このコーナーは、私が皆さんからメールをいただいて考えたことや感じることなどを自由にお話をさせていただくものです。





☆ゲンジホタルの写真に挑戦!

 今年のホタルは、例年より早く発生し、しかも個体数も多く、写真を撮るには絶好の年です。それで、天気が良いと夕方になり暗くなるとホタル撮影に出かけていますが、6月26日には三日月が夜空に輝き、その下でゲンジボタルが飛んでいました。それが左の写真です。
 しかし、この写真もそうですが、お月様の明かりに比べるとホタルの光はかすかで、なかなか満足できる写真は撮れませんでした。それこそ、何枚撮ったかわからないほどでしたが、やっと、なんとか1〜2枚はそれなりの雰囲気ある写真になったようです。
 ホタルの写真は、このような光の軌跡を追って撮るものと、ホタルそのものを撮るものがあり、どちらも意外と難しいものです。でも、難しいからこそ挑戦し続けられるし、少しでもいいものが撮れるとうれしいのです。簡単に誰でも撮れるのなら、喜びも半分です。
 これからも、ホタルの写真を撮り続け、そのホタルがいつまでも光り続けられるような環境にしていくいきたいと思います。
 そのためには、子どもたちに、このホタルの飛ぶ環境がいい、と思ってもらうことです。今年も「ホタルの夕べ」が7月7日に開かれます。ホタルの光を追いかける子どもたちの元気な声が聞こえてくるのは、とてもうれしいことです。


☆那須「南が丘牧場」にまわってきました!

 5月28日に、那須「南が丘牧場」にまわってきました。
 ここのロックガーデンをつくるとき、創業者である岡部勇雄氏から、本格的なロックガーデンはその基礎部分が大切だと言われ、それを見せていただくために何度かここに通ったことがあります。その当時は早朝に東北自動車道で那須まで行き、帰りは夕方にまたその道を帰るということをしていました。その後、20数年前のことになりますが、第1回の日米山野草シンポジュームが南が丘牧場で開かれ、そのパネラーとして自分の意見を述べたこともありました。その前日、南が丘牧場に宿泊したときの懇親会で、いままで山野草の本でしか知らなかった方々と直接お話ができたことは貴重な経験となりました。
 本当にいろいろな思い出の場なので、ゆっくりとロックガーデンを見せていただきました。ロックのなかではコマクサが咲き、ヒマラヤの青いケシもありました。右の写真がそれですが、これはメコノプシス・ベトニキフォーリア(M.betonicifolia)という種類で、私のところでも咲かせたことがあります。
 久しぶりに訪ねて思ったのは、草取りがたいへんだろうなということです。植え込んでいる植物と邪魔な植物の区別がつかなければ草取りもできません。
 それと、たくさんの種類の山野草を植え込みますから、そのなかには乾燥に強いものと弱いもの、肥料が必要なものとあまり必要でないものなど、いろいろです。それらを決められたところに植え込むのですから、その管理のさじ加減が必要です。これも、山野草全般がわからなければできないということになります。
 さらに、山野草にも流行廃りがあります。以前は多くの人が栽培していたものでも、最近は見向きもされないこともあります。さらに外国から毎年のようにかわった山野草がもたらされますから、それらも適宜導入することが必要です。
 やはり、入場料を払っても見てみたいという施設にするには、相当な苦労がありそうだと思いました。その日の夕方には、上三依水生植物園に寄りましたが、そこでも同じように感じました。


☆那須の山々に登ってきました!

 5月27〜28日と栃木の方に誘われて、那須の山々に登ってきました。左の写真のほぼ中央が茶臼岳です。
 27日は早朝に自宅を出発し、那須の駐車場に着いたのが7時20分、そこで別な車に乗り峠の茶屋まで行きました。そこからは歩きです。峰の茶屋跡を通り、朝日岳の左を回り込み、熊見曽根から清水平へ、そこから中の大倉尾根を通ってマウントジーンズ・スキー場の展望ロープウェイで下山しました。
 途中、大倉尾根では咲き始めたアズマシャクナゲを見つけ、何枚も写真を撮りました。そして、マウントジーンズ・スキー場の上では、ちょうどシロヤシオが盛りでした。このシロヤシオは、別名ゴヨウツツジともいい、葉が5枚であることと、幹の肌が五葉松に似ていることからの名前のようです。
 そういえば、茶臼岳周辺にはムラサキヤシオツツジが咲いていました。このムラサキヤシオとシロヤシオのほかに、アカヤシオツツジがあり、日本にはこれら3種類のヤシオツツジが自生しています。このヤシオツツジは栃木県の県花にもなっているそうです。
 とくにムラサキヤシオツツジは栽培が難しく、夏の暑さに弱いみたいです。だから、夏も涼しいここ小町山の甲子大黒天本山の境内地には、ムラサキヤシオツツジの露地植えがあり、毎年5月中旬ころに花を咲かせています。
 下山後、八幡のツツジ大群落を見るためにその近くに泊まり、夕方と翌早朝と、ヤマツツジやレンゲツツジなどを十分堪能してきました。


☆三東小の子どもたちと野外観察会をしました!

 5月7日午前10時20分から、地元の三東小の子どもたちを連れて、野外観察会をしました。
 これは、今年で33回目を迎える「春の山野草展」に参加するという意味もありますが、自分たちの身近な山に入ってみることにより、その自然の懐の深さとか仕組みの不思議さとかを直接自分自身で感じてもらいたいと、20数年前から毎年実施しているものです。
 当日は、米沢山野草会の会員たちの協力を得て、3年生と4年生の児童を三沢地内の館の山(通称 窪山)に連れて行きました。ここは山の裾野を水路が走り、多種多様な植物が自生しています。毎年同じ場所ですが、春の早い遅いや天候の加減で、見ることのできる山野草は変わります。今年はエンレイソウやカキドウシ、ラショウモンカズラ、クルマバソウ、ヒトリシズカなどが咲いていました。
 その道の途中で、日本タンポポとセイヨウタンポポの違い、花が終わっても精一杯生きていることなどを話し、少しでも植物に興味を持ってもらえるようにしました。


☆置賜さくら回廊を巡ってきました!

 4月17日午後から「置賜さくら回廊」を巡ってきました。
 この「置賜さくら回廊」とは、山形県南部に位置するところで、赤湯温泉から白鷹町荒砥までのフラワー長井線沿いに点在する有名なさくらを巡るものです。先ずは、この沿線で最も古いといわれている伊佐沢の久保桜にまわりました。それが右の写真です。
 樹齢およそ1,200年といわれるエドヒガンザクラで、東北地方の桜でも巨木のひとつに入っています。でも、写真で見てもわかるように、桜そのものより支え木のほうが目立つほどで、枝枯れもところどころにありました。今回巡って感じたことは、たしかに人間と比べると桁外れに長生きですが、老木の傷みは目立ち、やっと支え木に支えられているように思いました。それでも必死に生きている姿に感動しましたし、もっともっと長生きしてほしいと思いました。
 次は「釜の越桜」、「薬師桜」、「十二の桜」「子守堂の桜」、「赤坂の薬師桜」、「八乙女種まき桜」、「原のしだれ桜」、「殿入り桜」、そして最後に「烏帽子山千本桜」と「二代目放鳥目白桜」を見る頃には夕闇も迫ってきて終わりとなりました。
 みなそれぞれに個性豊かな桜で、地区民が大事に守っているという印象です。
 また、来年も、機会があれば春の恒例行事として見て回りたいと思っています。


☆興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」を見てきました!

 4月2日、上野の東京国立博物館で開催されている興福寺創建1300年記念「国宝 阿修羅展」を見てきました。当日は、山形新幹線で東京駅に午前9時44分に着き、すぐに上野駅に戻り、駅構内のチケット売り場で観覧券を買い、まっすぐに東京国立博物館に向かいました。
 すでに10分待ちということでしたが、ほどなく入館し、ゆっりと見てまわることができました。もちろんお目当ては「阿修羅像」ですが、八部衆がこのように揃うことは珍しく、なかでも迦楼羅立像のとさかとくちばしがあり、さらに肉垂れがあるのはまさに鳥のようでしたし、緊那羅立像は目がつり上がり躍動感があり、額にもう1つ目がありました。また、沙羯羅立像は髪が蛇になっていましたが、幼顔で、かわいらしくもありました。もちろん、阿修羅像は大きな部屋に1体だけ展示され、なんども入場制限を繰り返しながら、間近で拝むことができました。
 十代弟子も6体展示されていましたが、興福寺にはこの6体しか現存しないそうです。しかも、奈良時代の天平6年(734)につくられたそうですから、やはりその歴史はすごいものです。
 今までは、ほとんど図録を買い、自宅でもゆっくり観ていたのですが、後から図録を観ればいいと安易に考えやすいので、最近は展示会場でゆっくりと観るようにしています。そうすると、頭のどこかのヒダにそのお姿がこびりつき、思い出すことができます。たとえば、阿修羅像の足にインドで見たようなスリッパみたいなのを履いていたのがリアルに思い出すようなものです。
 この「国宝 阿修羅展」は、3月31日〜6月7日まで開かれていますので、機会があれば拝観してみてください。
 奈良の仏さまが、わざわざ東京までお出ましになることは、あまりないことだと思います。


☆床の間にひな人形!

 3月のお茶のお稽古のとき、床の間にひな人形が飾られていました。
 こちらでは、ほとんどの行事を旧暦でするので、ひな祭りも4月3日まで飾るのが多く、この席もそれに準じていたようです。
 床には、「柳緑花紅」(やなぎはみどり、はなはくれない)のお軸がかかり、いかにもという趣向です。この語句は、11世紀の中国の蘇軾(そしょく)の詩から引用されたもののようで、「物事が自然のままに、人の手を加えられていないことのたとえで、柳は緑色をなすように、花は紅色に咲くように、この世のものは種々様々に異なっており、それぞれに自然の理が備わっている」というほどの意味です。
 そういえば、この春の時期になると思い出すのが、おなじ蘇軾の『春夜』という題の詩で、「春宵一刻 値千金(しゅんしょういっこく あたいせんきん)」というのを思い出します。ついでだからその後も続けますと、「春宵一刻 値千金 花に清香有り 月に陰有り 歌管楼台 声細細 鞦韆院落 夜沈沈」となります。
 これを中国の方に読んでいただいた時がありますが、その韻律のすばらしさに感動したことがあります。漢詩は意味だけでなく、その流れるような韻律も楽しみたいと思いました。それで中国語も少し勉強しましたが、その四声の難しさにマスターできませんでした。


☆映画『オーストラリア』を観てきました!

 2009年3月12日、久しぶりに映画でも観ようかと思い、夕方から『オーストラリア』という題名の映画を観てきました。
 ほとんど何の前知識もなく観たのですが、とてもおもしろかったです。最近はDVDで映画を観る方も多いかと思いますが、あの音響だけは映画館でなければ味わえません。1,500頭の牛が疾走する地響きや、爆弾の炸裂する音などの臨場感は、やはり映画館です。
 あのオーストラリアの大自然もすばらしかったし、夫の意志を継いで1,500頭の牛を荒くれの現地カウボーイたちとともに遠く離れたダーウィンまで牛を引き連れて行く行程なども、スリル満点でした。それと白人と黒人との人種問題、さらには現地のアボリジとの関係などもリアルに描かれていました。
 でも、最後の日本軍が出てきたときには、あまり良い気持ちではありませんでしたが、やはりこれが戦争の残酷さなんだと思いました。
 後から調べたところによると、監督はバズ・ラーマンで、『ロミオとジュリエット』や『ムーラン・ルージュ』などの作品があるといいます。すると、ある意味ではラブストーリーだったのかもしれませんが、あの壮大なオーストラリアの風景にかき消されれてしまったかのようでした。


☆『文字の力・書のチカラ』を見てきました!

 2009年2月15日の開催最終日に、出光美術館で『文字の力・書のチカラ』を見てきました。
 これは1月10〜2月15日まで開催されていて、「古典と現代の対話」という副題が付いていました。あたらしいところでは、平櫛田中「不老」で、あの有名な「六十 七十は はなたれこぞう おとこざかりは 百から百から わしもこれから これから」という文字が書かれています。大きさは34p×24pですが、大きく感じられます。また、古いものでは平安時代の伝小野道風の継ぎ色紙や空海の隅寺心経などはなかなか見る機会のない貴重なものです。
 とくに良かったのは、一休宗純の七佛通戒偈で、右の写真の図録にその一部があります。この書は、京都の大徳寺や金閣寺でも見ていますが、やはり、筆の運びの力強さには感動してしまいます。最近は、図録も重いので購入を控えていますが、これだけはと思い求めてきました。そして、帰ってからも時間があると開いて見ています。その本物を見たときの印象がよみがえり、至福の時間を過ごしています。
 至福といえば、その翌々日に東京国立近代美術館で見た横山大観の『生々流転』もそうでした。これは20年以上も前にこの絵巻物の複製を手に入れて見ていたのですが、やはり本物は違います。墨の濃淡だけで一滴の水から大海に流れ、ついには龍となって空に戻っていくその過程を表現したもので、だただ圧倒されました。しかも、そのすべてを1階の展示室にズーッと広げて展示しているわけですから、見応えがあります。
 この機会にいろいろな美術館をまわりましたが、それぞれに楽しく、豊かな時間を過ごすことができました。


☆節分に開運星祭を厳修しました!

 2009年2月3日の節分に『開運星祭』を厳修しました。
 そして、この日の夜に、各家庭でも行われているような豆まきをしましたが、今年の豆は、築地の有限会社山福商店さんが特別に送っていただいた黒豆を使いました。山福さんは築地でも有名な豆や穀類を扱う専門店で、このような黒豆はどこでも扱っているわけではありません。
 左の写真は、その黒豆と普通の豆まき用の豆をいっしょのマスに入れて撮ったものです。
 山福さんにお聞きしたら、大黒さまの「黒」だし、今年の世界的な不況でも「黒」字になるようにとの願いから作ったのだそうです。
 ところで、節分の狂言に『福の神』というのがありますが、そのあらすじは、2人の信心深い男が、毎年大晦日の恒例である福の神へ参詣することにしていました(昔は陰暦のため、立春の前日の節分が大晦日になり、そのときに豆まきをします)。その大晦日に、2人は誘い合わせてお参りに出かけます。2人が参拝し、年越しの豆をまいていると、福の神が現れます。毎年熱心に参詣する2人に福を授けようと思って現れたと語ります。その福の神は、「ところで、いつもお神酒をくれるのに、今年はなぜないのか」と2人から酒をいただき、「これは他の神々にもわけてやろう」と大喜びします。そして2人に「幸せになる秘訣は、元手をかけることだ」と教えますが、不満顔の2人にさらに、お金だけが元手ではなく、心の持ちようが大事だと話します。それは、慈悲の心を持つこと、来客を喜び、夫婦仲良く、最後に福の神にお酒を捧げることだと語って、大笑いして去っていくというものです。
 狂言や能は、それなりの知識がないとつまらないものですが、見始めると、次第にそのおもしろさが理解できます。もし機会があれば、ぜひ見てみてください。


☆「1日1枚絵の葉書」展を見てきました!

 2009年1月30日に、18日から31日までギャラリー金池で開かれていた「吉野健太郎さんによる 1日1枚絵の葉書 描き続けて18年」展を見てきました。
 右の写真は、その絵の葉書の1枚です。これだけは、1枚を小さな額に入れて飾ってありました。しかも、日にちも入っていません。ということは、今回の展示会にあわせて、描いたのかもしれません。
 展示されているほとんどの葉の葉書は、大きな額に15枚ほど並べて飾られ、そのような額がずーっと並んでいました。数えてはみましたが、途中であきらめてしまうほど、たくさんの絵の葉書が並んでいました。おそらく、今まで18年間描き続けていますから、相当数の絵の葉書があるでしょうから、そのなかから厳選したものだと思います。
 しかし、それにしても、毎日描き続けるというのはすごいものです。
 なにげなく見ている中にも、大きな発見があったり、見過ごしてしまうような小さなものに、大きな感動があったりと、想像するだけでもワクワクしてしまいます。
 よく「絵手紙」ともいいますが、吉野さんのはすべて切手を貼って、毎日、自分あてに葉書として投函しているそうです。
 それもまた、すごい自分史ではあります。


☆「悠々茶事」に招待されました!

 毎年、「だいこん茶事」をしていますが、今年は会場の都合で自分で作る料理は持ち込めないとのことで、名を「悠々茶事」に変えて12月23日に行いました。
 ちょうどクリスマス・イブ前日ということもあり、主菓子は「聖夜」という銘が付いていました。
 特に印象に残ったのは、濃茶碗が西岡小十作の黒唐津焼と大樋年朗作の大樋焼、薄茶碗はベルリンの壁のかけらが焼き込まれた茶碗などです。また、濃茶入は古瀬戸で仕覆が小花金襴でした。ちょっと大振りですが、古味もあり、蓋の象牙もいい色合いをしていました。
 ちょうどこれを書いているのが、1月12日の「成人の日」です。そういえば、今年の成人が生まれたときに、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が壊され、統一されたことを思い出しました。そのときに壊された壁の破片が、左の写真の茶碗に入っているそうです。それでまた、思い出したのですが、裏千家のお家元が同じように破片を混ぜ込んだ蓋置きをある茶会で使っていました。
 このように考えると、お茶事というのは、ある種、連想ゲームのようなものなのかもしれません。


☆「みちのくの浄土〜平泉〜」展を見てきました!

 年も押し迫った12月20日に、仙台市博物館で開催されていた「みちのくの浄土〜平泉〜」展を見てきました。
 予定では11月14日からの開催なので、例大祭が終わってすぐにでも見に行く予定でしたが、なかなかその時間がとれず、とうとうギリギリで間に合いました。ところが行ってみてびっくり、平泉周辺だけでなく、近くの成島八幡宮の神像や宮内熊野大社の仏像なども展示してあり、一番よろこんだのは国宝の勝常寺の薬師三尊像を間近で拝むことができたことです。なぜなら、今年の10月10日に会津若松の御薬園に行った帰りに復元されたばかりの慧日寺本堂を見に回ったのですが、残念なことにその内陣には勝常寺の薬師三尊像の写真がタペストリーのように飾られていただけでした。まさに建物だけで魂入れずの状態です。この勝常寺の薬師三尊像は東北地方で国宝に指定されている仏像の一つで、もう一つが今回展示されていた金色堂の諸仏だけなんだそうです。それらを同時に展示されていたのですから、もうすごい感動ものです。
 ゆっくりと拝見し、主立ったものは何度か立ち戻りながらも名残惜しげにまぶたに焼き付け、最近では重いからと敬遠するようになってきた図録さえも迷わず求めて帰りました。そして、これを書いている今も、ときどきその図録のページをめくっています。
 その日の夕方、今回で23回目を迎えた『2008SENDAI光のページェント』を見てから帰宅しました。これは仙台定禅寺通り、青葉通りで開催されるイルミネーションイベントで、一度消灯して、一斉に点灯するのをスターライト・ウインクというそうですが、それがとてもよく、いっせいにため息が漏れるかのような声にならない声が聞こえてきました。
 そして夕食は、やはり仙台名物の「牛タン」です。お昼ちょっと前に出かけたのですが、まさに仙台満喫の1日でした。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.26

 次は、今回巡礼の最後になる第27番札所の飯沼山円福寺です。ここは銚子市内にあるので、九十九里浜をずーっと走らなければなりません。前の清水寺を出たのが午前9時45分ですから、予定では2時間はかかるということでした。途中、千葉県道路公社の九十九里道路を走り、海辺を眺めながらのドライブです。海風が気持ちよく、青い空が目にまぶしいほどです。九十九里浜とは、九十九里も浜辺が続くということで名付けられたのでしょうが、ほんとうに行けども行けども砂浜が続いています。もちろん、道路は海ぎわばかり走っていませんから確実なことはわからないのですが、そのような印象でした。
 そうしているうちに、円福寺に着きました。11時30分でした。
 最初は本坊に行ったのですが、観音堂は道路を隔てたところにあるということで、車で移動しました。仁王門を入るとその奥に修理中の観音堂が見えました。その左手に大きな五重塔を建築中で、本坊からもらってきた大判の趣意書によると、総工費は7億5千万だそうです。竣工は今年となっていて、地盤より相輪上端までの高さが33.55mで、立柱式は5月18日にされたそうです。
 まずは観音さまにお詣りをするべく観音堂に入ると、特別に内陣でおつとめをしてもいいとのこと、有り難く中に入らせていただき、太鼓を打ちながら勤行いたしました。今年の坂東巡礼はここで打ち止めということもあり、念入りに経を唱えました。そして、内陣を出ようとしたとき、ふと、天井を見上げると見事な観音様と蓮の花が描かれているのに気づきました。おそらく、一こま一こまをご奉納いただいたものでしょうが、それらがまとまると、大きな存在感になると思いました。
 修理中で観音堂の全体はわからなかったのですが、外陣の大きな提灯はまるで浅草観音さまの雷門のような大きさで、造りも似ていました。その観音堂手前の大香炉わきに大仏さまが安置されており、正徳4(1714)年に鋳造されたとありました。境内地を歩きながら見ていると、運転手さんがご朱印をいただき戻られたので、また、車に乗り込みました。12時5分でしたが、そのまま近くの満願寺にもお詣りすることにしました。ここでも、縁があり、内陣でおつとめができ、いい思い出になりました。
 満願寺を出たのが12時50分で、そこで紹介された「一山いけす」という活魚大衆料理のお店で昼食にしました。大きなお店で、ちょうどお昼ということもあり、たいへん混んでいましたが、帰られる方もおられたようで、すぐに席に着き、海鮮ちらし寿司を食べました。そこで、帰る道筋だから、ぜひ鹿島神宮にまわってお参りしたいと話すと、みんな賛成してくれ、ここを1時30分に出発しました。
 鹿島神宮に着いたのは2時40分でしたが、ちょうど1〜2日は「鹿嶋のご神幸」というお祭りで、付近一帯は駐車禁止だったので民間駐車場に車を止め、歩いてお参りしました。その途中で多くの人たちが引く山車や還幸祭という行列にもあい、思わぬ祭事に出会うことができました。
 仲間の一人が何度かここにお参りしたことがあるということで、その案内で本殿だけでなく奥宮や要石まで行ってきました。予定ではあまり時間をかけずにということでしたが、15時25分までここ鹿島神宮にいました。
 あとは、一路、帰宅するだけです。16時25分に水戸大洗インターから入り、北関東自動車道路を友部ジャンクションで常磐自動車道に進み、前日に朝食を食べた中郷サービスエリアで一時休憩し、安達太良サービスエリアでは夕食を食べました。考えてみたら、昨年の坂東巡拝の帰りもここで夕食を食べたようで、人ってあまり変わりのないことをしているんだなあと感じました。
 東北自動車道を福島飯坂インターでおり、時計を見ると午後7時29分でした。そして、みんなが集まった万世の普門寺さんに着いたのが午後8時5分でした。予定は8時30分でしたから、まずまずの時間で帰ることができたようです。
 こうして、今年の坂東三十三観音札所巡りも無事に終了しました。おそらく、次の機会には三十三ヵ所すべて巡拝できることと思います。まずは、その満願できることを願い、おのおのの自坊に帰りました。

 第27番札所 飯沼山円福寺 (真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 このほどは よろずのことを 飯沼に きくもならはぬ 波の音かな



☆坂東三十三観音札所巡り Part.25

 巡拝者仲間は、みんな早起きです。5時前後から動き出し、早々にお風呂に行き、朝食の7時15分からが待ちきれない様子でした。ちょっと早めに行くと、何とか入れてくれ、ゆっくりと食べることができました。
 予定どおり、ここのホテルを午前8時に出発しました。近くに日蓮聖人の誕生された誕生寺があるというので、今日最初の参拝をそこにしました。ほんとうにあっという間に着き、朝の気持ちのいい時間に祖師堂をお詣りし、またゆっくりと参道を歩いて総門から車に乗りました。おそらく付近の信者さんと思える人たちが竹箒で境内地を清掃していましたが、その姿はとてもいいものでした。おそらく、自分自身の心まで掃き清めることができるのではないかと思いました。ここ誕生寺を出発したのは、午前8時30分です。
 まずは第32番札所の音羽山清水寺に向かいます。運転手さんに伺うと、ナビでは約1時間ぐらいという話でしたが、9時15分には着きました。清水寺だから音羽山なのかな、と京都の清水寺を思い出しながら石段の上に建つ仁王門をくぐり、するとその先にまた石段があり、その奥まったところに観音堂があります。
 観音堂は八間四面の入母屋造りのお堂で、外陣の壁には多くの巡礼額が納められていました。おそらく、地元坂東33観音霊場さえ巡拝するのは難しかった時代に、西国や秩父、さらには日光など、なかなかお詣りするのは夢のようなことだったのかもしれません。その中で、遙か遠い山形から車に乗り高速道路でやってきた人たちが経や真言を唱えているわけです。もし、この額に名前の載った人たちが聞けば、おそらくビックリすることでしょう。あるいは、ここまで何日、いや何週間かかったのかと聞かれるかもしれません。まったく時代は変わってしまったのでしょうが、変わらないのはこの霊場の寺々です。
 この坂東観音霊場ができたのは、おそらく鎌倉時代のことでしょうから、約800年ほどになります。それぞれに栄枯盛衰はあるにしても、今現在もこのようにしてお詣りできることがすばらしいことです。800年前の人たちと同じように、ここ坂東の地を今も巡拝できることがすごいことだと思います。その悠久の時に思いをはせながら、ゆっくりとお詣りさせていただきました。
 お詣りが終わり、石段を下がると、運転手さんもご朱印がすんだようで待っていました。すぐ車に戻り、9時45分に次の霊場に向けて出発しました。

 第32番札所 音羽山清水寺 (天台宗) 本尊さま 正観世音菩薩
 ご詠歌 濁るとも 千尋の底は 澄みにけり 清水寺に 結ぶ閼伽桶



☆坂東三十三観音札所巡り Part.24

 高蔵寺を14時45分に出発し、途中の富津中央インターから館山自動車道に入り、館山自動車道路の終点富浦でおりると、ほどなくして第33番札所の補陀洛山那古寺に到着しました。ちょうど1時間かかってここに着きました。
 先に急な石段の参道前に行ったのですが、駐車場はその手前にあるというので、そこに移動しました。その駐車場の奥に本坊があり、そこでご朱印をいただけるようです。私たちは、裏坂と呼ばれているなだらかな参道を上り、仁王門前で写真を撮り、そこをくぐると伽藍が立ち並ぶ境内地です。
 先ず左手にあったのは鐘楼堂で、右手には阿弥陀堂がありました。その阿弥陀堂の左手に見事な多宝塔があり、宝暦11(1761)年に建てられたとあります。ちょっと珍しい造りで、地元の大工さんたちが造ったのだそうです。
 その奥に朱塗りの本瓦葺きの観音堂がありました。案内図では、これが本堂でもあるようです。
 数段の石段を上り、左にまわると、そこが観音堂の正面です。老中松平定信の揮毫による「円通閣」の大きな額が掲げられ、観音堂からは館山の海が見渡せます。さっそく経を唱え、まだ坂東33観音全部を巡拝したわけではないのですが、ここが第33番の観音さまということもあり、一心に念じました。額にもあるように、「円通」とは仏さまだけでなく、修行者までもが智恵をあまねく行き渡っていることで、その智恵をいただくからこそ真実が見えてくるわけです。
 一心にお詣りし、それからまた海の方を振り返ってみると、はるか遠くまで見渡せるように感じました。なぜか、自分が多くの人たちと慈悲の心で接することができるようにと願ったことが、観音さままで届いたかのようです。やはり、お詣りすることは気持ちのいいことです。お詣りしなければ、このようなおおらかな気持ちにはなかなかなれません。毎日の細々した日常世界からちょっとはみ出し、大いなる観音さまの膝前で一心に祈ると、ほんとうに気持ちが晴れ晴れします。
 観音堂の左手には、大黒堂もあり、諸堂をゆっくりとお詣りしながら帰りました。本坊前には、大きな蘇鉄が植えてあり、誰か一人が写真を撮ると、なぜかみんなが撮り始めました。これが日本人の性格かな、と思いながらジャンボタクシーに乗り込みました。
 時計を見ると午後4時20分です。今日の巡拝はこれまでとし、宿泊予定の小湊鯛ノ浦温泉のホテル三日月を目指して進みました。ホテルに到着したのは午後5時30分で、海ぎわの道路は、山国育ちの人にとっては心はしゃぐ時間でした。夕食を19時からにしてもらい、21時40分にはみんな寝てしまいました。
 運転手さんはホテル内では別行動でしたが、ほんとうにご苦労様でした。明日もよろしくお願いいたします。

 第33番札所 補陀洛山那古寺 (真言宗智山派) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ浪を 見るにつけても



☆坂東三十三観音札所巡り Part.23

 第30番札所の平野山高蔵寺に向かいましたが、時間的にそろそろ昼食です。私たちはお詣りが目的ですから、少々時間がずれてもいいのですが、車の運転手はそうはいきません。車の中からいろいろと食べるところを探すのですが見つからず、運転手さんにお願いして、ナビで探してもらうことにしました。近くに和風ドライブインがあるということで行ってみると、そこは普通のラーメン屋でした。おそらく、自分でそのように表示するように依頼したのでしょうが、かえって印象を悪くしてしまうような気がしました。せっかく入ったお店ですから、文句も言わずラーメンなどを頼み、昼食をすませました。
 高蔵寺はここから5分ほどのところにありました。到着時間は、14時15分でした。
 駐車場の前に14段ほどの石段があり、山門をくぐると、そこは高床式のような重層入母屋造りの観音堂です。パンフレットによると、木更津市指定文化財になっているそうで、床柱数88本、床の高さは2.3mで、床下を人が立って歩けるそうです。
 だからというわけでもないのでしょうが、観音堂の床下を「観音浄土巡り」として利用していました。もともとは秘仏とされてきた本尊正観世音菩薩を床下から常に拝めるとあったので、拝観料一人300円を払い、入ってみました。地獄界と極楽界、そして観音浄土界を体験できるとありましたが、ちょっと猥雑な展示で、少々がっかりしました。何が地獄で、なにが極楽かもわかりませんし、中国の品が飾ってあるかと思えば、エジプトのものもあり、果てはヨーロッパのものまで乱雑に展示されています。
 わたし的には、ご本尊さまを直接間近でお詣りできればそれだけでよい、と思いました。もちろん、人それぞれの好みもあるでしょうが、床下のあの空間はちょっともったいないと思いました。
 外に出ると、真っ青な空が見えました。そのとき、今経験したのはむしろ胎内くぐりで、やはりこの自然あふれる外の世界が一番いいと思わずにはいられませんでした。

 第30番札所 平野山高蔵寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 正観世音菩薩
 ご詠歌 はるばると 登りて拝む 高倉や 富士にうつろう 阿娑婆なるらん



☆坂東三十三観音札所巡り Part.22

 次は第31番札所の大悲山笠森寺です。千葉寺を午前11時25分に出発し、館山自動車道の蘇我南インターから入り、市原インターでおり、笠森寺に着いたのはお昼ちょっと過ぎの12時5分でした。
 参道手前の売店の駐車場に車を止めていただき、参道を上ります。ここは「女人坂」とあり、杉や楠などの鬱蒼とした木々に囲まれた深閑とした雰囲気のなかを110段の石段を登っていきます。おそらく夏でもヒヤッとするようなところで、笠森寺自然林として天然記念物として指定されているそうです。
 登り切ると、二天門があり、そこをくぐり抜けると、二代目広重の「諸国名所百景」にも描かれたという観音堂が見えます。このお堂は、岩山の上に建ち、それぞれ高さの違う61本の柱に支えられているそうで、とても珍しい四方懸崖造りです。この日は青空でまぶしく、見上げると空に浮かぶような感覚でした。
 さっそく急な「く」の字に折れ曲がった階段を上ると、左手のほうが正面で、そこから外陣に入ります。大きな声で経文を唱えると、そのまま空の彼方までこだましそうでした。
 また、ここから見る景色もすばらしく、まさに自然林に囲まれているのが実感できます。また外国人の多いのにもおどろきました。パンフレットを見ると、英語の案内もあり、なるほどと思いました。ここで、記念撮影をしましたが、バックが空なのでほとんど何も写らなく、後から整理しているとどこで撮ったのかさえわからないほどでした。
 帰り道、参道わきに大きな楠の木があり、そこの根本にある穴をくぐると、子が授かるという「子授け楠」だそうですが、いっしょに行った一人がくぐりましたが男ですから、おそらくお孫さんでも授かるのでしょう。この参道には他に、松尾芭蕉の「五月雨にこの笠森をさしもぐさ」の句碑や1本の杉の根っこから生えている三本杉の巨木などがあり、それらを眺めながら帰ると、あっという間にもとの駐車場に着きました。
 売店の駐車場にただ車を止めてもらって帰ってはということで、そこでソフトクリームを食べることにしました。そろそろお昼を食べなくてはならない時間でしたが、ちょうど一汗かいたということもあり、とても美味しかったです。ここを出発したのは、午後1時5分でした。

 第31番札所 大悲山笠森寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 日はくるる 雨はふる野の 道すがら かかる旅路を たのむかさもり



☆坂東三十三観音札所巡り Part.21

 次は第29番札所の海上山千葉寺です。千葉寺と書いて「せんようじ」と読みます。龍正院を出たのが午前10時、成田山付近を通りがかったのが10時20分ごろで、再び東関東自動車道路の成田インターから入り、宮野木ジャンクションから館山自動車道へ、そして松ヶ丘北インターでおりました。ほどなくして千葉寺の前に着きましたが、ちょうど1時間かかったことになります。
 ここ千葉寺は、大網街道沿いにあり、山門前はひっきりなしに車の往来があり、横切るのが大変でした。しかも山門付近には電線や案内板なども多く、写真も撮りにくい状態でした。でも、この山門は単層入母屋造りで、ここにもしめ縄が張ってありました。
 この山門をくぐると、先ず目に入るのが大きなイチョウの木で、ここを開創されたときに植えられたと伝えられているそうです。私は気がつかなかったのですが、案内板にあの鎌倉八幡宮の大イチョウよりも大きいと書かれてあったそうで、まことに見事でした。何枚も写真を撮りましたが、大きさもさることながら木の木陰で薄暗く、難しそうでした。
 そのイチョウの木を右に見て、そのまま進むと観音堂です。昭和20年の戦火で失われたそうですが、その後しばらくたって落成されたもので、朱塗りの鉄筋コンクリート造りです。その扉に付けられた図柄もおもしろく、ちょっとやぶにらみのようです。相当大きな観音堂ですが、その手前のイチョウが大きいこともあり、遠くから見るとそんなには大きく感じなかったのですが、鰐口の下でお詣りするときには、相当な威圧感がありました。
 ここのご詠歌を読みながら、もしかすると昔はこの近くまで海が広がっていて、波の音なども聞こえたり、船の姿なども見えたのではないかと想像してしまいました。しかも、ここが千葉の郊外とはいえ、静かな環境で、朝晩の散歩に最適ではないかとさえ思えました。
 ここを出たのは、午前11時25分でした。

 第29番札所 海上山千葉寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 千葉寺へ 詣る吾が身も たのもしや 岸うつ波に 船ぞうかぶる



☆坂東三十三観音札所巡り Part.20

 平成20年度も、坂東三十三観音札所巡りをしてきました。9月1から2日にかけてです。
 1日の早朝4時20分に自宅を出て、集合場所の万世普門寺さんのところへ4時50分に着きました。出発予定は午前5時です。
 しかし、奥様が「朝茶をどうぞ!」ということで、朝茶と茄子漬けをいただき、午前5時7分に出発しました。今回最初の巡礼地は、第28番札所の滑河山龍正院です。
 ジャンボタクシーの運転手さんにお任せの旅、しかも3年目も同じ運転手さんなので顔見知りになり、とても気楽な旅です。福島飯坂インターから東北高速に入り、郡山ジャンクションから磐越自動車道に進み、いわきジャンクションから常磐自動車道に入りました。そして、中郷サービスエリアに着いたのが午前7時10分でした。ここで朝食をとり、少しの休憩の後、出発しましたが、時計を見ると30分しか経っていませんでした。
 友部ジャンクションからそのまま常磐自動車道を進み、桜土浦インターで高速道路から一般道に下りました。目指す龍正院は香取郡下総町と案内図に書かれていましたが、今は成田市なんだそうです。しかも、新しく圏央道ができたそうで、それならつくばジャンクションから阿見東インターまで行けば良かったかな、などと運転手さんが話していました。
 それでも、予定より早く、午前9時40分に龍正院に到着しました。
 先ず、その仁王門にしめ縄がかかっていることにびっくりしました。それには由来があって、享保年間に門前で火災があったのだがここの仁王尊が観音堂の屋根から大きな扇で火焔をあおぎかえしたので下の集落は焼失をまぬがれたといいます。それで現在でも、毎年正月8日に下の集落の人々はしめ縄を奉納しているのだそうです。しかも、この仁王門は室町時代の建物で、重要文化財に指定されていました。
 そこをくぐると、正面に大きな観音堂があります。この入母屋造りのお堂は、元禄9(1696)年に建てられたもので、昭和43年に大修理をされたそうで、外陣には多くの巡礼額が掲げられていました。そこで、般若心経などを唱え、ゆっくりとお詣りしました。ここまで、自宅からだと5時間強かかったわけですが、昔ならどれほどの時間でお詣りできたのかなどと考えると気が遠くなりそうでした。
 いつものようにご朱印は運転手さんがいただいたくれるので、お詣りに専念できます。お詣りののち、境内地をゆっくりと巡拝しました。ここは下総七福神の毘沙門天を祀っているらしく、そのほこらもあり、さらには、新しくぼけ封じ道祖神などと書かれた石仏もありました。
 この龍正院から、今年の坂東三十三観音札所巡りはスタートです。

 第28番札所 滑河山龍正院 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 音にきく 滑河寺の 朝日ケ渕 あみ衣にて すくふなりけり



☆野菜の花はきれいです!

