくたくさん実践することだ。当会では量稽古と呼んでいるが、たくさん実践する人ほど早く上達する。
(小阪裕司 著 『「心の時代」にモノを売る方法』より)




No.804 『アート・ヒステリー』

 アートというより、美術といわれれば、即座に好きですと答えます。どのぐらい、という程度に関してはあまりわかりません。好きなものは好き、というだけのことです。
 ではアートはといわれれば、なにをアートというかにも関わってきますので、一概には即答できないのです。そのぐらいアートというのは、いわばあやふやな概念だと思っています。だからこそ、この本を読んでみようと思いました。
 実際に美術館に行っても、丹念に題名を見たり解説を読んだりする人もいますが、私は1回もあの音声ガイドを借りたことがありません。たしかに借りればそれなりのメリットはあるかもしれませんが、でもその作品と素直に向かい合おうという気持ちは薄れるような気がします。その作品と面と向かって対峙しようという気概もそがれるかもしれません。つまり、ただその作品を観たくて行くわけですから、自分の感性だけで観てみたいと思うわけです。もちろん、それがいいかどうかはわかりませんが、どんなことにも一長一短はあります。自分がよかれと思えば、それでいいと思っています。
 今までよくわからなかった絵は、たとえばヒロ・ヤマガタやクリスチャン・ラッセンなどのものです。これがアートかといわれれば、アートでしょうが、なんとなく商業的な絵というだけでなく、しっくりこないところがあったのです。
 でも、この本を読んで納得しました。
 この本には、『ヤマガタの絵は、しばしばものすごい数の人が描き込まれているわりには、まったく人間臭さ、生活臭がない均質無菌空間です。人間らしい人間が存在しないユートピアという、転倒した理想 的民主主義の世界。その「平等への欲望」と、レーガノミックスの時代の楽天的な資本主義的欲望との閉じた円環を裏から支えていたのが、ラッセンの「スピリチュアル」でヒーリングムードたっぷりな平和のイメージだった。では、それらがなぜ日本人のツボに嵌まったかと言えば、あのディテールが細かく色彩がファンタジックで現実離れした表層だけの虚構世界が、現代版の"極楽浄土"の図として受容されたからだと思います。だからアートとしての価値は問われなくてよかった。"極楽浄土"を描いた仏画はネットの通販でもよく売られていますが、「デオドラント文化」にとって抹香臭いのはNGです。』と書かれていて、なるほどと思いました。
 つまり、アートかどうかという価値を問われなかったといわれれば、あやふやでもよかったということになります。いや、あやふやだからこその、都合良さでもあります。
 この本では、アートの問題とか日本の美術教育のことなど、いろいろな視点から取り上げていますので、アートに興味がありましたら、お読みください。
(2013.3.10)

書名著者発行所発行日ISBN
アート・ヒステリー大野佐紀子河出書房新社2012年9月30日9784309021331

☆ Extract passages ☆

 アートは、アートワールドの「他者の欲望」が起動する圏内でその誘惑的な力を発揮してきました。生活必需品ではないアートは基本的に、それが欲望される世界でのみ価値をもつ、ある意味で排他的な商品です。これは、恋愛に陥っている人にだけ、相手が五割増しで良く見えるということと似ています。
 恋愛についてのもっとも冷徹な定義は「結晶作用」です。ザルツブルクの塩坑の奥に小枝を投げ込んでおくと、二、三カ月経って小枝はダイヤモンドのように煌めく塩の結晶に覆われているという話を、スタンダールは恋愛の本質になぞらえました。恋愛において人が相手に見ているのは、ただの小枝ではなく、キラキラ光るダイヤである。つまり恋愛とは「結晶作用」である。恋愛は「結晶」という幻想のベールを通して相手を見ることである。身も蓋もないですが、真実とは大概、身も蓋もないものです。
(大野佐紀子 著 『アート・ヒステリー』より)




No.803 『封印された三蔵法師の謎』

 今日から3月ですが、昨夜遅くビクトリアピークのあるナマタン国立公園ないのロッジに着きました。ここは午後6時から10時までしか電気が使えません。つまり、自家発電のようです。部屋に一つだけある電灯も、おそらく20ワットあるかどうかの薄暗いものです。とても、本を読めるような明るさはありません。
 ここに4泊しましたが、山から帰ってのちょっとの時間ぐらいしか読書の時間はありませんでした。でも、キッチンからお湯をもらってきて、コーヒーを入れて、それを飲みながら本を読むだけで、とても豊穣な時間だったように思います。さらに、日本から持ってきたクッキーがあればとても贅沢な気分です。おそらく、この本の主人公の三蔵法師も、大変な旅ながらその合間にはゆったりした時間を楽しまれたのではないかと思いながら、読みました。もし、過酷で危険な連続だけですと、旅を続ける気力もなくなってしまいそうです。
 玄奘三蔵に関する本は何冊も読んでいますが、そのたびごとに、なぜこのような危険なめにあいながら必ず助けてくれる人たちに巡り会うのかとか、長い旅と修学、さらには資料収集のための膨大な資金はどのようにして調達できたのかとか、いろいろな疑問が浮かんできます。でも、ほとんどが、最終的には三蔵法師の偉大さゆえのこととして書かれています。でも、国禁を犯してインドまで行ったわけですから、最初から大金を持ちだしたわけではないようですし、何度か盗賊にも襲われていますから、そのたびごとに無一文になったはずです。
 それらのなぜが、この本では裏付けを示しながら書いています。なによりもこの本がおもしろいので、自分たちで三蔵法師が歩いたところを同じように歩きながら、書いていることです。
 私も気温48.5℃のところを歩いた経験がありますが、あの暑さはもうなんと表現してよいかわかりません。おそらく、三蔵法師もこの本を書いている人たちもその経験をしたからこそ、共感できる部分が多いのではないかと感じました。
 私は今、ミャンマーにいます。そこでこの本を読んでいます。あの赤茶けた大地の上で、自動車の走り去った土埃のなかを歩いています。先ほど、顔に入れ墨をしたチン族のおばあちゃんが通り過ぎていきました。
 やはり、旅先で読む旅の本は、エキサイティングです。
 本の内容はときどきメモしていますが、それより、旅先のロッジの椅子に座って読んでいるだけで、ワクワクします。
(2013.3.7)

書名著者発行所発行日ISBN
封印された三蔵法師の謎(日経ビジネス文庫)テレビ東京 編日本経済新聞出版社2010年9月1日9784532195502

☆ Extract passages ☆

「労」なくしては「実」を得られない。それを玄奘はよく知っていたのだ。いや、過酷な旅の中で学んでいったのかもしれない。玄奘が旅を始めたのは、まだ若き二十六歳だ。旅はさまざまな経験を与えてくれ、若者の心を強くしてくれる。
 玄奘は、旅を通して人間形成を行っていったと言える。
(テレビ東京 編 『封印された三蔵法師の謎』より)




No.802 『辺境・近境』

 2月24日の米沢駅13時47分発の「つばさ142号」で上京し、そのまま成田で1泊しました。そして翌25日の成田発10時45分のタイのバンコク行きの飛行機に乗りました。その旅の途中で読み始めたのが、この村上春樹著の『辺境・近境』です。
 やはり、旅に出たときには、旅関連の本がスーッと頭に入ります。というか、なんか共感が持てるような気もします。
 でも、ミャンマーのヤンゴンに着いたのは夜遅くで、翌朝は真っ暗なうちからバガンまで移動しなければならず、なかなか読む機会も少なくなりました。
 いつもは夜の時間にゆっくり読むのですが、1日中撮った写真やメモの整理、さらには翌日の行程の準備などであっという間に時間が過ぎてしまいました。
 この本の最後の「辺境を旅する」というところで、「このように辺境の消滅した時代にあっても、自分という人間の中にはいまだに辺境を作り出せる場所があるんだと信じることだと思います。そしてそういう思いを追確認することが、即ち旅ですよね。そういう見極めみたいなものがなかったら、たとえ地の果てまで行っても辺境はたぶん見つからないでしょう。そういう時代だから。」と書いていますが、ここミャンマーには、まだ辺境と呼んでもいいようなところがあります。
 ここナマタン国立公園は、チン州にありますが、ここは現在でも政府や林務局の許可がなければ入境できない特別制限地区に指定されています。歩いていると、今でも顔に入れ墨をしたおばあちゃんを見かけます。つい、写真を撮りたいと申し出ると、恥ずかしながらもなんとか許してくれます。聞くところによると、刺青は約1週間程度だそうですが、その後1ヶ月間ほどは痛くて眠れないそうです。現在では顔に刺青をすることは禁止されているそうですから、このような風習もなくなってしまうのではないかと思います。
 そうすれば、やはり辺境の雰囲気はなくなり、一般の旅行者も自由にここまで入ることができるかもしれません。でも、まだ、いくら申請書を出しても許可の出ない場所もあり、そこはまだ民族紛争の火種を抱え、身の危険もあります。
 村上氏は、写真やメモも最低限しか取らないと書いていますが、写真はちゃんと写真家が付いているわけですから、そもそもその必要はないわけです。メモはあまりメモることにばかり気にしすぎると肝心なところを見過ごしてしまいますから、これは私もおおざっぱに書いて、帰ってきてからまとめるときに思い出しながら書いています。その方が、この目でしっかりと見ることができるような気がします。
 旅のやり方は人それぞれですし、今更まねをする気もありませんが、やはり危険を伴うような辺境の旅では、参考になることはなるべく気にとめることにしています。それが、ひいては自分を守るためだからです。
(2013.2.28)