 今年の夏は、野菜の花の写真を撮りました。というのは、子どもたちに野菜にもっと親しんでもらう話しをするときに使おうと思ってのことです。
 この右の写真は「キュウリの花」です。
 意外ときれいなものでしょう。この他にササゲ、ピーマン、ナンバン、ゴーヤ、トマト、小豆などの花も撮りました。
 そういえば、ルイ16世の時代、ひどい凶作があり、薬学者のパルマンティエが馬鈴薯の栽培を勧めました。しかし、なかなか栽培する人が増えないので、あるとき、王妃マリー・アントワネットに馬鈴薯の花を身につけさせて舞踏会に臨ませたそうです。さらに国王のいも畑にわざと見張りを立て、夜に盗みやすくして庶民に広めたという逸話が残っています。
 たしかに馬鈴薯の花はきれいですし、品種によっても花色が違ったりします。また、オクラの花や春菊の花などは、今回初めて見ました。
 これからも機会があれば、いろいろな野菜の花を撮りたいと思います。



☆蔵王のお釜!

 平成20年8月7日、米沢山野草会の1日研修旅行で、蔵王熊野岳に登って来ました。
 そのときの写真が、右に掲載したものです。とても良い天気で、このお釜は何度も見ていますが、これだけすっきりと晴れたのは初めてです。これは刈田駐車場から熊野岳に向かう途中の馬の背から撮ったもので、午前11時20分です。
 このお釜は、刈田岳と熊野岳、そして五色岳の三峰に囲まれたような火口湖で、見るからに釜状なので「お釜」という名前がついたそうです。とくにこのエメラルドグリーンの湖面は神秘的で、その荒々しい火口壁と好対照です。ものの本によると、昭和14年測深した当時は、63メートルも深さがあったそうですが、五色岳断崖の崩壊により年々埋まり昭和43年測深時では、最大深度27.6メートル、平均深度17.8メートル、周囲1,080メートル、東西径325メートル南北径335メートルだそうです。
 もちろん、この湖水は強酸性のため生物は生息できないそうですが、植物すら付近には生えず、やはり異様な雰囲気を醸し出しています。この水は、南西から流れ出て濁り川となり、不帰滝となり、太平洋まで流れ出るそうです。この日は、その不帰滝を見下ろす駒草平まで行き、コマクサも見て帰りました。



☆玉庭のお行屋でお茶会!

 平成20年7月26日、山形県川西町玉庭の瑞光寺境内に移築されたお行屋で、お茶会がありました。
 米沢盆地を中心とする置賜地方では、大正期頃まで、13歳から15歳の男子が成人儀礼として飯豊山に登拝する習俗がありました。これをお西詣りといいます。また、お西詣りが終わると、次は出羽三山にお詣りしますが、それをお北詣りといい、戦後まで続いていたそうです。
 お行屋は、この登拝前にお籠もりして精進潔斎をしたり、登拝から帰ってきたときにも精進落としに使っていました。ですから、お行屋は置賜地方の各村々にあっただけでなく、個人で持っていたところもあったそうです。しかし登拝が廃れてくると、物置や味噌蔵になったり、雪などで壊れてしまったのも多いといいます。
 この瑞光寺境内に移築されたお行屋も例外ではなく、雪で屋根が落ちかけていたそうです。それを何とか境内地に移築し、将来にわたって保存したいと考え、今年の春にさや堂に収められました。カヤ屋根や壁なども修復し、いつでも修繕できるようにと、さや堂から引き出すこともできるといいます。
 すでに完成披露はしていますが、今回は初めて、その中でお茶会をしました。しかも普段着のままで、お行屋の由来などを語り合いながらです。
 ご亭主は、昔ならお行屋には女性は入れなかったので、みなさんに何かがふりかかると悪いので、この『姫』という銘の小町棗を先に入れておきましたと挨拶されました。その心配りに、まずは感銘を受けました。掛け物は、京都の極楽山西芳寺(苔寺)ご住職の『洗心』で、水差は高取静山、茶碗は西岡小十、茶杓は槐の自作で、京都泉涌寺門跡が名付けられた『延寿』、建水は骨董屋で見つけてきた江戸期のものだそうで、とても濃密な時間を過ごすことが出来ました。
 機会があれば、ぜひ、また招待されてみたいものです。



☆雄国沼のニッコウキスゲ!

 平成20年7月2日、福島県雄国沼のニッコウキスゲを見に行ってきました。先月17日と同じように始発のシャトルバスに乗りましたが、今回はほぼ座席がいっぱいでした。
 しかも、金沢峠から見ると、始発にもかかわらず、すでに雄国沼付近には数人の人影が見えました。おそらく、檜原湖から歩いて登ったのだと思いますが、早朝の姿を写真に収めるには歩いて登るしか方法はありません。
 すぐに私も駆け下り、朝露に濡れているニッコウキスゲを撮りはじめました。ニッコウキスゲの見頃なので、次々と人が訪れ、木道に三脚を構えてゆっくり撮るというわけにはいきません。それでも何枚か撮り、朝食を食べました。とくに美味しかったのは、冷やした山形産のサクランボです。見事なニッコウキスゲの群落を見ながら、真っ赤なサクランボをほおばり、青空に浮かぶ真っ白な雲を眺めていると、ひとりでに笑みがこぼれてきます。端から見ると気持ち悪いと思いますが、自分ではあまりにも自然なのです。
 井植歳男氏は「小さなことばかり考えていると、人柄も小さくなってしまう。」と言いましたが、このような雄大な景色を眺めていると、些細なことは気にならず、大らかな気持ちになれます。



☆飯豊山と蕎麦畑!

 平成20年6月17日、福島県雄国沼のレンゲツツジを見に行ってきましたが、始発のシャトルバスに乗ったこともあり、人っ子一人いない雄国沼をゆっくり散策できました。午前9時を過ぎた頃から人も多くなり、早めに下山しました。そのシャトルバスの乗り場から少し下がったところで、見事な蕎麦畑を見つけました。
 山形では、蕎麦の花は8月下旬から咲き出すのですが、ここでは真っ白な花をすでに咲かせていました。遠くには飯豊山が見え、まだたくさんの残雪が残っていました。
 飯豊山は、山形側からだと、ときどき見ているのですが、福島側から見ることはとても少なく、しかも残雪のころには初めてのような気がします。しかも、満開の蕎麦畑を前景にするのは、もちろん初めてです。その近くには麦畑もあり、もう少しで収穫のようでした。季節は、「麦秋」。
 そこで、ネットでこのときの情景に一番似合いそうな俳句を探すと、新関一社氏の「麦の秋胸一杯に風の唄」というのがありました。まさに麦の穂を大きく揺らす風がとてもさわやかに感じました。



☆野生サルが下りてきた!

 平成20年6月4日、野生のサルたちが山から下りてきて、神殿前で遊んでいました。この右の写真をよく見てください。看板の左手前の石にちょこんとのっています。
 遊んでいるうちはいいのですが、後から小町山自然遊歩道に行ってみると、ヤマユリの根や草木の葉などを食いちぎり、あちらこちらに散らばっていました。おそらく、近くの畑に出没するのもこの同じサルの群れだと思います。
 大事に育てた畑の野菜などを食われれば、ガッカリするのは当然です。何度も被害に遭えば、作るのをやめるかそれなりの対策を施すかしなければなりません。聞くところによると、近くの畑では、補助を受けて進入できないように電線を張ったそうです。また、サルを捕まえ、首に発信器を付け、いつもその動きが分かるようにもしているそうです。
 それでも、なかなか難しいそうで、まだまだ人とサルとの知恵比べは続きそうです。



☆奥日光に行ってきました!

 平成20年5月26日、奥日光をフィールドワークにしている友人に案内され、中禅寺湖や湯ノ湖周辺のアズマシャクナゲやトウゴクミツバなどを見てきました。仕事の都合もあり、日帰りをしたのですが、車の走行距離は480Kmでした。
 右の写真はそのときに撮ったもので、中禅寺湖畔に咲くトウゴクミツバツツジです。この中禅寺湖畔はトウゴクミツバやアズマシャクナゲがやや終わり気味でしたが、竜頭の滝周辺のトウゴクミツバはまだ2〜3分咲きでした。標高にしてほとんど違わないのですが、日当たりや風向きなど、自然の条件が違えば開花期も違ってくるのではないかと思いました。
 でも、湯ノ湖周辺のアズマシャクナゲはちょうど満開で、散策を楽しんできました。
 そのときの写真は、
「シャクナゲのホームページ」に6月10日に載せましたので、ご覧ください。



☆春の山野草展を開催しました!

 平成20年5月10〜11日の両日、三沢コミセンで第32回「春の山野草展」が開催されました。
 そして、その第二会場が、ここ小町山自然遊歩道です。お天気にも恵まれ、多くの方々がいらっしゃいました。三沢コミセンの会場には、260鉢、180種類の山野草が並べられ、女性会員の手作り山菜料理も出され、お昼時には列ができるほででした。この様子は、山形新聞や米沢新聞などでも紹介されました。
 そこに出品された鉢植えを、少しだけここに掲載させていただきます。




山野草展会場

第二会場の小町山自然遊歩道へ

アケボノダイコンソウ

オサバグサ

チングルマ

白花シラネアオイ

オオバキスミレ

ヤマブキソウ

ヒメリュウキンカ



☆置賜の古代桜を見てきました!

 平成20年4月23日、午後から「やまがた花回廊」の一つ、フラワー長井線付近の古代桜を見てきました。
 今年は桜に縁があるようで、この日も晴天に恵まれ、長井から白鷹にかけてのサクラの古木を見てきました。午後からだったので、まずは一番見てみたかった「釜の越桜」に向かいました。ここだけがさくらまつり協力金ということで200円を払い、駐車場に停めました。ちょうど満開で、来る人来る人が一番いいときに来たね、と喜ぶほどでした。ここから歩いて「薬師桜」に行き、また戻って何枚かの写真を撮り、次に「十二の桜」に向かいました。あいにく、駐車場がいっぱいだったので、近くの公共施設に車を置き、歩きました。看板で、なぜ十二の桜というのかも知りました。
 そこから、長井の方に戻り、「白兎のシダレザクラ」と「草岡の大明神ザクラ」を見て、そこから伊佐沢の「久保桜」へ行きました。ここは、樹齢1,200年といわれるぐらいですから、すごい古木です。十数年前に一度見ていますが、その時より樹の勢いがありそうでした。ただ、ここが一番人が多く、なかなか写真を撮るのが難しく、何枚も撮って、後から選別することにしました。
 もう、今ごろは葉桜でしょう。サクラは、パッと咲いて、パッと散るから心に残るのかもしれません。



釜の越桜

薬師桜

十二の桜

草岡の大明神ザクラ

白兎のシダレザクラ

伊佐沢の久保桜



☆福島市の花見山に行ってきました!

 平成20年4月12日、福島市の花見山に行ってきました。
 ここは福島市内から南東に約4キロほどのところにある小さな山で、花木を育てて、それを販売する目的で植えられたものです。ですから、いろいろな花木が植えられていて、それらが一斉に咲くと、もう花の競演という雰囲気です。
 はじめて行ったのは20年ほども前のことですが、そのときはかすかなウグイスの声が聞こえるほど静かでした。シャッター音さえも響くほどでした。
 ところが現在では、シャトルバスが運行され、シャトルバスの停留所から800mほど歩く道は人でいっぱいにあふれかえり、花見山公園内の山道も一方通行で切れ目なく人が流れ、すごい混みようです。たしかに、花木はきれいに咲き競っていますが、あっちにもこっちにも人、人、人・・・。
 これを見ると、この場を解放してくれる人たちのプライバシーを考えてしまいました。おそらく、人が少ないときをねらってやってくるカメラマンも多そうです。
 ぜひ、マナーを守り、末永く、多くの人たちに愛される花見山であってほしいと思いました。


草岡の大明神ザクラ

花見山から見る福島市街

花見山の桜たち



☆小町山自然遊歩道に福寿草が咲きました!

 平成20年3月25日、小町山自然遊歩道に福寿草が咲きました。
 今年の1月上旬は雪が少なかったので、このまま暖冬傾向かと思っていたのですが、中下旬から雪が降り始め、例年通りの積雪になりました。それでも、草花たちは季節が来ると、忘れずに花を付けます。
 福寿草は、キンポウゲの仲間ですから、太陽が照らし出さないと花が開きません。それが、いかにも春の日射しを待っていた北国の人たちの気持ちと同じように思います。写真で見られるように、蜂たちも待っていたようです。これから、だんだんと本格的な春を迎えます。機会があれば、ぜひ小町山自然遊歩道を訪ねてみてください。


福寿草(白いところは残雪)

福寿草

福寿草と蜂



☆コハクチョウを見てきました!

 平成20年2月6日、上山の帰りに窪田の千眼寺裏の最上川でコハクチョウを見てきました。
 本当はハクチョウを見たかったのですが、時間が中途半端だったこともあり、コハクチョウとオナガガモしかいませんでした。そこの野鳥に詳しい方に伺ったら、やはり朝か夕方の時間帯だといるかもしれないし、写真を撮るにもいいのではないかということでした。
 それと、オオハクチョウは、くちばしの黄色部分がコハクチョウと比べて大きく、鼻孔の先まで黄色いそうです。そして、コハクチョウは鼻孔の手前までしか黄色くないそうです。でも、遠くから見ていると、なかなかそこまでの区別はできそうにありません。もし、これから見に行く場合は、簡単なものでもいいから双眼鏡があれば楽しいかもしれません。
 ただし、もう北国に帰るころだと思いますので、残念ながら、来年でもまた挑戦してみたいと考えています。


コハクチョウとオナガガモ

コハクチョウとオナガガモ

オナガガモ



☆上山の春雨庵に行きました!

 平成20年2月6日、上山市の春雨庵に行ってきました。
 ここは、あの京都大徳寺の僧、沢庵禅師が紫衣事件で上山に配流されたときに3年ほど過ごしていたところです。もちろん、この現在の建物は昭和28年に品川の東海寺から一部を譲り受け再建したものだと案内板に書かれていましたが、それでもこの茅葺き屋根や庭などは往時をしのぶのに十分でした。山形県の重要文化財にも指定されているそうです。
 沢庵禅師が春雨庵で詠んだ歌も残されています。

 花にぬる胡蝶の夢をさまさじとふるも音せぬ軒の春雨
 浅くともよしや汲む人あらばわれにこと足る山の井の水
 苔あつき草の庵のはるさめはしずくにだにもふるとしられず



☆坂東三十三観音札所巡り Part.19

 平成19年度の今回最後の巡礼地は、第4番札所の海光山長谷寺です。
 地図を見てると、そんなに離れていないようでしたが、杉本寺から25分ほどかかりました。ここも、数年前に家内と訪れたことがあり、二度目の参詣です。ここでも入山料を払い、山門の脇を抜け、池の間の道から石段を上ると、左手から大きなサルスベリが花を咲かせ、さらに上ると、今度は木立の下に小さくて優しい3体の親子にも似たお地蔵様がまつってありました。そこから、回り込むように石段を進むと、その高台に、観音堂などの伽藍が建っていました。まさに、見るからに近代的なもので、最近のものと一目でわかります。
 ここの本尊さまは、奈良の長谷寺の観音さまと同じ木から彫られたといわれ、全長三丈三寸と古記録にもあるそうです。お姿は、十一面観世音菩薩で、右手に錫杖を持っておられるのが特徴で、地蔵菩薩への信仰と重なり合わされたものではないかと思われます。
 たしかに由緒あるご本尊さまですが、長谷寺の創建年代は不明で、『吾妻鏡』にも記載はないそうです。しかし、僧忍性が極楽寺坂を切り開いた文永・弘安年間(1264〜88)の頃には、人々の信仰を集めていたようですから、それなりの格式は持っていたようです。そして、なにより、この大きな観音さまには、とくに奈良の長谷観音さまに行けない人々にとっては、ありがたい存在だったのではないかと思われます。
 ここが今回の巡礼の最後ということで、とくに念入りにご法楽をささげました。
 そして、まだ時間があるということで、付設されている宝物館にも入り、弘法大師作といわれている出世大黒天などもお詣りさせていただきました。
 下山して、時間を確認すると、11時55分でした。そこから、藤沢方面に車を進め、途中の「新中華美食 炎の龍」で昼食を食べ、鎌倉市栄区の定泉寺の田谷の洞窟にまわりました。ここは30分ほどでまわり、後はまっすぐに東京を通過して帰宅の途につきました。
 定泉寺を出発したのは13時40分、出発地の普門寺さんに着いたのが20時ちょうど、そして我が家に到着したのは、午後8時25分でした。途中で、ガソリンを詰めたり、夕食を食べたりしましたが、6時間45分かかったことになります。まずは、運転手さん、ほんとうにご苦労様でした。そして、お世話になりました。また、必ず、来年もこの坂東三十三観音札所巡りを続け、いつかはすべて達成したいと思います。

 第4番札所 海光山長谷寺 (単立) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 長谷寺へ まいりて沖を ながむれば 由比のみぎはに 立つは白波



☆坂東三十三観音札所巡り Part.18

 第3番札所の安養院を出て、次は第1番札所の大蔵山杉本寺を目指しました。
 実は、この杉本寺は昨年の鎌倉での会議の折、一度お詣りをしたのですが、その時はバスで行きましたが、今回は車です。いったん、金沢街道へ出たのですが、いつの間にか通過したらしく、もう一度戻って見つけました。そんなこんなで、安養院から15分ほどかかり、なんとか到着しました。10時35分でした。
 山門前で入山料を払い、石段を進みました。この前にお詣りしたときも、この入山料にいささか疑問を持ったのですが、今回は既成事実としてすっなりと納得。まあ、少しは境内地の整備に役立ってくれればいいと思いました。山門には、ちょうど咲いていたサルスベリの花が枝を伸ばし、いい雰囲気でした。その先は、この前に来たときと同じように、通行止めになっていて、右手のほうの石段を上りました。
 すると、たった一度だけなのに、見慣れたような茅葺きの5間4面の観音堂が杉木立ちのなかに建っていました。案内には、ここが鎌倉で一番古いお寺だとあり、たしかにその通りだと思わせるものがあるようです。現在の観音堂は、延宝6年(1678)の再建だそうですが、その千社札の多いこと多いこと、これでは張り紙禁止にしたいのも頷けます。
 中に入り、座ってご法楽をささげ、さらに奥まったご本尊さまにお詣りし、外に出ると、杉木立から太陽の光がもれ、なんともすがすがしいものを感じました。やはり、お詣りはいいものです。気持ちがさっぱりし、心まで洗い流したような気になります。
 下りは、別の道を通り、また山門のところで合流し、下山しました。やはり、ここも山の斜面に建てられたところで、「下山」という言葉も、すんなりと出てきて、ここを10時55分に出発しました。足りない説明は、No.10を参考にしていただければありがたいです。

 第1番札所 大蔵山杉本寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 頼みある しるべなりけり 杉本の 誓いは末の 世にもかはらじ



☆大根茶事をしました!

 12月23日、天皇誕生日の夕方から恒例の「大根茶事」をしました。
 お茶というと、贅沢なことと誤解されていますが、本来はわびさびの世界で、地味なものです。それを体現しようと、毎年大根を食べるお茶事をしています。今年は米沢市の座の文化伝承館のお茶室「青山庵」が会場でした。料理はほとんどを自分たちで取りそろえ、器などもすべて運び込み、正味4時間のお茶事でした。もちろん、準備から後片付けまで入れれば、十時間を超えるでしょうが、とても有意義な時間でした。
 茶釜を持ってくる方や大根を煮てくる方、みなそれぞれの役割をこなしましたが、私は濃茶と薄茶を点て、懐石の接待などもしました。ある人が、「お茶はしばりがきついから楽しい」と言いましたが、たしかにその通りだと思います。しばりもなく、自由になんでもやっていいとすれば、それはそれで何をやっているのかさえ分からなくなります。しばりの中に、ちょっとした遊びを見つける、それも楽しみの一つです。
 もし、機会があれば、ぜひ多くの方々にも茶の文化に触れてみていただきたいと思います。


青山庵

懐石で大根を食べる

青山庵でのお手前



☆「北大路魯山人と岡本太郎展」を見てきました!

 12月21日、上山関根に干し柿を買いに行ったついでに、山形美術館で開催されていた「北大路魯山人と岡本太郎展」を見てきました。
 会期は11月30日から2008年1月27日までですが、この日は北大路魯山人の命日ということで、夫婦で入場すると半額でした。まったく知らずに来たのですが、少し得した気分でした。
 なぜ2人展なのかといいますと、魯山人は岡本太郎の祖父の岡本可亭に弟子入りしたこともあり、岡本家とは三代の付き合いだそうです。そう思ってみても、そこには芸術としての脈絡はほとんどなく、影響も受けていないようでした。
 北大路魯山人の陶芸は、以前から好きで、ことあるごとに見ていますが、あのおおらかさと大胆さが混じり合ったようなつくりは、やはり見事でした。たとえば、「信楽鮑大鉢」などは、あの大きさといい、あの形といい、写真では絶対にわからないすごさがあります。しかも、それに料亭「辻留」が盛った料理の写真がありましたが、料理を盛りつけて初めてわかる良さというものを感じました。
 魯山人の書も良く、とくに気に入ったのは『昨日雨今日晴』という一行物です。良くも悪くも魯山人らしいもので、この言葉とともに、帰宅しました。



☆越後の良寛さまを訪ねて

 2007年12月12〜13日に新潟県長岡を訪ねる機会があり、かねてからの念願だった良寛さまの史跡をまわりました。
 今回は、生まれた出雲崎の橘屋跡にたつ良寛堂をはじめ、国上山周辺の五合庵や乙子神社周辺、そして、貞心尼と出会った和島あたり、現在は長岡市になっていますが、隆泉寺には良寛さまと弟由之の墓がありました。
 そして、出雲崎にある良寛記念館では、多くの良寛さまの資料を見てきました。その近くの良寛と夕日の丘公園から見下ろす出雲崎の風景は、いかにもここで生まれ、時々は訪ねたであろう姿が思い浮かぶような雰囲気でした。今回歩いて感じたのですが、良寛さまの歩かれた地区内の人々の良寛さま対する思いは、今も変わらない親しさで包まれているかのようです。
 今回は12月ということもあり、ちょっと寂しそうな写真ですが、いずれ、新緑のころや紅葉のころなども訪ねてみたいと思います。



良寛さま誕生の地

剃髪された光照寺

国上山の五合庵

国上山の乙子神社

朝日山展望台の良寛像

良寛禅師と弟由之の墓



☆坂東三十三観音札所巡り Part.17

 次は、第3番札所の安養院です。逗子の岩殿寺からは距離的にはほんの少しですが、なにせ地理不案内のものばかりですので、頼りは車のナビだけです。車に乗り込むと、まずは行き先のお寺を入力し、案内開始で出発します。
 それでも、10分で着きました。先に着いたマイクロバスで巡礼をしている千葉の方々のそばに車を停め、御影石の石畳を歩き、山門をくぐると、真正面に観音堂があります。その左手前には、樹齢700年といわれる槙の木があり、寺伝では安養院を開山した尊観上人の植えた ものと言われているそうです。
 ここの観音堂は、昭和3年に建立されたもので、内陣には阿弥陀如来、そのうしろに千手観音が安置されているそうです。ここが、やはり浄土宗なのかもしれません。まずは、最初にご法楽をささげ、観音堂から出ると、左手に睡蓮の鉢植えが残り花を咲かせていました。それが少し薄暗い境内地にあって、スポットライトを浴びたように照り映え、つい写真を何枚も撮ってしまいました。花色は、ピンクと白でした。
 なぜ、ここが安養院田代寺と言われるようになったのかと由来をみると、「嘉禄元年(1225)北條政子が夫、頼朝の菩提を弔うため、笹目ヵ谷に願行上人を閉山として祇園山長楽寺を建立した。だがその年の7月に政子が死去し、この寺に祀られることになった。しかるに長楽寺は元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡の際、兵火によって焼け、同じく焼失した名越の善導寺跡に移り、2寺は合併されて安養院となった。安養院はさらに延宝8年(1680)に火災にあったが、その際に田代寺をここに移して復興されたのである。」ということだそうです。なんとも、ややこしいことです。
 でも、山門を出て、外に出ると、石垣に植え込まれたツツジの株が見事で、おそらく花時は多くの人たちが訪れるのではないかと思いながら、ここを後にしました。午前10時20分でした。

 第3番札所 祇園山安養院田代寺 (浄土宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 枯木にも 花咲く誓ひ 田代寺 世を信綱の 跡ぞ久しき



☆坂東三十三観音札所巡り Part.16

 9月6日、朝6寺30分に起床し、7寺20分に朝食、8時にはここを出発しました。民宿の前のお土産やさんで、城ヶ島公園に行くことを勧められ、そこにまわることにしました。
 ここは三浦半島の最南端で、駐車料金を払っただけで公園内に入れました。なかはとてもよく整備され、ハマオモトやイソギクなどが咲いていました。そこの展望休憩所からは、台風の影響を受けた太平洋の荒波が岩礁にぶち当たるのが見えました。しかも、展望所は何カ所かあり、それぞれに違った風景を楽しむことができます。でも、先を急ぐ身ですから、そこをそこそこにして出発しました。時間は、午前8時35分でした。
 目指すは、第2番札所の岩殿寺です。ここは逗子市久木にあり、ちょうど1時間で着きました。細い住宅地内の道をやっと通り抜け、その先に山門が見えました。駐車場も、2〜3台しか入らないようです。山門を通り、両側に植え込みのある石畳(左の写真)を歩き、途中から石段を上ります。左手には本堂や庫裏などが斜面に沿って建っています。その脇を石段を一歩一歩踏みしめながら行くと、その行き着く先に観音堂がありました。
 縁起には、「ここより、近くは相模湾に面した逗子の海を、また遠くは三浦半島はもとより伊豆、房総の半島を一望できる絶景の地であることから、山号を「海前山(現在は海雲山)」また、岩窟が自然の殿堂のようであったので寺号を「岩殿寺」としたといわれる。」とありましたが、現在では住宅が建ち並び、視界も遮られているようです。この観音堂は、江戸期に再建されたもので、逗子市の重文に指定されているそうです。周りには、立派な木々が生え、いかにも古木蒼然とした雰囲気でした。
 その観音堂の裏に、今でも岩殿寺の由来にもなった岩窟がありましたが、これはちょっと新しいようで、後から作られたような感じでした。帰りに、もう一度、その眺望を確かめるべく逗子の町並みを眺めましたが、その先にほんの少し海らしきものが見えただけでした。
 石段の途中にある庫裏でご朱印をいただいてきてくれた運転手さんと会い、そのまま車に戻りました。09時55分、ここを出発しました。

 第2番札所 海雲山岩殿寺 (曹洞宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 たちよりて 天の岩戸を おし開き 仏をたのむ 身こそたのしき



☆坂東三十三観音札所巡り Part.15

 13時55分に第8番札所の星谷寺を出発したのですが、まだ、昼食を食べていませんでした。なかなか食べるところが見つからないのと、早く札所を回りたいのとの板挟みです。次の予定は、横浜市南区にある第14番札所の弘明寺ですから、だいぶかかりそうです。そこで、ファミレスでもいいということになり、車のナビで探したら、すぐに見つかり、簡単な昼食をすませました。それでも、50分ほどかかりました。
 そこから、横浜まで一気に進みましたが、京浜急行線弘明寺駅前を通過し、商店街の手前で駐車場に入るところを見過ごし、一方通行だったので、また遠く迂回しながら同じ道に入って、今度は間違いなく狭いところから駐車場に入れました。この間、ロスタイムが20分ほどありました。たかが20分ですが、ほとんどのところが、ご朱印所が午後5時で閉まってしまうのです。そうすれば、また出直さなければならなくなります。昨年も、ちょっと時間が合わなく、あきらめた札所がありました。
 ここの、弘明寺駐車場に着いたのが、16時35分でした。すぐに観音堂にお詣りし、ご朱印をいただき、まずはホッとしました。ここの観音さまは、鉈彫りだそうで、平安末期のものといわれています。なお、左の写真は、本堂の左側にある絵馬堂です。
 ところが、お詣りをしている間にすごい雨が降り、傘を差しても濡れるほどの勢いです。時計を見たら、もう観音堂が閉まる、午後5時少し前の16時55分です。すると、戸を閉めはじめたその音を合図にするかのように、雨が上がり、写真を撮ることもでき、無事に車に戻りました。後は、泊まるところに行くだけですから、気をもむ必要はありません。そこに、泊まる予定の民宿から電話が入り、予定通り進んでいることを話し、ここから約1時間ほどかかるということを聞きました。
 泊まったのは、城ヶ島の民宿「ひこや」です。ここには午後6時ちょうどに着きました。今朝の午前3時30分に起きて、ここまで来たのですから、疲れないわけはありません。でも、運転手さんのほうが、私たちの何倍も疲れているはずです。今日1日で5カ寺もまわれたのは、やはり運転手さんのおかげです。
 午後6寺30分に地元の美味しいお魚を中心にした夕食をいただき、この日は静かに床につきました。

 第14番札所 瑞応山弘明寺 (高野山真言宗)本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ありがたや ちかひの海を かたむけて そそぐめぐみに さむるほのみや



☆坂東三十三観音札所巡り Part.14

 みんなで車中から昼食場所を探したにもかかわらず、とうとう第8番札所の妙法山星谷寺に着いてしまいました。時間は、13時30分です。ということは、第6番札所からここまで、約25分程度しかかからなかったということになります。小田急線座間駅からだと、徒歩で10分ほどで星谷寺に着くとありましたから、町中の寺です。
 仁王門の前に、真新しいような石像のお仁王様が左右に立っていましたが、そのさらに前に車を3〜4台止められそうな駐車場がありました。そこから歩いて仁王門をくぐり、左に大きなイチョウの木があり、その少し先に沙弥西願によって嘉禄3年(1227)に勧進鋳造された梵鐘をかけた鐘楼があります。これは、東日本最古の鐘だそうですが、見ると撞座が1つしかないようです。後から、由来書を見ると、それがとても珍しいとか、やはり稀少なものほど値打ちがあると思いました。
 本堂右手前にある手洗いで手と口をすすぎ、それから本堂に入りお詣りをしました。そのお詣りをしている間は、雨が降っていたようですが、終わって出てくる頃には雨も上がり、傘も差さずに車に戻りました。今回は台風9号が来ていたので、雨の覚悟はしてきたのですが、不思議なことに車で移動している間は雨が降ったものの、ほとんど傘の必要はありませんでした。やはり、観音さまはありがたいと思います。
 このお寺は、北条氏の篤い保護をうけたり、徳川家康から座間郷に寺領の寄進を受けたりし、以前は相当繁栄していたようですが、今はこじんまりとまとまっていて、雰囲気のよい境内地でした。季節の花が咲き、大きな木があり、なによりも静寂さがありました。
 ゆっくりしたいところですが、観音さま巡礼のたびは、これでなかなか忙しいものです。13時55分には、ここを出発しました。

 第8番札所 妙法山星谷寺 (真言宗大覚寺派)本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 障りなす 迷ひの雲を ふき払ひ 月もろともに 拝む星の谷



☆坂東三十三観音札所巡り Part.13

 お昼を過ぎましたが、なかなか昼食をとるところが見つからず、そのまま厚木の第6番札所飯上山長谷寺に行きました。厚木市内から約6Kmほど離れているそうですが、車だとあっという間です。ちょっと小高い山に上り始めたと思ったら、すぐに飯山白山森林公園の看板があり、その駐車場のすぐ手前に仁王門が見えました。時計を見ると、12時45分でした。
 この仁王門は、源頼朝が秋田義景に命じてつくらせたという由来があるそうで、そこをくぐって石段を登ると、右側に大きな槙の木がありました。その根元には、これが天然記念物に指定されているという指標があり、改めて、ちょっと戻って写真を撮りました。さらにその付近には桜の木もたくさん植えられていて、おそらく花時には多くの人たちが訪れるのではないかと思いました。
 さらに石段を登ると、両側に並んだ数多くの石灯籠の奥に、本堂が見えました。寺伝には、行基や弘法大師にまつわる縁起が書かれてありましたが、このりっぱな本堂ですから、それなりの故事来歴があって当然です。
 ここでも、ゆっくりとお経を読み、真言を唱え、お詣りをさせていただきました。いつものように、掛け軸や朱印帳への納経印は運転手さんがやってくれるので、とても助かります。だからこそ、お詣りもゆっくりでき、写真も撮ることができます。とくに、大きな槙の木と石段を組み合わせて何枚も撮ったのですが、横位置には収まりきれませんでした。
 時計を見ると、13時03分でした。近くには、昼食のできそうなところがなさそうなので、第8番札所の星谷寺への途中で昼食の場所を探すことにして、ひとまず出発することにしました。

 第6番札所 飯上山長谷寺 (高野山真言宗)本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 飯山寺 建ちそめしより つきせぬは いりあいひびく 松風の音



☆坂東三十三観音札所巡り Part.12

 2007年9月5日、次にまわった観音霊場は、第7番札所の金目山光明寺です。ここは、平塚から秦野へ向かう途中の金目というところにあり、すぐ傍を金目川が流れています。ご本尊さまは、行基が彫ったと伝えられる観音像のその胎内に、小磯の浜に打ち上げられた木片を納めたといわれているそうです。そこから、「お腹ごもりの観音」として信仰され、今に伝わっています。
 白御影石の門柱のすぐ奥には、仁王様がまつられている仁王門があり、その正面に間口7間、奥行き8間の観音堂があり、明応年間(1,492〜1,501年)の建立で、平塚では最古の建造物だそうです。それが右の写真です。
 それでも、明治の神仏分離以降は無住に等しいほど荒廃したそうですが、現在ではきれいに寺域も整えられていました。ご朱印をいただくために朱印所に行くと、その庫裡の庭には大株の洋石楠花も植えこまれ、季節の花々も咲いていました。寒いところではなかなか栽培できないジンジャーなどもあり、この庭を拝見しただけで、相当な花好きとお見受けいたしました。やはり、壮麗な寺院建築もいいですが、その境内地の環境も大切なものです。
 町中のお寺では、十分な境内地を確保するということは難しいでしょうが、ある意味、お寺というのは緑の緩衝地でもあります。あるいは、ゆっくりと散歩もできる心の安らぎの場でもあります。いろいろな役割を持つお寺という存在は、これからもっともっと活用すべきだと思います。ある住職さんは、お寺を開放して、お堂の中でゆっくりと本を読んでもらいたいと話していましたし、また別な方は、薬草園をつくりたいと考えていると話されたことがあります。
 やはり、今の時代に必要とされているお寺のあり方を考えなければならない時が来ている、と思わずにはいられません。そんないろいろなことを頭に描きながら、ちょうど12時にここを出発しました。

 第7番札所 金目山光明寺 (天台宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 なにごとも いまはかなひの 観世音 二世安楽と たれか祈らむ



☆坂東三十三観音札所巡り Part.11

 2007年9月5〜6日、第二回目の坂東三十三観音札所巡りをしました。今回は参加者5名で、ジャンボタクシーと運転手さんは同じです。早朝4時30分に普門寺さんのところに集まり、10分遅れ程度で出発しました。ここに来たときは、まだ、真っ暗でしたが、だんだんと薄明かりになって、それでも車はライトを点けて走っていました。
 飯坂インターから東北高速道に入り、安達太良サービスエリアでちょうど6時になったので軽い朝食をすませました。それもたったの20分ほどです。
 また一路、一番遠い小田原の第5番札所勝福寺を目指します。途中、佐野サービスエリアと海老名サービスエリアでトイレ休憩をし、海老名サービスエリアではガソリンも補充しました。
 酒匂川にかかる飯泉橋手前を右折し、堤防沿いから町中に入り、ほんの少しで第5番札所の飯泉山勝福寺に着きました。時計を見ると、午前10時46分でした。ということは、途中休みながらも6時間ほどかかったことになります。
 仁王門まえには駐車場があり、少し雨が降っていたので、傘を差しながら写真を撮っていると、ほどなく雨が上がったので、もう一度ゆっくりと写真を撮り直しました。仁王門をくぐり、お堂を見渡すと、その手前に形の良いサルスベリが花を付けていました。花色もありふれたもので、しっとりとした風情が感じられました。また、先ほどまでの雨の水滴がつぼみに付着し、花のつぼみと水滴がともに光って見えました。
 本堂の左手前には、太い銀杏の木がそびえ立ち、ひっそりとした木陰を作り出しています。本堂は1706(宝永3)年再建の宝形造りで、内陣に入ることはできませんでしたが、外陣からお詣りさせていただきました。ですから、なかの様子は何もわかりません。ただ、ここから今回の巡礼が始まるので、心なしかお経を読むのにも力が入ります。本堂右手前には、二宮尊徳の本尊礼拝の像が建ててありました。そこの由来板によると、尊徳がこの勝福寺で旅僧の観音経訓読を聞き、その意味するところを知り、利他に生きることの大切さを思ったということです。
 そういえば、ある観音経の解説本を読んでいたときにもこのような記述があり、ある法会で私もこの話しをしながら観音経訓読をしたことがあります。ところが、その後の話しでは、あまりありがたくないという指摘を受け、それ以来、一度もしたことがありません。その話しの起源はここの場所だったのだと知り、そんな若いときの苦い思いなどを思い出しました。
 帰りに、もう一度、サルスベリとお堂とをいっしょに写真のなかにおさめ、仁王門をくぐり車に乗り込みました。時間は、午前11時13分でした。

 第5番札所 飯泉山勝福寺 (古義真言宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 かなわねば たすけたまえと 祈る身の 船に宝を つむはいいづみ


☆坂東三十三観音札所巡り Part.10

 2006年10月27日に荻巣樹徳の会「千樹会」に出席するため鎌倉に行きました。そのついでに、上野の東京国立博物館で開催されている『仏像 一木にこめられた祈り』を見てきました。
 そこで感じたのですが、一木の場合はたった1本の木から彫ったもので、むしろ、彫るというよりは、その木に宿る仏さまの姿を彫らされたようでした。木なりといいますか、木を彫り進んでいくうちに、いつの間にか仏さまの姿になっていたような感じです。木目といい、鉈目といい、他の素材では考えられないような素朴さがあります。また金属製と違い、仏さまの温もりみたいなものも感じられました。
 その翌28日、せっかく鎌倉まで来て、第1番札所にまわらなければと思い、大蔵山杉本寺に行きました。鎌倉駅から「金沢八景行き」のバスに乗ったら、バスの中での立ち話で報国寺の竹林がすごくキレイだと聞き、急遽一つ先の浄明寺バス停で下車して報国寺に行きました。うわさに違わず、しっかりと整備された竹林は、とてもキレイでした。京都などで見るものより、その竹林のなかに入れるので、孟宗竹の葉音が聞こえ、そこに差し込む太陽の光が筋をなして見えました。ちょっとだけと思ってまわったのに、1時間以上もその竹林の中にいました。
 その報国寺を出て、再び金沢街道に出て杉本寺に向かいました。大蔵山をちょっとだけ上り、入山料200円を払い、石段を少し上ると山門があります。その山門をくぐると、擦り減った石段がまっすぐに本堂まで続いています。現在は、この石段では危ないので通行止めになっていて、左の石段(女坂)を上ります。その上りきったところに、第1番札所杉本寺はありました。
 本堂へは、入山料を払ったときにもらった本堂参拝券を箱に入れ、靴を脱いで入ることができます。ここは巡礼発願の寺ということもあり、本尊さまである十一面観世音菩薩のみ前にぬかづき、お経を1巻唱えました。それからご朱印をいただき、そこに発願の丸印も押して貰い、これでやっと坂東33観音札所巡りが始まったように思いました。
 ここは、数ある鎌倉のお寺でも古く、パンフレットにも「鎌倉最古仏地」と書かれてありました。ゆっくりとお詣りし、境内地も散策し、今度は反対側の石段を下り、もと来た山門をくぐり、下山しました。
 また金沢街道に戻り、杉本寺バス停で時刻表を確認していると、すぐに鎌倉駅行きのバスが来て、待つこともなく乗ることができました。

 第1番札所 大蔵山杉本寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 頼みある しるべなりけり 杉本の 誓いは末の 世にもかはらじくく



☆坂東三十三観音札所巡り Part.09

 2006年9月26日、東京出張の折に浅草の観音さまに参詣しました。ここは東京都唯一の札所ですが、おそらく現在の東京は坂東霊場選定時はまだ広々としたアシの原だったようです。唯一その当時から隆盛を極めていたのがここ浅草寺でした。寺伝では、推古天皇の時代に漁師の檜前(ひのくまの)浜成と竹成の兄弟が隅田川で漁をしていたとき、その網に高さ1寸8分の金色の観音さまがかかったので、豪族の土師中知(はじのなかとも)と相談し祀ったのだといいます。あの有名な三社祭の氏神がこの3人だということです。
 それが、平安時代に慈覚大師が柳の木で観音像を刻み、前立本尊としたことからたくさんの参詣者が訪れるようになったそうです。現在では、門前町仲見世のにぎわいは格別で、雷門などとともにときどきテレビなどでも放映されます。現在の本堂は、1958年(昭和33年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造です。ちなみに、1973年(昭和48年)に再建された五重塔も鉄筋コンクリート造、アルミ合金瓦葺きで、塔の最上層にはスリランカから将来した仏舎利を安置しています。しかしながら、宝蔵門は修理中で、白いテントに覆われていました。
 ここは修学旅行生と思われる生徒さんたちや、言葉を聞いて初めてわかる外国の方も多く、おそらくは昔懐かしい東京下町の風情を味わいたいとやって来たのではないかと思いました。とくに雷門付近では、多くの人たちが記念写真を撮っていました。その雷門をくぐり、仲見世をのぞきながら進むと、修理中の宝蔵門があり、それを抜けると正面に本堂があります。
 大きな香炉から立ち上る煙で身を清め、本堂内で観音経偈をあげ、一人静かにお詣りしました。それから朱印所でご朱印をいただき、ふたたび宝蔵門のところで本堂を向き、廻向文などを唱えました。多くの参詣者がいるとはいえ、お詣りするときはたった一人しかいないかのように心が静かになります。
 そして、お詣りが済むと、もう心が晴れ晴れとして、またゆっくりと仲見世の通りを歩き、雷門を出ました。なんか、俗世間にまた戻ってきたかのような気になりました。そのまま、地下鉄銀座線で上野まで戻りました。

 第13番札所 金龍山浅草寺 (聖観音宗) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草へ まいる身なればく



☆鹽竈(しおがま)神社のタラヨウ

 8月4日、宮城県の鹽竈神社にお参りしてきました。
 そこの右宮と左宮の拝殿前に大きなタラヨウがありました。このタラヨウは、昔、インドなどで経文を書くのに使われたヤシ科のタラジュ(多羅樹)に似ていることから名づけられたようで、実際に書きものに使われたわけではないようです。植物学ではモチノキ科に分類され、中部地方以西のあたたかいところに自生しています。しかも、雌雄異株の常緑高木ですが、鹽竈神社の木にはたくさんの種子がなっていましたから、雌株のようです。
 では、なぜ塩竃にあるのかといえば、本来自生しないはずの木が大木になっていることが珍しいらしく、昭和45年に宮城県の天然記念物に指定されたのだそうです。
 ここ甲子大黒天本山でも塩竃の方からこのタラヨウの苗をいただいたのですが、残念ながら、寒さのために枯れてしまいました。やはり、北国では、育てるのは難しそうです。



☆明恵上人のご廟所
 阿川弘之氏の『エレガントな象』を読み、そのなかに明恵上人のことが出ており、昨年2月に京都の高山寺にお参りしたときのことを思い出しました。
 その遺訓に「凡そ仏道修行には何の具足もいらぬなり。松風に睡をさまし、朗月を友として究め来り究め去るより外の事なし」とありますが、まったくその通りです。この「具足」とは、寺の調度品みたいなもので、ロウソク立てや香炉などです。
 この右の写真は、高山寺にある明恵上人のご廟所ですが、そこにお参りしたときにこの遺訓を思い出しました。左の歌碑には、『山のはにわれも入りなむ月も入れ 夜な夜なごとにまた友とせむ』とありますが、そのほかにも『あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月』という高山寺の石水院の前から山の上にかかる月を詠んだ歌も有名です。
 また、明恵上人は世間の雑念を払うために自らの耳をそり落とし、「耳無し法師」と称していたそうですが、自らにはこのように厳しくても、他の人たちにはとても優しかったそうです。そして、寺にも宗派にもとらわれず、自然のまま、ありのまま、に生きていたようです。
 振り返って、今の時代は、自分にはことのほか優しく、他人には非常に厳しくあたるのが増えているようです。このような時代だからこそ、今一度、明恵上人のことを考えてみたいと思いました。



☆毎年7月は、「社会を明るくする運動」強化月間です!

 この「社会を明るくする運動」は、今年で57回目を迎え、法務省関係機関・団体をはじめ、地方公共団体や様々な民間団体も参加、協力しています。
 この運動は、すべての国民が、犯罪や非行の防止と、罪を犯した人たちや非行をした少年たちの更生について理解を深め、それぞれの立場においてカを合わせ、犯罪や非行のない明るい社会を築こうとする全国的な運動です。今年の運動の重点目標は、「犯罪・非行の防止と更正の援助のため、地域住民の理解と参加を求める」となっております。
 それにあわせて、米沢市でも、7月2日に法務大臣メッセージを米沢市長と市議会議長各氏に手渡し、出発式をいたしました。そして、すぐに街頭広報活動を実施しましたが、右上の写真はそのときの一こまです。子どもさんの「ありがとう!」という表情が、とても清々しいものでした。



☆水越武写真展「大地への想い」もついでに!

 6月2日、恵比寿ガーデンプレイスにある東京都写真美術館で水越武写真展「大地への想い」を見てきました。
 この写真家は以前から関心があり、ときどき写真誌でもチェックしていました。それがたまたま状況した機会に写真展があり、見ることができたのです。テーマは「生態系からみた地球」ということで、200点ほど展示されていました。第1部は「軌跡の星・地球」、第2部「水の回廊・日本列島」、第3部「天空のかおり・山岳」で、第3部だけは白黒写真でした。
 実は、そのNo.1に展示されていたパキスタンのカラコラムの日の出の風景とまったく同じような光の輝きを、今年の3月にネパールのマチャプチャレで見ました。それは、光が山の形に添いながら輝き出すもので、とても神々しい風景です。そのほかにも、ネパールの山々やヤクシマの風景など、自分の思いでと重なる部分があり、とても感動しました。
 図録を買おうと思ったのですが、買ってしまうとそれだけで安心して記憶が薄れてしまうような気がして、ここでなんども繰り返し見てきました。そこで、今、思い出すと、まずは氷河の氷から水がしたたり落ちる感じが、そのまま印画紙がぬれてしまうかのような印象の写真がありました。それと、つい先だって読んだばかりのパキスタンのトランゴ・タワーズも迫力がありました。また、インドネシアの「ホタルの集まる木」という題名の写真には、ホタルが黄色く光り、その上に白く光る星々があり、さらにその上には淡く輝く月があり、まさにその光の違いがとても印象的でした。
 さらに、ヤクシマで撮った写真は、いずれもみずみずしくて、屋久杉にへばりつく苔から、今にも水滴がしたたり落ちるような臨場感がありました。地元の吾妻連峰の樹氷原や飯豊山地の新雪のブナ林の写真も良かったし、かなりの数の写真が目の前に現れます。7月1日までですから、機会があればみていただきたいと思います。



☆サントリー美術館の開館記念展を見てきました!

 6月1日、鎌倉で「栽培植物分類名称研究所」の総会と講演会が開かれ、参加してきました。そのついでに、サントリー美術館開館記念展「日本を祝う」を見てきました。しかも、この展示会は3月30日から6月3日までなので、まったくギリギリでセーフでした。
 もちろん、この美術館のある東京ミッドタウンも初めてでしたので、興味津々、あちらを眺めたり、こちらを眺めたりの探検気分でした。「日本を祝う」は、祥、花、祭、宴、調の5つのテーマで構成され、会場全体が開館を祝う喜びに溢れていました。また、施設も見所の一つで、とくに目を引いたのは、15本のヒモが7色に染められ、それがゆったりと天井に弧を描きながら、それが中央で一本にまとまり、さらに編まれて、下にぶら下がるんです。その下に大きな鏡があり、それらを下から眺められるようになっています。
 おそらく、この説明では、なにがなんだかわからないと思いますが、これはまず、実際に見ていただくしかありません。次の企画展は「水と生きる」で、6月16日から8月19日まで開催されます。おそらく、このヒモの展示はそのままだと思いますので、時間があれば、ぜひご覧ください。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.08

 佐竹寺を11時30分に出発し、途中のそば屋さんで昼食を食べ、第21番札所日輪寺に着いたのは午後2時5分でした。途中、少しばかり道に迷いましたが、こんなに時間がかかるとは思いもしませんでした。
 国道118号線を北上し、山方町や大子町を通り、下野宮から県道28号線(大子那須線)をすすみ、後藤商店のところから右折し、つづら折りの八溝山への山道を上ります。せっかく上ったのに、また一端下がった8合目あたりに目指す日輪寺はありました。
 駐車場に車をとめ、石段を登るとその途中に見事な赤松があり、樹幹を四方に広げています。石段を登り切ったところにアズマシャクナゲとおぼしき大株がありました。住職とおぼしき方に聞きますと、以前はこの本堂周りにもたくさんのシャクナゲがあったそうですが、今では本堂前に1本しか残っていないといいます。おそらく本堂前なので、採りにくかったのではないかということでした。
 この本堂は昭和48年に再建されたものですが、鰐口は相当古いような印象を受けました。寺伝によると、役行者が開き、大同2年に弘法大師が十一面観音を刻んだということですから、歴史のあるお寺です。この八溝山はむかし砂金が採れたそうで、近くには日本名水百選の1つ「金性水」があります。また、『常陸国誌』には採れた砂金を遣唐使派遣の費用にしたとも書き記されているそうです。
 駐車場脇のお休みどころで、お茶の接待を受け、午後2時40分にここを出発しました。今度はここから後藤商店のところまでどのぐらい時間がかかるかを調べてみたら、ちょうど20分でした。その県道28号線を右折し、舗装ではありますが険しい山道を進み那須黒磯のほうに抜けました。この道路も、途中なんども引き返そうと思うほどでしたが、県道というその名前を信じ、人の住む家を見つけ、やっとホッとしました。
 そして、東北自動車道の那須インターから入り、飯坂インターで下り、栗子峠を越えて帰宅しました。この2日間で回ったのは8ヶ寺でしたが、とても充実した時間でした。

 第21番札所 八溝山日輪寺 (天台宗) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 迷ふ身が 今は八溝へ 詣りきて 仏のひかり 山もかがやく



☆坂東三十三観音札所巡り Part.07

 22番札所佐竹寺には、午前11時10分に到着しました。昭和15年に再建されたという仁王門をくぐり、その正面に重厚な茅葺き屋根の本堂がありました。その前には大きなイチョウの木があり、もうすでに銀杏がこぼれ落ちていました。
 本堂は国指定の重要文化財ですが、本堂下陣にはおびただしい数の千社札が張られ、個人的には美観をそぐような気がしました。1546年に佐竹義昭によって再建された豪壮な桃山建築ですから、その辺は少し考えていただきたいと思いました。
 お詣りをすませ、もう一度仁王門に戻ると、中には素晴らしい仁王像がまつられていました。聞けば江戸時代の宝永年間のものだそうで、とても力強い作ゆきです。この仁王門の上にも上れそうですが、妙福山と書かれた扁額のさらにその上には日の丸絵紋の佐竹氏の軍扇が掲げられていました。これを見ても、この寺は佐竹氏と強いつながりがあったと見て取れます。
 この佐竹寺から車で10分程度のところに、テレビなどで有名な水戸黄門(光圀)が『大日本史』を編纂した西山荘があるということです。あのテレビの内容はあくまでもフィクションでしょうが、この『大日本史』を編纂したことは歴史的事実ですし、むしろ誰とでも気楽に話しをする学究肌の人だったのではないかと想像しています。

 第22番札所 妙福山佐竹寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 ひとふしに 千代をこめたる 佐竹寺 かすみがくれに 見ゆるむらまつ



☆5月9日、地元の小学生と野外観察会をしました!

 5月9日、地元の三沢東部小学校の3、4,5年生を連れて、野外観察会をしました。
 それに先立ち、7日には教室内でオリエンテーションを行い、私たちの自然をまもるために、まず自然に親しむこと、そして自然のしくみや人間とのかかわりあいを考えてみるための、さまざまなお話しをしてきました。そして、植物の働きとして、
1、光合成により酸素をつくりだします。 2、食料などのほかに、木材や燃料に使われたり、化学薬品などの原料にもなります。3、水をたくわえ、こう水や土砂くずれなどをふせぎます。4、高い木は風をふせぐなど、気候をやわらげるはたらきをします。5、さわやかな緑は人間の心をなごませ、私たちの生活をささえてくれます。
 などと話し、いかに植物が大切なのかをたとえ話を織り交ぜながらしてきました。そのときに思ったのですが、子どもたちに自然の大切さなどという抽象的なことをいくら話してもなかなか理解できないでしょうが、山野に連れ出し、自然の植物などを見ながら、こんなにもきれいな花たちを守ろうといえば、すこしは実感できるのではないでしょうか。自然を知ることによって、初めて自然のすばらしさや大切さが理解できると思います。
 この取り組みは、20年以上続けていますが、これからも春の恒例行事にしていきたいと思います。



☆ネパールの孤児院でボランティア!

 3月13日、ネパールの山々に行く計画を立て、シェルパにその準備をしてもらいながら、少しの時間を見つけ孤児たちの世話をしているところに出かけました。出会いとは不思議なもので、友人の娘さんがそこのボランティアをしているのが縁です。
 子どもたちは28人でしたが、みんな明るく、元気でした。とくに印象的なのは、その澄んだ目の輝きです。なかには本を読んで聞かせてくれる子どもや、飛びかかってくる子どもや、見知らぬ外国人に感心を持ちながらソッと知らぬふりをしながら見る子どもなどもいました。ここの管理者からは、ただ遊んでくれればいいと言われていましたが、後から考えると、逆に遊んでもらっていたような気がします。
 私の胸に刺繍されているシャクナゲを見て、自分たちの教科書にも同じような花がある、と教えてくれた子もいました。それもそのはず、ネパールの国花はシャクナゲなのです。近くの山にも、このシャクナゲの花は咲いていますし、ちょっと郊外に行くと、子どもたちが山で採ってきたシャクナゲの花を売って、教材費にあてたりしています。それほど、身近な花なのです。
 この翌日には、シブァプリというカトマンドゥ郊外の山に行き、自生のシャクナゲをたくさん見てきました。



☆ネパールとインドに行ってきました!

 3月10日、山形を出発し、11日に関空からネパールに飛び立ちました。
 3月末まで、日本ネパール友好50周年記念の特別措置で、日本人(日本国発行のパスポート所有者)に限り、カトマンズ空港でのビザ申請代金30USドルが無料だということでしたが、インドから再入国したスノウリ(Sunauli)でも無料でした。
 今年の日本は暖冬ということで雪も少なかったのですが、ネパールの首都カトマンドゥでは62年ぶりに雪が降り、多くの人が喜んだそうです。しかし、地方は大雪で大変だったようで、シャクナゲの大きな木が根っ子から倒れたり、枝折れも多く見かけました。実際、シヴァプリ(Shivapuri)山頂でテントに泊まっていたら、夜中に雪が降り、とても寒かったです。この山にはネパールの国花であるシャクナゲ(ネパールではラリグラス)が多く自生し、ちょうど見頃でした。ここは森林保護のために軍の兵士がときどき巡回していましたが、それでも村人たちが伐採しているのをなんどか目撃しました。ここでは、シャクナゲの木が、燃料や暖房などの薪として使われています。生活か自然保護か、どこの世界も同じような問題が起きています。
 右上の写真が、そのシヴァプリのシャクナゲです。



☆第53回 日本伝統工芸展を見てきました!

 2月20日、待ちに待った第53回日本伝統工芸展を東北で唯一開催された仙台三越に行って見てきました。開催日は、今日20日から25日の日曜日までです。
 この日本伝統工芸展は、特別なことでもないかぎりなるべく見るようにしていますが、若い作家が育ってきているように思います。もちろん、ここにはいわゆる人間国宝の作家から無名の作家まで、選ばれた作品が展示されています。ほとんど作品のスタイルが変わらない作家もいますし、毎年新たなチャレンジを試みる作家もいます。その1年の変化を見比べながら鑑賞するのも、楽しみの一つです。
 特に陶芸部門の作品は、展示をする目的もあり、多くの作品が大振りで実用にはほど遠い感じがします。どちらかというと、実用ものが好きということもあり、今回一番気になったのは三代山田常山作の「常滑自然釉茶注」でした。彼は平成10年に重要無形文化財保持者に認定され、平成17年10月19日に亡くなられていますから、これは遺作ということになります。
 この、ほんとうに小さな茶注ですが、これで一人分のお茶をいれ、ゆったりと楽しめるような、そのような雰囲気が感じられました。もう、20年ほど前になりますが、彼の常滑焼きの作品をもとめたことがあります。今でも、ときどき出しては楽しんでいますが、いい茶味をかもし出しています。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.06

 今日は2日目、9月5日です。茨交大洗ホテルを午前8時35分に発ち、昨日の逆コースで友部インターで下り、国道355号線を通り笠間に向かいました。第23番札所観世音寺に着いたのは、午前9時20分です。これでは、昨日はいくら急いだとしても午後5時には間に合わなかったようです。
 参道を歩くと、両側にはドウダンやツツジが植え込まれ、さらに木の階段を上るとあちらこちらに西洋シャクナゲも植え込まれていました。ご住職にお聞きすると、「西洋シャクナゲではなく、洋シャクだよ」と答えてくれました。もちろん、それ以上は聞きませんでした。
 現在の本堂は昭和になってから建てられた仮本堂だそうで、入口のわきには、本堂再建の寄付受付と書かれた板が立てかけてありました。ご本尊さまは毎年4月17日のご開帳でしか仰げませんが、前立ちの観音さまも良く、本堂内で般若心経や諸真言を唱えさせていただきました。その後、お茶の接待を受け、私はご朱印をお願いし、参道をゆっくりと下りました。参道から見る限り、相当なツツジが植え込まれているようで、春の花時にはすばらしいながめだろうと想像しました。
 みんなが車に戻ったのは午前9時50分で、そこから笠間稲荷にまわりました。そこの笠間稲荷美術館では、ちょうど、「六古窯の美」を開催していたので、それも拝観することができました。
 ここ笠間稲荷を出たのは、午前10時30分です。

 第23番札所 佐白山観世音寺 (普門宗) 本尊さま 十一面千手観世音菩薩
 ご詠歌 夢の世に ねむりもさむる 佐白山 たえなる法や ひびく松風



☆映画「幸せのちから」を観てきました!

 2月1日、この日は映画を1,000円で観ることができるので、「幸せのちから」を観てきました。
 この映画は、実在のクリス・ガードナーの半生をもとに描いたもので、まさに、ホームレスから億万長者となったアメリカンドリームそのもののような作品でした。しかし、1時間57分の半分以上の時間が親子二人のホームレス生活の場面で、父と息子の情愛がとても感じられました。
 しかも、この親子は本当のウィル・スミス親子の共演で、これは後から知ったことなのですが、やはりと思わせるところが随所にありました。監督は、イタリア映画のガブリエレ・ムッチーノで、たんなるサクセスストーリーでないところが彼らしいと思いました。
 現在公開中ですので、機会があればぜひどうぞ。



☆笹野十七堂まつり!

 1月17日、この日は毎年荒れるといわれていますが、今年は暖冬の影響なのか、とても良い天気でした。
 そこで、午後2時から火渡りの神事があるというので、それにあわせて参詣しました。駐車場に車を止め、踏みならされた参道を歩くと、山門のまわりにコシアブラを削ってつくった笹野花やオタカポッポのお店がありました。観音堂前には、採灯護摩の壇が準備され、写真を撮る人たちがそのまわりに陣取っていました。そこが、火渡りのする人たちを正面から撮ることができるようです。
 定刻の2時に山伏行者が入堂し、峯中法流にしたがって進められました。そして最後に火渡りの神事がおこなわれ、火渡り料500円で一般の方々も渡ることができるそうです。
 この笹野観音は、とても風情のあるお堂ですので、ぜひ機会があればご参詣してみてください。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.05

 清滝観音に着いたのは、午後3時50分でした。ここは「坂東霊場記」では行基が聖観音像を刻んで開山したと伝えられるほどの名刹です。ここはまた、新治村大字小野というところですから、小野小町との縁もありそうで、観光案内を見ると小野小町の墓と伝えられているのも近くにありました。この新治村は、『古事記』や『日本書紀』にも記載があり、連歌の始まりとなった歴史的にも古い地名です。
 第26番札所の清瀧寺は、このような歴史ある場所に建っています。駐車場に車をとめ、脇の道を上り仁王門を通ります。そこから二つの長い石段を上ったところに本堂があります。昭和44年の不審火で焼失し、現在の本堂は昭和52年に再建されました。ご本尊さまは、昭和54年に第23番札所観世音寺住職の天津忠興住職が寄進され開眼されたものだそうです。
 聞くところによると、このお寺は地元の信徒たちが守り、お年よりたちが交替で納経をしているといいます。三十三観音巡りは、一つでも欠けると困るので、なんとか維持して欲しいと思いました。時間は、午後4時15分です。もしかすると第23番札所の観世音寺に行けるかもしれないと、先を急ぎました。
 しかし、常磐自動車道友部ジャンクションから北関東道の友部インターを下りたところで午後4時50分になり、観世音寺はあきらめました。再び、友部インターから北関東道にあがり、東水戸道路を通り、水戸大洗インターで下り、茨交大洗ホテルに宿泊しました。ここに着いたのは午後5時30分でした。ホテルの印象は、可もなく不可もなくといったところで、今回は巡礼の旅ということで納得しました。

 第26番札所 南明山清瀧寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 聖観世音菩薩
 ご詠歌 わが心 今より後は にごらじな 清瀧寺へ 詣る身なれば



☆正午の茶事を楽しみました!

 2006年12月23日、おりしも天皇誕生日に本格的な「正午の茶事」を楽しむことができました。
 席入りすると、まずは「初炭」、それから「懐石」へと進み、いったん退席して、席を清め直して濃茶と薄茶をいただきます。時間の都合で「続き薄茶」でしたが、それでも4時間はたっぷりとかかりました。
 この一連のお茶事を体験すると、日本文化に対する茶道の影響の強さがわかるような気がします。露地も、茶室も、懐石も、お点前も、それにともなう道具組まで、多方面にわたって影響を及ぼしています。
 茶道というと、ちょっと取っつきにくい印象がありますが、機会があれば一度は経験してみるのもいいかと思います。


まず炭をつぐ

懐石をいただく

濃茶のお点前



☆坂東三十三観音札所巡り Part.04

 雨引観音境内から遠くに筑波山を望むことができましたが、その麓の大御堂には午後2時45分に着きました。
 ここは筑波山温泉のあるところで、客引きがちょっとうるさいぐらいでしたが、一歩入り込んだ大御堂はとても静かで、大きな御影石の標柱でもなければ分からないぐらいひっそりと建っていました。大御堂は、もともと知足院中禅寺というお寺でしたが、明治初めの仏毀釈の嵐のなかでさまざまな被害を受け、それでも昭和5年に護国寺持仏堂として再興され、現在のお堂は昭和36年に完成したものだそうです。ご朱印は尼様が自ら書いてくれました。
 お堂のわきに、真新しい筆塚があり、御影石に「筆」の一字を刻み、さらに下の方にこれを建立するに至った由来が書いてありました。筆塚は書で使う筆のいわば供養塔で、古く なった筆に感謝し、さらなる書の上達を祈願するためのものであるようです。現在では、あまり筆そのものは使いませんが、ボールペンや鉛筆などは使いますので、同じように感謝する心が大切だと思います。その心が、字を上手に書くことができるようになる基かもしれません。
 大御堂をお詣りした後、歩いて近くの筑波山神社に参拝しました。こここそが大御堂だと思えるほど、立派な山門と本殿が建ち並んでいました。さらに近くには筑波山ケーブルがあり、筑波山の男体山まで上ることができるそうです。時間があればそうしたいところですが、巡礼目的の旅なので、ここから次の札所、清瀧寺に向かいました。筑波山神社を出発したのは午後3時20分でした。

 第25番札所 筑波山大御堂 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面千手観世音菩薩
 ご詠歌 大御堂 かねは筑波の 峯にたて かた夕暮れに くにぞこひしき



☆新田嘉一コレクション展を見てきました 

 11月22日、良い夫婦の日だそうで、いっしょに「新田嘉一コレクション展」を見に、山形美術館に行ってきました。
 会期は10月27日〜11月26日までですので、なんとか間に合ったようですが、それなりに楽しむことができました。ただ、収集に数寄者としての趣がなく、まとまりのないような感じを受けました。昨年夏に思文閣から売り出されたお茶の茶碗のいくつかがとても気に入り、連絡したのですが、それのどれもが売り切れでした。とても残念に思っていたのですが、数週間してから、ある新聞に新田嘉一さんの新しいコレクションとして載っていました。それが、おそらく今回出展されると思っていましたので、なんとか時間をつくって見に行くつもりでいました。
 案の定、その10数点がガラスケースの中に展示されていました。そのときの図録を思い出しながら、一点一点ゆっくりと拝見させていただきました。図録ではいいと思ったのがあまり良くなかったり、たいしたことがないと思ったのが裏側に見所があったりと、思わぬ楽しさを味わいました。
 とくに印象に残った茶碗は、加藤唐九郎の志野(銘 遊心)と荒川豊蔵の志野です。その二人の個性が茶碗に凝縮され、一目見ただけで作者がわかります。その対比がとてもおもしろく、同じ志野焼だからこそ際だつものを感じとることができました。
 また、このような機会があれば見てみたいと思いました。



☆鎌倉に合掌造りの民家がありました!