書名著者発行所発行日ISBN
辺境・近境(新潮文庫)村上春樹新潮社2000年6月1日9784101001487

☆ Extract passages ☆

地図というのは魅惑的なものだ。そこにはまだ自分が行ったことのない地域が広がっている。穏やかに、無口に、しかし挑戦的に。聞き覚えのない地名が並んでいる。渡ったことのない大きな河が流れて、見たことのない高い山脈が連なっている。湖や入り江はどういうわけか、どれもすごくチャーミングなかたちをしている。ろくでもない砂漠でさえ、あらがいがたくロマンティックに見えてくる。
 地図の上の、そんな自分がまだ行ったことのない場所をじっと眺めていると、妖女の歌を聴いているときのように、心がどんどんそこに引き込まれていく。胸がわくわくとするのが感じられる。アドレナリンが飢えた野犬のように血管を駆けめぐる。肌が新しい風のそよぎを求めているのがわかる。チャンスの匂いが、破城槌のごとく激しくドアを叩く。いったんそこに行けば、人生をぐらぐらと揺り動かすような何か重大なことに巡り合えるような気がする(実際には、そんなことはきわめて象徴的な領域でしか起こりえないのだけれど)。
(村上春樹 著 『辺境・近境』より)




No.801 『野に咲く花の生態図鑑』

 この本の名の「生態」というところに、この本の特徴があります。「あとがき」によると、この「生態」とは、「花の形や色だけではなく、葉や枝の広げ方、環境の好みなども、植物によって違います。植物が自然界に生活しているありさまのことで、だから植物の生態というと書いています。
 たしかに植物図鑑はいろいろと出ていますが、生態図鑑は少ないように思います。でも、植物は単体で生きているわけではなく、大きな自然のなかで生活しているわけで、その全体を見ることも必要です。
 たとえば、この本のなかのヨツバシオガマのところで、「シオガマ類は特殊な構造の根を他の植物の根に挿入して糖分や水を吸い取っている。自分も葉で光合成を行うが、他の植物から奪う栄養にかなり頼る半寄生植物なのである。だから移植もできないし、タネをまいてもうまく育たない。」と書いています。つまり、植物だって、多の植物たちと寄生したり支え合ったり、なんらかの共存関係にあります。さらには、繁殖するための昆虫たちとの関係も大切です。
 そう考えれば、「自然界の植物はいつどこで芽生えてどう成長し、どんな生き物とどう問わり、どのように花を咲かせて実を結び、種をばらまくのでしょう。人に個性があるように植物にも個性があります。人に対するのと同じように、私は植物のことも理解したいのです。」というのが、わかります。
 下にショウジョウバカマの繁殖方法を抜き書きしましたが、まさにこうなると戦略です。あの可憐な植物たちに、このようなしたたかな戦略があろうとは、それを垣間見れるだけでも、この本を読む価値があります。
 この本は、もともと月刊誌『山と渓谷』に2005年4月号から2008年3月号まで連載した「野花手帖」をもとに新たな写真や記述を加えて再構成したものだそうです。
 機会があれば、ぜひ手に取ってみてください。写真を見るだけでもいいと思います。
(2013.2.24)

書名著者発行所発行日ISBN
野に咲く花の生態図鑑多田多恵子河出書房新社2012年10月30日9784309252704

☆ Extract passages ☆

 花後も花びらは散らずに赤いまま残るが、花茎が高く伸びるにつれて緑色になって上を向く。種子を飛ばす準備ができたのだ。実は裂けて、無数の種子が風に散る。しかし数の代償に種子は小さく、育つ確率は低い。
 そこで再び葉の出番。なんと、地に接した古い葉の先に芽ができて、根を下ろし、子株に育つのだ。分身の術である。親の援助を受けた子株は最初から大きく、生存率も高い。かくして同心円上に子株が並ぶ。遠くへは種子を飛ばしてチャンスを広げ、近くには確実に分身を置く。ユニークで巧みな二重戦略だ。
(多田多恵子 著 『野に咲く花の生態図鑑』より)




No.800 『100の基本』

 何気なく毎日本を読んでいますが、いつの間にか、この『本のたび』も No.800 になりました。もちろん、この他にもいろいろと本を読んでいますが、以前よりは本を読むスピードは落ちてきたようです。でも、楽しみで読んでいるだけなので、冊数より読み続けることを優先したいと思います。
 さて、この本の副題は「松浦弥太郎のベーシックノート」で、著者が日々の仕事や暮らしのなかで、ふと思いついたり気づいたりしたことをメモしていたのが、このような本になったのだそうです。そう言われてみると、なんの脈絡もない言葉が並べられています。
 でも、その一つ一つの言葉には、「なるほど!」と思わせるものがあり、つい18枚も抜き書きカードを作ってしまいました。
 たとえば、「毎日は、判断しなければいけないことの連続です。だからこそ、毎日毎日、迷いますし悩みます。何を選択するか決めあぐねた時は、一番しんどいものを選びましょう。一番しんどいものに取り組むと、否が応でも集中します。慎重になり、入念に準備もするでしょう。結果としてもっとも正しい方法でやることになり、学びも多く、成功につながります。逆に楽な方法を選ぶと、緊張感もなく、何も得られるものがありません。」という具合です。
 「なるほど!」って思うでしょう。
 たしかに、どちらかというと取っつきやすい方からしようとしますが、それは楽にできそうだからです。でも、楽にできるということは、誰でもできるということでもあります。時間をかけて、困難なことに立ち向かうという姿勢はとても大事です。そういえば、私も比較的栽培の楽なサツキよりも、非常に栽培の難しいシャクナゲに取り組んだようなものです。難しいから、その奥行きがあります。いつまでたってもたどり着かないもどかしさはありますが、実生から育てて花が咲いたときの喜びは、何事にもかえられない大きな喜びです。
 ただ、ちょっと気になったのは、100冊の本を読むより、よい本を100回読んだ方がいいということを書いています。たしかに、そういう本もあるでしょうが、いろいろな本を読むことも大切だと思います。そうしないと、よい本にも出逢えないような気がします。
 著者は、『COW BOOKS』という本屋さんの代表もつとめているそうですから、ぜひ、機会があれば訪ねてみたいと思います。
(2013.2.22)

書名著者発行所発行日ISBN
100の基本松浦弥太郎マガジンハウス2012年9月25日9784838724932

☆ Extract passages ☆

自分の経験しか、本当の情報にはなりません。見たり、読んだり、聞いたりしたことは、情報ではなく知識です。知識が増えると、自分の頭でものを考えなくなります。だから知識はほどほどに。
なんでも知っている人ではなく、なんでも考える人になりましょう。「何も知らない自分」は何に対しても素直に向き合えます。世の中には知識があふれています。放っておくと増える一方なので、時どき忘れる努力をしましょう。
(松浦弥太郎 著 『100の基本』より)




No.799 『原発難民』

 著者はフリーのジャーナリストで写真家ですが、だからこそ書けることがあると思いました。自分がしっかり現場に立って、その写真を撮って、そして自分の目で見たことをしっかりと伝えるという意味においてです。
 おそらく、マスコミでは本社の意向もあり、なかなか危険だと思われるようなところには行かず、その周辺から状況を推察するか、あるいは当事者からのインタビューなどで記事にするか、いずれにしても現場からは遠く離れているわけです。でも、著者は違います。そこにリアリティを感じました。
 著者は「はじめに」のところで、『万一のときには何が起きるのか。市民が必要な事実を知り、そのうえで、原発を維持するのか、やめるのかを決める。それが民主主義社会における「インフォームド・コンセント」(十分に知らされたうえでの同意)の原則です。そうした判断材料の一つに、本書がなってほしいと願っています。』と書いています。まさに、その判断材料が欲しいのであって、事実とは違うものを提示されても、なかなか信用できないばかりか、不信感ばかりが募ってきます。
 たとえば、双葉町の井戸川克隆町長は、水素爆発が起きたあとに「断熱材のような破片が雪のようにふわふわと降ってきた」と証言していますが、これはとても大変なことです。広島や長崎に原爆が落とされたときにはこれを「死の灰」と読んでいました。それを政府や記者クラブ系の報道では、「放射性降下物」とか「核分裂生成物」と言い換えていますが、そのような「放射性ダスト」が集まると、「放射能雲」というかたまりになるのだそうです。それが、いわゆる原爆によるキノコ雲と同じだと聞くと、それでは原爆とほとんど変わりない影響があるのではないかと思ってしまいます。
 でも、政府もマスコミも、さらには学者たちも、あまりはっきりしたことは言いません。言われないから、ますます悪く悪くと考えがちになります。
 もともと原子力ムラのど真ん中にいた松野元氏の言葉のなかに、「ビルを建てるときは、防火基準を満たさなければなりません。火事が起きても燃え広がらないような耐火建材を使うし、なかの人が脱出できるように非常口を設ける。でも、安全基準を満たしたからといって、火事が絶対に起きないとはいえない。だからこそ避難経路を決めておく。避難訓練をする。そうでしょう? 許可基準と事故の可能性とは、まったく別の話なんです」というのがあり、まったくその通りだと思いました。
 科学技術のなかで、絶対に壊れない、なんていうことはあり得ないはずですし、いくら万全なことをしたとしても、万が一ということはあり得ます。だからこそ、そのときのことを考えておくべきなんです。それを常々考えないからこそ、いざことが起こったときにあわててしまい、とんでもない判断ミスを犯したりするわけです。この本を読むと、今回の原発事故には、それが多すぎるように思いました。
 この本で、現在までの原発事故の概略を知りました。やはり、自分が考えていたより、深刻だということがわかりました。また、それ以上に心理的ストレスがものすごいことも知りました。
 それは双葉町の井戸川克隆町長の話を聞いただけでも感じました。下にその話しを聞いたときの著者の思いを抜き書きしましたので、お読みください。
 そして、ぜひ多くの方々にこの本を読んでいただきたいと思います。
(2013.2.19)