 10月27日、鎌倉で講演会があったのですが、その会場は瀧下さんのご自宅で、とても重厚な合掌造りの古民家でした。
 その講演の前に幾棟かある建物を案内していただいたのですが、その太い梁や木組みに圧倒されてしまいました。瀧下さんは、古民家を手がける著名な建築設計士ですが、その詳しい説明に目から鱗でした。たとえば、古い木材を再利用するのは奈良時代ころから盛んに行われたこと、雪国の根曲がりなどのクセの強い木材を上手に利用すること、また檜などの売れる木材はあまり民家では使わず、売れないような木材を工夫して使うことなどなどです。
 しかも、これらの古民家は、上からの力にも地震などの横揺れにも強いそうです。だからこそ、修繕を繰り返しながら何百年も使い続けられるのです。それを、彼は「日本の古い民家は循環可能な家です」と表現していました。
 その講演の後に、奥さまの手料理をごちそうになりましたが、ここにクリントン前アメリカ大統領が来日の折、ヒラリー夫人が鎌倉を訪れたときにまわられたと聞き、なるほどと思いました。ここには、和の文化が凝縮されていると感じました。



☆『仏像 一木にこめられた祈り』を見てきました!

 10月27日、鎌倉で講演会があったので、その折に、東京国立博物館 平成館で開催されている『仏像 一木にこめられた祈り』を見てきました。これは10月3日から12月3日まで開かれているもので、前期と後期にわけて展示するそうです。
 そこで感じたのですが、一木の場合はたった1本の木から彫ったもので、むしろ、彫るというよりは、その木に宿る仏さまの姿を彫らされたようでした。木なりといいますか、木を彫り進んでいくうちに、いつの間にか仏さまの姿になっていたような感じです。木目といい、鉈目といい、他の素材では考えられないような素朴さがあります。また金属製と違い、仏さまの温もりみたいなものも感じられます。
 パンフレットにも書かれていたのですが、「日本ほど木で仏像を造ることにこだわった国はありません」。木だからこそ、表現できることもあります。江戸時代の円空さんや木喰上人さんの仏像を、このようにたくさん拝むことはめったにできるものではありません。それだけでも、行く甲斐があるというものです。
 後期には滋賀県の向源寺の十一面観音菩薩立像が寺外初公開されます。これもまた、ぜひ見ていただきたいと思います。



☆ピアノを聴きながらお抹茶をいただく・・・・・

 10月18日、ピアノを聴きながらお茶をいただく会があり、行ってきました。
 演奏は、現在スロバキアで研鑽を積んでいる若きピアニストで、お茶会にあわせて着物姿で現れました。もちろんお茶の道具組もすばらしいもので、尋牛斎宗匠の書かれた短冊や使い込まれた西岡小十造の唐津茶碗など、数々の名品がそろい、主菓子も地元のお菓子屋さん特製で、ちょっと塩味の、とてもまろやかな味わいがしました。
 お茶のあと、ダリアの見える場所に移り、山形名物の芋煮なども準備されていて、さらに会場の「Jamm」特製の石焼きピザやコーヒーなどもあり、日頃のお茶会にはないミスマッチの風情を味わいました。立礼席ということも、そのお茶会にはとてもふさわしいしつらえでした。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.03

 雨引観音に着いたのは、午後1時30分です。駐車場のわきの石段を上ると、長い石段の途中の仁王門から入ることができます。そこから一段をくの字の上りきると本堂です。平成10年秋に屋根瓦葺き替え及び塗り替えを行われたそうで、左の写真のように彩色されています。
 ここのご利益は、「ひとびとの病気を癒し、延命長寿を与えたまう息災延命の本願に住し玉いますので、安産子育・やくよけ延命の祈願の効験、ことにあらたかであるといわれております」と書かれてありました。また、「一に安産 二に子育よ、三に桜の楽法寺」と俚謡に詠われていることから、花の寺でもあるようです。参道には桜やツツジの木がありましたし、花は終わっていましたがアジサイもありました。ここは真言宗豊山派ということですから、他にもこの宗派のアジサイ寺があり、アジサイつながりでもあるのではないか、と思ってしまいました。
 本堂の中に入ってお詣りをしてもいいということで、なかで般若心経や諸真言を唱えました。終わって外に出ると、その真横に多宝塔がありました。もともとは三重塔だったそうですが、 嘉永6年(1853に多宝塔に改めたそうです。青空をバックにスーッと建ち、むしろ本堂よりも古格を感じさせます。
 ゆっくりと、参拝し、そして、また石段を下り車に乗り込みました。そして、近くの竹細工屋さんにまわり、午後2時15分、ここを出発しました。

 第24番札所 雨引山楽法寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 延命観世音菩薩
 ご詠歌 へだてなき 誓をたれも 仰ぐべし 佛の道に 雨引の寺



☆坂東三十三観音札所巡り Part.02

 大谷の平和観音を出発したのは、10時5分でした。そこから益子にある西明寺には1時間30分ほどかかるということです。そこで益子町の益子焼窯元共販センター で昼食を食べてから向かうことにしました。この共販センターは、だいぶ前に何度か来たことがありますが、久しぶりなので、食事もそこそこに限られた時間内でさーっと見て回りました。
 そして、そこから10分ほどで第20番札所の西明寺に到着です。うっそうとした椎の木に囲まれた石段を上り、茅葺きの仁王門をくぐると、その向こうに銅板葺きの本堂がありました。その仁王門の左わき(写真では本堂から撮ったので右わきに写っています)には、益子家宗の寄進した三重塔があり、参道わきに建てられていた「西明寺における文化財について」という案内板には、この仁王門も三重塔も国指定の重要文化財だそうです。その仁王門右手には閻魔堂があり、笑っている閻魔さまをまつっているそうです。獨鈷山というのは、弘法大師が来山したとき、法相宗の僧たちによって岩屋に閉じこめられたが、持っていた独鈷で難を逃れたという逸話によるそうです。
 さて、本堂でお詣りをし、その右手に大きな高野槙を見つけました。根元の石版には、栃木県指定の天然記念物ということが書かれてあり、推定樹齢750年、樹高30メートルといいますから、まさに圧倒する大きさを感じます。参道の椎の木19本も県指定の天然記念物だそうですから、まさにここは古木に囲まれた聖域でもあります。
 これらの木々と、茅葺き屋根の草とがみごとな山寺の雰囲気をかもし出していました。まだ二つめですが、今回の坂東三十三観音札所巡りも楽しみになってきました。ここを出発したのは、午後12時50分でした。

 第20番札所 獨鈷山西明寺 (真言宗豊山派) 本尊さま 十一面観世音菩薩
 ご詠歌 西明寺 ちかひをここに 尋ぬれば ついのすみかは 西とこそきけ



☆生誕100年記念「ダリ回顧展」を見てきました! 

 9月26日、東京の「上野の森美術館」で、生誕100年記念「ダリ回顧展」を見てきました。
 ダリはなんどかその作品を見ているのですが、今回初めて見るものもあり、とても興味深く鑑賞することができました。とくに印象に残ったのは、ある画家が描いた帆船の絵を、ダリが模写しながらもダリらしさを味付けした絵です。これは絵も上手く、表現力もあるということを再認識させてくれました。
 ダリというと、融けだしたように曲がった時計の印象が強く、作者の表現が読み切れないことが多いのですが、その複雑に幾重にも折り重ねられた意味を少しだけ読み解くことができたように今回は思いました。
 開催期間は、9月23日から2007年1月4日までですから、ダリ好きの人はぜひ見ていただきたいと思います。



☆『国宝 風神雷神図屏風』を見てきました!

 9月26日、出張した折に、出光美術館で開催されている『国宝 風神雷神図屏風』を見てきました。
 これは9月9日から10月1日まで開かれているもので、俵屋宗達と尾形光琳と酒井抱一がそれぞれ描いたものをそろえて展示したものです。過去に3回ほどあるそうですが、今回は66年ぶりだそうです。
 とても混んでいて、入場制限されていましたが、見始めると混雑も気になりませんでした。それぞれがすばらしいできばえですが、風格では国宝指定の俵屋宗達筆『風神雷神図屏風』(建仁寺所蔵)がぬきんでていました。それぞれの違いの細かい点まで解説していましたが、解説なしでもその違いはわかります。もちろん、時代の差もありますが、独自の構想で作成したものと、それを模倣したものの違いかもしれません。
 その前に、上野の森美術館で『ダリ回顧展』を見ましたが、その空想性において、なにか通ずるものがあるように思いました。



☆坂東三十三観音札所巡り Part.01

 2006年9月4〜5日、修行仲間たちといっしょに、坂東三十三観音札所巡りをはじめました。みんなそれぞれに仕事をもっているので、おそらく3年ぐらいで全部廻りたいと思っていますが、さてどうなりますか。まずは今回がスタートです。
 そもそも坂東三十三観音札所といいますと、日本百観音としても有名ですが、西国三十三観音霊場が先にできました。そして、鎌倉時代になると、平家追討のために西国に赴いた東国武士たちは西国観音巡礼のあることを知り、なかなかそこまで出かけられないことから地元の坂東8カ国に観音霊場をつくったようです。今の県別に見ると、神奈川9カ所、東京1カ所、埼玉4カ所、千葉7カ所、群馬2カ所、栃木4カ所、茨城6カ所、の計33カ所です。回り方にもよりますが、全行程約1,300kmですから、相当な距離です。昔は歩いて約40日ほどかかったそうです。
 実際に、2005年2月20日から5月28日までの45日間で満願した方の話しでは、総歩行距は、1,148.23kmだったそうですが、当然昔とは道も違いますので単純に比較はできません。ちなみに2006年4月26日から5月29日まで、34日間かけて西国三十三観音霊場を歩いた方の記録では、遍路コースだけで総歩行距離は、1,009.35kmだったそうです。さらに四国88カ所の全行程の場合は、1,800kmにもなるということです。
 もちろん、今回は歩いてというわけにはいかず、ジャンボタクシーで行くことにしました。ここからは、参加者の都合もあるでしょうから、一人称で書き進めたいと思います。ご了承ください。

 4日の午前6時に万世の普門寺さんに集まり、ここからスタートです。栗子峠を越え、福島の飯坂インターから東北自動車道で宇都宮まで行き、そこから一般道を走り、第19番札所天開山大谷寺に9時30分に到着しました。ここは通称大谷観音と呼ばれ、大谷石にそのまま千手観世音菩薩を刻んでいます。そして、その岩屋にそのまま本堂を入り込ませたように建てられていました。
 案内によると、ここは地獄谷と呼ばれ毒蛇の多いところであったが、あるとき、出羽の湯殿山の行者3人がこの地を訪れ、毒蛇降伏の秘法を修し、岩壁に観音像を彫刻してからは毒蛇の被害がなくなったと伝えられているそうです。私たちもいわば真言の流れをくむ湯殿山の行者ですから、ここを最初にお参りすることになっていたような気がしないでもありません。
 本堂でゆっくりとお参りし、その脇堂の磨崖仏にも巡拝しました。ここには、釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像の9体がまつられ、国指定の特別史跡と重要文化財になっているそうです。
 その後、入口左奥にある資料館を見て、山門を出ました。せっかくですので、大谷寺近くの平和観音にまわりました。高さは約27メートルあり、昭和31年に開眼式があったと記されていました。その観音さまのわきの階段を上り、観音さまの肘近くまで行きました。その後手下には、さきほどお参りした大谷寺が道路の向こうに見えました。そこから見ると、まさに岩壁にめり込むように建てられた観音堂が、大きな岩山に護られているかのように感じられました。

 第19番札所 天開山大谷寺 (天台宗) 本尊さま 千手観世音菩薩
 ご詠歌 名を聞くも めぐみ大谷の 観世音 みちびきたまへ 知るも知らぬも



☆七ケ宿ソバ畑に行きました!

 8月25日、七ケ宿のソバ畑に行ってきました。
 その前日にテレビでその情景が映り、まだソバの葉が青々としたままで真っ白なソバの花がとても印象的だったからです。その近くを何度か通りましたが、なかなかそのソバの花に出会うことはなく、やはりわざわざでも訪ねないとダメだ思いました。
 そこは予想通りの広々としたソバ畑で、心ゆくまでシャッターを押し続けました。この秋の新ソバのころには、このソバ畑の情景を思い浮かべながら食べたいと思います。



☆月山に上りました!

 8月9日、月山に上りました。今年の山開きは、大雪の影響で残雪も多く、途中で上るのをあきらめたと聞きましたが、まったくその通りでした。お盆前だというのに、まだ夏スキーをしていました。(写真右手が月山山頂です)
 高山植物たちは、健気にもその残雪がとけだす間際から青い新芽を出し、次々と花を咲かせていました。しかし、その花に実を付けるまでには秋が来て、すぐに初雪が降ってきてしまいます。今年ほど、山の春夏は短いと感じたことはありませんでした。
 ニッコウキスゲやチングルマの花に混じって、春のショウジョウバカマが咲いているのを見たのも数十年ぶりです。ちまたでは異常気象と簡単に割り切ってしまいますが、これら植物たちはそれをどのように感じているのか、ちょっと聞いてみたいような気がしました。



☆白水阿弥陀堂!

 この名前を知ったのは、五木寛之の『百寺巡礼』です。それを読んで、さらにその本に載っていた白黒の写真を見て、なんとかおまいりしたいと思いました。
 そして、7月29日、福島県いわき市の白水阿弥陀堂に行ってきました。そこは常磐自動車道の湯本I.Cから15分ほどにあり、駐車場に車を置き歩きました。真っ正面に大きな池があり、その赤い橋を二つ渡ったところにそれはありました。
 堂内の案内によると、この地を治めていた岩城則道の妻(奥州藤原氏の藤原秀衡の娘)が1160年に建立したものだそうで、国宝に指定されています。 とくに、きれいだと思ったのはその屋根の優美さで、これも解説によると宝形造りとち葺だそうです。また、池の蓮もちょうど見頃で、何枚も写真を撮ってきました。
 そういえば、6月に平泉中尊寺をおまいりしたのですが、ここでその平泉とクロスするとは考えてもいませんでした。この白水とは「平泉」の泉という字を上下に分解したものだそうです。



☆KOH-TAO live in 大黒さま !

 7月14日に甲子大黒天本山神殿内にて「KOH-TAO live in 大黒さま」がありました。KOH-TAO(コォ・タオ)とは無国籍音楽ユニットで、自作のカリンバやインドの横笛バンスリなどさまざまな民族楽器を使って演奏しました。ここでのライブは、一昨年に続いてのものです。
 今回は「水の響きの中で、遠い記憶との再会 〜心に響く音のメッセージ〜」が届くようにと演奏されました。前回と違うのは「peace flag」という活動が加わったようです。この「peace flag」とは、

新しい世紀を迎えて世界は他方向に流れて
東の国では悲しみが降りそそぎ
西の国でも同じことが繰りかえされている
この一連の流れの色は何色なんだろう
真紅の涙色
かなしい色
多くの人達がやりきれない思いの中で生きている

戦争反対の人も
今やむなく戦争している人も
みんなきっとその先に平和を願って祈っている

その平和の願いや祈りを形に
KOH−TAOからひとつの提案があります

自分自身が思い描いている平和な世界の旗
それが『peaceflag』です
絵でもいいし字でもいい
布でも紙にでも
どこかに『peacefIag』といれて
その旗を玄関にでも家のポストでも車でも
それを貼ってささやかな平和の意思表示をしていこうと

どんどん『peaceflag』がふえていけば
きっと平和な世界が訪れることを信じて
願いや思いはかならずかなうと信じて
その旗を作っている時の1人1人の平和への祈りと思い
純粋な意識の共時性が
少しづつでも世界を動かしていくと思います

意識がかわれば世界はかわると信じて



☆久しぶりに平泉を訪ねました!

 2006年6月17〜18日と東北ツツジ・シャクナゲ研修会があり、19日は五葉山に登り、ついでにもう一日延ばして、久しぶりに平泉を訪ねました。
 ちょうど毛越寺では、20日からあやめ祭りが開かれるということで、一山の僧侶とご詠歌衆とが開山堂で唱えるところでした。古い記憶では、ここで松尾芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」という句を詠んだところと教わったような気がしましたが、実は高館というところらしい。それで中尊寺と毛越寺をお参りした後、その高館義経堂(たかだちぎけいどう)に行ってみました。ここが義経終焉の地でした。右の写真がそれです。
 ここ高館には、平成元年「奥の細道300年 平泉芭蕉祭」を記念して建立された「おくのほそ道」記念碑があります。ここに書かれた「平泉」の章段を読みながら、時の権力者の哀れより、その権力者に翻弄された人たちの悲しさを強く感じました。まさに義経の生き様はそうです。そこに日本人は共感を覚えるのかもしれません。ここ高館に立ち、蕩々と流れる北上川の向こうの束稲山を見ながらいろいろと考えさせられました。
 以下に、この平泉で撮った写真を掲載いたします。


中尊寺本堂

毛越寺のアヤメと大泉が池

達谷窟毘沙門堂



☆神殿で結婚式!

 2006年6月11日、甲子大黒天本山の神殿で結婚式が執り行われました。
 若々しい2人を見て、映画『エンジェル・アイズ』を思い出しました。「彼の前では不思議と自分が素直になれる・・・・・」、それが一生のお付き合いのなかでは大切なような気がします。
 さらに、「人間は一人では生きられない、誰かに支えられ、支えて生きるのだ!」というフレーズもありました。
 まずは、この日を忘れずに、あまり頑張らずに、何事もほどほどに・・・・・。



☆植物にも生命があります!

 2006年5月13〜14日と三沢コミュニティセンターで「第30回春の山野草展」が開催され、多くの方々でにぎわいました。とくに今年は大雪の影響もあり、出品数が少ないのではないかと心配されましたが、例年には見られない山野草などもあり、多くの方々に喜んでいただいたようです。
 甲子大黒天本山の境内地も第2会場で、今年はちょうどアズマシャクナゲが真っ盛りということもあり、多くの方々が訪れました。そこで気づいたのですが、大黒さまの前をお参りもせず通り過ぎ、ただ植物だけを見る人のなかには、小さな山野草をそっと引き抜いていく人がいました。とくにマイズルソウなどは、1本抜いても根まで引き抜けないので、何本も抜き、とうとう失敗した20数本をそのまま捨てていったのを見て、あきれかえりました。もちろん、マイズルソウにも生命があります。おそらく、彼らにはマイズルソウの引き抜かれる悲鳴が聞こえなかったのではないでしょうか。
 最近、子供をねらった犯罪が多発していますが、本来、人間も植物もすべて同じ生き物です。いや、もしかすると、植物がなければ人間の生命もないわけですから、植物のほうが上かもしれないのです。
 もっともっと、植物たちを私たちは大切に扱わなければならないと感じました。



☆子どもたちと山に入りました!

 2006年5月11日、地元の小学生4年生と5年生といっしょに近くの山に行き、自然観察をしました。
 それに先立ち、5月8日に教室で「植物観察について」のオリエンテーションをおこないました。その中で、むかしは道ばたにいくらでもあった植物の4分の1が、失われつつあること(環境省のレッドデータブックより)や、自然のしくみや人間とのかかわりあいなどに触れ、自然を守ることの大切さをお話ししました。
 そして、その体験学習として実際に山に入り、植物とふれ合ったのです。子どもたちはエンレイソウやフクジュソウを見つけたり、食べられるニリンソウと毒草であるトリカブトの違いを観察したり、楽しい2時間でした。つねに見ているチューリップやパンジーなどと違い、小さくかわいらしい山野草に素直に感動していました。
 自然を守るという意識は、子どもの時にいかに自然に親しむかが大切だと思いました。



☆呉汝俊(ウー・ルーチン)さんのコンサートを聴きました!

 2006年4月11日、港区芝公園の「東京メルパルクホール」で開かれたウー・ルーチンさんのコンサートに行きました。
 今まで断片的には何度か聴いていますが、コンサートは初めてです。今回はある方のご厚意で、しかも最良の席でゆっくりと聴くことができました。この場を借りて、深く感謝いたします。
 ルーチンさんは、京胡の名手で、エイベックスからCDなども出されています。京胡はもともとはモンゴル族の楽器だったということですが、蒙古琴などとは形も音色もまったく違います。蒙古琴を聴いたことがありますが、弦を内側から持ち上げるように押さえて弾いていました。京胡は、右のパンフレットを見てもわかるように、竹筒に皮を張っただけの見るからに素朴な楽器のようですが、音色は千変万化とも幽玄ともなんとも表現のしにくい妙なるものです。今回のコンサートでは、美空ひばりの「川の流れのように」などの歌も初めて聴きました。アンコールでは、特に好きな曲の一つである喜多郎作曲の「恋慕」を聴き、大満足でした。
 機会があれば、ぜひ聴いて欲しいアーチストのお一人です。



☆ムユウジュ(無憂樹)の花の写真を撮りました!

 いわゆる「仏教三大聖樹」と呼ばれている樹は、このムユウジュ、そしてインドボダイジュとサラノキです。
 このムユウジュはマーヤ夫人が出産のために実家に帰る途中のルンビニで、あまりにもきれいなのでその花をとろうと右手を上げたときにその右脇からお釈迦さまがお生まれになったと伝えられている樹です。インドではアショーカ・ツリーといい、インドの仏教寺院にはたくさん植えられているようです。アショーカとはサンスクリット語で「憂いがない」という意味ですから、それがそのまま「無憂樹」となったようです。この花のように見えるのは、じつはガクです。仏教では、この花に注目して、無憂華ということもあります。
 インドボダイジュは、お釈迦さまが悟りを啓かれたときに座っていた根元の樹、そしてサラノキは入滅されようとするときの二本の樹です。やはりインドは暑いので、人々はいつも木陰で仕事をしたり、おしゃべりをしたりしています。だから町中にはこのような大きな木が人の集まるシンボルツリーになっているのです



☆映画「博士の愛した数式」を観てきました!

 映画館で「博士の愛した数式」を観てきました。
 監督は小泉堯史で、出演は寺尾聰や深津絵里、齋藤隆成などです。流れは、交通事故の後遺症で記憶がたった80分しかもたない天才数学者と、彼の家に家政婦として派遣された杏子とその息子 √(ルート) との交流を描いたもので、静かに深く数式を交えながら進んでいきます。
 この映画を観て、ある数学者を思い出しました。一人は爆弾犯ユナボマーことテッド・カジンスキー、そしてもう一人はハンガリー出身のポール・エアディッシュです。カジンスキーは2年も飛び級し20歳でハーバード大学数学科を卒業し、ミシガン大学大学院を卒業後カリフォルニア大学バークレー校の数学科助教授になった超秀才でした。しかしたった2年でバークレーを辞任し、山の中に入り、1996年に逮捕されるまでユナボマーとして爆発物や声明文を送り続けました。
 一方、エアディッシュは21歳で博士号をとり、1996年に83歳で亡くなるまで1,500本以上の数学論文を書きましたが、結婚もせず、ほとんど何も所有せず、すべての時間を数学に捧げたような人生でした。しかも他の数学者たちとの共同研究も多く、孤独というよりは、数学の研究を楽しんでいたようです。しかし、数学以外のことはほとんどなにもできず、食事や洗濯などの基本的な家事もダメでした。そして、お金が入ると、そのほとんどを奨学金や必要とする人たちに寄付し、手元に残さないようにしていたそうです。
 この決定的違いは、おそらく、子供時代に両親から愛情をたくさん受けていたかどうかのような気がします。そして、子供は、自分の存在を全面的に肯定されることがもっとも大切だと思います。そうすれば、多くの人を愛する優しい心がきっと芽生えます。
 映画の最後に、ウィリアム・ブレイクの詩が映し出されます。

 一粒の砂の中に宇宙を
 一輪の花の中に天国をみいだす

 この手の中に無限を
 この今の中に永遠をとらえる

 もし、機会があれば、ぜひ観ていただきい作品です。



☆サワフタギの写真を送っていただきました!

 2006年2月9日、岩手の齊藤勉さんからサワフタギの写真をお送りいただきました。その時の文面を紹介させていただきますと、
 『今日は私の庭の「サワフタギの実」の写真を別添で披露してみたいと思います。インターネットで「サワフタギ」を検索して見ましたが、この写真のように実が鈴なりになった写真は見られませんでしたので、きっと読者の方々の目の保養になるのではと思いました。』
 とあります。まことに見事なサワフタギの実で、おそらくお初めてお目にかかる方もおられるかと思います。このサワフタギは、ハイノキ科ハイノキ属の落葉木で、漢字で書くと「沢蓋木」です。私も、このように多くの実をつけたのを見たことがありません。
 ぜひ、これからも珍しい写真が撮れましたら、お送りいただければここに掲載させていただきます。



サワフタギ

サワフタギ

サワフタギ



☆東京国立博物館に行ってきました!

 2005年11月4日(金曜日)、東京国立博物館に行き、「華麗なる伊万里・雅の京焼」と「北斎展」を見てきました。
 「華麗なる伊万里・雅の京焼」は表慶館で開かれ、古九谷といわれていた伊万里焼や仁清の茶壺など、以前から見たいと思っていたものをゆっくりと鑑賞してきました。
 とくに「北斎展」はすごい混みようで、ほとんど押されるようにして見てきました。現所有を見ると、海外の美術館も多く、おそらく明治期に海外に流出されたもののようでした。しかし、それらを、このようにして一堂に会して見ることができるとは、とても幸せな時代だと思います。また、いつ見ることができるかわからないこれらの逸品を、人混みの中でも静かに味わいました。
 なお、「華麗なる伊万里・雅の京焼」も「北斎展」も、12月4日までですので、興味のある方はぜひ見てみてください。




☆月見の茶会に行ってきました!

 2005年10月16日(日曜日)、月見の茶会に行ってきました。
 今年は翌日がちょうど満月という絶好の日にあたり、さらに時間が進むにつれてお月さまが山の端から上がり、最高の雰囲気でした。
 各席で出るお菓子も、新栗を使ったものや、季節の里芋を形取ったものまであり、ついつい各席すべてで食べてしまいました。お席も、お月さまにちなんだものや、夕方の席ということで格式張らない軽やかさがあって、気楽に楽しめました。
 今年は30回の記念ということで「親子体験席」もあり、大きな茶碗から一生懸命にお茶を飲んでいる姿がとても印象的でした。となりの小学校5年生に美味しいですかと聞きましたら、「お茶もおいしいけれど、お菓子がおいしい」という返事が返ってきました。



☆菊見還暦茶事に招かれました!

 2005年10月10日、ある方の菊見還暦茶事に招かれ、行ってきました。
 当山でも、個人や同級会などの団体の還暦ご祈願をいたしますが、いわば人生の大きな節目であり、新たなステージへの再出発でもあります。そのためには、今まで生かされてきた人生を振り返り、反省すべきは反省し、できなかったことはこれからは何とかできますようにと願うのです。
 今回の茶事も、その意味では、いろいろな思いが込められたお茶事であったように思います。いつも思うのですが、お茶は一期一会で、同じ人たちが同じ季節に同じ道具で出会うなどということは、なかなかないようです。しかも、今日という日は、今日限りですから、まったく一期一会と言い切ってもいいのかもしれません。



☆Dinka Dunk (ディンカドゥンク)の「名月ライブ」がありました!

 2005年9月11日(日曜日)午後5時からDinka Dunk (ディンカドゥンク)の「名月ライブ」がありました。
 彼らは、沖縄で出会った三人組のバンドで、アフリカやアジアの民族楽器を中心に演奏活動をしているそうです。実際に聴いてみると、その民族楽器の枠を取り外したような自由な演奏で、自然に耳に飛び込んでくるような感じでした。
 メンバーのお一人、近藤ヒロミさんも、今年の音楽のほうがこの神殿にぴったりすると話していましたが、まったくその通りでした。オーストラリアの民族楽器ディジュリデュの音色も素敵でした。この楽器を調べましたら、「ディジュリドゥはオーストラリア北部のブッシュ地帯に生えるユーカリの木から作られます。まずシロアリによって中が喰い荒され空洞化した木を探し出し、1mから2mぐらいの長さに切ります。その後、表皮を削り口当ての部分に蜜蝋(ビーズ・ワックス)などを塗り、表面には岩を砕いた顔料で独得なアボリジナル・ペインティングを施します。その口当てに口を付け、息を吹き込みながら唇を震わせ、口や筒の中に共鳴させることで豊かな倍音に彩られた独得な音を発生させるのです。」と書いてありました。
 機会があれば、ぜひ聞いていただきたい音色です。



☆葛田一雄さんの出版祝賀会に参加しました!

 2005年 8月26日、東京千代田区の「如水会館」で開催された「葛田一雄作[夢のあとに]の出版を祝う会」に行ってきました。
 この小説は、彼が還暦を迎えて初めて出版したもので、今までの彼の経歴とはちょっと違う感じがします。でも、その根底に流れている逗子ボーイの粋が随所にかいま見られ、スーッと物語りの世界に入り込んでいきました。
 全国発売は、9月7日だそうですから、ぜひお読みいただきたいと思います。
 写真は、葛田氏と表紙絵を描かれた細谷正之氏、そして司会の荒木敏成氏です。



☆平等寺の薬師堂をお参りしました!

 2005年 7月24日、「将軍杉」に会いに行ったとき、初めて平等寺薬師堂の存在を知りました。
 現在のお堂は1517(永正14)年建立されたといい、旧越後では最古の木造建築だそうです。しかも、釘を一本も使わずに建てられたもので、その屋根の風格はすごいものです。そこには、いろいろな植物が根付き、ネジバナさえも花をつけていました。
 でも、この建物を冬の豪雪から守るのはたいへんなことだと感じました。たしかに、「将軍杉」もみごとでしたが、それ以上に風格を感じたのがこの薬師堂です。



☆岩谷山平等寺の「将軍杉」に出会いました!

 2005年 7月24日、猪苗代ハーブガーデンに行ったついでに岩谷山平等寺の「将軍杉」に会いに行ってきました。
 というのは、6月に屋久島の縄文杉に出会い感銘を受け、帰宅してから日本の杉の巨木を調べてみました。すると、縄文杉こそ日本最大の杉と勝手に思っていたのですが、それより大きな杉が新潟の東蒲原郡にあることを知りました。それは、ぜひ、お会いしなければと思っていましたが、割合早くその機会が訪れました。
 この「将軍杉」は、1927年4月8日に国の天然記念物に指定されましたが、1961年秋の第二室戸台風により中央の1本が折れてしまいました。それでも、2001年の環境省再調査で19.31mとされ、晴れて日本一の杉の巨木になりました。「将軍」とは、10世紀頃の余五将軍平維茂(たいらのこれもち)のことだそうで、案内板にはいろいろなことが書かれていました。
 しかし、真ん中の1本がないというのは、なんとも残念です。



☆「植物画世界の至宝展」を見てきました!

 2005年 7月15日、東京藝術大学大学美術館で開かれている「植物画世界の至宝展」を見てきました。
 会期は6月11日から7月18日までですから、なんとか間に合ったという感じです。これは、英国王立園芸協会(RHS)創立200周年記念と銘打たれたもので、500年の流れがわかるように展示されていました。
 この後、神戸市市立小磯記念美術館と全国都市緑化ふくおかフェアで展示される予定になっていますので、機会があればみてください。植物の好きな方にはたまらないものだと思います。



☆雄国沼のニッコウキスゲを見てきました!

 2005年6月30日、ニッコウキスゲを見に北塩原村の雄国沼に行きました。この沼は、猫魔ヶ岳の噴火によって生まれたカルデラ湖で、昭和32年にミズバショウやニッコウキスゲなどの咲く湿原として国の天然記念物に指定されています。湖面の標高は、1,089mで、周囲は、4.62Km、水深は約7mといわれています。
 今年から、マイカー規制とシャトルバス運行が開始されたので、雄国沼萩平駐車場に車をとめ、そこから45人乗りのバスで金沢峠駐車場まで25分かかりました。往復大人一人1,000円です。そこからは雄国沼に下るだけで、満開のニッコウキスゲをみることができました。ちなみに、昨年は開花目前にしてほとんどが霜にやられてしまいました。だから、今年は何年かぶりの大開花です。

 そのときの写真を下に紹介します。


雄国沼のニッコウキスゲ大群落

オオカメノキとニッコウキスゲ

金沢峠から見た雄国沼



☆「しゃくなげ茶会」を開きました!

 2005年5月27日、小町山で「しゃくなげ茶会」を開きました。
 当日はあいにくの天気でしたので、神殿回廊部分に席を移し、懐石からはじまり、濃茶、薄茶とすすみ、野点風正午の茶事を楽しみました。
 参加者はしゃくなげ会の面々で、当日は地元テレビ局の取材もあり、和気藹々と予定の時間を忘れてしまうほどでした。
 そのときの写真を下に紹介します。


亭主濃茶お点前

薄茶お点前

当日の道具組



☆第29回「春の山野草展」が開かれました。

 2005年5月14〜15日と、三沢コミュニティセンターで第29回「春の山野草展」が開催されました。
 また、同じ日程で、万世山野草展も開催され、20回記念展としてさまざまな催しが開かれました。そして、お互いに訪問し合い、交流を重ねました。
 そのときの様子を下記に掲載いたします。


三沢山野草展会場

展示されたオキナグサ

万世山野草展会場



☆白石川堤の桜を見てきました!

 2005年4月19日、「さくらの名所百選」にも選ばれている白石川堤のさくらを見に行ってきました。ここは延々8qほどにたくさんの桜が植えられていて、「一目千本桜」とも呼ばれています。
 一番心配していたのは駐車場でしたが、河川敷におおきな駐車スペースが確保されており、ゆっくり両岸を歩くことができます。多くのひとたちが、桜の木の下でお弁当を広げたり、花見団子を食べたりしていました。近くの小学校の児童たちも来ていて、ゴミ拾いをしたあと、土手の芝生で転がったりして遊んでいました。
 ほとんどがソメイヨシノでしたが、一部シロヤマザクラも混じっているとのことでした、遠くには蔵王連峰が望め、川には屋形船も運航されていました。まさに、春爛漫、これぞ日本の風景といった雰囲気でした。


白石川堤の桜

白石川堤の桜と屋形船

桜並木と蔵王遠望



☆「恐竜博2005」を見ました!

 2005年 3月23日、「中宮寺 国宝菩薩半跏像」を見学する前に、国立博物館で開催されている「恐竜博2005」を見ました。
 一番の目玉は、全身の90パーセントの化石が見つかった「スー」で、この発見でティラノサウルスの全体像がわかったようなものです。展示された「スー」は、全長12.8mあり、歯は最大約30pもあり、のこぎりのようなギザギザもありました。
 展示の流れは、恐竜がだんだんと鳥へと進化していく過程をとらえ、その順に並べられていました。あの巨大な恐竜が小さな鳥になるという進化の過程がとても信じられませんでしたが、その過程を眺めると理解できないこともないなあなどと考えてしまいます。
 この恐竜博は、3月19日〜7月3日まで開催されていますので、ぜひ興味のあるかたはご覧ください。



☆「中宮寺 国宝菩薩半跏像」を見てきました!

 2005年 3月23日、東京国立博物館の本館特別5室で開催されている「中宮寺 国宝菩薩半跏像」を拝んできました。
 この神秘のほほえみともいわれているやさしい笑顔に、感激しました。会期は3月8日〜4月17日までですので、機会のある方はぜひ見学されることをおすすめいたします。
 初めて、四方から見学いたしましたが、後の光背がクスノキの一枚板だそうですが、それが丸い竹のように彫られたもので支えられていることを初めて知りました。何度も何度も時間をかけて見つめておりましたが、そのほほえみはやはり魅力的でした。



☆小石川植物園に行ってきました!