書名著者発行所発行日ISBN
原発難民(PHP新書)烏賀陽弘道PHP研究所2012年11月1日9784569804170

☆ Extract passages ☆

 鼻血や脱毛など、井戸川町長の体の不調が被曝と関係あるのかは、わからない。ここで重要なのは、そのような「因果関係の有無」ではない。
 井戸川町長のように、放射性物質を浴びた人や、その近辺にいた人たちは、これからも体の不調にいちいち「放射能のせいではないか」「重篤な病気の前ぶれではないのか」と怯えながら生きていかなければならない。彼らは、ごく当たり前の心の平安を失ってしまったのだ。それは、原発事故はじめ放射能災害の被害者にしかありえない精神的被害である。
(烏賀陽弘道 著 『原発難民』より)




No.798 『ブッダとムハンマド』

 2013年1月にアルジェリアで発生した人質事件はとても衝撃的で、その犯行がアルカイダ系組織だとわかり、しかも多くの犠牲者が出たことで毎日報道されました。このアルカイーダというのは、イスラム主義を標榜するスンナ派ムスリムを主体とした国際的なネットワーク組織で、ウサーマ・ビン=ラーディンがアルカイーダの精神的指導者であったといわれています。つまり、イスラム教を名乗っているわけで、このイスラム教の開祖はムハンマドであるというぐらいしか、ほとんどの人がわからないのではないかと思います。
 でも、この本の帯には、「仏教とイスラム教には共通点があった!」とあり、副題が「開祖でわかる仏教とイスラム教」で、ますます興味がわきました。
 もちろん、キリスト教でもイスラム教でも人間が幸福になれるようにすることを目指しているのでしょうが、では、なぜ、歴史を見てもそれら宗教が戦争を起こすのだろうかと素朴な思いがあります。今回の事件も、なぜ起こるのだろうかと、その背景は遠い日本にいてはわからないことだらけですが、やはり気にはなります。
 たとえば、仏教における敵は自分自身のうちに潜む煩悩であり、生物的衝動などはしっかり克服すべきものだと考えます。ところがイスラム教においてはつねに味方と敵がいて、味方は神であり天使であって、敵は悪魔や悪者であるから、当然のことながら征伐の対象です。つまり、その成立当初から争いごとや暴力がついて回っていたようです。たったこの1つのたとえでもわかるように、どこに共通点があるのだかわかりません。
 ところが、この本のあとの方に出てくるイスラム神秘主義、つまりスーフィズムという起源を思うと、そこにインド的なものの考え方が見え隠れします。これこそが仏教とイスラム教の共通点ではないか、というわけです。
 下に抜き書きしましたが、インド精神は「インダス文明以来の古代的精神文化とアーリア文化との融合と統一というダイナミズム」によって生まれたもので、いろいろなものを併せ持つ統合力を持っています。たとえば、インドでは廃れたといわれる仏教ですが、インド人の心の中では脈々と生きていますし、私のインドの友人は、「仏教はヒンドゥー教の一派」だといいます。それだけ、なにごとも包んでしまう包容力をもっているように思います。
 争いごとは、自分が正しくて、相手が間違っている、という認識の違いから生まれます。相手にもそれなりの正しさがあり、自分にもそれなりの正当性がある、だから相手もちゃんと認め合おうとすれば、かなり争いごとが減るのではないかと考えます。それこそが、まさにインド的発想です。
 この本を読んで、いろいろなことを考えさせられました。もし、機会があれば、ぜひ読んでいただきたい1冊です。
(2013.2.16)

書名著者発行所発行日ISBN
ブッダとムハンマド(サンガ新書)保坂俊司サンガ2008年10月28日9784901679978

☆ Extract passages ☆

インド精神史は、インダス文明以来の古代的精神文化とアーリア文化との融合と統一というダイナミズムによって、今日に至る伝統を形成したのである。
 それゆえに、インド精神は、異質なるものへの寛容性や融和、融合という方向が顕著なのである。つまり、インド起源の思想、あるいは宗教は、ユダヤ・キリスト・イスラム(これらを合わせてセム族の宗教と呼ぶ)教のように、自己を絶対化し他者の存在意義を認めなかったり、あるいは排除したりという排他性、独善的傾向をもたないというところに、その特徴があるのである。その淵源は、実にこのインダス文明まで遡ることができるというわけである。つまり、寛容思想は、言わばインド文化における文化的な伝統、あるいは智慧ということができる。それゆえに、この伝統は、排他性や選民思想が極めて強いイスラム教においてさえ、彼等のインド定着後には徐々に寛容の宗教へと変化していったことでも、知ることができる。
(保坂俊司 著 『ブッダとムハンマド』より)




No.797 『ミャンマー』

 ミャンマー関連の本を読んでいますが、今回は、『凍える牙』で第115回直木賞を受賞した乃南アサさんの紀行文です。これはたまたまあるネットで見つけたもので、すぐに注文しました。これといっしょに『ヤンゴン河の虹』というミャンマーの民話集も送ってもらいました。
 やはり、椎名誠『秘密のミャンマー』とは違い、女性らしい視線で見ていることを感じました。お土産品やタナカという顔などに塗る化粧品のようなものでも、やはり男性の見方とは違います。そういう意味では、両面の見方があり、楽しむことができました。
 これらの紀行文を読むときには、そこの地理がわからないとなかなか全体像はつかめないので、このときも「地球の歩き方 ミャンマー(ビルマ)」を参考にしました。また、今月の25日から行く予定のところが出てくると、やはり一段と興味があり、つい時間をかけて、何度も読み返したりしました。考えてみると、これら旅行記は、絶対に行こうとも思わないところなら、ほとんど興味がわかないでしょうが、少しでも行きたいとかいずれ機会があればと考えているからこそ読むのではないかと思います。
 ところが、今回行く予定のところは一般の観光地ではなく、著しく制限された地域で、ほとんど旅行記にも書かれていません。そういう意味では、とても興味があり、たくさんの写真を撮ってこようかと考えています。
 この本の写真はとてもよく、「写真◎坂齋清」と表紙に出ていましたが、調べてみると日本写真家協会正会員とありました。つまり、プロのカメラマンということです。やはり、というかさすがというか、雰囲気のある写真でした。
 とくにバガンの「朝陽を浴びるバヤー群」や僧侶たちの写真には、釘付けになりました。時間にして数分だったんでしょうが、読み終わってからも何度も観ました。
 このように何度も読み直したり見直したりする本は、手元に置かなければなりません。写真集や図録だけの本棚もありますが、それらはいずれも重量があり、収納するには大変です。でも、やはり手元に置きたいものばかりですので、部屋はいつもこれらでいっぱいになるのも仕方ないとあきらめています。
(2013.2.13)

書名著者発行所発行日ISBN
ミャンマー乃南アサ文藝春秋2008年6月15日9784163701400

☆ Extract passages ☆

 この国では、ほとんどの大人や子どもが、見知らぬ旅人に向かってでも、こうして笑顔を向けてくれる。ミャンマーは民族をまたいで国民の九割近くが仏教徒である上に、その大部分が出家を尊重し、厳しい戒律を守る上座部仏教を信仰している。常に仏とともにあり、来世を願って祈りに明け暮れる日々の中で暮らす人々には、功徳と慈悲の教えが浸透しているせいだろうか。総じて慎み深く、礼儀正しく、そして、旅行者に優しい。ただすれ違っただけでも、ときとして無邪気に、ときとして可憐に見える微笑みを送られることが、旅行者の胸にどれほど響き、どれだけ救われた気持ちになるかなど、彼らは計算も想像もしていないに違いない。
(乃南アサ 著 『ミャンマー』より)




No.796 『ビルマの竪琴』

 この2月25日からミャンマーに行くことになり、「地球の歩き方 ミャンマー(ビルマ)」や旅行人ノート「メコンの国」などのガイドブックだけでなく、すでにここにも掲載した椎名誠著「秘密のミャンマー」なども読み、どっぷりとミャンマーに浸っています。でも、市川崑監督の映画で見た水島上等兵役の中井貴一の印象が強く、つい、この原作の『ビルマの竪琴』を読んでみました。
 それというのも、昨年の12月にインドに行ったときに、各地の仏跡で会ったミャンマーの人たちの強い信仰心に触れ、そこでも映画の「ビルマの竪琴」を思い出しました。でも、彼らの上座部仏教では僧侶の歌舞音曲は戒律で禁止されていますから、竪琴を奏でることは絶対にないはずです。でも、映画ではそれが違和感なく感じられたのですから、不思議なものです。
 この本の作者、竹山道雄氏は、これを児童向けの読みものとして書いたそうで、実際に「赤とんぼ」に昭和22年から23年にかけて連載されました。しかし、この後はこのような作品を1つも書いていませんから、相当思い入れがあったのではないかと想像します。しかも、ビルマには一度も行ったことがないそうで、風景描写などは学生時代の夏休みに行ったことのある台湾の強烈で豪華な風土を思い浮かべて書いたそうで、あとは空想で補ったといいます。
 でも、行ったことがないとはいえ、ビルマ人はどこへ行っても楽しげだというところで、「生きるのも、死ぬのも、いつもにこにことしています。この世のこともあの世のことも、めんどうなことはいっさい仏様におまかせして、寡欲に、淡白に、耕して、うたって、おどって、その日その日をすごしています。ビルマは平和な国です。弱くまずしいけれども、ここにあるのは、花と、音楽と、あきらめと、日光と、仏様と、微笑と・・・・・・。」と書いています。  また、下に抜き書きしましたが、それも着る物によって行動が違ってくるとわかりやすい説明をしていて、ある意味、ビルマ人の生き方にとても好意的に描いているように思います。
 たしかに、昨年までは軍事政権下で行動も著しく制限されていたようですが、どこかギスギスしたところがなく、おおらかな印象があります。映画では、もちろんビルマで撮影されたわけではないのですが、あの赤茶けた大地が今も印象に残っています。その大地で、上座部仏教を信じながら自然とともに生きる姿をぜひ見てみたいと思っています。あと、20数日ありますから、もう少しミャンマー関連の本を読みたいと考えています。
(2013.2.10)

書名著者発行所発行日ISBN
ビルマの竪琴(新潮文庫)竹山道雄新潮社1958年4月15日9784101078014

☆ Extract passages ☆

若いころに軍服をきてくらすような国では、その国民はよく働いて能率が上る人間になるでしょう。はたらくためにはこちらでなくてはだめです。袈裟はしずかにお祈りをしてくらしているためのもので、 これでは戦争はもとより、すべて勢いよく仕事をすることはできません。若いころに袈裟をきてくらせば、その人は自然とも人間ともとけあって生きるようなおだやかな心となり、いかなる障害をも自分の力できりひらいて戦っていこうという気はなくなるのでしょう。
 われわれ日本人は前には袈裟にちかい和服をきていましたが、近頃では大てい軍服にちかい洋服をきるようになりました。それも当然です。日本人はむかしはすべてと、とけあったしずかな生活を好んでいたのですが、今は諸国民のあいだでももっとも活動的な能率の上る国民の一となったのですから。
(竹山道雄 著 『ビルマの竪琴』より)




No.795 『偏愛ムラタ美術館 [発掘篇]』

 ここに載っている文章は、雑誌『一枚の繪』2010年6月号から2012年11月号に「続・気になる絵」と題した連載ものから抜粋し再構成したものだそうです。著者は1987年に『鍋の中』で芥川賞を受賞し、さらに2007年には紫綬褒章も受章されたそうで、多くの著書があります。
 でも、本来は作家ですから、なぜこのような絵のことを書くのかと気になっていたのですが、本の「あとがき」で、「本屋で文芸書と美術書を一冊ずつ見つけたとして、取り敢えず今日、一冊だけ買って帰るとしたら、私は迷わず美術書のほうをレジへ運ぶだろう」ということですから、やはり絵に対する興味は相当なものがあるようです。
 この本で発掘された絵でもっとも興味をひいたのが、「沈黙の春・いや、人声は流れてきた――ベラルーシ立入禁止区域の絵」です。この絵を描いたのは岡山県倉敷生まれの貝原浩さんで、東京芸大卒業後、画家活動の他にもデザイナーやイラストレーターなども手がけた方です。
 このベラルーシの絵は、1992年に医療支援活動団体JCFと数度にわたり訪ねたときに描いたもので、まさに人間の放射能に対する抵抗の声が聞こえてきそうな絵です。しかも、墨絵みたいな絵で、その色調からは弔いの絵のような感じもします。
 もう、この絵を見ただけで、福島第一原子力発電所の事故とダブってしまいそうです。
 著者は、これら貝原浩さんの絵を見て、「放射能は見えない・・・・・・新緑滴る森の中でキノコを採り肉を焼き、パーティをして踊る。民族衣装の人々の合唱。放射能マークの立札の立つ村で耕作し働くサマショーロの人たち、10歳を頭に生後2ケ月まで8人の子を育てる母親など。見えない魔物が春の光の中に手をひろげているのである。これは何と光まみれの明るい恐怖図絵だろう。」と書いています。
 このサマショーロといわれる人たちは、行政の立ち退き指示に従わず戻ってきた「わがままな人」という意味の言葉だそうですが、それは行政側から見たことで、ベラルーシの人たちにとっては、自分たちの生まれ故郷で暮らしたいという強い思いだけしかありません。だからこそ、原発事故以前と同じように、キノコを採ったり肉を焼いたり、パーティーをして踊ったりしているのです。ここで子どもを育てるのはほんとうに恐いと思いますが、それしか選択肢はないと感じているのかもしれません。
 もし、気になったら、ぜひこの本を読んで、この絵を見てみてください。まさに他人事ではありません。
(2013.2.8)

書名著者発行所発行日ISBN
偏愛ムラタ美術館 [発掘篇]村田喜代子平凡社2012年11月21日9784582835960

☆ Extract passages ☆

 木下晋の描く手には、若い人の手もある。しかしそれはのっぺりとして、やっぱり老人の手の圧倒的な存在感は薄い。謎を孕んだ手というものの不思議はない。五本指の形をした皮袋が人の手だ。私たちは自分の五体の全身像を見ることはできないが、手だけなら表も裏もじっくりと観察できる。そこに自分が取り出されている。この中味は何だろう。自分であって、半分は自分でない奇妙なもの。その正体不明の不可思議の手を左右合わせて見つめる。骨董の茶碗などでは表情のことを「景色」と呼ぶ。手の「景色」は皺である。
(村田喜代子 著 『偏愛ムラタ美術館 [発掘篇]』より)




No.794 『学問の技法』

 つい先日まで、『梅棹忠夫』中公新書、を読んでいて、そういえばだいぶ前に「知的生産の技術」を読んだことを思い出し、では今の時代の学生はそのような技術をどこから学のだろうと思って、手にしたのがこの本です。
 この本の帯の部分にも書いてありますが、「学問に王道はない」とはいうものの、ただ勉強しろと言われても、その方法がわからなければできません。では、勉強と学問とは違うのかというと、先に明確にしておくこともあり、本の17ページのところで、下に抜き書きしたように明確に答えています。また、読書の目的についても、「読書の目的には、およそ3つあるだろう。@娯楽のため、A具体的な実践目的のため (試験のため・旅行に行くため・仕事のためなど)、B生き方を変えるため・教養のため、である」と書いてあり、あくまでも学生向けの指南書のようなものです。でも、後半部分の議論の技法や問いかけの技法などは、一般人にもいろいろ役立つものが書いてあり、ぜひ参考にしてもらいたいと思います。
 私は『「精読」とは、本の内容を十分に理解することではなく、鋭い疑問を提出できるようになることである。つまり、ある一定の解釈観点をもって、その本がもつ魅力と欠点をえぐり出すことである。本の理解とは、その内容に関する疑問点がなくなることではなく、内容に即した疑問点をたくさん挙げられるようになることである、と理解しておきたい。』というところに、なるほどと思いました。今まで、理解しようと思って読んではいなかったのですが、あえて疑問点をあぶり出すような読み方もしていませんでした。むしろ、本を読むことがただ好きだから読んでいたようなものです。
 でも、ある程度、疑問を持って読むことも大切なことで、本に書いてあることがすべて正しくないことも事実です。書くほうの立場であれば、自分は正しいと思って書くのでしょうが、それはあくまでも個人の考えであって、それ以上のものではありません。著者がいうように、ある程度批判的に読むことも大切です。
 私はあまりハウツーものは好きではありませんが、つい、『梅棹忠夫』つながりで読んでしまいました。やはり著者がいうように、「すぐれた本を知るためには、最初はがむしゃらに買って、いろいろな失敗を繰り返すほかない」というのは本当のようです。
(2013.2.5)