 2005年3月21日、東京の小石川植物園に行ってきました。というのは、ここで植物関係者の集まりがあり、久しぶりに園内を歩いてきました。
 ちょうど、シナミズキやトサミズキの大株が満開の花を付け、ウメなどは少し盛りをすぎたような感じでした。また、早咲きの桜が咲いていて、早めの花見を楽しんできました。サクラの安行寒緋という種類に、メジロが花の蜜を吸いに集まり、バードウォッチングも楽しむことができました。
 また、温室の中には、小笠原諸島固有種のムニンツツジやムニンノボタンが咲き、一度絶滅しかかったこれらの種がここから再生していったことなどを感慨深げに写真を撮らせてもらいました。
 翌々日には、上野の国立博物館で開催されている「恐竜展2005」を見たり、国立博物館の中宮寺の菩薩半跏像を拝んできました。せっかく上京したので、興味のあるところをいろいろと見学してきました。


カンヒザクラ

カンザキオオシマ

安行寒緋とメジロ



☆「世界らん展日本大賞2005」を見てきました!

 2005年2月23日、冬の京都を巡った後に、東京へ出て、さらに世界らん展日本大賞2005を見ました。
 一昨年も見ましたが、今年は15周年記念ということもあり、とても華やかでした。私は、東洋欄のようなものが好みなんですが、ときにはこのあでやかさも人を圧倒する美しさを持っていると思います。花をいくら言葉で表現しようとしても難しいと思うので、先ずは下の写真を見ていただきましょう。


洋ランの花々

黄花フウラン

パフィオペディラム



☆「京の冬の旅」に行ってきました!

 2005年2月19〜22日、滋賀県に用があり、そのついでに冬の京都を巡ってきました。今年で「京の冬の旅」の企画も第39回だそうです。普段は非公開の文化財も、このときだけ公開されるので、とても楽しみです。
 数ある公開されたもののなかで、特に印象に残ったものは、東寺の五重塔の初層内部や龍安寺の仏殿や西の庭、そして金閣寺方丈などです。当然、写真撮影できないものも多かったのですが、少し下に掲載します。3月18日までですので、機会があればぜひ行ってみてください。
 22日の夕方に東京に出て、翌日は世界らん展を見ました。


嵯峨野の竹林

清涼寺(嵯峨釈迦堂)

龍安寺仏殿と西の庭



☆「雪見の茶会」に行きました!

 2005年2月12日、第28回上杉雪灯篭まつりの協賛掛け釜の「雪見の茶会」に行ってきました。
 場所は米沢市座の文化伝承館で、主催は米沢茶道連合会で、午後4時から8時まででした。席は3席あり、それぞれの流派の違いなどの楽しみもあり、さらには観光客の方々の参加も多く、いつものお茶会の雰囲気とは違うものを感じました。
 茶席の外には、雪ぼんぼりに灯りが点され、手桶にはほどよい温かさの手水が準備され、その中でいただく一杯のお茶にたとえようもない美味しさを見つけました。この寒いときの熱いお抹茶は、身の底から温めてくれます。たった一杯のお茶ですが、それを楽しもうとする方には、無限の楽しみがあるはずです。
 ぜひ、機会がありましたら、一杯のお抹茶を楽しんでみてください。


伝承館の門構え

清山庵の床

清山庵の道具組



☆「「福王寺法林展」を見てきました!

 2005年 1月20日、山形市の山形美術館で開催されている「福王寺法林展」を見てきました。
 この展示会は、昨年11月文化勲章を受章されたことを記念して開かれたものですが、米沢市出身ということもあり、ぜひ見たかったものの一つです。
 簡単に略歴を記しますと、1920年に米沢市で生まれ、画家を志し上京したのが1936年です。再興第34回院展に「山村風景」で入選して以来、数々の受賞歴があります。
 長年の夢であったネパールに取材に行ったのが1974年で、このポスターに載っている「ヒマラヤの花」(山形新聞社蔵)を描いたのは1983年です。そして日本芸術院会員になったのが1994年で、1998年に文化功労賞、そして2004年11月には文化勲章を受賞され、今日に至っています。また今年に米沢市名誉市民になる予定です。
 今回の展示会では、日本画30点のうち、ヒマラヤの絵が13点あり、そのいずれも大作で、シャクナゲの花が一面に描かれた「ヒマラヤの花」(福島県立美術館蔵)もあり、時間を忘れて魅入ってしまいました。図録も買ってきましたので、当分は毎日見続けるのではないかと思います。



☆「大根茶事」今年もやりました!

 2004年12月23日、米沢市座の文化伝承館で、今年も大根茶事をやりました。
 先ずは、寒いなかをいらっしゃったということで、一服のお茶を差し上げ、それからゆっくりと懐石を楽しみました。そしてメーンの「ふろふき大根」が出て、今年はさらに芋がゆまで最後に出されました。それをつくってくれた方は、戦前戦中を生き抜いてこられ、自らも毎日このような芋がゆを食べてこられたそうです。これはこれでとてもおいしかったのですが、毎日食べるとなれば、いまの人たちはきっとイヤになると思います。
 でも、年の終わりに、このような簡素なお茶を楽しめたことに、それなりの意義があろうかと思われます。きらびやかな大寄のお茶会と違って、気心の知れた方々とのゆったりとしたお茶事は、見てくれよりお茶の道に沿うような気がします。
 今年で3回目ですが、ぜひ来年もこのようなお茶事を楽しみたいと思います。


この掛け物を書いた方も参加

先ずは簡素の道具でお茶一服

右上がふろふき大根です



☆「吉野・熊野・高野の名宝」展を見てきました!

 2004年12月8日、東京世田谷美術館で開催されている「吉野・熊野・高野の名宝」展を見てきました。
 これは世界遺産登録記念と銘打って開かれた特別展で、「祈りの道」という副題も付いています。私は縁あって、昨年の4月と今年の2月にこの祈りの道を訪ねることができました。ですから、再びあの仏たちに出会う喜びがあり、さらにはその時に、拝むことのできなかった仏たちとの新鮮な出会いもあり、身の清められるような時間でした。
 さらに、この東京世田谷美術館のあとに、国立国会図書館を参観することができました。
 だいぶ前のことですが、国立国会図書館の新館がオープンし、それを紹介する記事を見て、その設備のすばらしさや地下にある収蔵庫の活用法にびっくりしたことがあります。それを実際に自分の目で見ることのできるチャンスに、小躍りして喜びました。しかも、案内してくれた方はすごい役職の方で、私たちの質問にも分かりやすく納得できるようにお答えいただきました。
 ただ、残念なことに、あの地下8階から眺めた情景の写真を撮ることができなかったことが心残りです。
 それにしても、いろいろな体験のできた一日でした。



☆上杉鷹山-改革への道-開催されました!

 2004年10月9日〜11月23日まで、伝国の杜「米沢市上杉博物館」で、上杉鷹山-改革への道-の特別展が開催されました。
 これは、「成せば成る 成さねば成らぬ何事も 成さぬは人の 成さぬ成りけり」と詠んだ上杉鷹山公の改革への道を資料を通して紹介する企画展でした。今回は、国宝上杉本洛中洛外図屏風の原本も展示され、多くの参観者でにぎわいました。
 不景気になると取り上げられる鷹山公ではありますが、その優しい生き方に共鳴される方も多いと思います。私もその一人ですが、ぜひ鷹山公の人となりに触れ、自分の生き方をもう一度考えるいい機会にして欲しいと思います。



☆月釜に行ってきました!

 2004年11月7日、米沢市座の文化伝承館で開かれた月釜に行き、おいしいお茶をいただいてきました。
 ここでは、冬期間をのぞいて、毎月初めの日曜日に釜がかけられていて、誰でも参加できます。この日は、とても天気が良く、露地の風情も秋めいて、名残のお茶のような雰囲気が感じられました。下にそのときの写真を少し載せますので、雰囲気だけでも感じ取っていただければと思います。
 お茶は作法を知らないとどうしても敬遠してしまいがちですが、このような一般を対象としたお茶会で試しに飲んでみることも良い経験になります。


青山庵

青山庵から露地を眺める

青山庵でのお手前



☆演劇『心中天の網島』を観ました!

 2004年10月21日、川西町のフレンドリープラザで公演された『心中天の網島』を観てきました。
 これは流山児★事務所の創立20周年を記念する公演第一弾で、あの有名な近松門左衛門作『心中天の網島』を現代風に篠井英介が演出したものです。とても動きがあり、特に七瀬なつみさんの二役も見応えがありました。
 公演パンフにも書いてありましたが、「恋って何でしょう?」という永遠の問いが江戸時代と現代をつないでいるように思いました。
 もし機会があれば、ぜひ観てみてください。



☆当山神殿にアフリカの風が吹きました!

 甲子大黒天本山神殿で、2004年10月17日(日)午後6時から、アフリカの伝統と現代を織り交ぜたスライド&トークとカリンバ・ムビラ&太鼓のライブが開催されました。
 第1部では、ケニア在住の早川千晶さんがスライドを上映しながらのトークショーで、第2部はブルケンゲ(俵貴美・大西匡哉)の太鼓と近藤ヒロミさんのカリンバ・ムビラの演奏でした。
 いずれも印象に残るライブでしたが、あのカリンバ・ムビラの優しい音色は、今でも耳に心地よい音色となって残っています。私が今もときどき聞いている近藤ヒロミさんのCDは、「TAPIWA-おくりもの-」です。みなさんもぜひこのやさしい音色を体験してみてください。


太鼓の演奏

近藤ヒロミさんの演奏

ライブ終了後の一こま



☆映画『トゥー・ブラザーズ』を観ました!

 2004年10月6日、『トゥー・ブラザーズ』を観てきました。これは、カンボジアのジャングルにある古い寺院に暮らしていたふたごのトラの物語です。監督は『セブン・イヤーズ・イン・チベット』のジャン=ジャック・アノーで、いつも思うのですが、野生動物を力強く描くのはとても大変なことです。私も西ベンガルであの大地を揺るがすようなトラの鳴き声を聞いたのですが、まさに映画館に響き渡るようなすさまじいものでした。
 ぜひ、このトラの数奇な運命と冒険家エイダン・マクロリーや少年との交流など、人と動物とのふれあいを観ていただきたいと思います。アメリカ映画もダイナミックでいいですが、このようなヨーロッパ映画も心を揺さぶるものがあります。



☆『中国 国宝展』を見てきました!

 2004年10月1日、東京国立博物館 平成館で開催されている『中国 国宝展』を見てきました。
 これは中国の考古学の新発見と仏教美術が中心でしたが、とくに興味を引いたのが仏教美術です。あの重い仏像をここまで運ぶのに大変だったろうなあという思いと、ここにいながら御尊像を拝める幸せを感じました。中には私が訪れたことのあるお寺のものもあり、懐かしくなりました。
 会期は9月28日〜11月28日までですので、ぜひご覧ください。



☆当山神殿でKOH-TAO(コォ タオ)コンサート開催!

 甲子大黒天本山神殿で、2004年7月23日(金)午後7時30分から、KOH-TAO(コォ タオ)のコンサートがありました。
 彼らは東京を拠点にヨーロッパやアジアなどで音楽活動をしていますが、今回はある縁で当山での開催となりました。
 特に印象深かったのは、オルゴールの起源とされている親指ピアノ(カリンバ)の音色です。コンサートが終わってから演奏者のBUNさんに聞いたのですが、これらはみな自分で作られたそうで、指の爪でひくので爪もすり減っていました。そんな大変な苦労も感じさせない軽やかな演奏会でした。
 機会があれば、ぜひまた聴きたいと思います。


右がHARISHさん、左がBUNさん

主催者のせいのさんの挨拶

演奏に使われたカリンバ



☆西国三十三観音札所巡り Part.24

 さあ、これで最後の第16番札所音羽山清水寺です。
 五条坂からちゃわん坂の方に向かい、いかにもかって知ったかのように歩きました。考えてみれば、この清水寺には少なくても5〜6度は来ているはずです。この前訪ねたときも京都陶磁器会館や朝日堂を見て歩きましたが、今日は一心参りです。寄り道をせず、そのままちゃわん坂を上り、清水寺の山門前に立ちました。
 この山門は、色鮮やかな朱塗りになっていて、ちょっと浮いたようにも見えますが、そのまま三重の塔のわきを抜け、拝観券を求め、本堂に向かいました。この舞台造りは、西国三十三観音札所のなかにもいくつかの寺院で見かけましたが、やはり一番大がかりで、見事なものです。ちょっと人が多いのが難点ですが、先ず本堂西側に祀られている大黒天に参拝し、それから本尊さまの十一面千手千眼観世音菩薩にお参りしました。しかし厨子の中に祀られていると思ったのですが、現在は保存のため宝蔵殿に移されていると聞き、ちょっとガッカリしました。確かに文化財といえばそうかもしれませんが、信仰者の立場からいえばお参りをする対象であり、保存云々の問題ではありません。そこにいらっしゃると思ってお参りをしたのに、別なところに保存されていると聞けば、いささか肩すかしを食らったようなものです。もちろん、本堂などの建物もそうですが、お参りをする場所であって、鑑賞するものではないはずです。この舞台の端でしばらく眺めていると、お参りをするというよりは、ただ見回している方々のほうが断然多いことに気づきました。それも本尊さまがいらっしゃらないのだから当然というば当然なのかとも思いました。
 それから釈迦堂や阿弥陀堂、奥の院などをお参りし、そのまま三重の塔のほうに向かって歩きました。そして、ふと、本堂の方を眺めてみると、その檜皮葺きの屋根の少しふくらみを持たせた優美な姿に目が釘付けになりました。今まで、何度も来て気づかなかった美しさです。この本堂は1633年に徳川家光の寄進で再建されたそうですが、屋根だけはその後も何度か補修されているはずです。それでもこのふくらみを残してきたことに、感動すら覚えました。山門や経堂、開山堂などにはない日本独特の丸みです。これを見つけただけで、ここを西国三十三観音札所の最後にして良かったと思いました。
 日本の宗教建築物の良さは、反り返った鋭さや、人を威圧するような大きさではないように思います。いわば優しいなで肩のようなもので、いつでも人を受け入れてくれるような寛容さです。宗教というのは、本来は、今生きて悩み苦しんでいる人たちを救うものでなければなりません。人を拒絶したり、寄せ付けないようなものでは困ります。誰でも気軽に訪ね、好きなだけ時間を過ごせるところが必要だと思います。

 この西国三十三観音札所をすべて巡り終え考えてみると、観音さまのご慈悲、優しさに触れた旅だったように思います。そして、その観音さまのご慈悲をそのまま他の人に差し向けなさいということだと感じました。観音さまの放つ慈悲の光りを、自分だけでなく、多くの人たちと共に、全身で受け入れることこそ有り難いものです。共に生き、共に楽しめる、その共にという姿に、人としての優しさ、柔らかさがあると思いました。最後に、今、私の床の間に掲げている元清水寺住職大西良慶師が書かれた『清風座中起』を紹介してこの連載を終わりにしたいと思います。
 よくお茶席で見かけるのは、『歩々起清風』ですが、これは一歩一歩あゆむごとに涼しい風が吹いてくるという非常に爽やかな情景を表しています。そして、さらに日々努力し続けた人の一挙手一投足がとても美しく感じられるという意味でもあります。では、『清風座中起』の清風も同じかというと少し違いまして、この清風は爽やかさだけではなく、なごやかな雰囲気にいつも包まれ、円満なさまをも表しているのだそうです。そういえば、大西良慶師が92歳のとき、ノーベル賞作家であるパールバックさんが清水寺を訪ねられたことがあります。そのとき、パール・バックさんが、大西良慶師に、自分の一生を振り返っていつの頃が一番よかったでしょうかと質問されたそうです。すると師は、即座に「そやなあ、今が一番ええなあ」とお答えになりました。  「今が一番ええなあ」・・・・・。この何気ない言葉ではありますが、92歳になって言えるということは素晴らしいと思います。その歳になれば、身体は思うように動かない、耳もよく聞こえないし、目もよく見えなくなる、いくらでも愚痴はでてきますが、「今が一番ええなあ」と思って暮らせれば、それぐらい幸せなことはありません。
 ぜひ、この連載をお読みいただいた皆さまがたも、この共に生き、共に楽しみ、さらには「今が一番ええなあ」と思いながら生きていただきたいものです。
 長い間の連載におつきあいいただき、本当に有り難うございました。心から感謝いたします。



☆西国三十三観音札所巡り Part.23

  第18番と第19番は歩いて回ったのですが、第15番札所新那智山観音寺(今熊野観音寺)は東山区の泉涌寺の近くにあるので、車を利用しました。市バス泉涌寺道から入り、10分ほど歩き朱塗りの鳥居橋を渡ると観音寺に着きます。ここは泉涌寺の塔頭寺院でもあり、四国八十八カ所お砂踏みでも有名なところです。
 石段の途中に子まもり大師像がまつられ、本堂わきの石段の上には大師堂もあり、ここは真言宗のお寺だということが分かります。本尊さまは十一面観音で、寺伝によると、空海がこの地を訪れたとき、熊野権現と名乗る老人が1寸8分の十一面観音を託し祀るように言い残したといいます。そこでその話しを聞いた嵯峨天皇の命により空海がお堂を建て、新たに1尺8寸の十一面観音像を造り、その胎内にその老人から託された観音像を納めたということです。現在は、その前立本尊がありお参りできるようになっています。
 本堂の右奥の小高いところに見える多宝塔は日本唯一の医聖堂で、日本の医学の発展に寄与した人たちを祀るのだそうです。これは昭和59年に完成しましたが、現在も本堂の一部を手直しをしていました。
 次に向かったのは、第17番札所補陀洛山六波羅蜜寺です。バス停の泉涌寺道まで戻り、市バスで清水道まで行き、そこから京阪五条駅のほうに進みました。何度か道行く人に尋ねながら細い路地を歩き、たどり着きました。ここは真言宗智山派ですが、市の聖として有名な空也上人の開基されたお寺です。ですから、ここにはあの教科書にも掲載されている口から化仏を吹き出している空也上人像があります。私には、意外なところで懐かしい像に出会ったような感じでした。それに、ここはあの六波羅探題があったところだというし、お寺の北側には六原小学校があるということで、寺名にも納得してしまいました。
 本堂は真新しく感じましたが、昭和44年に解体修理されたのだそうで、重要文化財です。そのとき発掘調査なども行われ、泥塔なども出土したそうです。本尊さまは十一面観音で、空也上人が市中を引き回したときの像だとありました。その本堂南角には、新しそうなブロンズの縁結び観音像が立っていて、修学旅行の女生徒たち、しかも今時珍しいセーラー服を着て真剣に手を合わせていました。
 ここで時計を見ると、もう午前11時45分。そういえば、これまで昼食は、ほとんどが車の中でパンやおにぎりを食べる程度でしたので、今日ぐらいは食堂で食べようと思いました。東大路通に出て、その通りに面した「甚六」というお蕎麦屋さんに入り、ノートをまとめながらお蕎麦をいただきました。やはり、ゆっくりといただくと、食べたような気がします。車の中で食べると、いかにも腹が減ったから食べるというだけです。ここで少しゆとりを持って最後の札所に向かいました。



☆『伊東忠太の世界展』見学ツアーに参加しました!

 伝国の杜「米沢市上杉博物館」で、2004年5月22日〜6月27日まで『伊東忠太の世界展』が開催されています。そのワークショップの一環として、見学ツアーが企画され、鶴見の総持寺にある伊東忠太のお墓をお参りし、その後、忠太が設計された築地本願寺や大倉集古館を見学するものでした。
 6月12日、山形新幹線で東京駅まで行き、そこから貸し切りバスでの移動でした。鶴見の総持寺では、ちょうど実峰良秀禅師600回忌法要が行われていましたが、私たちはまっすぐに伊東忠太のお墓に行き、清掃の後、お焼香をしました。ついでに、すぐ近くの石原裕次郎や浅野総一郎のお墓もお参りしました。そして、アクアラインの「海ホタル」で各自昼食ののち、築地本願寺に行きました。(左の写真は総持寺にある伊東家のお墓です)
 築地本願寺では、寺の由来から伊東忠太の設計された本堂の説明などもしていただき、さらに備え付けのパイプオルガンの演奏までありました。とても有り難く、その本堂に鳴り響く音色にしばし陶酔しました。
 そこからホテルオオクラ前にある大倉集古館に行きました。ここはだいぶ前に一度見学したことがありますが、今回は学芸員が案内してくれ、その展示の意図なども伺うことができ、とても参考になりました。ここは平成9年、創立80周年を記念して全館大改修が行われ、平成10年には国指定の有形文化財に登録されたそうです。
 特に国宝に指定されている「普賢菩薩騎象像」は、解体されたそのままに陳列されていました。こうすると、今まで気づかなかった部分まで確認でき、様々な角度から見ることができます。また、二階に上る階段のところに彫刻されたかわいらしい獅子像にも挨拶してきました。築地本願寺の階段部分にも同じように馬や象などの彫刻がありましたが、まさに伊東忠太の遊び心が感じられ、どっぷりとその世界に触れることができました。(右の写真が大倉集古館です)
 そして、午後5時36分発のつばさ123号で帰郷しました。楽しい、有意義な一日でした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.22

 2月17日、おそらく今日で西国三十三観音霊場巡りも満願を迎えるという気持ちで起き出しました。昨夜の予定では、今熊野観音寺から初めて革堂で終わるようにするつもりでしたが、急遽、ホテルの近くの革堂からお参りをすることにしました。
 第19番札所霊ゆう山行願寺(通称革堂)は、中京区の寺町通りにあります。山号の「ゆう」という字は、パソコンのフォントになく、鹿の字の下に七という字を書き入れたものです。通称の革堂は、「こうどう」と読ませ、開基の行円上人は元狩人でつねに鹿皮の衣を身につけていたことによるのだそうです。その狩人だったとき、射止めた鹿の腹に子が入っていてまだ生きているのを見て、殺生の罪の深さを知り比叡山の横川で修行したといいます。鹿はお釈迦さまが初めて説法したところが鹿野苑ですし、そこにも鹿はいましたから、仏教と縁があるのかもしれません。
 本尊さまは千手観音で、宗派は天台宗です。比叡山の横川で修行した行円上人が開基ですから、当然といえば当然ですが、この当然がそうではないのがお寺の歴史の不思議さです。この西国三十三観音霊場を巡ってみても、ここは真言宗だろうと思っていたら、まったく違っていたということが何度もありました。それが悪いということではないのですが、なんとなく割り切れない思いはありました。ほかの世界ならいざ知らず、お寺だけは一貫したものがあってもいいのではないかと思います。
 ここから歩いて次に向かったのは、第18番札所紫雲山頂法寺(通称六角堂)です。ここは同じ中京区ですが、御池通からちょっと入ったところで、あの華道の池坊家元が住職を務めるお寺です。寺伝によりますと開基は聖徳太子だそうで、本尊さまは如意輪観音で秘仏になっています。そのかわり、同じお姿をされた前立仏が祀られ、また重要文化財に指定されている毘沙門天像も安置されています。池坊というぐらいですから、大きな池でもあるのかと想像していたのですが、作りがけの小さな池があるだけでした。正面から見ると六角堂には見えないのですが、わきから見ると六角形の端正なお堂が見えます。なにぶん境内地が狭いので、見渡すということまではできないのですが、なんとか山門のぎりぎりの所からお堂の写真も撮れました。先ほどの革堂もここの六角堂もそうですが、いわば町衆の信仰で護られてきたお堂で、集会場の役目もしていたようです。だからかもしれませんが、人を威圧するような建造物もなく、ただ本堂だけがひっそりと建っているように見えました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.21

 2月16日午後1時、第24番札所紫雲山中山寺に到着しました。ここは兵庫県宝塚市にあり、阪急宝塚線の中山駅からすぐのところにあります。この日は縁日に当たっていたのかどうか分かりませんが、お参りの方が多くいました。石段のわきにエスカレーターが完備されていて、お年寄りにはとてもやさしい設備です。これには賛否両論があるかもしれませんが、足腰の都合により選べることはありがたいと思います。
 中山寺は真言宗中山寺派の大本山で、本尊さまは十一面観音で、毎月18日にご開扉されるそうです。ここは、長谷寺の徳道上人が石棺に宝印を納めたのを花山天皇が掘り起こし、それをきっかけとして西国三十三観音霊場を再興したといういわれのある寺でもあります。そのような縁で、ここが西国三十三観音札所の第1番だったこともあるそうです。
 この本堂の裏手には、大師堂があり、そこからは市街地を一望できます。さらに上ると中山観音公園があり、ハイキングコースもあります。参拝者を見ると、ここが市民の憩いの広場になっているような感じです。また、ここは安産祈願の寺としても有名で、若い夫婦や赤ちゃんを抱いてお礼参りをする姿も多く見かけました。
 ここから次に第22番札所補陀洛山総持寺に向かいました。いったん国道171号線に戻り、東海道本線の摂津富田駅近くで細道に入り、茨木市の総持寺に着いたのが午後2時25分でした。すぐ駐車場に車を停め、立派な山門をくぐり、本堂にお参りしました。本尊さまは千手観音で、織田信長の茨木合戦の際、ほとんどの堂宇を焼き尽くされたが、本尊さまだけが下半身は黒こげになったものの上半身は焼けなかったといいます。ご開扉は4月の1週間だけですが、火伏せ観音とも呼ばれ、参詣者も多いそうです。また4月18日には、テレビなどで見たことがありますが、食材にはいっさい手を触れずに調理する「山陰流(四条流)包丁式」があるということでした。
 ここから、さらに第20番札西山善峰寺に向かいました。ここは京都市西京区にありますが、まったくの山の中の寺でした。国道171号線の長岡あたりから一般道に入り、細い山道を15分ほど入ったところにありました。総持寺を出発したのが午後2時55分で、善峰寺に到着したのが午後4時ですから、1時間少々かかったことになります。すでに参詣の方は一人もなく、静かにゆったりと、しかもお寺の人の勧めで本堂の中に入ってお参りできました。本尊さまは千手観音で、天台宗に属しているということでした。
 お参りをすませ、さらに石段を上ると、枝を長く伸ばした松がありました。これが「遊龍の松」で、樹齢約600年で枝の長さが北に11m、西に28mということでした。高さは、3mもなさそうですから、まさに横に龍が広がったような形をしています。そのわきから、京都市内を眺めると、ここがいかに山寺かということがよく分かります。
 時計を見たらまだ午後4時35分です。もしかすると、もう一カ所今熊野観音寺まで行けるかもしれないと考え、出発しました。しかし、国道171号線に入る手前で渋滞に巻き込まれ、171号線に入ったのは午後5時12分を過ぎていました。もうまっすぐレンタカーの営業所に向かうしかありません。途中の東寺付近のガソリンスタンドで満タンにし、河原町営業所に着いたのが午後5時46分でした。返す予定は午後6時ですから、なんとか間に合いました。メーターを確認したら、18,979Kmですから、今日の走行距離は、153Kmでした。京都河原町を出発し、京都府亀岡市、大阪府箕面市、兵庫県宝塚市、大阪府茨木市、そして京都市西京区と153Kmの札所巡りでした。



☆こまつ座『太鼓たたいて笛ふいて』を観劇!

 2004年5月7日、川西町のフレンドリープラザで井上ひさし作、栗山民也演出『太鼓たたいて笛ふいて』を観ることができました。
 若き日の林芙美子が文壇に登場する前後から、戦争をはさんでのちの半生を描いたもので、舞台狭しと動き回る役者たちに感動しました。大竹しのぶの演技もさすがでしたが、梅沢昌代と木場勝己のうまさも際だっていました。さすが、2002年の演劇賞を総なめにした舞台だけのことはありました。その再演最後の川西町のフレンドリープラザで観ることができたのです。
 考えれば、自分が太鼓たたいて笛ふいて他の人たちを踊らせたら、やはりその責任はちゃんと自分がとらなければなりません。今の世の中は、太鼓たたいて笛ふいても、肝心なところで責任逃れをしているように感じます。責任をとることがたとえ自分の命を縮めることになったとしても、それは仕方のないことです。だって、自分で太鼓たたいて笛ふいてわけですから・・・・・
 いつも思うのですが、井上ひさしの演劇はおもしろく、ちょっと悲しく、ちょっと考えさせられます。



☆西国三十三観音札所巡り Part.20

 2月15日は名古屋市内のホテルで会議でしたが、その晩に京都まで移動しました。翌16日は、朝に京都市内の営業所で新たにレンタカーを借り、出発しました。今日の車は、走行距離数18,826Kmの濃紺の「bB」です。
 初めに向かったのが、第21番札所菩提山穴太寺です。ここは京都府亀岡市にあり、約1時間ほどで到着しました。途中、新しい道などもあり、少し迷いましたが、着いてみるとのどかで少し寂れたような雰囲気の漂うところにありました。ちょっとはげかかった土壁もとてもすてきでした。ここは天台宗に属し、本尊さまは聖観音ですが、昭和43年に盗まれたまま、現在も行方知らずだそうです。現在の本尊さまは、佐川定慶仏師作だそうですが、以前と同じように33年ごとにご開扉されるのだそうです。
 私が感心したのはむしろ庫裡とおぼしき建物で、飾らない質素な感じにとても好感が持てました。今は、少し余裕があると、とんでもない庫裡を建て、下手すると本堂より豪華な建物に住んでいる宗教者もいます。それでは本末転倒です。それにひき替え、ここは古い建物をとても大切に使い、生活も質素にしているという感じが伝わってきます。もちろん現実は分かりませんし、後から知ったことですが、この建物は日光輪王寺から贈られたもので、江戸時代中期の陣屋造りだそうです。それでも、私はここを今回の一押しにします。ぜひ機会があれば訪ねてみてください。
 ここを出発したのは、午前10時37分で、兵庫県宝塚市にある中山寺を目指しました。国道423号線を兵庫県に向かって走っていると、まったく偶然に「勝尾寺」の標識を見つけました。ナビにばかり頼っていては見つからなかったかもしれません。そこで、少し戻り、その標識の示す方向に向かいました。山道を上り、午前11時20分には勝尾寺に着きました。ここは大阪府箕面市にありますが、箕面川治ダムよりもっと先の方です。
 第23番札所応頂山勝尾寺は、明治の森箕面国定公園の一角にありました。境内はきれいに整備され、とくに多宝塔を望む石段の両脇には大株の西洋シャクナゲが植えられてありました。花時には、素晴らしい景観になることと思います。そこを右に曲がり、さらに左に曲がり、ちょっと下ったところに本堂がありました。ここは高野山真言宗に属し、本尊さまは十一面千手観音です。でも、本堂を塗り直したのかどうかですが、あまりにも朱の色が強すぎます。山内の自然景観に浮き上がっているように見えます。もちろん、この見え方には個人差はあるでしょうが、私にはそのように見えました。
 約1時間ほど参詣し、出発したのは午後12時10分でした。途中、箕面ビジターセンターがあり、箕面滝は「日本の滝100選」にも選ばれているそうですから、季節の良いときにもう一度来てみたいと思いました。そして、国道171号線を中山寺に向かいました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.19

 2月14日、午後1時ころ高野山の大門に到着しました。ほぼ予定した時間です。途中でコンビニにまわり、パンとお茶を買い、車の中で昼食をすませました。
 すぐ、一の橋の近くに車を停め、奥の院への参道を歩きました。道の両側には雪があり、ひんやりとした空気がほほに冷たく感じました。一の橋と中の橋の途中にあるわが家のお墓に詣り、突然思い出したように来山した理由などを報告しました。そして、奥の院まで行き、今度は宗祖弘法大師に今回の西国三十三観音札所巡りのいきさつなどを話し、ご法楽を捧げました。ここは、いつ来ても心が引き締まる思いです。いまでも弘法大師はここに入定し、いらっしゃるということが当たり前のように感じられます。多くの人たちも、何度も般若心経を読み、その声が奥の院にこだましていました。
 その参道を戻るとき、御廟橋のところで修行僧とすれ違いました。その真剣なまなざしを見たとき、やはりここに来て良かったと思いました。なんでもそうですが、初心に戻るということは大切なことです。生きていて、知らず知らずのうちに垢やほこりにまみれ、それにすら気づかない忙しい日常を過ごしています。この知らず知らずが怖いことで、もう後戻りできないほど自分が変わってしまっていることに気づいてがっくりすることもあります。そんなとき、本当の自分を取り戻すには、もう一度自分の原点に立ち返ることです。私がこの高野山の奥の院に立ったのは、昭和49年3月末のことでした。それからちょうど30年。あのときここで感じたこと思ったことのいくつかを思い出しました。これをしたい、こんなことをやってみたい、ということなども輪郭だけですが思い出します。その思い出したことなどを考えながら、参道を下りました。できたこと、できなかったこともありますし、そのときは考えもしなかったことをしていることもあります。やはり30年の時間の隔たりは、相当なものです。
 一の橋を渡り、一般道に戻り、かさ國というお菓子屋さんで名物の「みろく石」を買い、それから高野山真言宗の総本山である金剛峯寺に行きました。この宗派は全国に3,600ケ寺あり、この高野山の中心でもあります。聞けば、地理的にもこの山上のほぼ中心にあるそうです。
 そこから壇上伽藍に行き、金堂、根本大塔、御影堂などを巡拝しました。この根本大塔は、弘法大師が高野山を開創されたとき、一番最初に手がけられた建物です。ただし現在の根本大塔は、昭和12年に再建されたもので、高さ約49m、四方約24mの建物です。内部は、中央に胎蔵界大日如来、四方に金剛界四仏、周囲16本の柱には堂本印象画伯の十六大菩薩などが描かれ、それ自体立体曼荼羅を表していますから、いわば真言密教のシンボルでもあります。
 ここまでゆっくりとお参りをして歩いていたら、もうすでに午後3時15分です。上ってくる途中の道の両側には残雪があり、下りの道が凍り始めるかもしれないし、さらには午後6時までには和歌山市内の営業所にレンタカーを返さなければなりません。初めてのところですし、夕方になれば道も渋滞するかもしれず、少し早めに下りることにしました。車に乗り込み、大門を通過するころには午後3時30分を少し過ぎていました。
 そして和歌山駅近くの営業所に着いたのが午後5時ころで、予定通りの行程でした。車のメーターを確認したら、今日2月14日の走行距離は、196Kmでした。二日間で420Km走ったことになりますが、これでこの新車「ist」ともお別れです。そして、何よりも無事故で過ごせたことに感謝です。