書名著者発行所発行日ISBN
学問の技法(ちくま新書)橋本 努筑摩書房2013年1月10日9784480066985

☆ Extract passages ☆

「勉強」と「学問」とは、根本的に異なっている。この二つは、正反対のものだと言ってもよいだろう。
 大学入試や資格試験のための「勉強」は、「知識を詰め込むための機械的な作業」であって、学問とは言えない。「勉強」とは、「ある問いに対する答えを学ぶこと」である。これに対して「学問」は、「答えの確定していない新たな問いを発すること」である。「勉強」は、「既存の問いから、確定した答え」とすすむのに対して、「学問」は反対に、「既存の答えから、新しい問い」へとすすんでいく。
(橋本 努 著 『学問の技法』より)




No.793 『梅棹忠夫』

 おそらく梅棹忠夫という方を知らない人はいないでしょうが、副題は『「知の探検家」の思想と生涯』で、特に一般受けしたのは昭和44(1969)年に出版された「知的生産の技術」という岩波新書ではないかと思います。この本は現在でも版を重ね、この本によると、初刷以来の累積部数は2012年の時点で90刷、約140万部のロングセラーになっているそうです。
 つまり、それだけ多くの方々に読まれているということで、その冒頭の部分で『学校というものは、ひどく「おしえおしみ」するところ』と書いてあり、今でも印象に残っています。学校というところは教えるのが当たり前と思っていたのに、そうではないというわけですから、それだけでも印象に残ります。ただ、その前からB6版のカードを使っていたこともあり、このなかに書いてあることはほとんど技術としては使いませんでした。このB6版のカードは現在も使っていて、それこそカードボックスに相当数のストックがあります。
 ところで、この副題の探検家ということですが、本人は「山はわたしの人生のルーツであり、すべての出発点なのである」とか、「探検が仕事の原点である」と述べていますから、気持ち的にも探検家気質をお持ちだったのではないかと思います。ところが、昭和61(1986)年の3月12日、ウイルスによる球後視神経炎と診断され緊急入院し、10月に退院したものの両眼の視力を喪失してしまったようです。
 ところが、これにもめげず、「夜はまだあけぬか」(講談社)などの本を立て続けに出され、国立民族学博物館長をつとめながらもほぼ毎月本を出版されるので、民博職員たちはそれを「月刊うめさお」とよんでいたといいます。まさに、探検家のような飽くなき好奇心があればこその果敢な挑戦でもあったようです。
 下に抜き書きしましたが、一部の人たちには有名だった「梅棹サロン」なるものがあったそうです。やはり学問というのは、知的好奇心がなければ探求できませんし、それを持続させるためにはお互いに奮い立たせるような議論の場がなければならないと思います。私たちでさえ、学生時代には明け方まで友人数人と議論をしていたことを思い出します。
 今も、このようなサロンがどこかにあるかもしれませんが、その雰囲気のいったんを味わっていただきたいと思い、ここに載せました。
(2013.2.2)

書名著者発行所発行日ISBN
梅棹忠夫(中公新書)山本紀夫中央公論新社2012年11月25日9784121021946

☆ Extract passages ☆

これは1960年ごろから京都北白川にあった梅樟の自宅を毎週金曜日の夜に開放し、ビールを飲みながら、学問や研究のことはもちろんのこと、探検や登山など、なんでも自由に語りあう私的な集まりであった。
 参加者は若者が中心で、山岳部や探検部のOB、現役もくわわっていた。当時、探検部の部員であったわたしも何度か参加したことがあるが、その集まりがたいへん知的雰囲気に満ちていたことを記憶している。わたしたち若者の疑問や質問に対しても梅棹の答えは明快かつ懇切であった。さらに飲むはどに酔うはどに話題は大きく広がっていった。酔っていてもわたしたち若者の意見や考えに耳を傾け、「おもしろいな」とか「あかん」と答えるのだった。そのため、この集まりがおひらきになるのは、しばしば明け方近くになったものだ。
 今から考えれば、さぞかし梅棹夫人はたいへんだったはずだ。にもかかわらず、夫人はいつもにこやかで夜遅くまでビールのおつまみを準備したり、裏方役に徹しておられた。これも夫人の内助の功の一端を示すものだろう。
(山本紀夫 著 『梅棹忠夫』より)




No.792 『社会人の生き方』

 気になる部分があり、12枚もカード書き込みをしました。それだけおもしろかったということでもあります。ただ、著者の名前が読めず、後ろの著者名のふりがなを見て、「てるおか いつこ」と読むことを知りました。
 私たち人間の定義で有名なものでは、アリストテレスの「人間は社会的動物である」というのがありますが、まさにこの本の題名の「社会人」に一脈通じるものがあります。また、労働も社会的なつながりとともにあり、人間の存在と切り離すことができないもので、著者は「労働なしに人間の歴史はなく、労働する人間なしに社会は成り立たない」といいます。
 たとえば、東日本大震災のときに、『被災者の中には家族を失い、すべてを喪失した悲しみの中にいる人もいるが「仕事というものは収入とか生きがいとかというだけでなく、ある意味で辛い現実を忘れるためのセラピーとしての効果がある」と、ある被災者は言う。・・・・・・東日本の津波に襲われた漁港でも、漁師たちは、「魚が取れるとかそれが売れるかどうか、ということではない。沖に出て、働くということが喜びと元気のもとだ」と言い、農民も作付けをしながら同じことを言う。』と著者は聞いたという。さらにそのことは難民支援でも同様だったそうで、『私たちが編み物の仕事を難民キャンプに持ち込んだ時、難民たちは「編み物をしている時はすべてを忘れられる」と言ってくれた。』いいます。
 つまり、人間にとって労働というものは、いろいろな力を持っているもので、ただお金を稼げればよいというものではないと思いました。だからこそ、今の時代のような就職氷河期のような状況は避けなければならず、労働が本当の喜びになるような社会を作っていかなければならないのではないかと考えました。
 また、この働くということは、障害者にとっても同じく意義のあることで、それを下に抜き書きして載せました。それを読むと、人間はある意味、働くことによって自らの存在や相手に対する貢献ができ、それがまた生き甲斐にもつながっていくように思います。
 これから就職しようとする方やこの経済状況下でやむなくリストラされたり転職させられた方など、ぜひ、機会があれば読んでいただきたい1冊です。
(2013.1.30)

書名著者発行所発行日ISBN
社会人の生き方(岩波新書)暉峻淑子岩波書店2012年10月19日9784004313885

☆ Extract passages ☆

 労働が人間から切り離せないのは障害者でも同じである。たとえば、障害者の作業所では、働く障害者を技術的に指導したり、身体的に補佐したり、チームワークを助けたりするサポーターが必要である。コストで判断する市場主義的思考の人たちは、赤字を出すばかりの作業所など不必要で、作業所よりも生活に必要な現金を直接に障害者に支給すればいいと言う。しかしそれは人間と労働の本源的な関係をみていない人たちの言葉である。もし、作業所がなければ、障害者たちは仲間に出会う機会も限られるし、外の社会に参加することもできない。
 もともと市場経済というものは、その品物を必要とする人びとが自由に参加できる開かれた交換の場だつた。顔の見える市場では、人びとは製品の交換を通して他人のために役立ったことを実体験する喜びがあったに違いない。便利で助かったとか、おいしかったとか、また持ってきてとか、市場は人びとが関係をもちあう場所であり、まさに社会だった。
(暉峻淑子 著 『社会人の生き方』より)




No.791 『まねが育むヒトの心』

 この本の表紙のイラストが、お母さんが「いないいないバー」をすると、赤ちゃんも似たような手つきをするものでした。それが何とも可愛らしく、ついこの本を手に取るきっかけになりました。
 著者はこの本を書こうとした動機は、最後の「あとがき」に書いていますが、「私自身の心がどれほど長い時間をかけて今へと続いてきたのか、どれほど多くの支えによって育まれ、つながれてきたのかということです。次の世代が切り拓く未来へと、ヒトらしい心のバトンが連綿と受け継がれていることの意味を伝え、残したい。そうした思いがわき立ってきたこと」だそうです。
 著者はお母さんでもありますから、自分の子どもとクロスして見ることもあると思いますが、それが一層読みやすくしているように思います。
 そして、ヒトの心が生まれる道すじを初めのほうで次のように書いています。そのまま載せますと、
 (1) 胎児期から新生児期にかけて、ヒトの身体や行動、心のはたらき、知覚、認知機能は連続的に発達する。
 (2) 生後1年半にわたるヒトの心のはたらきの発達過程をみると、二度の飛躍期がみられる。生後2カ月目と9カ月目である。とくに生後9カ月目には、チンパンジーとは異なるヒトの心のはたらきが顕著に発達してくる。
 (3) ヒトらしい心を発達させるのは、他者からの積極的なかかわりを特徴とするヒト特有の養育環境である。
 (4) ヒトらしい心を育む環境は、ヒト特有の心のはたらきによって成立している。ヒトは自分の心を発達させていく「個」であると同時に、次の世代のヒトの心の発達を支える「環境」としての役割も果たすよう、進化してきた動物である。
といいます。
 このように考えてみると、やはり赤ちゃんにとってはお母さん、そしてお父さんだけではなく、祖父母や兄妹とのふれ合いもとても大事だと思います。まさに「おばあさん仮説」は、その最たるものかもしれません。
 下に新生児微笑と社会的微笑のことを抜き書きしましたが、ぜひジュニアだけでなく、お母さんやお父さんにも読んでもらいたいと思いました。
(2013.1.27)

書名著者発行所発行日ISBN
まねが育むヒトの心(岩波ジュニア新書)明和政子岩波書店2012年11月20日9784005007288

☆ Extract passages ☆

 興味深いことに、新生児微笑は期間限定の現象です。ヒトの場合、生後1カ月を過ぎる頃から新生児微笑はしだいに見られなくなり、生後2カ月目には消えてしまいます。その時期と前後して、今度は他者が目の前にいる場面、コミュニケーション場面に限定して起こる微笑、「社会的微笑」が出現します。新生児微笑の消失、そして社会的微笑へといたる通すじは、チンパンジーでも同様に確認されています。チンパンジーの新生児微笑も生後2カ月頃より見られなくなり、その時期以降、社会的微笑が現れ始めます。しかし、ニホンザルでは、微笑みの表情を介して他者とコミュニケーションすることはありません。
(明和政子 著 『まねが育むヒトの心』より)




No.790 『書店の棚 本の気配』

 著者はアルバイト時代を含め、ずーっと本屋さんにつとめていた方で、著書もあるそうです。その本屋さんは、東京神保町にある「東京堂書店」で、長くそこの店長をされていましたが、現在は辞められたそうですが、行間からも本が好きだというのがにじみ出てくるようです。
 この本を読んで、まさに本屋さんの裏側から見たような気がしました。それと現在の出版や販売などの問題点も少しですがわかるような気がしました。なぜ、毎年あんなに出版される本が多いのかとか、単行本と雑誌などの流通形態の違いなど、外から見てもなかなかわからないことを垣間見たような気がしました。
 たとえば、題名にもあるように、棚に本を並べること一つでも、そのレイアウトで売れるはずの本が売れなかったり、逆に売れそうもない本が人気をよんだりもするといいます。でも、それにも限界があり、著者は「書店人が薦める本といった読書案内では、現代の状況を深く考察しとしよとしている書籍を探し出すことは困難だ。理想的なのは、研究者が書籍の棚のレイアウトをすることだと思う。要する書店では書籍配列のレイアウトが作れないのである。現代では、学問はすでに越境的であり、相互にオーバーラップしている。単なるジャンルの配列だけでは逆にコンテクストが分断されてしまうのである。棚を見ているからすれば、配列の流れが見えない。類似本をまとめてみたり、同じ著者の本を一堂に展開するといった棚の配列は逆に違和感を伴う。書店人には、ここがよく読めない。」と書いています。
 そういえば、昔はジャンルごとに棚に並んでいても、お目当ての本は案外容易く見つけることができたと思うが、今はそれがなかなか難しく、探せないようです。昨年11月に神保町の本屋さんに行ったら、ジャンルごとに並んでいたけれど、違うジャンルにも同じ本があり、それを立ち読みするとどちらに並べてもいいような本でした。
 たしかに、画一的な並べ方ではどうも難しいようで、やはり時間をかけて探し出すしかないようです。でも、それが本を見つけ出す楽しみでもあるわけで、読書家にとっては極上の時間でもあります。
 これはインターネットで本を検索する場合でも同じで、キーワードをいくら並べても、内容がよくわからないこともあります。やはり本は手に取ってみて読んでみる、それがとても大事なようです。
(2013.1.24)

書名著者発行所発行日ISBN
書店の棚 本の気配佐野 衛亜紀書房2012年9月28日9784750512235

☆ Extract passages ☆

本に関していえば、神保町はやはり異例なのだ。本が集まり街を形づくり、ここでは、本屋は有機的な本の集積として街化しているといっていい。このところ、表通りばかりではなく路地に入れば、個性的な古本屋が増えている。木の根のようにリゾーム的であり、森のようでもあり、血液循環のようでもある街なのだ。
「人は石垣、人は城」という言い草があるが、神保町は「本は石垣、本は城」といった風情なのだ。
(佐野 衛 著 『書店の棚 本の気配』より)




No.789 『想いの軌跡 1975-2012』

 著者はヨーロッパ、とくに地中海周辺の歴史を書いているそうですが、あまり興味がないのでそれは知らなかったのですが、エッセイなら少しは読んだことがあります。そこに住んでいるからこそ見えてくるものがある、というのが第一印象でした。この本もそれらを集めたもので、しかもまだ本にはなっていなかった文章がほとんどだそうです。現在もイタリアのフィレンツェに住んでいるので、その印象は変わりませんでした。
 ただ、書いた当時のそのままですから、歴史的にすでに違うことになっていることもありますが、その当時の雰囲気は伝わり、法王選出の話しなど、臨場感もあります。
 しかも、文章がとてもきびきびしていて、読んでいても爽快感があります。それと、「相手のためであるという想いだけでやると、その相手が認めてくれなかったりすると腹が立つものです。しかし、自分のためにやると思えば、そうはならないでしょう。なに、私益のよき追求は公益の達成に通ずる、と思えばよいのです。そして、この考え方が正しいことは、歴史が実証してくれています。」と書いていますが、この本の内容もまさにこのようなものだと思いました。
 よくイタリア人はあまり役割やもち場を限定されるのを嫌うといいますが、いろいろな例を出してこれにも触れているので、よくわかりました。だからこそ、サッカーが国民的関心事なんだとも書いてありました。そういえば、「カルチョ、それは人生そのもの」という一節では、カルチョ、つまりサッカーのイタリア語ですが、なぜサッカーをイタリア人が好むかという理由を5つ上げて詳しく説明していますが、それを読んですごく納得しました。ある意味、ヨーロッパ人が野球よりバスケットボールより、なによりもサッカーを好む理由がはっきりとわかりました。
 この本は、ヨーロッパの歴史観というより、そこで生活している人たちの生の営みが書いてあり、とても興味深く読みました。たまたま、つい最近出版されたばかりの本でしたが、もしヨーロッパに興味のある方なら、ぜひお読みください。
(2013.1.21)

書名著者発行所発行日ISBN
想いの軌跡 1975-2012塩野七生新潮社2012年12月20日9784103096368

☆ Extract passages ☆

 イタリアには世界中の文化遺産の6割が集中している、と言われている。それも現にイタリア国内にあるものだけで、世界各国に散っているものは勘定に入れないでの数と量である。一昔前の話だが、ヨーロッパ諸国の文化大臣が集まった会議で、美術品はそれらが創り出された母国に返還するべきであるとする議論が、ギリシアを先頭にして声高になされたことがあった。その席で終始沈黙していたのがイタリアの大臣だったが、イタリアのマスコミはこの大臣を非難しなかったのである。
 なぜなら、大臣だけでなくイタリア人全員の本音が、そんなことになったら置く場所がない、にあったからだ。今現在でも多すぎてそれらの維持と安全を保証するだけでも大変なのに、というわけである。
 また、自動車で2カ月かけてヨーロッパ諸国をまわって帰ってきた私の息子も言っていた。イタリアの美術品はピッツァかスパゲティみたいだね。どの国に行ってもどの美術館に行っても、数点は必ずある。
(塩野七生 著 『想いの軌跡 1975-2012』より)




No.788 『食とたねの未来をつむぐ』

 たしか昨年だと思うが、在来の種子を作っている方の本を読んだときに、タネの大切さを感じました。この本の題名もタネに関するもので、副題は「わたしたちのマニフェスト」とあり、表紙には「いのちを育むたねを蒔こう」と書かれてありました。
 編著者はインドの方で、「科学・技術・・エコロジー研究財団」を主宰しているそうで、執筆者はカルロ・ペトリーニ、チャールズ皇太子、マイケル・ポーラン、ジャメイ・ライオネット、そして日本の、というか山形県鶴岡市の奥田政行です。
 奥田氏だけは構成は編集部となっていますから、おそらくはお話しをうかがい、まとめたもののようです。日付は2010年5月21日となっていますから、馴染みの少ない外国の方だけではと思い、付け加えたものかもしれません。
 著者たちは、皇太子もいればジャーナリス、さらには調理人もいて、それぞれの立場から食やたねについて書いていて、とても興味深く読みました。とくにカルロ・ペトリーニ(Carlo Petrini)氏はイタリアの方でスローフード協会を創立し、食の世界ではとても影響力のある方です。そういえば、今の時期が旬の米沢の「雪菜」も、このスローフードに選ばれたことがあります。そして、彼は「料理は言語であり、料理はアイデンティティであり、料理はあらゆる人間のもっとも根源的な欲求です。食べることをよろこびにするのは、料理の腕前や手先の器用さ、風味とスパイスのちょうど良い配合を見極める能力です。」と言い切ります。まさに食こそ代表的な文化だ、とでもいいたげです。
 下に抜き書きしたのは、編著者のヴァンダナ・シヴァ(Vandana Shiva)の言葉です。そこに出てくる「ターミネーター技術」というのは、作物に実ったタネに毒が発生し、「自殺」してしまうようにする技術のことです。いわば、自殺遺伝子を組み込んだようなタネですから、もちろんこのタネからタネは絶対にできません。このターミネーターという英語の意味は「終わらせる」ということで、こんな種子が世界に広まったら、正常なタネも異常なタネになってしまうかもしれません。また、それよりも、タネもできない植物が増えたらどうするのでしょうか。
 遺伝子組み換え作物も恐いですが、これなども、とても恐いと思います。
 ジャメイ・ライオネット(Jamey Lionette)は、「安い食べ物はコミュニティを弱体化させるだけではなく、土地やぼくたちの体や食の未来を荒廃させるという隠れたコストをはらんでいる。安い食べものに長期的な可能性はない。それは高い利益を生むためのつかの間の解決方法なのだ。」といいますが、その通りだと思います。安いものには、安いだけの理由がある、というのはいつの時代にも当てはまるようです。
(2013.1.18)