☆西国三十三観音札所巡り Part.18

 2月14日、朝7時30分に丸浅旅館を出発し、第4番札所槇尾山施福寺に向かいました。ここは標高530mの槇尾山中腹にあるということなので、それなりの覚悟をして行ったつもりでしたが、山道に入ったにもかかわらず、小さな案内板すら見あたりません。とうとう砂利道になり、車もすれ違えない細い道になり、峠を越えてしまいました。その近くで施福寺への道を聞いたら、もう一度戻らなければならないと聞き、その通り進んだのですが、車のナビすら「目的地周辺です。案内を終了します」といいだす始末です。しかたなく、車で入れるところまで入ったら、車が1台とまっていました。その隙間になんとかとめ、その道を歩き出しました。誰一人通らない山道を途中何度も不思議な気持ちになりながら歩くと、その檜の林の山道に小さな石仏が祀られ、シキビが添えられていました。それに心を強くし、さらに20分ほど歩くと、やっと施福寺の本堂が見えてきました。
 そこで初めて気がついたのですが、そこは裏道で、通行止めになっていました。だから誰一人通らなかったのです。その訳が分かると安心し、今度はゆつくりとお参りできました。本尊さまは十一面千手千眼観世音菩薩で、一年に一度、5月15日にご開扉されるそうです。宗派は、天台宗ですが、案内板によると、若き空海がここに住持していた勤操大徳を慕い来て、剃髪得度をしたということでした。その跡も現在は愛染堂として残っています。ということは、もしかして、あの人っ子一人通らないような山道を空海も上ってきたのではないかと想像がふくらみ、導かれるようにあの裏道を歩かざるを得なくなったのではないかとさえ思えました。さらに、ここで剃髪得度をしたということは、ここが仏道修行の初めだとすれば、その終着点は高野山ではないのか、だとすれば高野山にもお参りしたいと考えました。
 そこで、すぐにあの裏道を戻り、車を山道から一般道まで下げ、ナビでこれからの予定を立てました。今の時間は午前9時50分だから、今朝から予定していた第5番札所の紫雲山葛井寺までは約1時間で行けそうです。そこから高野山までは、距離にして55Kmほどだからこれも何とか昼過ぎには着きそうです。それなら、やっぱり高野山には行きたい、ということで、先ずは藤井寺を目指しました。仲哀天皇陵のわきを通り、藤井寺商店街のアーケードの手前で車を駐車し、葛井寺にお参りしました。ここの本尊さまは、天平時代に作られた十一面千手千眼観世音菩薩で、中が空洞の脱活乾漆造りです。もちろん国宝に指定されていて、しかも秘仏ではなく、毎月18日にご開扉されるのだそうです。絵はがきで見ると、ぜひ次の機会には18日に来て、ゆっくりお参りしたいと思わせる優しさをしていました。
 そして、きびすを返すように、今来た国道170号線を戻り、富田林、河内長野、そして橋本を通過し、高野山を目指しました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.17

 熊野三山、すなわち那智大社・速玉大社・本宮大社を順に参拝し、そのまま第2番札所紀三井山金剛宝寺(通称紀三井寺)に向かいました。本宮大社をちょうど12時に参拝し、すぐ車で出発し、紀三井寺に着いたのが2時間45分ですから、ここまで2時間45分かかったことになります。
 ここの寺名は、正式には金剛宝寺護国院といい、救世観音宗に属し、本尊さまは十一面観音です。ご開扉は50年に一度、1ヶ月だけだそうです。ここに至る231段の石段は有名で、かの紀伊国屋文左衛門が母を背負いお参りに来たとき、その石段の途中で草履の鼻緒が切れ、困っているところを玉津島神社の宮司さんの娘さんが直してくれ、それが縁で二人は結ばれ、その宮司さんが資金を出してくれたみかん船で大儲けしたという縁起が残っています。その紀三井寺の名は、石段途中にある「清浄水」と、同じく境内地にある「吉祥水」と「揚柳水」をあわせた三つの井戸から起こったとあります。
 境内地にはサクラの木がたくさん植えられていて、花時は見事だと思うが、まだ春浅い2月中旬、常緑樹だけが青々としているだけでした。でも、だからこそ遠くに和歌の浦がよく見渡され、万葉の世界に遊ぶような心地がしました。
 時計を見たら、まだ午後3時20分。予定ではこのあたりに宿泊するつもりでしたが、この時間ではまだ3番札所の粉河寺まで行けそうです。急いで車に戻り、粉河寺を目指しました。
 第3番札所風猛山粉河寺に着いたのは、4時15分でした。茶店も片づけようとしていましたが、声をかけ、このあたりで泊まれるところはないですかと聞きました。すると、自分の自宅の前が旅館だから聞いてあげるといい、すぐ電話をしてくれました。こうして、今日泊まるところを確保してから、ゆっくりとお参りしました。
 本堂は、桃山時代に作られたという粉河寺庭園に囲まれ、その豪快な石組みとサツキの刈り込みのまとめ方はさぞやと思わせる風格です。宗派は、粉河観音宗といいますから、独立した一派かもしれません。本尊さまは千手観音で、お参りをしながら見ましたが厨子の中でした。
 この寺の近くに真言宗の根来寺がありますが、一昨年お参りしたので今回は遠慮しました。参詣をすませ、先ほどの茶店で聞いた山門前の旅館「丸浅」に向かいました。夕食はできないと言われていたので、途中で弁当を買いました。昔の商人宿のような雰囲気でしたが、ここまで足を伸ばすことができたことに感謝しました。しかも、レンタカーはまだ428Kmしか走っていない新車同様の車で、快適に乗ることができました。走行距離224Km、西国三十三観音札所巡りも順調な滑り出しです。



☆西国三十三観音札所巡り Part.16

 また連載を再開します。
 平成16年2月12日から西国三十三観音札所巡りを再開しましたが、12日は午前7時42分に米沢を出て、東京、名古屋で乗り替え、紀伊勝浦に到着したのが午後4時42分でした。ですから、9時間かかってここ勝浦に着いたことになります。勝浦は漁港としても有名で、聞きましたらマグロ料理が美味しいということなので、夕食はマグロ丼を食べました。
 実質的な札所巡りは、翌13日からはじまりました。午前8時30分にレンタカーを予約していたので、その時間まで営業所に行き、手続きを済ませすぐ出発しました。目指すは、西国三十三観音1番札所那智山青岸渡寺です(写真右)。約20分で那智の滝周辺の駐車場に着きました。そこから歩いて先ず青岸渡寺本堂にお参りし、ご朱印をいただきました。ここ熊野は、いにしえから信仰のメッカであり、「熊野詣で」という言葉が残っているほどです。さらにここは第1番札所ですから、特別な感慨もあります。ゆっくりと観音経をあげ、これからの札所巡礼の無事満願も祈念しました。ここの本尊さまは、如意輪観音で、宗派は天台宗だそうです。でも那智の滝、飛滝権現の本地仏は千手観音ですから、なかなか分かりにくいところもあります。
 少しゆとりが出て、あたりを見渡すと、すぐ隣り合ったところに那智大社がありました。案内板を見ますと、ここ那智大社と速玉大社、本宮大社で熊野三山というとあります。出羽三山などは、本当の三つの山があるのですが、ここは信仰の社が三山という形に表れているようです。この那智大社を参り、ここのシンボルでもある那智の滝を拝むべく歩き出しました。もちろん、ここまでは音も聞こえず、案内図が頼りです。もう一度青岸渡寺の前を過ぎ、斜面の道を歩くと朱塗りの三重の塔が見えました。その遙か後ろに、絵に描かれているかのように那智の滝が見えました。この三重の塔と那智の滝を組み合わせ、写真を何枚も撮りました。そして、この三重の塔に上り、那智の滝を眺めましたが、水量も少なく、日本一の実感がわきませんでした。でも、心の中では、遙か昔、ここを目指して歩いてきた人たちの思いがしのばれ、豊かな時間を過ごすことができました。
 そこで、この機会を生かして熊野三山を順に参拝することにしました。ここ那智大社をお参りしたのが午前9時30分、そしてレンタカーで速玉大社に着いたのが10時20分、さらに本宮大社(写真左)でお参りしたのがちょうど12時でした。
 昔は、それこそつづら折れの道をひたすら歩いて、一社一社時間をかけてお参りしたのでしょうが、今はたったの2時間30分ですべて回ることができます。それが良いか悪いかは分かりませんが、私はむしろ不幸なことだと思います。お参りは、いわば心の整理でもあるわけだから、十分な時間をかけてお参りできる方がはるかに有意義です。それで、熊野本宮大社までの熊野古道を少しだけ歩いてみましたが、ここが霊場として全盛期を誇った平安末期の人々の信仰心がほんのひとかけらですが分かるような気がしました。もちろん、今から800年ほども前のことですから、ただそのような気分になれたということに過ぎないと思いますが・・・・・。



☆大根茶事をしました

 2003年12月13日(土曜日)、友人が育てた大根の出来が良かったので、それをほろふき大根にしてお茶事をしました。その味噌も持ち寄りで、しかも私が青竹を切って入れ物を準備しました。その写真が右です。
 お抹茶というと、どうも堅苦しい雰囲気を想像してしまいますが、昔はお茶菓子が干し柿だったり身近で手に入るものを使って楽しんでいたようです。だから、大根を煮て、それを懐石(もともとの意味は、暖めた石を懐に入れて暖をとる程度の料理)にしてもいいわけで、今回はそれだけではお腹が一杯にならないのでニシン蕎麦を最後にいただきました。
 今のお茶事は、珍しいもの、手のかかるもの、それも懐石というよりは食べきれないほどのものが出てくるようです。さらにお茶の道具は、名品ぞろいで、おそるおそる手にするものばかりです。しかも家元の書き付けがあるかないかなど、どうでもよいことを見所にしている風潮があります。お金さえ出せばそろう道具より、お金を出しても味わえないことのほうが大事です。
 たとえば、この青竹の味噌の入れ物ですが、箸も人数分、一生懸命作りました。持って帰りたいという人もいて、よろこんで使ってくれました。すごくうれしかったし、手塩に掛けて育てた大根もとても美味しかったです。そんな何気ないことを喜べることこそ私は大事だと思います。一杯のお茶を美味しく、みんなで楽しく飲む、それもお茶の心です。
 みなさんも、ぜひこのようなお茶事を楽しんでみてください。そんな意味もあって、ここに紹介しました。



☆高尾山薬王寺に参詣しました

 2003年12月9日(火曜日)、昔、ともに同じところで修行した仲間で、高尾山薬王寺に参詣しました。ここは、以前醍醐派だったのですが、明治14年、真言宗智山派の別格本山となり現在に至っていますが、平成元年に修験道の柴燈護摩道場が新設されてからは醍醐修験との関係も密になっているようです。
 私たちは、知り合いの僧に導かれ、薬王院大本堂にて護摩祈祷を受けた後、本坊にて精進料理をいただき、普段は開放されていない書院、方丈殿などを案内していただきました。ふすま絵やガラスの一枚一枚までもがすばらしいものでした。
 さらに、その後境内地を案内していただきましたが、飯縄権現堂(御本社)では、能の撮影が行われており、特別に舞っていただきました。そこで気付いたのですが、休憩している時の面はまるで緊張感のないただのお面ですが、ひとたび舞い始めると、その面が生き生きとした表情に変わり、喜怒哀楽までも表現するのです。まさにその落差がおもしろく、初めての体験でした。最後にその室町時代の作という面を外して持っていただき、写真まで撮らせていただきました。
 飯縄権現堂内で舞うのも素晴らしいアイディアですが、その時に出会えた私たちも、かけがえのない貴重な時間をいただきました。もし、このホームページをみていましたら、厚く御礼を申し上げたいと思います。



☆西国三十三観音札所巡り Part.15

 長谷寺の山門を抜け、門前町を眺めながら下ると、ちょっと右に曲がったところに「西国三十三所開基 徳道上人御廟所 番外 法起院」と書かれた石碑を見つけました。ここが番外札所の法起院です。この寺は、長谷寺を開いた徳道上人が晩年隠棲した寺で、天平7年(735年)に創建されたと案内板に書かれていました。それによると、「養老2年(718年)に徳道上人は突然の病気により、仮死状態になったとき、冥土で閻魔大王に会った。その閻魔大王から、悩める人々を救うために三十三ヶ所の観音霊場をひろめるように言われ、宝印を授けられ、この世に戻されたという。徳道上人は霊場を定め巡拝するよう勧めたが思うにまかせず、しかたなく宝印を中山寺に埋めたという。その宝印は約270年後、花山法皇によって掘り出され、西国三十三観音霊場巡りも再興され盛んになった。」ということです。
 これが西国三十三観音霊場の開基逸話になっていますが、それはそれとして単純に計算してもすごい年月がたっていることになります。その長い信仰の礎をつくられた徳道上人を本尊とする寺なので、今日まで18カ寺巡拝してきたことなどを思い出しながらお参りしました。しかもここは門前町の中にありながら、その喧噪もあまり気にならない静かな環境でした。
 法起院を出て、また長谷寺駅を目指し歩き出し、駅に着いたのが12時ちょうどでした。さあ、これからどうしようかと考えましたが、今日の夜まで東京に戻ればいいので、高校の修学旅行に一度行ったっきりの法隆寺に行くことにしました。長谷寺駅12時13分に乗り込み、12時23分八木駅に着き、乗り替えて12時28分発筒井駅12時50分着でした。そこからタクシーで法隆寺に到着したのが午後1時5分で、寺前のそばやさんで「柿ざるうどん」を食べました。この柿は、「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の柿だと思いますが、ただ柿色をしたうどんでした。一杯650円ですから、あまり文句も言えません。
 午後1時20分に法隆寺境内に入り、南大門、回廊、金堂、五重塔、大講堂などを順に見て回りましたが、修学旅行生も多く、やはり気分は文化財見学の雰囲気でした。世界最古の木造建築といわれれば、「ホホーッ」と思いますし、これが教科書にも出ていた仏像ですといわれれば、やはり「スゴイナー」と思います。平成10年に建立された大宝蔵院には、日本の仏教美術を代表する飛鳥時代の百済観音立像が展示されていましたが、ガラス越しでは参拝しようという気にはならず、仏さまも気のせいかかさついていました。2時間前に拝んだ長谷寺の観音さまはつやつやとしてすばらしいほほえみをしていたのに、ここの観音さまは目が沈んで生き生きとしていないのです。確かにすばらしい仏像なのですが、信仰されているとは感じられないのです。ちょっと寂しい気がしました。
 それでも夢殿は端正な八角堂で私の好きな形ですし、お堂の中に安置されている救世観音立像はいかにも飛鳥仏らしい瀟洒な仏さまでした。しかも、年二回、4月11日から5月5日まで、秋は10月22日から11月3日までしかご開扉しないそうです。だからお参りできたのですが、やはりありがたいと思いました。
 一通り拝観し、時計を見たら午後2時20分、急いでJR法隆寺駅に向かい、奈良駅からみやこ路快速に乗り換え、京都発午後4時21分の東京行き東海道新幹線に乗りました。これで西国三十三観音札所巡りの前段は終わりです。指折り数えると18カ寺お参りしたことになります。さて、この続きはいつ頃できそうかなあ、と考えながら新幹線で眠りこけてしまいました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.14

 4月18日(金曜日)午前5時40分起床、湯を沸かしお茶を飲み、奈良公園に散歩に出ました。今日で西国三十三観音霊場巡りも一時中断し、夜には東京まで戻らなければなりません。ホテルから猿沢池、興福寺の五重塔と東金堂の間を抜け、奈良国立博物館から東大寺南大門まで歩きました。そして東大寺前の鏡池のところで写真を撮っていると、東大寺受付の戸が開いたのです。聞くと午前7時30分から入れるということで、ちょっと待って中に入りました。この広い東大寺大仏殿で、参拝していたのは私一人だけです。修学旅行の子どもたちの話し声も、甲高い声で話す人たちも誰もいません。世界最大の木造古建築の大仏殿の中で、752年に開眼された大仏さまにたった一人でご法楽を捧げ、このとてつもなく大きな大仏さまと一対一でお話しができるのです。そのゆったりとした経の声が、確かに大仏さまの耳に届いたような気がしました。それからゆっくりと大仏さまの周りを回り、もう一度正面でお経を捧げました。奈良に来て本当に良かった、と思いました。8時ちょっと過ぎ、大仏殿前の金銅八角灯籠のところまで来ると、修学旅行と思われる中学生がドヤドヤと入ってきました。これでまた、いつもの喧噪のお寺になるのでしょう。
 それから、二月堂や三月堂をまわり、西国第9番札所興福寺南円堂に着いたのは、午前8時40分でした。ここには一昨日もお参りしましたが、夕方でご朱印をいただけなかったので、このときいただきました。納経所の前には大きな藤棚があり、さぞ花時はきれいだろうし、夏の強い日差しの時には良い日除けになると思いました。この南円堂はきれいな八角形のお堂ですが、平成8年に解体修理されたと聞き納得です。南円堂があるのだから、北円堂もあるのだろうかと調べましたらこれがありまして、しかもこの北円堂は興福寺の建物の中でもっとも古く、1210年に再建されたと書かれてありました。南円堂の本尊は不空羂索観世さまで、西国ではここだけおまつりされています。毎年10月17日の大般若会のときだけご開扉されるそうです。
 そして長い朝の散歩からホテルに戻ったのが午前9時頃で、すぐ朝食をいただきました。すでに多くの方々は朝食が終わり、チェックアウトをされていましたので、一人でゆっくりと今日のこれからの予定を考えながら食べました。そして、ホテルを出たのが10時ちょっと前でした。
 10時14分発の桜井行きの電車に乗り、桜井駅で近鉄線に乗り換え、長谷寺駅に着いたのが10時55分でした。長谷寺駅でタクシーに乗ろうとしたら、ここはタクシーが少ないので乗り合いで行こうということになり、ある方と一緒に長谷寺まで行きました。その車の中で、少し話しをしたらぜひ長谷寺の中まで案内したいということになり、入山パスがあるというのでそのまま受付をフリーパスで通過しました。長い回廊を上り、本堂の受付でなにやら話していたと思ったら、いま許可をもらったので本尊さまの真下でお参りできるということでした。何がなにやら分からぬままに案内され、階段を下りたら、そこに左手に宝瓶、右手には錫杖を持った大きな十一面観音さまが立っていらっしゃいました。そのうっすらと浮かぶような金色のお姿に圧倒されながらも、その足下にぬかずきながら、不思議な縁を感じ、観音経を読誦させていただきました。そして外に出て本堂の拝所に立ちましたら、なかで山内の僧侶が出仕して法要が開かれていました。ということは、その法要の真っ最中に私が観音さまのお膝元で祈っていたのです。まったく不思議な縁としかいいようがありません。考えてみれば、ここの本尊は十一面観世音菩薩さまで、10mを超す日本最大の木像仏ですが、ほぼ同じお姿が鎌倉の長谷寺にもおまつりしていて、今年の2月にお参りしたばかりです。何か導かれるようにしてここまで来たかのような思いがしました。写真を撮ることも忘れ、ご朱印をもらうことも忘れ、回廊を下ろうとしたとき、ふと我に返りました。すぐ引き返し、西国第八番豊山長谷寺のご朱印をいただき、本堂や五重塔などの写真を撮り、たった一輪咲いていたボタンに見送られながら長谷寺を後にしました。西国三十三観音巡りの最後に、このような不思議なご縁をいただき、早く残りの札所を巡らなければと思いました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.13

 4月17日、午後4時30分に西国第七番札所東光山竜蓋寺(通称岡寺)に着きました。行けるかどうかと考えたのは、距離的な問題より時間的な問題、すなわちご朱印がいただけるかどうかの心配でした。でも、なんとか間に合いました。
 ここは飛鳥の里を見下ろす高台にあり、天智天皇の岡宮旧跡に建立されたことから「岡寺」と呼ばれるようになり、竜蓋寺という名は、むかし農民を苦しめていた竜をこの寺の僧が法力で池に封じ込め、大きな石で蓋をしたという伝説に由来するのだそうです。朱塗りの山門をくぐり、石段を上ると入母屋造りの本堂があります。本尊は如意輪観音さんで、奈良時代の作で、丈六といいますから今の単位で4.6mほどあり、現存する塑像では日本最大級です。そう思って見るせいか何となく天平ののびのびとしたおおらかさが伝わってくるようです。しかも、平安後期からの六臂の如意輪観音さんと違い、二臂で右手には施無畏印(不安を取り除く)、左手には与願印(願いを叶える)と分かりやすいお姿をしています。
 その本堂手前右手の高台には、昭和62年に500年の歳月を経て再建された三重の塔が再建されていました。ここはシャクナゲも名物の一つですが、たった一輪、ほんの申し訳程度に咲いていました。もし、満開に咲いたならば、相当見応えがありそうです。その時期をねらって、もう一度来てみたいところでした。
 この岡寺の近くに教科書などでも有名な石舞台古墳があると聞いて、そこにも寄り道しました。ここは公園のようになっていて、その中央に石舞台があります。正確には、石舞台というより周囲に堀をめぐらした方形墳で、上を覆っていた土が流され、石室がむき出しの状態になったのではないかといわれています。巨石は30数個あり、これをどのように運び、しつらえたのか不思議です。ちょうど夕日がこの巨石を照らし、古代への感傷を引き出してくれました。
 でも、ここまで来たら、もう一カ所回らなければなりません。それは桜井市安倍の文殊院(通称安倍文殊)です。先日参拝した天橋立の切戸文殊とここの安倍文殊と、山形県高畠町にある亀岡文殊で、一般的には日本三文殊といいますが、今日お参りできれば、三文殊すべてにお参りしたことになります。そこでタクシーに急いでもらいました。
 時計を気にしながらも、なんとか間に合いました。この文殊院は、孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺として建立したのが「安倍山崇敬寺文殊院」(安倍寺)で、鎌倉時代に現在の場所に移されてきたのだそうです。もちろん本尊は文殊さまで、獅子に乗った高さ7mほどの大きなお姿で、快慶作です。そして、本堂近くの文殊池には、安倍倉梯麻呂をまつる金閣浮御堂があり、その東岸には陰陽師安倍晴明をまつる晴明堂が建っていました。東岸高台には展望台があるとのことでしたが、そこをあきらめ、JR桜井駅に向かいました。
 ここ斑鳩の里は、もう一度ゆっくりと目的を持たずに歩きたいところでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.12

 今日(4月17日)は、長年の念願だった吉野の桜を見に行きました。吉野には二度ほど上っていますが、どちらも桜の季節ではなく、あの西行が「願わくは 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」と詠んだその季節にその場所に立ちその桜を見てみたいと思い続けてきました。その想いがやっと叶う日です。
 朝6時15分起床、ゆっくりと準備をし、朝食を食べ、ホテルを出発したのは8時15分、近鉄奈良駅を8時28分に出発、大和西大寺駅で乗り替え、橿原神宮で再度乗り替え、吉野駅に着いたのが10時25分でした。電車の中では、昨日までのレンタカーと違い、ゆっくりと本を読んだり、削りかけの茶杓を磨いたり、この原稿のメモを執ったりしました。確かに車は便利ですが、電車の良さもあります。2時間は長いですが、何かをしていると瞬く間に過ぎてしまいます。
 吉野駅を下りると、駅前に上千本までの臨時バスが運行(350円)されていて、たった10分で到着しました。すると、それを待っていたかのように奥千本までのマイクロバスがあり(400円)、それに乗って奥千本の金峯神社前の参道入り口まで行きました。ここまでくれば、西行庵まで約10ほど歩くだけです。
 西行庵は、金峯神社からちょっと上り、南西の谷へ下ったところにありました。西行はここに文治年間(1185〜90)に住んでいましたが、現在の庵は後世のもので、世捨て人を象徴しようとしてわざと粗末に作ったような作為が見て取れました。でも、その庵から少し上ったところにある岩間の苔清水は、現在も涸れることなく湧き続け、ここで西行は、「とくとくと 落つる岩間の苔清水 汲みほすまでもなき住居かな」と詠んでいます。
 このあたりの桜は、まだ2分咲きほどで、しばらく西行に思いをはせていましたが、下山しました。奥千本から少し下がったところがちょうど満開で、高城山展望台からは遠く蔵王堂も見え、桜に染められた吉野山が一望できました。以前調べた本によると、修験道の霊木は桜と石楠花だと書いてありました。ここは修験道のメッカですから、桜が大事にされ、他の木は切っても絶対に桜と石楠花だけは切らなかった、だからこのように全山桜に埋もれるようになったのかもしれません。また、ここで、山桜にこのように多くの変化があることに初めて気づきました。芽だしが赤いのだけでなく、緑色のものもあり、それがまた微妙に変化し、ちょっと大げさかもしれませんが、一本一本違うような気がしました。現在では、桜というとソメイヨシノを指すような気風がありますが、これはたった一本の木から生まれた、まったく同じ遺伝子を持った桜です。いっせいに咲き、いっせいに散る桜です。でも、ここ吉野山の山桜は、一本一本ちゃんとした個性を持ち、他との違いを際だたせています。それで、山全体が桜色に染まるのです。この微妙な花の色の変化が吉野の桜のすばらしさだと思います。だとすれば、その吉野山にはなかなか行けないけれど、染井で生まれたこの桜、すなわちソメイヨシノもそれに近い美しさを持ってますよ、ということで名付けられたような気がしてきました。
 そんな桜をゆっくりと堪能しながら、奥千本から上千本と下り、蔵王堂にお参りし、吉野山ロープウェイで下千本の吉野千本口まで下りました。電車は午後2時38分発でしたが、今日も昼食も食べずに桜の下を歩いたことになります。いや、桜吹雪の中で、食べることさえも忘れてしまったようです。
 近鉄吉野線で壺阪山駅に着いたのが3時25分、それから西国第六番札所、壷阪山南法華寺(通称壺阪寺)に向かいました。本尊は、十一面千手観音菩薩さまで、とくに眼病に霊験あらたかと聞くが、ここが有名になったのが明治時代の世話物浄瑠璃である『壺坂霊験記』のお里沢市の話しからで、そんなに古いことではないらしい。しかも、境内には大きな石造レリーフや大観音石像、大石堂などが造られ、ちょっとやりすぎという感じがしないでもありません。まあ、いろいろな寺院があってもいいのでしょうが、私には石の硬さより木の柔らかさが良いと思いました。でも、本堂の中に自由に入ることができ、本尊さんに近寄って間近でお参りできることはとても良かったと思います。
 そして、次は時間的にちょっと無理かとも考えましたが、岡寺に行きました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.11

 西国第二十六番法華山一乗寺は、清水寺から約1時間で着きました。途中曲がりくねった山道でしたが、ところどころに山桜も咲いていて、楽しく運転ができました。
 でも、ここでは駐車料金を300円、さらに拝観料も300円かかり、ご朱印も300円とお参りもなかなか大変です。しかし、そこの方に伺うと、縁日などはそれなりのお参りがあるそうですが、それ以外は札所巡りの方々だけだそうですから、それでこれだけの堂宇を護っていくのはこれでなかなか大変なようです。そんな話しを伺うと、せめてお賽銭だけはと思い大奮発しました。
 現在、本堂は解体修理中なので仮本堂でお参りし、ご朱印をいただきました。この仮本堂は、案内書で見ると常行堂らしく、この堂は聖武天皇の勅願による建立と伝えられていますが、何回かの火災に遭遇し、現在の建物は明治元年(1868年)に建てられたものだそうです。本尊は聖観音さまで、銅製の白鳳仏ですが、秘仏なので詳しくは分かりません。ただただ堂宇護持の大変さを思いながら下山しました。
 次は、そこから40分ほどで書写山圓教寺へのロープウエイ乗り場駐車場に着きました。時間は午後1時15分でしたが、今日も昼食は車の中ですませました。すぐ1時30分発のロープウエイに乗り、約4分、瞬く間に山上駅に着きましたが、以外や以外、そこから札所までが遠く、15分ほどかかりました。この山上駅から仁王門までの参道には、西国三十三ヶ所各寺院の本尊さまの写しが安置されていて、今までお参りした本尊さまを思い出しながら歩きました。
 その突き当たりの、見上げるような石段の上に、舞台づくりの本堂(摩尼殿)が見えてきました。ここが西国第二十七番書写山圓教寺で、西国三十三ヶ所霊場のもっとも西端に位置しています。寺域も広く立派な堂宇も多く建ち並び、西の比叡山と称せらるのも納得です。
 本尊は、如意輪観音さまですが、火災にあい、昭和8年の本堂再建のときに試作仏とされてきた仏さまを本尊さまとしてまつっています。1月18日だけご開扉されるらしく、この日はお姿を拝見できませんでした。それでも、この舞台のような回廊から眺める風景はとても素晴らしく、春の桜もいいが秋の紅葉もまたいいような気がしました。
 でも、いつまでもここにいる訳にはいきません。今日の午後5時までには奈良市内でこのレンタカーを返さなければならないのです。急いで参道を下り、ロープウエイに乗り、下駅の駐車場に着いたのが午後2時25分でした。すぐ出発して、山陽自動車道の姫路西インターから入り、大阪市内を抜け、奈良に着いたのが午後4時30分でした。すぐガソリンを満タンにして、トヨタレンタリース奈良に車を返しました。今日の1日の走行距離は335.8Kmですから、3日間の総距離数は785.6Kmになりました。
 そこの社員の方にホテルまで送っていただき、ホテルでちょっと片づけて、外に出てお抹茶とお菓子を買い、部屋でゆっくりとお茶を楽しみました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.10

 4月16日(水曜日)、午前5時30分ごろ天橋立の方から朝日が昇るのが見えましたので、6時には起床し、今日一日の行程を考えました。見渡すと、雲一つない晴天で、今日はとりあえず奈良まで行くことにしました。朝食を食べ、8時5分には出発、先ずは智恩寺にまわりました。智恩寺といっても分からないでしょうが、切戸の文殊といって、日本三文殊の一つになっており、ちょうど天橋立の付け根のところにあります。
 せっかく天橋立に行くのなら、ここにはまわろうと最初から考えていました。日本三文殊の一つは山形県の高畠の亀岡文殊、そしてこれから行く予定の奈良の桜井市にある安倍文殊、この機会にすべてお参りすれば、少しずつ物忘れが激しくなってきたのが救われるかもしれません。
 ということで、切戸の文殊さまにお参りして、さらに廻旋橋を渡って天橋立を歩きました。小天橋、さらに大天橋を渡り、その松並木に覆われた3Kmを越えるというほんの一部の砂州の感触を楽しみました。
 そして、車に戻り、初めてガソリンを満タンに詰め、9時にはここを出発しました。目指すは、兵庫県加東郡にある清水寺です。
 舞鶴自動車道の三田西インターで下り、ゴルフ場が多くある地域を通り、昭和50年に開通したという有料道路(3Kmほど、300円)を走ると大きな駐車場に着きます。そこに昭和55年に再建された仁王門があり、最近塗り替えられたばかりのような鮮やかな朱塗りが目にもまぶしく感じられます。そこを通ると、第25番札所御獄山清水寺で、御嶽山頂上近くの標高500mほどのところにあります。
 本尊は十一面千手観音さまで、30年に一度ご開扉されるそうです。ここは何度も山火事や落雷などの災害に遭い、ご朱印は大正時代に再建された大講堂でいただきました。それでも、ここの環境が厳しいせいか、根本中堂や薬師堂などもそれなりの時代がかって見えました。帰り道、さの参道の途中に新しく「しゃくなげ園」が造られていましたが、ただ植え込んだようなもので、管理も良くありませんでした。ここは古くから山岳仏教の霊地でしたから、その意味でも霊木たるシャクナゲを植えたいということは分かりますが、ただ植え込めば育つわけではありません。植物のなかでも、シャクナゲ栽培は難しいほうで、もう少し研究の余地はありそうです。それと無造作に日本産のシャクナゲと西洋シャクナゲを混植させるのも考えものです。
 そんなことを考えながら、次の法華山一乗寺に向かいました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.9

 4月15日(火曜日)午後2時20分に、第29番札所青葉山松尾寺に到着しました。高速道路を使ったこともあり、意外と早く着いたようです。また、カーナビ付きのレンタカーを借りたのも良かったようです。常には使っていないのですが、やはり全然知らない土地を走る場合には、とても便利です。一回一回地図を確認する必要もないし、いわばカーナビに教えられた通りに走ればいいのですから簡単です。今回はまったく初めての場所なので、行程なども分からず、最初の計画では三日目の舞鶴辺りで車を返す予定をしていましたが、このまま順調に走れば、明日は兵庫県をまわって奈良県まで移動できそうです。そこで、途中の賤ヶ岳パーキングエリアから大津唐崎の営業所に電話をして、明日の午後5時まで奈良で返すことにしました。変更料は隣の県ということで、かかりませんでした。
 さて、松尾寺は、若狭富士と呼ばれている青葉山の中腹にありますが、どこにでも「○○富士」というのがあるところをみると、日本人は富士山にあこがれ以上のものを抱いているようです。本尊は馬頭観音さんで、西国札所でここだけですが、そのせいか本堂前には唐金製の馬像も添えられてありました。聞くと、ここの本尊さんは秘仏で、鎌倉時代初期の三面八臂の忿怒像だそうですが、その前立本尊さんと同じお姿だといいますから、ヒンドゥー教のビシュンヌ像に近いと思います。また、本堂も珍しい宝形造りで、山門からだとその屋根の部分だけが遠目に見えます。
 ちょうど桜が満開で、その山門にかかるようにして咲いていました。ここも京都ということですが、京都市内はすでに葉桜でしたが、ここではゆっくりとお花見ができました。そして、最近は交通安全を願う人も多いということなので、私もしっかりと安全を祈願して、ここを出発したのは、午後2時45分でした。
 ここから、また国道27号線に戻って、天橋立を目指します。午後4時ごろ宮津市内に到着したので、先ず今夜の宿を旅館組合の案内所で紹介してもらい、それから第28番札所成相山成相寺に向かいました。ここは国道178号線の天橋立西岸の国分から左折して山道を約4Kmほど入ったところにあります。
 本尊は聖観音さまで、秘仏でご開扉もないようですが、高さ50cmほどで橋立観音とも言われているようです。本堂は入母屋造りで、内陣には左甚五郎作と伝えられる「真向の龍」の彫刻もあり、雪国とは思えない造りです。
 この本堂から、距離にして約1Km、車で5分ほどで弁天山展望台まで行けます。ここからは、天橋立はもちろん、雄大なパノラマ風景が一望できます。すでに今晩の宿は確保してあるので、この日本三景の一つ、天橋立をゆっくりと堪能しました。そして、今日までの西国三十三観音札所巡りを思い出し、ここがその最北端に位置することを改めて思い至りました。
 今日一日の走行距離は、280.2Kmでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.8