書名著者発行所発行日ISBN
食とたねの未来をつむぐヴァンダナ・シヴァ 編著、小形 恵 訳大月書店2010年7月1日9784272330652

☆ Extract passages ☆

 たねがもつ自由のもっとも重要な点は、繁殖して増えることであり、それこそがたねの意味です。たねは未来を具現化したものであり、目に見えないいのちが姿をあらわしたものであり、再生しつづける可能性です。しかし、「ターミネーター技術」や一代雑種(ハイブリッド)のような新しい技術は、たねが再生してふたたびたねになることを妨げます。たねが繁殖して増える自由とは、成長することができないターミネーター種子や実を結ばない種子を受け入れないということです。
(ヴァンダナ・シヴァ 編著、小形 恵 訳 『食とたねの未来をつむぐ』より)




No.787 『秘密のミャンマー』

 ミャンマーには以前から行ってみたいと思いながら、軍事政権下ではなかなか難しいと半ばあきらめていました。ところが、知り合いのある研究者がミャンマーに入り、その写真を見せていただきました。そこですぐに、もし機会があればぜひここに私も同行させていただきたいと申し出ました。返答は、「いずれ機会があれば」ということでした。
 ところが昨年3月にいっしょにオーストラリアのダーウィンに行ったとき、来年、つまり今年の植物探査行の話しが出て、成り行きみたいなものでミャンマーの話しが出て、そこに入る入境許可が出ればということになりました。つまり、そことは、ナマタン国立公園(Natmataung National Park)です。ところが偶然にも、今年の年賀状に、ある植物研究者がミャンマーのこの国立公園を訪ね、そこには全山をおおうようなシャクナゲ(R.arboreum)があり、しかも2月なのに満開だったと書いてありました。このとき、すでにミャンマー行きの航空券を手にしていました。まさに、最高の情報でした。
 そんなこともあり、このミャンマーという国名に惹かれて読んだのが、この『秘密のミャンマー』です。しかも、先月にインドを一人旅したときに、多くのお釈迦さまの仏跡で、信心深いミャンマーの人たちの祈りに出会いました。下に抜き書きしましたが、インドの霊鷲山でも、ジーッと瞑想しているミャンマーの僧侶や人々に会いました。日本人は、どちらかというとお経を読む方が多いのですが、彼らは瞑想に入る前に少し唱えごとはしますが、ほとんどの時間を瞑想にかけるようです。
 この本に書かれていましたが、公務員を定年でやめたばかりのチェンライ(51歳)さんは、一度座ると3時間ぐらい瞑想するそうです。それを1日に3回するそうで、合計時間は9時間にもなるといいます。それはすごいことです。また、29歳の女性で貿易関係の会社に勤めているジャメインさんは、朝起きて5〜10分程度でも必ず瞑想するそうで、この瞑想のあとは身体や気持ちがすごくリラックスして、会社に行ってイヤなことがあっても、みんな許せる気持ちになるといいます。やはり、瞑想はミャンマーの人々の生活にしっかりなじんでいるようです。
 そういえば、ミャンマーの人たちは手で食べますが、これはインドと同じようです。インドの人にうかがうと、手で食べるとその料理の固さや柔らかさ、温かさなどの感触を口より先に指先で味わえるといいます。それを聞いて私もマネをしてみましたが、熱くてなかなか手でうまくご飯と具を混ぜ合わせることができず、しかも第一関節より下しか使わないのがルールなのに、手が全体に汚れてしまいました。やはり、マネだけではうまくできず、長い間の習慣がなければダメだと思いました。
 この本を読んでみて、もう少しミャンマー関連の本を読んでみたくなりました。
(2013.1.15)

書名著者発行所発行日ISBN
秘密のミャンマー(小学館文庫)椎名 誠小学館2006年10月1日9784094081169

☆ Extract passages ☆

ミャンマーのどこに行っても寺があり、パゴダがあり、敬虔なる、そして静かなる仏教徒がいて、どこでもかれらは真剣に仏さまと対峙している、ということであった。
 同じ仏教の国、日本からやってきてこのことだけでも充分ぼくには"謎のミャンマー"であった。どうしてこの国の人々はあのように優しい気配に満ちたまなざしとその物腰で、誰もが真剣に仏様に向かい合い、そして自分というものをその前に放擲することができるのだろう。
 ミャンマーの人々の拝礼は「瞑想」でもある。どこの寺院に行っても、その瞑想に全身を打ち投げている人々の姿を見た。仏さまの前に座り、手をあわせ、何時問もじっと瞑想している人がどこにでもごくごく普通にいる。この信心の深さは一体なんなのだろう。
(椎名 誠 著 『秘密のミャンマー』より)




No.786 『不良老年のすすめ』

 著者はある程度の年齢の方ならご存じだと思うが、あのNHKのアナウンサーだった下重暁子さんです。印象としては、歯切れの良い声ですが、この本もとても歯切れが良く、スパッと切るような文章です。
 「はじめに」のところでも、「自分をとりまく環境や社会に批判の目を持って、アウトローとしての鋭い刃で切り込みたい」といい、まさに題名の「不良老年」そのままのような粋でかっこうよいスタイルで書いています。だから、あっという間に読んでしまいました。
 すると、ある人がそんな本を読まなくても十分に不良老人だという話しになり、妙に納得してしまいました。つまり、読んでいてもほとんど納得できることばかりで、こちらもそのような下地があればこその納得のようです。たとえば、著者も若いときにはほしいものがたくさんあり、つい衝動買いをしてしまったそうだが、今は節約するところはちゃんと節約し、使うときにはどーんとと使うというようにお金にもメリハリをつけるようになったといいます。「使う」とか「使わない」という選択にも、大胆さが大切で、自分の好きなことに使えるというのは、やはり老年だからこそというわけです。そのような心意気を、下に抜き書きしましたが、ぜひ、読んでいただきたいと思います。
 この本の終わりのほうで、「年をとることは、制約から一つずつ解放されることであり、自分をしばるものから解放されてのびのびと楽しむことだ。世間のしがらみ、親類縁者とのつきあいなどのめんどうなものは、無理につきあわぬがいい。友だちだってそうだ。不愉快な人には近づかない。気分よく暮らすためにはしがらみを減らすしかない。特に金銭上のしがらみはつくらぬことだ。」と書いていますが、その通りだと思います。現役世代の時には、仕事を遂行するためにイヤなことも辛いこともいとわずにやってきましたが、それだけの人生ではこの世に生まれてきた甲斐ないように思います。生まれてきてよかったと思うためには、あまり細かいことにクヨクヨせず、おおらかに生きることです。そして、「なんとかなるさ」という気持ちも大切で、そう思うと、なんとかなるものです。
 このように思えるのも、いろいろなことを経験してきたおかげではないかと思います。
(2013.1.12)

書名著者発行所発行日ISBN
不良老年のすすめ(集英社文庫)下重暁子集英社2004年3月25日9784087476811

☆ Extract passages ☆

 不良老年は決していい人を演じてはならない。何かの役割を演じてはならない。個でなければならないのだ。おじいちゃん、おばあちゃんの役割でもなく、お父さん、お母さんの役割でもなく、夫と妻の役割でもない。自分自身の顔を持ち、自分の名で呼ばれる。決して楽なことではない。楽なのは長いものに巻かれ、パターンの中で生きることだ。個で生きるということは、自分の目で物を見、自分の頭で物を考え、自分で選び、自分で責任を持つ。
 しんどいけれど、最大の楽しみもここにある。楽という字を楽しいと読ませるのは何かのまちがい。ほんとうに楽しいことを知るには、しんどいことをして勝ちとるしかない。
「個は孤に通ず」と私はいっている。孤独を恐れては、個をつくることはできない。いつも人と連なったり、つるんだりして、自分で考えず、自分で判断せず、自分で責任をとらない。人生の最期にいたるまで、自分で責任をとれずに終わる。
 野たれ死にしようとも、自分の生き方で人生を終えたい。
(下重暁子 著 『不良老年のすすめ』より)