 4月15日(火曜日)、朝食を食べ、午前8時前に出発し、一路第33番札所谷汲山華厳寺を目指しました。8時40分に駐車場に到着し、仁王門をくぐり、境内地を進みました。今回は車で通り抜けましたが、この仁王門までの約800mほどの道の両側は、桜と楓の並木になっていて、お土産屋さんが並んでいます。まだ朝が早いせいか、店を開く準備をしていて、散った桜の花びらを掃いている方もいました。
 ここの本尊は、十一面観世音菩薩さんで、本堂までの石畳の参道にも「南無十一面観世音菩薩」と書かれた大きな奉納旗がいくつもありました。本堂は間口20mほどの立派なもので、その回廊を一巡すると本尊さまと結縁できるということでした。ここは、いつから始まったか分かりませんが、過去(笈摺堂)、現在(満願堂)、未来(本堂)にちなんだご詠歌が3首あり、納経も3印ありました。それぞれの場所でご朱印をいただけばいいのですが、同じところで同じ人が書いて朱印だけ違うというのは、ちょっと釈然としませんでした。本来は、ここが第33番札所でそれなりの感慨も生まれるかと思ったら、意外と淡々としたものでした。もちろん、順不同で道なりに巡拝しているからかもしれませんが、それなら33番目の寺院は、よほど考えて決めなければと思いました。
 ここを早々にお参りし、せっかく近くまで来たので横蔵寺に向かいました。その道の途中で、梅と桃と桜のそれぞれの花が満開に咲き乱れているところに出会いました。カメラマンらしき人が一人撮影に没頭していましたが、私もついつい何枚もシャッターを切りました。さらに巡礼の道連れのレンタカーといっしょに記念撮影もしました。後にも先にも、自分の姿を写したのはこの時の1枚だけです。
 さすが横蔵寺は名刹で、参道にかかる朱塗りの橋も情緒がありましたが、本堂も三重塔もりっぱでした。境内に植え込まれたモミジの新芽も柔らかく伸び出し、静かなひとときを満喫することができました。
 横蔵寺を出発したのは午前10時12分、ここから関ヶ原インター、そして敦賀インターまで高速道路を走り、国道27号線を舞鶴近くまで行き、第29番札所青葉山松尾寺まで車を走らせました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.7

 4月14日、昼食を車の中ですませ、なんとか長浜港午後1時15分発の竹生島観光船に乗り込みました。乗船料は往復で2,980円です。いっしょに同乗したのがアメリカンスクールの子供たちで、聞くところによると遠足だとか、船に乗ること35分、そして乗船場で待っていたのが白装束に輪袈裟の巡礼姿の人たち、乗船場はちょっと不思議な雰囲気でした。
 ここ、竹生島は周囲約2kmの花崗岩からできた島だそうだが、周囲は切り立った断崖で、ここの乗船場からしか入島できない。
 先ず、みんなと同じように、まっすぐ前にある石段をそのまま上って鳥居を2つくぐり、急な石段を上りきると日本三弁才天の一つに数えられている弁財天本堂に着きます。たしか、石段は165段あったように思います。この本堂は昭和17年に建てられたもので、なかには聖武天皇の命で行基が刻んだ高さ25センチほどの弁財天がまつられています。そこから平成12年5月に再建されたばかりの三重の塔を左に見て石段を下ると、そこに第30番札所巌金山宝厳寺の観音堂があります。それにくっつくように唐門があり、これが国宝になっているそうです。そこをくぐり観音堂でおまいりをしました。本尊は、千手千眼観世音菩薩さまで、弁財天と同じように61年目ごとのご開扉だそうです。前回は1977年だそうだから、次は・・・・。
 次に観音堂から、有名な船廊下を渡り、今度は都久夫須麻(つくぶすま)神社にお参りしました。このように無理矢理分けたのは、明治時代の神仏分離令以降のことで、全国各地でこのようなおかしなことが今でも行われています。私にとっては、神さまも仏さまも同じく信仰してますから、かたちはどうであれ、気持ち的には同じことです。なお、都久夫須麻神社本殿は、国宝に指定されています。
 ここでは、長浜港でお茶券を購入してあったので、本殿右脇の小道を通って常行殿に行き、お抹茶を頂きました。聞くと、ここには飲み水がないので、すべて島外から運んでくるということで、さらに有り難く頂戴しました。さらに、この島には僧や神官以外は住むことが許されていないので民家もないそうです。まあ、この日本にも、そのようなところが一つぐらいはあった方がよいと思います。
 ここ竹生島は、あとはどこにも行けません。この石段で結ばれたところを、何度も行ったり来たりして、竹生島発午後3時15分に乗船しました。長浜には46分に到着し、車の中で地図を確認しましたが、今日はこれ以上巡拝できそうもありません。そこで、第33番札所谷汲山華厳寺を目指し、行けるところまで行くことにしました。結局、その日は、岐阜県大垣市に泊まりました。今日一日の走行距離は、169.6Kmでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.6

  4月14日午前8時30分、レンタカーを借りる手続きをして、9時に出発。普段はナビなど使ったことはないが、まったく初めての道なので今回はナビ付きにした。
 先ず目指すは第31番札所の長命寺、山号は姨綺野山(いきやさん)といい、仮名をふらなければちょっと読めそうもない。ここは寺名の通り、長寿健康祈願に訪れる人が多いという。もともとはバス停のある一般道路から石段で上るそうだが、これがなんと808段もあるそうです。私は、寺の道を通って長命寺庫裏の真下の駐車場まで行きました。大型バスで来ていた団体さんは、タクシーに乗り替え、ピストン輸送をしていましたが、それでも最後の100段ほどは自力で上らなければなりません。
 その石段の途中から見上げると、石組みの上に舞台のように造られた本堂は見事なもので、さらに上ると右手に大日如来を安置した三重の塔が見えてきます。それを感じてもらうために最後の100段を残したのではないかと勘ぐるほどでした。本堂前の広場から見ると、それら諸堂の屋根はほとんどが檜皮葺で、琵琶湖から立ち上る霧で苔むしていました。本尊は千手十一面観音さまで、千手、十一面、聖の三尊が一体の仏として聖徳太子が刻んだといわれていますが、秘仏なのでそう信ずるしかありません。
 次に向かったのは第32番札所の繖山観音正寺、この山号も読みにくく、これで「きぬがさやま」といいます。この寺は標高432.9 mの繖山の中腹に建ち、以前は上醍醐寺と並んで最大の難所と言われていましたが、五個荘のほうから新しい道が切られ、通行料さえ払えばすぐ近くまで行けるようになりました。私がお参りしたとき、ちょうど安土町の方から古い石段を上ってきた方がおりましたので聞きますと、50分ほどかかったといいます。たしかに時間をかけてゆっくりとお参りしたいと思うが、先を急ぐ身であれば、少しでも効率よくお参りしたいと思うのも人情です。今日からレンタカーにしましたが、ここも長命寺もバスで来るとすれば1日1寺しか巡拝できません。まあ、それでもいいとは思いますが・・・・
 ここの本尊は千手千眼観音さまで33年ごとにご開扉されてきましたが、残念なことに平成5年の本堂焼失で本尊さまも失われてしまいました。新しい本尊は、インド白檀で造られ、現在再建されている本堂に安置されることになっています。そういえば、長命寺の開基も聖徳太子でしたが、ここ観音正寺の開基もそうです。聞けば、ここ琵琶湖周辺には聖徳太子の伝説が多く残っているそうで、ここでは「聖徳太子が人魚に呼び止められ、その成仏できないでいる姿を憐れみ、観音像を刻み堂を建てて成仏させた、それが観音正寺のはじまりです」としています。
 ご朱印もいただき、再建中の本堂が1日も早く完成することを願い下山しました。時計を見ると、午前11時50分、予定では岐阜の谷汲山華厳寺に行く予定でしたが、時間がありそうなので長浜から琵琶湖に浮かぶ竹生島に行くことにしました。昼食は車の中でパンを食べて終わりです。



☆西国三十三観音札所巡り Part.5

 4月13日、午前9時に日本ツツジ・シャクナゲ協会全国大会が閉会され、その後、1931年に国の天然記念物に指定された「鎌掛谷のホンシャクナゲ群落」を滋賀支部の方に案内されて見学しました。たった一輪咲いていましたが、例年4月20日すぎが見頃だそうです。
 そして、今晩宿泊する大津市内のホテルに入ったのが、午後3時。この時間だとまだ第11番札所の上醍醐寺に上れるかもしれないと思い、すぐ身支度を整え、醍醐に向かいました。この日は、ちょうど桜会の日で、夕方にもかかわらず混雑していました(左の写真が下醍醐)。せっかくだからと思い、桜に囲まれた金堂や五重塔、大講堂などを巡拝し、女人堂を通って、上醍醐寺への参道を進みました。ここは、西国三十三観音札所巡りのなかでも最大の難所と言われているところであり、ここで修行していたときでも、上醍醐寺までの往復はきつかったものです。小さな子供さん連れの方がこれから上る方に「どのくらいかかりますか?」と声をかけられていましたが、「片道1時間30分ほどかかったみたい」と話していました。
 私は30年ほど前、30分で上ったことなどを思い出しながら、ほとんど休まず一気に上りました。そして、醍醐水のところで時計を確認したら、40分でした。そしてご朱印をいただく時間を気にしながら、すぐに観音堂に直行しました。本尊さんは聖宝理源大師が自ら刻まれたという准胝観音さまで、しばらくぶりでゆっくりとお参りしました。この観音堂は火災のために昭和43年に再建されたもので、私がいたときにはまだ木の香りが残るような真新しさを感じましたが、少し風格がついてきたようでした。准胝観音さまの准胝とは、心の清浄をあらわすと聞きましたが、まさにここまで上ってきてお参りしただけで、心が洗われるようです。(右が准胝観音堂です)
 ご朱印もいただき、後は時間を気にすることがないので、ゆっくりと五大堂や如意輪堂、開山堂などを巡り、冬の寒いときの五大力尊仁王会の前行(2月15日〜21日)修行をしたことなどを思い出しながら巡拝しました。このように、札所巡りの楽しみはたくさんあります。昔の人たちも、往路と復路を変えてみたり、その寺の縁起や史跡、伝説などを尋ねたり、また境内の季節の花を楽しんだりとしたようです。更には、門前の茶屋でお茶を飲んだり精進料理を楽しんだりもしました。そして、近くの神社仏閣にも立ち寄ったりとゆったりとした時間をもってお参りしたようです。ところが、最近は、ただご朱印を集めるだけの人が多くなったようですが、この札所巡りは、忙しい日常世界から離れたゆったりした異次元に遊ぶことでもあります。たしかに「癒し」という部分もありますが、そのような時間を持つことの有り難さを感じることが大切です。有り難いと思って札所巡りをするから、そこに素晴らしいご利益が芽生えるのです。
 そんなことを考えながら、桜の散り始めた醍醐寺を後にしました。



☆『ミレー3大名画展-ヨーロッパ自然主義の画家たち』を見てきました!

 2003年6月27日、午後から荻巣樹徳の会「千樹会」に出席するため少し早く山形を出て、午前中にBunkamuraザ・ミュージアムで開催されている『ミレー3大名画展-ヨーロッパ自然主義の画家たち』を見ました。ミレーは、昨年山梨県立美術館でミレーの「落ち穂拾い、夏」を見ましたが、今回はオルセー美術館所蔵の作品です。
 そのミレー3大名画とは、「落穂拾い」「晩鐘」「羊飼いの少女」ですが、どれも貧しいながらもその日常のままに描き、とくに「晩鐘」の祈りは敬虔な信仰に基づく姿で、気高い存在を感じさせるものでした。とても感動しました。
   そして午後2時から、荻巣樹徳の会「千樹会」総会ならびに講演会に出席しました。荻巣樹徳さんは、とてもすごい植物学者で、世界でプラントハンターと呼べるのは日本人の荻巣樹徳さんとイギリスではロイ・ランカスターだけである、という研究者さえいるほどです。それを裏付けるように、ザ・タイムズの『ア・センチュリー・イン・フォトグラフ』には彼が再発見したクリスマス・ローズの野生種が紹介され、また1995年には植物学や園芸の発展に貢献された人に英国王立園芸協会から贈られるヴェイチー賞を最年少で受賞するなど、日本ではあまり知られていない数々の業績があります。現在、東方植物文化研究所を主宰され、消えかかっている日本の伝統園芸植物を収集保存しています。
   そのようないろいろの体験からにじみ出てくるようなお話しは、とても真を突くもので、教えられることがたくさんありました。機会があれば、もっともっとお話しを伺いたいと思います。
 その後、清澄庭園の中にある涼亭(右の写真)で、懇親会が開催されました。この清澄庭園は、かつて紀伊国屋文左衛門がここに住み、さらに岩崎弥太郎が造園を計画し弟の岩崎弥之助が完成させたものですが、関東大震災で多大の被害を受け、その後東京市に寄附されたものです。昭和54年、東京都名勝第1号に指定されましたが、中央に大きな池があり、それを回遊する「回遊式林泉庭園」になっています。
 そこで、時間を忘れるほど語り明かし、まさにその道の達人たちの話しに酔いしれました。



☆『前田常作展-マンダラへの道』を見てきました!

 2003年6月11日、新潟市美術館で6月10日から7月13日まで開催されている『前田常作展-マンダラへの道』を見てきました。
 だいぶ前のことになりますが、ある本で前田常作さんの紺地に描かれたマンダラを見て、すごく感動したことがあります。それは今までのマンダラとは違い、宇宙そのものを感じさせるもので、いわば現代のマンダラでした。今にして思えば、まだコンピューター・グラフィクスが一般的ではないときに、あのようなデザインがあるということはすごい根気とデザイン力がなければならないと思います。
 今では、この種のソフトを使えば、比較的似たようなマンダラを描くことはできると思いますが、その想像力は誰にでもマネのできることではありません。まさにマンダラの世界に遊ぶ心地がしました。
 今年、西国三十三観音札所巡り(まだ18か寺です)をしたきたので、特に「西国巡礼」は、思い出とも重なって印象深く感じました。ぜひ機会があれば、見てください。



☆『兄おとうと』を観ました!

 2003年6月4日、川西町の「フレンドリープラザ」でこまつ座第69回公演『兄おとうと』を観ました。
 これは、作者の井上ひとし氏が遅筆堂の名にふさわしく初日延期になった新作もので、2時間10分休みなしで楽しめました。題材は、実在の吉野作造(宮城県古川市出身、1878−1933)を中心にしたもので、兄弟といえども、ものの考え方の違いから人生も大きく違ってきたことを明快に浮き出させたように思います。吉野作造は、「政治は一般民衆の意向によって行われねばならぬ」と言ったそうですが、井上ひさしは、「三度のご飯をきちんと食べて、火の用心をして、元気で生きられること」と単純明快に切り取ったのはさすがです。そして、台詞の中でも「なぜ、なぜ、なぜ・・・」を連発するくだりがありますが、私たちもつねにこのなぜを忘れてはならないと思いました。作者本人は、「重いようでいて軽く、まじめなようでいてバカバカしく」描いたということでした。
 でも、今回の作品は4月末の脱稿予定が5月5日まで遅れ、それから役者さんたちがけいこをして公演したことになります。確かに、作者が納得いくまで原稿を書くという姿勢もたいしたものですが、それから短時間でけいこの総仕上げをしてあれだけの演技をする役者さんたちもまたすごいと思いました。
 これで、こまつ座公演が延期されたのは9回目だそうです。



☆西国三十三観音札所巡り Part.4

 翌4月12日も小雨が降り、第11番札所の上醍醐寺登山をあきらめ、第10番札所明星山三室戸寺に行くことにしました。JR京都駅から乗りJR黄檗駅で下車、ここ黄檗は、3年ほど前、鉄眼さんの一切経の版木を見たくて、訪れたことがありますが、今回はまっすぐに三室戸寺に向かいました。
 高い垣根のある参道を進むと朱塗りの山門があり、「西国十番三室戸寺」と白文字で書かれていました。そこを入ると、右手はシャクナゲやツツジ、アジサイなどが植栽された大きな庭園があり、そのまま進むと階段手前に「ようおまいり」と剽軽な文字で書かれた石柱があり、そこを上ると重層入母屋造りの本堂がありました。ここの本尊さまは千手観音さまで、秘仏だとか。その本堂前には、多くの睡蓮鉢が並び、パンフレットによれば100種類ほどのハスが咲くそうです。
 その本堂わきの新しいような三重の塔をお参りすると、そのいわれに「三重の塔は江戸中期のものだが明治末に兵庫県三日月町の高蔵寺から移築されたもの」だと記されていました。しかも以前は参道左手の高台にあったものをここにさらに移築したとのことで、だから新しいように感じたのかもしれません。
 小雨の中をお参りし、タクシーも見つからないので、宇治方面に向かって歩き出しました。この平等院に続く道は、まさに『源氏物語』の宇治十帖の世界で、昨年久しぶりに再読したことなどを思い出しました。しばらく歩くとバス停があり、そこで待っていた方に伺ったら、すぐJR宇治駅経由のバスが来るとのことでした。そのバスに乗り込み、その方から60円のチケットをもらい、100円足して駅前で下りました。その優しい笑顔が雨空をすがすがしいものに変えてくれました。旅先で出会う優しさは、また格別なものです。その素敵な思いをいただいたまま、JR京都駅までもどり、昼までには日本ツツジ・シャクナゲ協会全国大会の会場に向かいました。それが、今回の旅の大きな目的でもあります。
 ここで、この西国三十三観音札所巡りも一時中断です。



☆西国三十三観音札所巡り Part.3

 次に向かったのは第13番札所石光山石山寺です。 すぐ近くを瀬田川が流れ、その岸に桜が植えられています。山門を入ると、桜とモミジの並木があり、さらに進むと拝観料を払い、天然記念物の硅灰石の岩塊がある場所に出ます。その左手蓮如堂わきの石段を上ると本堂があり、舞台造りになっていて、全体を撮影するのはちょっと難しそうです。石山寺と書かれた大きな提灯が目をひき、満開の桜も出迎えてくれました。ここは『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』などにも登場する寺で、本尊さまの如意輪観音は33年に一度のご開扉で、次は2024年だそうです。そもそも、三十三観音札所巡りの三十三というのは、法華経普門品(観音経)の中に観世音菩薩が三十三種類の姿に身を変えて救ってくださるという記述があるところからといわれていますが、そのためかどうかは分かりませんが、33年ごとのご開扉が何か寺かありました。
 次は、第14番札所の通称三井寺で、正式には長等山園城寺といい、天台寺門宗の総本山です。札所の観音堂は、南端の高台にあり、ここの展望台からは琵琶湖や大津市内だけでなく、満開の琵琶湖疎水の桜も見渡せました。ここの本尊さまも如意輪観音で、お参りさせてもらったときは午後4時50分で、なんとかご朱印をいただくことができました。(右の写真が三井寺)
 その帰り道、小雨のなかを琵琶湖疎水の桜並木のそばを通ったので、写真を撮りました(左の写真です)。ここは有名な桜の写真スポットで、何度も写真雑誌で見慣れた風景でしたが、実際に見るのは初めてです。しっとりと小雨に煙る桜もつややかなものでした。この晩は、JR大津駅から京都駅まで行き、京都市内で宿泊しました。



☆西国三十三観音札所巡り Part.2

  西国三十三観音札所巡りに出発したのは、平成15年4月11日です。朝米沢を発って、京都に着いたのは午後12時46分でした。ちょっと小雨でしたが、先ず最初に巡拝すべきは十一番札所の上醍醐寺です。というのは、ちょうど30年前、醍醐寺伝法学院で修行しましたが、もちろん上醍醐寺にも何度も上っています。その当時は、急ぐと30分程度で上れたのですが、さて今ならどのぐらいかかるのかと思いながら、JR京都駅から山科駅まで、そこで地下鉄に乗り換え醍醐駅まで行きました。
 でも、あいにくの雨で傘をさしながら醍醐寺まで歩きました。そこで、今日は上醍醐寺へ上ることをあきらめ、「醍醐寺霊宝館」を拝観しました。昨年、仙台市博物館で開催された「京都醍醐寺展」に出品されたのとほとんど同じだったのですが、鎌倉時代に制作された『十一面観音立像』は素晴らしい仏さまでした。何時間見つめていても、その穏やかな表情につい引き込まれてしまいました。今回は観音札所巡りということもあり、特に観音さまに惹かれるものがあったのではないかと思います。左上の写真は、醍醐寺霊宝館わきの満開の桜です。雨で、むしろしっとりとした趣がありました。
 次に向かったのは、第12番札所の岩間山正法寺、通称岩間寺です。ここは標高445mの岩間山中腹にあり、30年ほど前、上醍醐寺の開山堂から奥の院を経て、ここ岩間寺まで歩いたことがあります。
 本尊さまは、身丈15pほどの金銅造千手観音立像で、その観音堂わきには松尾芭蕉が「古池や蛙飛び込む水の音」と詠んだと伝えられる池がありました。本当に静かな山寺で、ここなら蛙が水に飛び込んでもその音が聞こえそうでした。



☆西国三十三観音札所巡り Part.1

 『大黒さまのホームページ』100回更新記念で、西国三十三観音札所巡りをしてきました。そして、その札所巡拝の様子などを、携帯電話とモバイルパソコンを使って、毎日『大黒さまのホームページ』に掲載しました。おそらくパソコンといっしょに更新しながら巡拝した方は少ないと思いますが、考えていた以上に多くの方々に見ていただいたようで感謝しております。
 やはり、旅は楽しいものです。『フォレスト・ガンプ 一期一会』という映画の中で、”人生はチョコレートの箱みたい、食べるまで中身は分からない・・・・”って言っていましたが、旅もしてみなければ分からないことだらけです。まったく初めての場所を、地図を頼りに進むことは新鮮な感覚ですし、そうしてやっとたどり着いた札所で味わう安らぎは、格別なものです。境内の一本の木も一草の花も、もちろん本尊さんとも初めての出会いです。
 山頭火の句に『心おちつけば水の音』というのがありますが、ゆったりと旅をしているとこの水の音が聞こえてきます。上醍醐寺に上る途中の女人堂後ろの渓流、琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺に渡る船の波切る音、石山寺わきの瀬田川の流れなど、本当に軽やかに聞こえてきました。今回の旅で西国三十三観音札所すべてをまわることはできませんでしたが、ゆっくりゆったりということを心がけて心静かにお参りしてきました。
 この旅と、この旅で感じたことを、何回かに分けてここに掲載する予定です。



☆インドで考えたこと Part.12

 ヴァーラナーシー(ベナレス)の空港は、約12Kmほど離れたババットプール(Babatpur Airport)です。そこから飛行機が飛び立ったとき、大きなうねりを見せるガンジス河が見えました。
 雨が降り、その雨が大地を潤し、それがガンジス河に流れ込み、遠い遠い海まで続いています。それが水蒸気となって空に上り、再び雨となって降り注ぎます。この自然の循環を肌で感じたインド人が、自分たちもそのようにめぐると感じたのが「輪廻転生」ではないのかとふと思いました。太陽も月も朝夕を繰り返し、時間も季節も巡って、生きとし生けるものだけが死んだっきりというのはむしろ不自然ではないか、いや、人間を含めた生きものだって生と死を繰り返すのではないのか、このガンジス河を空から見て、そのようにも考えられるような気がしました。
 空港まで送ってくれた運転手さんは、「死ぬということは、古い服を脱いで、新しい服を着るようなものだよ」と言っていたのが、強い印象として耳に残りました。

※今回の「インドで考えたこと」で、いちおう連載は終了いたします。ちょうど1年前の今日(2002.03.23)、ネパールのカトマンドゥのホテルで「インドで考えたこと Part.1」を書きはじめました。
 本当に短い文章ですが、考えてみれば、1年間も考え続けたことになります。また、このような機会に恵まれましたら、再度、書いてみたいと思います。



☆インドで考えたこと Part.11

 ヴァーラナーシー(ベナレス)でのことですが、朝早く起きてガンジス河の岸辺に行き、ボートに乗り、ガート(沐浴場)に近づきました。すると、小魚をナイロン袋に入れて売るらしいボートが近づいてきました。聞くと、それを買って、その小魚をガンジス河に逃がせば大きな功徳を積める、ということだそうです。でも、その逃がした小魚をまた捕まえて売るとすれば、それが何で功徳を積むことになるのかと、少しあきれてしまいました。
 まさにここは、沐浴をするだけでなく、火葬したのを流したり、洗濯をしたり、この水で食事をつくったりと、生活のすべてが注ぎ込んだような河です。ボートをこいでいる人から、「あなたも沐浴してみませんか?」と言われましたが、とてもそのような気にはなれませんでした。
 その時です。この目で見れば汚く、悪臭もひどいと思うが、ここで沐浴すれば身も心も浄められ、神仏と一体になれるとすれば、そんなことは何も気にならないのではないか、むしろ、だからこそ心の汚れをこの河の汚れといっしょに洗い流してくれるのではないかとさえ思いました。その汚さをどう感じるか、それがインドを好きになる人と嫌いになる人との境目のような気がしました。
 ここヴァーラナーシーは、ガンジス河が南から北へと流れているために、朝日を正面から拝みながら沐浴することができます。私も、ボートの上から、やっと顔を出した朝日を拝みましたが、ここでお釈迦さまも同じように朝日を拝んだのかと思うと、それだけでガンジス河の有り難さを味わうことができました。



☆「世界らん展日本大賞2003」に行って来ました!

 2003年2月25日、東京ドーム で開催されている「世界らん展日本大賞2003」に行って来ました。これは、2月22日〜3月2日まで開かれていますが、今年の展示テーマは『咲き誇る、エレガンスの競演』だそうです。確かに洋ランはあでやかで咲き誇るという感じですが、野生ランの自生地に行ったことがある私にすれば、自然本来の野生ランの美しさは天賦の美であり自然の造形の妙であるように思います。それをこんなにも人間が勝手に改良していいものだろうかと、ふと疑問が芽生えました。
 それでも、農業高校の生徒たちの展示を見たとき、こんなにきれいな花を育てていれば、その心もきっときれいなままだと思いました。花を育てる、花を愛でる、花を楽しむ、そのような生活が悪かろうはずはありません。そして、それを一生の仕事にできれば幸せというものです。
 その帰りの電車の中吊りポスターで見たのですが、「ありがとうと感謝をされる仕事がしたい」というのがありましたが、このようなきれいな花に出会うと、これを育てた苦労を思い、このような花を見せていただいた感謝の心でいっぱいになりました。



☆雪灯篭お茶会に行って来ました!

 2003年2月8日、米沢市座の文化伝承館で午後3時から開かれた雪灯篭お茶会に行って来ました。これは、2月8〜9日開催の「上杉雪灯篭まつり」の協賛の掛け釜です。
 今年は、例年になく上天気に恵まれ、足下も良く、充分に楽しむ事ができました。また、雪も充分に降ったので、雪灯篭を作るのにも、周りの雪を集めただけで間に合ったと聞きました。
 お席は3席あり、表千家、裏千家、玉川遠州流です。今回は、ゆっくりとすべてまわることができました。右の写真はその一つで、表千家の担当で清山庵席です。いかにも夕方からの席の風情があり、ここでお茶をいただいたあとに外に出たら、雪灯篭に灯がともっていました。そのオレンジ色の灯りがなんとも温かく感じられました。本当は、外で、しかも雪で作られた灯篭ですから冷たいはずなのに、温かく感じられるのです。
 最近のストーブは、なぜかこの炎の揺らめきが見えないのですが、この雪灯篭の灯りを見て、見えるということも大切なことだと思いました。『大黒さまの一言』に、ジッドの「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。」と書きましたが、本当に実感です。



☆インドで考えたこと Part.10

 お釈迦さまが初めて説法をされたところは、ヴァラナーシー(ベナレス)の近く、サールナート(鹿野園)というところです。ここは、現在、史跡公園になっていますが、そのシンボルはダメーク・ストゥーパです。その近くにサールナート考古博物館がありますが、ここに展示されていた転法輪印を結ぶブッダ像には、すごい感動をしました。
 まさにその穏やかな表情には、5人の比丘を前に説法する優しさと厳しさが同居しているのを感じました。ここではもちろん写真撮影はできませんが、何度もこの前に立ちつくして我を忘れて魅入ったので、今でも目を閉じるとその時の姿が瞼に浮かび上がります。
 そこで思ったのですが、有名な「四門出遊」の故事で、最後に北の門を出て見た出家修行者の姿もこのように端正で静寂な様子だったのではないか、それは、極端な苦行から得られるものではなく、あのぎらつくインドの太陽の光を遮ってくれる菩提樹の下こそ、やはりふさわしいのではないか、そして、あの喧噪としたヴァラナーシーではなく、鹿が傍らで遊んでいるようなここだからこそ、静かに説法ができたのではないか、そんな思いがぐるぐると頭の中を駆けめぐりました。そして、また、いつの間にか転法輪印を結ぶブッダ像の前にいました。
 やはり、あのお姿には、あこがれます。



☆東京ディズニー・シーで呉汝俊(ウー・ルーチン)さんと出会った!

 2002年12月27〜28日と東京ディズニー・シーに行って来ました。それは、ある会社の創業50周年記念感謝会に出席するためでしたが、ディズニーランドにも行ったことがないので、とても楽しみでした。泊まりはホテルミラコスタで、27日の午後からゆっくりとすごし、センター・オブ・ジ・アースのアトラクションもスリルがあって緊張もしました。
 一番うれしかったことは、もちろん、昭和49年から毎年当山にお参りを続け、順調に繁栄し、今年で創業50年を迎えられたこと、そのお祝いの席に出席できたことですが、次に、そこで呉汝俊(ウールーチン)さんとお食事をしながらお話ができたことも楽しい思い出です。彼の「京胡」の調べを聞くと、いつも雲南省の大草原を思い出します。そこは少数民族が独自の生活をしているところですが、高地にもかかわらず果てしなく広がった空間に、一面に背の低い植物が絨毯のように咲いています。
 ぜひ機会があれば、呉さんの音楽に接してみてください。彼の新しいアルバム「It's For You」が avex io より発売されています。必ずや、その甘く切ない旋律の虜になるはずです。



☆奈良裕之「民族楽器ミニライブ2002.12.15」を聴きました!

 2002年12月15日(日曜日)、米沢市内の「心氣光治療院」で奈良裕之(ならゆうじ)民族楽器ホームコンサートを再び聴くことができ、感動しました。
 今年は、何度か奈良さんのコンサートが当地で開催され、そのたびにご案内をいただいていたのですが、なかなか出席できず、今年最後のこの機会に、何とか参加できました。
 今回感じたのは、奈良さんの音楽がとてもいろいろに聞こえてくるということ、それは、奈良さんのコンディションや聞く私たちのコンディション、もちろん民族楽器そのもののコンディションもありますが、演奏する会場の構造や雰囲気なども大きく作用するのではないかと思いました。だから、何度聞いても新鮮だということにもなりますが、これはとても難しい問題でもあります。それが民族楽器という多彩な楽器をあやつる宿命なのかもしれません。
 また、演奏が終わってから、これも恒例になりつつある忘年会があり、みんなが持ち寄った種々なご馳走をいただきました。これも、奈良さんの民族楽器のように、一つ一つ思い思いの味を出していました。
 ぜひ、またこういう機会を持ちたい、と思いながら帰ってきました。



楽器が並んでいるところ

楽器を演奏する奈良さん

太鼓をうち鳴らす奈良さん


☆インドで考えたこと Part.9

 お釈迦さまが悟りを開かれたブッタガヤーでのことです。
 そのとき、その悟りを開かれた菩提樹の下の金剛宝座の前で祈っていました。すると、その菩提樹から3匹のリスが下りてきて、その金剛宝座に供えられている供物を食べ始めたのです。まさか、リスが自分の目の前で、夢中で食べ始めるとは思いませんでした。でも、ここのリスたちは、人間などに傷つけられたことがないので、まったく恐れないのだと分かりました。
 お釈迦さまは「不殺生戒」を説かれています。これは生きものを大切にしなさいということだと簡単に考えていたのですが、そうではなかったのです。「すべての生きものにとってそれぞれの自己がいとおしい。だから自分のために他人を害してはならない。」と教典にも書いてあります。この生きもののなかには、人間はもちろん、リスもライオンもカもハエもすべての生きとし生けるものが含まれています。まさに横並びに位置づけられているのです。何らの優劣もそこには存在しないのです。そこが大切なことだとこの時に考えました。  確かに、インドでは現在も「輪廻思想」によってすべての生きものが生まれ変わりを繰り返していると考えられています。それが、このような考え方のベースになっていると思いますが、それだけではなく、同じ生命をもつ生きものすべてに深い慈悲の念を通わす大きな優しさのようなものを感じます。
 私はこの大きなこころを、ぜひ見習いたいと思いました。

 追記 帰国してから菩提樹のことを調べましたら、お釈迦さまが悟りを開かれたことに由来する名前であることは知られていますが、もともとはアシュヴァッタ樹(サンスクリット語)、あるいはピッパラ樹というそうです。和名はインドボダイジュですが、クワ科イチジク属の高木で、寿命も非常に長い樹です。スリランカには、紀元前288年に植えられたという記録が残る樹もあります。ただ、亜熱帯の植物ですから、日本で栽培するのは難しいと思います。
 ついでですから、お釈迦さまと樹の話しをしますと、お釈迦さまがネパールのルンビニー(Lumbini)でお生まれになったとき、マーヤ夫人がしっかりと掴んでいた枝は、サラノキです。これはフタバガキ科の高木で、特にヒマラヤ山麓に多く自生しており、カトマンドゥにはこの樹だけで建築した寺院もあります。2〜3月頃、3cmほどのうす黄色の花を咲かせますが、この樹から礼拝用の線香も作られます。
 また、お釈迦さまがなくなられたのはインドのクシナガラというところですが、サラノキの2本の間に身を横たえ、そのまま入滅を迎えられたといいます。そのことから、この樹を沙羅双樹と言うようになったのだそうです。



☆インドで考えたこと Part.8

 お釈迦さまはブッタガヤーの菩提樹の下で悟られたのですが、私はその菩提樹の葉を何枚か拾ってきました。その葉を拾いながら、人生もこのようにヒラヒラと儚いものではないのかと思いました。だからこそ、今、この与えられた時間を精一杯楽しく生きなければならないのではないかと考えました。確かにインド人は、ゆったりとしてこせこせしていません。それは、この世だけが人生ではなく、永遠に続く一こまが今のこの世なのだという輪廻の思想がしっかりと息づいているからかもしれません。
 しかし日本人は、仏教の思想から、なぜかこの輪廻という考え方を捨て去りました。今の今、この世しかないという非常に現実的な考え方だけを残しました。それが良いのか悪いのかは分かりませんが、少なくとも私は、お釈迦さまの悟られたブッタガヤーの地に立って考えてみると、仏教の本流ではないような気がします。輪廻という考え方があるからこそ、人も時間もゆったりとした悠久のときを刻み、死ぬことの恐怖感も薄らぐのです。そしてなにより、信仰を持って生きたいという願いも生まれてくるのではないかと思います。そう考えなければ、あの仏教聖地で五体投地を繰り返す仏教徒の思いは、永久に分からないでしょう。
  


☆インドで考えたこと Part.7

 ブッタガヤーの菩提樹の下でお釈迦さまは悟られたのですが、その菩提樹の葉は、自然に落ちたのを拾うことはいいのですが、無理矢理落とすことは禁止されています。それは、菩提樹を大切に守っていきたいということもあるでしょうが、仏教の教えらしく、生きている葉を傷つけないという不殺生の教えを実践する願いもあるのではないかと思いました。
 そして、そのヒラヒラと舞い落ちる菩提樹の葉を拾いながら思ったのですが、心を落ち着けていると不思議にその菩提樹の葉が落ちたのが分かるのです。誰かと話していたり、よけいなことを考えていたりすると、その落ちたのが分からないのです。そこで、思い出したのが、

 「あききぬとめにはさやかに見えねども 風のをとにぞおどろかれぬる」 (藤原敏行)

 の歌です。まさに驚くようにして分かるのです。いや、「落ちているよ」と教えてもらうような感じです。帰国してから辞書を引いて調べてみたら、「流風(りゅうふう)」という風の名前があり、それはそよそよと伝わってくる微風だそうです。しかも、花の香りや音やひびきをかすかに乗せてくるといいますから、まさにその感じです。
 日本には、素晴らしく綺麗な言葉があるものだと深く感心しました。
  


☆『月見の茶会』に行って来ました!