No.785 『画家たちの原風景』

 テレビはあまり見ないほうだが、NHKの「新日曜美術館」はなるべく見るようにしています。でも、日曜日なので、仕事の関係で各週おきぐらいしか見られません。あるいは途切れ途切れでも、見るとなかなかおもしろいと思うときも多いようです。
 著者は、この番組の三代目の司会者だそうですが、その当時は「日曜美術館」で、とても日曜日に見る時間はとれず、ほとんど見ることはできませんでした。だからというわけでもないでしょうが、この本を見つけ、副題の『「日曜美術館」が問いかけたもの』を見たときには、著者の名前すら知らずに手に取っていました。読み終わってから略歴をみると、「文化学園大学教授・造形学部長」とあり、生年月日もなかったのでインターネットで調べてみると、「生年不詳、1945年前後―」とあり、やはりわかりませんでした。
 でも、このような本は年齢に関わらないので、やはり女の人は年を知られるのはイヤなんだろうなと思っただけです。
 「あとがき」をみると、2年間担当した間に番組に登場したのは80人を超える方々だそうですが、この本に取り上げられたのは6名の方です。いずれも、あまり一般的な選考ではないような気がしますが、著者自身も「本書で取り上げた作家は、ふしぎといずれも、いわゆる画壇の中心からは、やや離れた異色の存在である。考えてみると日頃さまざまな絵を目にする中で、私の心にひっかかる絵はどこかで通じるものがある。それは技倆的にすぐれた絵、快い絵といったものとも違う。作者をつき動す何かが、画面を通して見る者の心を落ち着かなくさせる絵といったらいいだろうか。それはきっと作者の生活そのものからし か生まれえないものではないだろうか。」といい、画家が生まれ育ったところなどを一つ一つ訪ね歩きながら書いています。
 「絵は、作者のすべてである」といい、その絵との出会いを大切にするのだが、それでも作者の生きた軌跡をたどろうとします。だから、見えてくることもあるはずです。
 この6人のなかで、知っていたのは芹沢_介と池田遊邨ぐらいなもので、神田日勝、長谷川潔、三岸好太郎と節子、斎藤義重は初めてこの本で知りました。
 下に抜き書きしたのは、現代美術の造形作家である斎藤義重のところで書いているもので、たしかにその通りだと思いました。やはり絵は知ろうとかわかろうとかという問題ではなく、楽しいということのほうが大切だと思います。見ていて気持ちのよい絵もあります。やはり感じるものがあれば、それだけでいいと思います。
 今年も、機会があれば、美術館を訪ね、多くの絵や工芸作品を見てみたいと思いました。
(2013.1.10)

書名著者発行所発行日ISBN
画家たちの原風景堀尾真紀子清流出版2012年11月15日9784860293871

☆ Extract passages ☆

 現代美術は難しいといわれる。人は、目のあたりにしたものが、自分の体験や知識の範時にすっぽり収まると安心するものだ。目の前にあるのが、印象派風の風景画であれば「光をよくとらえている」とか 「構図が大胆である」とか批評する。それに対して、どうとらえていいかわからない作品を前にすると困惑してしまう。ある人は「裸の王様」のように、人の、しかもできるだけ抽象的で難解な言葉を借りてほめ上げる。また、ある人は自分とは関係ないものとして黙って通りすぎる。このことは、私たちが芸術鑑賞においてさえ、日頃いかに既成の観念や感覚にとらわれているかを考えさせる。
「人は小鳥のさえずりを無心に楽しむが、それを"理解"しようとは思わない。なぜ絵画については楽しむよりも先に"理解"したがるのだろうか」そんなふうに嘆いたのは、たしかピカソだった。
(堀尾真紀子 著 『画家たちの原風景』より)




No.784 『僕が旅に出る理由』

 この本は昨年の3月に第1刷が発行され、10月の時点で第7刷ですから、それなりに反響はあったのではないかと思います。
 この企画には、100人以上の学生がかかわり、自分の旅で経験したことや感じたことなど、学生らしい未熟ながらも真摯な体験が綴られています。私自身も旅は大好きですし、学生の時にザック一つでゴムゾーリで出かけたこともあり、彼らの旅にも共感するところがたくさんありました。「そうそう、そうだよな!」と相づちを打ちながら読みました。
 たとえば、「自分の凝り固まった価値観を見直せる機会だと思います」という早大4年の川上さんの言葉や、「生きている、ということを最も感じられる時間」と書いた慶大2年の緒方くん、さらには『今まで、何事も「できなかった」のではなく「してこなかった」だけなんだという実感』を感じた北九州市立4年の笹野さんなど、多くのコメントも載っています。
 実際の体験談は15名ですが、それが笑いあり涙ありの多感な若者たちの純粋なおもしろさで充ち満ちています。
 今、読み終えて、そういえば、私自身もそのようなことを考えていた時期があったなあ、ととても懐かしく思い出しました。人のふり見て我がふり直せ、と言いますが、人だけでなく、世代というものの共通性も感じられ、この本を読んでよかったと思いました。
 実は、若いときに北海道を旅し、まったくの貧乏旅行でしたが、今でも強烈な体験として頭の片隅に残っています。そのときに思ったのですが、このような貧乏旅行もおもしろいけど、歳をとったときにはそのときなりの旅行があるのではないか、と考えました。そして、自分の最近の旅を考えてみると、やはりそうとう違ってきています。泊まるところがなければテントに泊まるけど、近くに快適な宿泊施設があればそちらにします。だって、体が一番大切に考えざるを得ない年齢ですから。
 ということは、若いときには若いときの旅があり、それぞれの歳に応じた旅もあるそうな気がします。
 これからも、自分なりの旅をして、いつも軟らな頭にしておきたいと思っています。
 下に抜き書きしたのは、慶大の鴨川さんの「編集後記」の一部です。
(2013.1.7)

書名著者発行所発行日ISBN
僕が旅に出る理由日本ドリームプロジェクト 編いろは出版2012年3月1日9784902097498

☆ Extract passages ☆

旅をして、この本をつくって、私は変わった。
いい方向になのか、悪い方向になのか、それは何十年経ってみてようやく分かるものなのかもしれない。
それでも、曖昧で不確かな私が、曖昧で不確かだけどやってみようと思った、旅、本づくり。
そして、私は変われたから、みなさんも旅してみませんか?って話です。
(日本ドリームプロジェクト 編 『僕が旅に出る理由』より)




No.783 『自然を捉えなおす』

 この本は昨年末出版されたばかりで、副題は「競争とつながりの生態学」です。昨年末に読んだのは『科学の限界』でしたから、いわば、もう一度自然を捉えなおし、見つめていこうという思いもあります。なにせ、新しい年を迎えたばかりですから、新しい気持ちでものごとを考えていこうというわけです。
 そういえば、この本で、モノとコトの違いを書いていて、「私たちがみつめるものごとはモノとコトからなっているはずですが、モノが目にみえる物理的存在であるのに対し、コトは現象や出来事であり、たとえ目の前で起こらなくとも、その名称を聞いただけで人がそのことをイメージできる抽象概念であるといえます」とあり、なるほどと思いました。
 つまり、この本にも書いてありますが、コトはモノ間の相互作用で、たとえば「リンゴが地上に落ちる」というコトは、地球というモノとリンゴというモノの「相互作用=引っ張り合い」ということです。だから、コトをあまり複雑に考えすぎると、収拾が付かなくなり説明もできなくなります。科学はある意味、それらを割り切ることでもあります。それが昨年末に読んだ『科学の限界』です。
 今年こそ環境をしっかりと考え、自分たちが受け継いだ自然を自分たちの孫子に伝えていかなければならない、と思ってこの本を読み始めたのですが、そのきっかけは一昨年の福島第一原発の事故です。人間にはいまだ制御不可能な放射能をこの大切な自然界に垂れ流ししたのですから、これこそが大問題です。地球温暖化や生物多様性の危機など、さまざまな問題がありますが、最も緊急の課題がこの放射性物質の拡散の問題だと思います。この本では触れていませんが、自然を捉えなおすなら、この問題を抜きには考えられません。
 ぜひ、全科学者が一丸となって、この問題に取り組み、科学の信頼を取り戻していただきたいと思います。
 ちょっと概念的なことが多く、読みにくいところもありますが、機会があればぜひ読んでいただきたいものです。
(2013.1.5)

書名著者発行所発行日ISBN
自然を捉えなおす(中公新書)江崎保男中央公論新社2012年12月20日9784122035249

☆ Extract passages ☆

環境問題は私たち人が過去に、生態系を構成する大気・水・地表面・生物のいずれかに与えた過剰なインパクトが、私たち自身に多様なタイムラグをもちながら跳ね返ってきている大きなツケだということができます。ここで重要なことは、これら生態系の各要素に与えたインパクトが当該要素の問題として直接人に跳ね返ってくるのみならず、他の要素にも必ず影響を与え、間接的にも跳ね返ってくるということです。なぜなら自然はすべてつながっており、生態系の構成要素間には常に相互作用が存在しているからです。
 たとえば、地球温暖化はもともと大気の問題であり、直接的には酷暑という問題を生じ、近年では熱中症という実被害をもたらしていますが、そのいっぽうで「琵琶湖の深呼吸」と呼ばれる湖底への酸素供給を阻害する危険を秘めており、このことが私たちの飲み水と食糧である魚介に深刻な打撃を与える恐れがあります。
(江崎保男 著 『自然を捉えなおす』より)




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