 2002年10月20日、上杉記念館で開かれた「月見の茶会」に行って来ました。この茶会に行っていつも思うのですが、お月さまに対する日本人の想いってスゴイなあと思います。
 聞くところによると、西洋人はこのお月さまの模様を人の顔に見えるらしいのですが、東洋人にはウサギが餅をついている姿に見えます。一方は不吉な予感に感じるそうですが、他方はメルヘンチックなおとぎ話の世界を想像します。そして、そのお月さまにススキを活け団子を供え、雲間に浮かぶお月さまに思いをはせます。
 だから、十六夜の月、立ち待ち月、居待ち月、寝待ち月などという優雅な呼び名が生まれたのではないでしょうか。
 同じお月さまを見ても、民族によって、住む世界の違いによってこんなにも違うのですから、やはり争いごとが起きるのも当然ではないかと思います。でも、だからこそ、その違いを理解し合うことが大切なのです。違って当たり前の世界なのですから、その違いを乗り越えた共通理解が必要なのではないか思います。
 このお月さまは、どこから見ても、同じお月さまです。一服のお茶をいただきながら、そんなことを考えました。



☆インドで考えたこと Part.6

  私は、「人は楽しむためにこの世に生まれてきた」と、よく人に話しますが、仏教では「この世は苦の世界である」というのが共通認識のように思います。それでも私は、「楽しむ」ということに力点を置いて考えてきました。
 ところが、ブッタガヤーであるお坊さんと話していると、その「この世は苦の世界である」という認識にずれがあるように感じました。確かに、生まれてくることも老いることも病気になることも死ぬことも、苦しいことには違いない。でも、人は、生まれてくるときも死ぬときもたった一度のことだし、病気だっていつも病気なわけではないし、若いときから老いを考えてばかりはいないはずです。ということは、その何でもないときも苦の世界なのかと聞かれれば、いや、そうばかりではないように思えるのです。
 そこで、その大問題を、そのお坊さんに直接ぶつけてみたら、パーリ語で「ドゥッカ」ということではないかといいました。では、その「ドゥッカ」という意味を聞いたら、「自分の思うとおりにならないこと」だそうです。
 それを聞いて、納得しました。
 思うとおりにならないことを、思うとおりにしたいと思うから、苦しむのです。この世は、楽しめばいいのです。病気になったら仕方がないとあきらめて治すしかない、年をとったらみんなが老いるんだからと思えばいいのです。死ぬときは、あっさりとこの世にさようならと言えばいいのです。
 このように菩提樹の樹を見ながら考えていたら、ふと、あの新潟の良寛さんの辞世の句を思い出しました。
 「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」
 まさに、自然の風にまかせて生きてきた良寛さんらしい句です。やはり、思い通りにならないことを苦にしながら生きるより、今できることを楽しんで生きた方がよい、と私は確信しました。

 (注 帰国してから調べてみたら、良寛さんの辞世の句と言われているものは外にもあって、「散る桜 残る桜も 散る桜」、「形見とて 何か残さむ 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉」などです。
 ついでだから書き添えますと、パーリ語というのは、お釈迦さまが2,500年前に実際に話されていた言葉です。また、ドゥッカという言葉には、「空しい、不満、不安定、苦しい」というような意味もあるそうです。)



☆『子供騙し』を観ました!

 2002年9月29日、「伝国の杜」置賜文化ホール開館1周年の記念公演『子供騙し』緒形拳、篠井英介、冨樫真出演を観てきました。演出は、水谷龍二で、落語で有名な「芝浜」からヒントを得て作ったといわれています。この「芝浜」は、客席からもらった3つの題を織り込んで即興につくる三題噺の一つですが、この演劇では三陸・理髪店・失踪がキーワードになっていました。
 でも、観ているうちに、子供騙しのようなことでも、それにすがりながらも生きている人間の寂しさやむなしさが感じられ、笑いの中にも一抹の哀れを感じてしまいました。最後の場面で、ひっそりと待つ緒形拳の丸まった背中に、そのちょっとした物音にも敏感に反応する姿に、人は何かに支えられなければ生きていけないというような、そんな思いを強く感じました。それが、たとえ子供騙しのような嘘であったとしても・・・・・



☆『シルクロード 絹と黄金の道』を見てきました!

 2002年9月25日、前日に東京で仕事があり、そのついでに国立博物館で開催されている『シルクロード 絹と黄金の道』を見てきました。これは日中国交正常化30周年記念の特別展ということでした。でも、私は砂漠の中だからこそ残ったんだろうなという感慨だけで、そんなに興味を引くものではありませんでした。
 むしろ、その同じ会場で開催されていた『江戸蒔絵 ー光悦・光琳・羊遊斎ー』や『江戸と桃山の陶磁』のほうを楽しくみることが出来ました。やはり日本の文化・芸術はすごい、と思いました。その根気とひたむきさ、そしてそれを支えるひらめきなど、どれをとっても一言では言い表せない奥深さがありました。中でも一番気に入ったのは、一入作の黒楽茶碗で銘を「かのこ斑」といい、その不思議な色合いに魅入ってしまいました。黒楽といわれればそのようだし、赤楽といってもおかしくはないし、とても複雑な色模様を醸し出していました。
 3時間も見続けたので、のどもからからで表に出てきたら、テント張りの中で鶴屋吉信がお抹茶とお菓子の店を開いていました。さっそくそれをいただき、帰りに「光悦満雲寿」をお土産に買い求めました。
 その薯蕷まんじゅうを帰宅してから食べたら、何年か前、京都鷹峯の光悦寺で開かれた「光悦会」のお茶会に行ったことなどが思い出されました。



☆『源氏物語』をちょこっと再読しました!

 米沢市立図書館主催の『源氏物語の世界』の講座を受講しました。2002年9月6日、13日、20日の3回シリーズでしたが、本当に久しぶりで、『源氏物語』に触れることができました。前に読んだときには、心のひだを読み出すところまではいかなかったのですが、今回は光源氏が40歳を越えてからの話が中心なので、生老病死などの四苦八苦や自分の思い通りにならない不条理など、世の常のありようがとくに感じられました。いかに光源氏とはいえ、年とともにこの身の哀れさが漂います。
 そう思ってみるからかも知れませんが、仏教の世界を強く意識した物語なのではないかと強く感じました。しかも、以前読んだときにはそんなに感じられなかったのですが、華やかな世界を描きつつも暗い厭世観が底に渦巻いているように思いました。こう感じるのも、やはり年のせいなのか、と自分で一人考え込んでしまいました。
 みなさまも、この秋の夜長、ゆっくりと読書に耽ってみてはいかがでしょうか。かの哲学者ベーコンは、「燃やすに一番いいのは老木、飲むには古酒、信頼するには古友、読むには古い著者」だと申しております。



☆インドで考えたこと Part.5

 お釈迦さまの最初の弟子になったのが、以前からの修行仲間でもあった5人でした。彼らは、修行法の違いなどもあり離れていましたが、サールナートでお釈迦さまの説法をうけ、すぐさま弟子になったのです。現在のサールナートには、この様子を再現した像があります(仏像というには、日本人には原色すぎて違和感を感じます)。
 ここサールナートの中心は、もちろん円筒形の巨大なダメーク・ストゥーパ(Dhamekh Stupa)です。ここの基部は石材ですが、上部はレンガ積みで、直径28m、高さ34mもあります。ここには、昔、鹿がたくさんいたことから鹿野苑と呼ばれていましたが、日本人にはこの名前の方がしっくりきます。
 ところで、ここで考えたこととは、シュラマナという言葉でした。これは中国で「沙門」と翻訳されましたが、真理を求めて努力する人という意味です。何事にも最終的な目標みたいなものがありますが、むしろ大事なことは「し続けること」です。真理を求めて努力し続けることです。もちろん、しっかりとした目標がなければ進めませんが、少しずつでも進んでいるというその歩みが大切だと思います。それがシュラマナから連想したことです。



☆こまつ座「雨」を観てきました!

 2002年8月18日、こまつ座第67回公演の「雨」を観てきました。今回は、全国公演の初日ということで、ピーンと張りつめた緊張感を感じました。
 この公演は、1996年以来の再演だそうで、今までのこまつ座では考えられないような21人ものキャストでした。主演は、こまつ座でおなじみの辻萬長さんと三田和代さんで、そのほかのキャストも何度か見ている人たちが多く、その役柄にはまりこんでいるのが感じられました。
 しかも、演劇の中では「平畠藩」となっていますが、近くの高畠のイメージがありますし、見知った地名なども多く、とても親しみを覚えました。方言も、井上ひさしさんらしく、とてもこだわったようで、早口だと私たちにも分からないところがありました。そして、やっぱり、最後はどんでん返し・・・・・。人はとても他人になりすますことはできないようです。
 ストーリーは、これから全国で100ステージを越えるそうですから、秘密にしておきます。機会があれば、ぜひ、ご覧ください。



☆インドで考えたこと Part.4

 ブッタガヤーの菩提樹の下に座って、仏教の原点とは何だろうかと考えていたら、ふと法句経の『七仏通戒偈』を思い出しました。これはお釈迦さまがさとりを開かれる前にすでにブッダとなっていた6人に、お釈迦さまを加えて7人のブッダが同じように戒めとしてきたものです。それは、
 「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
 というもので、簡単にいってしまえば、悪いことをしないで、つねに自分の心を浄らかに保つこと、それが7人のブッダの教えだということです。さとりを開かれた7人のブッダみんなが戒めとしてきたということは、それなりのインパクトがあります。
 しかし、このようなことは誰でも知ってはいますが、いざ実践となりますとこれがなかなか難しいことです。なかには善い悪いの判断ができずにしてしまったり、悪いことと知りながらやってしまったり、時には善いことだと自分に言い聞かせるようにしてやってしまったりと、人それぞれです。考えてみれば、この「善い悪い」の判断が一番難しいのではないかと思います。
 でも、私は、やっぱりここに仏教の原点があるように思います。この「善い悪い」の判断ができるように、日々の修行もあるのではないでしょうか。



☆山形美術館で「北京故宮博物院展」を見てきました!

 2002年7月23日(火曜日)、山形市の山形美術館で、「北京故宮博物院展」を見てきました。
 北京の紫禁城には何度か行きましたが、なかなかその収蔵品を見る機会がなく、今回は山形でゆっくりと見ることができました。これは、日中国交正常化30周年記念の一環として開催されたもので、7月19日から8月18日まで開かれています。
 特に印象に残ったものは、「白大理石彫 思惟菩薩像」のお姿です。何度もその前に立ち戻り、帰りにもう一度戻りかえって見入ってしまいました。それは、とても一言では言い表せないほどの気高さでした。
 もし、機会があれば、あの紫禁城のなかで、もう一度出会いたいと思います。




☆東北大学植物園を見てきました!

 2002年7月8日(月曜日)、岩手の八幡平で偶然に出会った友人といっしょに、仙台の青葉山にある「東北大学 大学院理学部研究科附属 植物園」を見てきました。この植物園は、昭和33年に設立されたそうですが、展示ホールには植物園立体模型や植物と昆虫の関わりなどが視覚的に分かるように展示されていました。とくに関心したのは、カタクリの展示で、普通は地上部しか分からないのですが、地下部も分かるように地下の部分をガラス面にしてありました。樹木の羽田や内部構造などの展示もおもしろいものでした。
 外はあいにくの小雨でしたが、タマアジサイやギボウシなどが咲いていて、ゆっくりと散策できました。自然林には大木のモミの木があり、昭和47年には国の天然記念物に指定されたそうです。
 また、植物園わきの津田記念館は、故津田弘氏により東北大学に寄贈されたもので、1987年(昭和62年)4月24日、津田氏が生涯深く尊敬しておられた牧野富太郎博士の誕生日に開館されたそうです。これは日本有数の植物標本館であり、植物好きの方はぜひ訪ねていただきたいと思います。
 私も、機会があればまた訪ねてみたいところでもあります。




☆早朝の清々しい茶事を楽しみました!

 2002年6月29日(土曜日)午前6時30分から、某所で朝茶事を楽しみました。この季節にしてはカラリと晴れ、清々しいなかで静かなひとときを過ごしました。
 炭手前のころに、茶室の窓から朝日が差し込み、そこで戴く懐石の味わいをいっそう引き立ててくれます。ゆっくりと懐石をいただき、主菓子をいただき、中立のころには、もうすっかりと朝露が消えていました。
 また席入りし、濃茶、続いて薄茶と順序に従い粛々と進んでいきました。そして、寄りつきに戻った頃には、10時をほんの少し過ぎていました。
 やっぱり朝茶事は、今頃のお茶事だと思います。



茶室と露地風景、ここから先は別世界です

掛け物を見る

鉈篭に夏椿と京鹿子が・・・・・

濃茶の道具組み

薄茶のお点前

正客と連客の主菓子、銘「紅花」




☆インドで考えたこと Part.3

 お釈迦様は欲を否定したかといいますと、否定も肯定もしなかったと私は思います。もし欲を否定し、それを極端に押し進めれば、私たちの日常生活は成り立たなくなります。しかも、考えてみれば、さとりたいと思う気持ちにしても一面では欲と考えられなくはないわけです。また他面から見れば、欲を否定するということはお釈迦様が六年間苦行したことと同じことであり、それでは結果的にさとりは開けなかったのです。
 では欲を肯定するのかといいますと、人間の欲は限りのないものになってしまい、結果的には身を滅ぼすことになります。この欲という字を手のひらに書いてみると分かりますが、谷の右側に欠けると書きます。谷がないということは、上りっぱなしということであり、これが欲という字なのです。
 ということは、人の欲というものは、善い欲とか悪い欲とかという区別があるのではなく、その欲がちゃんとバランスがとれているかどうかということが大切なのです。そのバランスがくずれて、極端に走ったときに悪い欲になるとお釈迦様は考えられたのです。そして、その欲にこだわるから苦しみを味わうことになるのだから、こだわりの心、とらわれの心をなくすようにと教えられたのです。欲をなくすのではなく、苦行と快楽の両極端を離れて中道を歩むことをさとられたのです。



☆Kemさんの「聖地のうたコンサート」を聴きました!

 2002年6月9日(日曜日)午後6時から当山の本殿内でKemさんの「聖地のうたコンサート」が開かれ、タンプーラとうた、そしてインドハープやバンスリーの音色を楽しみました。
 Kemさんは、20年以上もインドのベナレスに住んでいるそうで、彼が奏でる調べは、ガンジス河の岸辺にうち寄せる波にも似て、その繰り返しのなかでだんだんと引き込まれていく底の深さを感じました。
 聞くところによると、インドに昔から伝わる曲をラーガというそうですが、その意味は「心の色彩」だといいます。それはマントラ(呪文)を唱える音階などから生まれたもので、まさに宗教的儀式のようなものです。そして、インドではそもそもが即興演奏が多いそうなので、ずいぶんと演奏するところの雰囲気によっても変わってくるような気がします。
 だからKemさんは、初めてここに来て、ここの場所の雰囲気が好きになり、ここの本殿でコンサートを開きたいと思ったのでしょう。大黒さまの前に正座したKemさんは、インドの楽器を手にしたとたん、そのまま彼の世界に入り込み、この本殿とインドのベナレス、そしてガンジス河が精神的につながり、あっちに行ったりこっちに来たり、今年の3月にベナレスを訪ねたときの空気感まで伝わってきました。
 もし、またこのような機会がありましたら、ぜひ聴いてみたいと思います。



コンサートを支えるスタッフの方々

主催者側挨拶の後藤さん

コンサートが始まる・・・・・

インドハープを奏でる

3人の合奏

終わってホッとするKemさん




☆インドで考えたこと Part.2

 お釈迦様が最初に弟子たちに示したのは五戒です。これは基本的には出家者も在家者も区別はなく、仏教者として必ず守るべきもの、それが五戒です。五戒とは、生き物を殺さない(不殺生)、盗みをしない(不偸盗)、邪な性行為をしない(不邪淫)、嘘をつかない(不妄語)、酒を飲まない(不飲酒)の五つです。この戒という言葉は、原語で「シーラ」といいまして、その意味は習慣ということです。すなわち戒を守るということは、日常生活の中で、この五戒が習慣となり、無意識の中で行われなければならないということです。
 私のネパールの友人でアンバブさんというのがいますが、彼はシェルパ族で、仏教徒です。彼の居間の中央にはすばらしい仏壇があり、彼の自慢でもあります。彼と山を歩いていたとき、川の辺りで魚を採っている人がいました。その魚の採り方がおもしろく、大きなハンマーで石を強くたたき、魚を気絶させ、浮かび上がったところを捕まえるというやり方でした。彼はそれを見つけ、そこに行き、何やら話しをしました。話しがまとまったらしく、その魚の入った魚籠を取りあげ、中からまだ生きている魚を掴み、川に逃がしてやりました。元気に泳ぐその魚を見て、アンバブさんはとてもうれしそうでした。これが不殺生戒なのです。生き物を殺さないというだけでなく、ともに生きることを喜べるその心が大切なのです。そうはいっても、既に死んでしまった魚は、その晩の食卓にのぼり、彼も私も美味しくいただきました。
 この様子を見ていて、戒というといかにも厳しく守らなければならないように感じますが、むしろ習慣として、自然に出来ることが大切だと思いました。いわば、無意識で箸を上手につかっているように、戒も意識せずに守られていることが肝心なのです。
 そういえば、アンバブさんも何のてらいもなく、まったく自然に魚を川に放されました。



☆インドで考えたこと Part.1

 お釈迦さまが、ガヤー(お釈迦さまがさとりを開かれた後はブッタガヤーと呼ばれています)の菩提樹の下でさとりを開かれたのは、出家して6年目の12月8日の早朝でした。
 そのブッタガヤーからバラナーシー(日本では一般的にベナレスといいます)までは、約240キロメートルほどあります。その途中で、その当時有名な修行者とも会ったそうですが、苦行をやめたという批判や、伝導布教のやり方が未熟だったこともあり、誰も弟子になろうとはしなかったといいます。いくらさとりを開かれたとしても、最初からうまくはいかなかったわけです。
 私は、むしろこの点で、人間としてのお釈迦さまに深い親しみを感じます。さとりを得たからすべてがうまくいく、というのではなく、少しずつ何かを学び取りながら成長していく、その姿勢が大事なのではないか、昨日がダメでも、今日が良ければヨイ、その積み重ねがまた楽しいのではないか、と思いました。



☆こまつ座『國語元年』を観劇!

 2002年3月30日、米沢市内の伝国の杜置賜文化ホールで、こまつ座第65回公演『國語元年』を観ました。
 これは明治7年、文部省のお役人、南郷清之輔に「全国の話し言葉を制定せよ」という命令が下ったことから話しが始まります。しかも、この南郷家の人々や出入りする人々もお国訛りがはげしく、それも見所の一つだが、大騒ぎになってしまったのです。
 でも、考えてみれば、今まで藩という閉鎖的な空間で生活していた人々が一気に日本という枠組みの中で生活をするようになったのですから、混乱が生まれるのは当然といえば当然の成り行きだったと思います。それにしても、言葉というイキモノをたった一人の人間が制定できるものではなく、そこに悲喜劇が生まれる素地が見え隠れします。
 この話し言葉のようないわば文化というものは、一握りの人がつくるのではなく、多くの人々が関わり合って、知らず知らずのうちにつくられるように思います。最近、特に引き合いに出される世論ということも、情報操作によってつくられるのではなく、一人一人の人たちが関わり合ってできるのが本当の世論というものです。
 この「全国の話し言葉を制定する」なんてばかげたことは、結局はできなかったわけですが、もし強権発動でできたと考えたときに、むしろ怖いものがあると感じました。



☆『世界の原種/シャクナゲ・ツツジ・ヴィレヤ辞典』出版記念祝賀会に参加!

 私のシャクナゲ仲間である内藤芳徳さんが、『世界の原種/シャクナゲ・ツツジ・ヴィレヤ辞典』を出版され、しかも私もたくさんのシャクナゲの写真を提供したこともあり、その出版記念祝賀会に出席してきました。
 2002年2月16日、山梨県甲府市で開催されましたが、甲府に行くのは初めて。そこで、山梨支部の方にお願いして、出版記念祝賀会の翌日に甲府市内を案内していただきました。考えてみれば、わが米沢市はもともと上杉城下町、甲府市は武田城下町。ともに昔は戦ったと歴史には書かれていますが、それはそれ、塩を送ったという逸話もあることですから、友だちがいてもいいわけです。
 そこで感じたことは、武田神社はもともと武田信玄の館跡とのこと。やっぱりお城は造らず、人を育てることを第一に考えたことが伺えます。それと、山梨県立美術館でミレーの「種をまく人」などの一連の秀作を見てきました。地方の美術館でこれほどの絵画を収蔵していることにびっくりすると同時に、それを上手に役立てていることに関心しました。観光バスでも立ち寄る美術館は、おそらくここぐらいではないかと思います。
 それと、山形はまだ雪の中というのに、山梨はもう梅が咲いているところもあり、一足早い梅の芳しい香りをかいできました。やっぱり、春が来て花が咲くというのは心がウキウキするものだ、ということを実感してきました。
 山形にも早く春がくることを首を長くして待っています。



☆『羽田健太郎PIANOコンサート』を聴きました!

 2002年2月11日、米沢市内の伝国の杜置賜文化ホールで、『羽田健太郎PIANOコンサート』を聴きました。たった一台のピアノからたたきだされた音が、あんなにも豊かな階調を持つとは知りませんでした。目を閉じると、そこには吸い込まれるような不思議な空間が存在しました。
 名刺代わりと本人もおっしゃる「渡る世間は鬼ばかり」で始まった演奏は、前半はクラシック曲が続き、特にサティの「ジュ・トゥ・ヴ」の流れるような曲に感動。そして、この「ジュ・トゥ・ヴ」というのは、フランス語で「アイ・ラブ・ユー」より強い思いがある、などと軽快なお話しが曲と曲の合間を潤します。親父ギャグが多いな、って思いましたら、なんと同い年、こちらも気を付けなければ・・・・・。
 後半は、お得意の「日本の四季」メドレーから「スクリーンミュージック」メドレーまで、なんと観客から3曲のリクエストまでもらっての演奏、堪能しました。そのリクエストは、「禁じられた遊び」、「慕情」、「星に願いを」の3曲で、いかにもという曲ばかりでした。でも、それを織り込んだメドレーは、最初から準備をしてきたように鍵盤のうえを指が流れ、軽やかな音色となってきこえてきました。
 そうそう、後半の半ばで弾かれた羽健オリジナルの「ワルツ・イン・ソリチュード」も良かったですよ。
 建国記念の日、すばらしいピアノコンサートを聴くことができ、いい思い出になりそうです。



☆こまつ座『連鎖街のひとびと』を観劇!

 2002年1月6日、川西町のフレンドリープラザで井上ひさし作、鵜山仁演出『連鎖街のひとびと』を観ることができました。
 舞台は中国大連の連鎖街、そこにある「今西ホテル」の地下室ですが、井上ひさしのペンネーム、遅筆堂らしくなかなか脚本を書けない劇作家2人を中心として進行します。そこで繰り広げられるストーリーは、これから観る人のためにお話しませんが、印象に残ったのは「嘘を隠すための大嘘・・・・・」という言葉でした。隠すという行為が、さらにそれを隠すための行為をしなければならず、さらにさらにその行為の上塗りを重ねていく、それがコメディタッチでとてもおもしろく進んでいきます。でも、考えてみると、しょせん嘘は嘘、本当ではないのです。
 しかし、その嘘がばれたとき、だまされた人は怒りませんでした。なぜなら、その嘘は周りの暖かい思いやりから生まれたものであり、自分に対する友情のあかしでもあったからです。
 だから、喜びみも悲しみも、そして人生のすべてが多くの人たちとつながっている、いわば連鎖していく、そして芝居もその流れの中で進んでいく、連鎖街という大連市のメインストリートにあった実名の街名ながらそんな印象を受けました。
 でも、考えてみればこの世のなかには、なんとこの手の話しの多いことか。それを外側から見ると、悲劇であってもそれが喜劇的に見えるのかもしれない、そのような思いにしてしまう芝居でもありました。



☆奈良裕之「民族楽器ミニライブ」を再聴!

 2001年12月22日(土曜日)、今度は米沢市内の「心氣光治療院」で奈良裕之(ならゆうじ)民族楽器ホームコンサートを再び聴くことができました。
 私が到着したときには、まだ奈良さんは楽器の調整をしておりましたので、お話を伺いながら、「この楽器はどんな音をだすのだろうか、この楽器はどうして使うのだろうか」などと考えました。当山で聴いたときには、最後列でしかも周りに注意しながらでしたので、音色は届いていたのですが演奏している姿はおぼろげだったのです。
 今回は最前列で、まさに食い入るように聴き入り、見ることができました。一つ一つの民族楽器から発せられた音と音が絡み合い、リズムを刻みながら、それが不思議なメロディになっていく、そのプロセスの妙に魅せられていきました。そして、奈良さんと楽器とが一体となり、この楽器は今はこの音しかでないというように思えてきました。
 特に印象深かったのは、水の音が音楽になる、それを改めて感じさせられたことです。琵琶を持つお弁天さまは、もともとインドのサラスバティという河の流れの化身です。いわばその河の流れのサラサラという音色から生まれた仏さまです。だからお弁天さまは、ほとんどが池や川などの水の周りにお祀りされているのです。その水を手にすくって、その手からこぼれ落ちる水音が、源流の音さながらの心地よい音色を奏でたのです。考えれば当たり前の音が、当たり前のように耳に聞こえてくる、その不思議さに感動しました。
 また、風を切るような音を出す楽器では、目を閉じるとヒマラヤの峠を越える風の音を感じました。ある方が話しておられましたが、この演奏は、奈良さんが作り出すものであると同時に聴く人の心の状態によっても作り出されるように思います。いや、その両方の呼応が作り出すものなのかもしれません。
 また、演奏が終わってから、奈良さん特製のカレーが振る舞われました。野菜だけのシンプルなカレーですが、その味は民族楽器の多様さにも負けない深みとこくがありました。おそらく仲間内が準備したと思われる種々なご馳走も、淑さん特製のヨーグルトケーキも、ほんとうに美味しくいただきました。すがすがしい音楽を聴き、美味しいものをいただく、まさに至福の時を過ごした、そんな感じのホームコンサートでした。
 今回は、まったく思いがけずに生まれた企画だそうですが、思いがけないからこそ喜びも思いがけないような大きさでした。また、このような機会がありましたら、また聴いてみたいと思いました。



楽器を調整する奈良さん

楽器を演奏する奈良さん

奈良さんの不思議な光景

笛を吹く奈良さん

水を奏でる器たち

奈良さんとお手製カレーを食べる



 ◎奈良裕之「民族楽器コンサート」を聴いて
 2001年10月7日(日曜日)に、奈良裕之(ならゆうじ)民族楽器コンサートが当山で開催されました。
 その大地の鼓動にも似た音色は、既成の音楽を越えた音楽、自然の音韻としか形容できないような音楽でした。それを聞きながら、自然そのものが音楽なのかもしれないと思いました。特に私的には、ホムスというロシアの口琴が奏でる旋律がステキでした。しかも、初めて聴く楽器も多く、コンサートの最後にそれらを自由にならさせていただき、改めてその音色の素晴らしさに感激しました。
 今回は、大人も子供も楽しめる音楽を、ということで企画されたようですが、いつかは、大人だけでじっくりと聴いてみたいような気がします。
 また。このような機会がありましたら、多くの方々に聴いていただきたいと思います。



 ◎「伝国の杜」置賜文化ホールでのこけら落とし公演
 2001年9月29日、「伝国の杜」置賜文化ホールが新設になり、そのこけら落としで金剛流の能『翁』が金剛永謹氏によって上演されました。この『翁』は、今回のようなこけら落としや新年のあらたまった催しなどに演じられるもので、なかなか目にする機会もありません。先ず、これを観たいというのが本音でした。そのために、このチケットを取るために、電話をかけ続けました。
 『翁』は、「能にして能にあらず」といわれているそうですが、まさに厳かな雰囲気を漂わせ、一般に上演されている能とは一線を画す内容でした。しかも、この上演者は、「別火といって数日前から精進潔斎をし、幕内の鏡ノ間には祭壇を飾り、出演者一同で盃事を行い、切火を切るしきたりも『翁』に限ってのこと」だと書かれたリーフを読み、改めて感動しました。
 この後、狂言の『末廣がり』と能の『羽衣』が上演され、古典的演劇の世界にひたってきました。しかも、演者は当代一流の方々ばかりで、それを米沢にいながら堪能できるというのは、すごい贅沢だと感じました。常に一流のものに触れる、それを信条にはしていますが、なかなか難しいのが現実です。これからも、このような機会を逃すことなく、楽しみたいと思います。
 (※右の写真が「伝国の杜」置賜文化ホールで、左の写真が中にある能楽堂です。両方とも9月29日の公演日に撮りました。)
 


   ◎「神社は、花だ!」
 2001年8月30日、川西町フレンドリープラザで井上ひさし作の『闇に咲く花』という演劇を見てきました。
 これは、井上さんの昭和庶民伝三部作の一つで、解説では戦争と国家神道の関係を問いかける演劇ということでした。それはそれとして、神主さんの一人息子の健太郎さんが、「神社は、ひっそりと野に咲く花だ。」と言った言葉が印象的でした。だから、「時代にあわせてクルクルと色を変えてはいけない。」とも言いました。
 その花は、その神社に集う人たちのやさしさ(ここでは戦争で未亡人になった5人ですが)にも支えられ、そして和んだり、心の垢を落としたりとさせてくれるのです。その中心に、清く明るく生きる神主さんがいて欲しいというのです。
 私は、これら三部作すべて見ましたが、その中に流れるものは重いテーマをユーモアを交えながら描き出す井上ひさしの世界です。もし機会がありましたら、ぜひ、ご覧ください。



   ◎楽しむ気持ちが必要
 2001年8月26日、あるテレビを見ていたら、関根勤さんが「付き合ってた娘と別れた一言」という話しをしていました。
 それは、デートをしていたときのことだそうですが、その娘さんが天気予報で雨だというので傘を持ってきました。しかし幸いなことに、帰るときまで雨が降らなかったそうです。しかしその娘は、雨も降らないのに一日中傘を持って歩いて頭にきたと言ったそうです。その一言で、別れてしまったということでした。
 この話を聞いて、いろいろと考えさせられました。
 普通ですと、雨の予報なのに晴れれば喜びます。それなのに、傘を持ってきたというそのことばかりにこだわっていては、楽しいデートも楽しくなくなってしまいます。どこに視点を置くかで、その人の人生が変わります。その一言で、彼女の性格が分かってしまったのではないかと思います。
 晴れれば、それを楽しみ、雨降れば、その風情を楽しむ、曇り日もそれなりに良いと感ずる、それぐらいの余裕が人生には必要です。



 ◎ネパールで感じたことパート2
 ネパールといいますと、世界最高峰のエベレスト(ネパールでは「サガルマータ」といい、“宇宙の頭”という意味だそうですが)などのヒマラヤ山脈を連想し、写真などを見ても必ず背景には雪や氷の真っ白な山々が並んでいます。ですから、ネパールというと寒いとか雪が多いとか勝手に思い込んでいる人が多いのではないかと思います。ところが地図を見ても分かるように、日本でいえば奄美大島とほぼ同じ緯度ですから、いくら首都のカトマンドゥが標高1,400mの高さに位置していましても、冬でも暖かいのです。
 しかもカトマンドゥ市内の人たちは、遠くの山々の白い雪を見ているだけで、その雪に触れたことがないといいます。もし、何10年か振りで近くの山に雪が降ったりすると、大勢の人がその雪を見に出かけていくそうです。現に私のところに3月に訪ねてきたネパール人は、その雪に大喜びをし、早速家族にメールを出しましたら、すぐ家族から「お父さんばかり、たくさんの雪が見れてイイですね」というメールが返ってきました。
 そういう意味では、ネパールという国は、テレビなどでは伝わってこない部分が多いような気がします。



 ◎ネパールで感じたことパート1
 今年の4月中旬にネパールを旅してきました。そこで感じたことは「iモード版」でも書いていますが、今回はネパールの暦について考えてみます。
 ネパールの暦は、私たちが使っているグレゴリオ暦ではなく、ネパール独特の暦で、今年の元旦は4月14日でした。ちなみに、昨年は4月13日でした。ところが、これだけでも十分に不思議なのに、ネパールには暦が一つではないのです。チベット系の人々はチベット暦を使っているし、ネワール族ではまた別の暦を使っています。
 ということは、当然元旦も違ってくるし、その土地で暮らす人々の生活のリズムも違ってきます。それでも、ネパールの人々は、仲良く暮らしているのです。
 暦という大きな生活の基準が違っていても、自分たち民族の誇りを守る。そして、他の民族の誇りも傷つけない。その姿勢を、私たちは学ぶ必要があると感じました。



 ◎笑顔でくらす
 先日「伊藤家の食卓」というテレビを見ていたら、カメラを向けて微笑まない子どもを微笑ませて写真を撮るにはどうしたらよいのか?ということを話していました。
 それは、意外と簡単な方法ですが、ただ写真を撮る方が微笑めば子どもも微笑むということでした。それを説明するために、心理学者は「感情の同調」という用語を引き合いにだしていました。これは、つい、他人の感情につられてしまうことらしいのですが、実験では微笑みかけながらカメラを向けると、相手の子どももつられて笑顔になってしまうのです。しかも、その結果は、7割強の確率でした。
 ということは、自分が笑顔でいたければ、まず周りの人たちを笑顔に誘えばよいということではないのかと、妙に納得してしまいました。



 ◎現実的に生きる
 人を笑顔にするには、先ず自分が笑顔でなければなりません。
 また、人を生かすと思えば、先ず自分も生かさなければなりません。
 と考えていたら、ある本に「飛行機が緊急着陸をすることになり、酸素マスクが下りてきたら、幼い子供を連れている人はまず自分が酸素マスクをしてから、子供にマスクをつけさせることが指示されている。それはまず自分の意識が保たれなければ、幼児を脱出させる人がいない、という現実的な問題からものごとを見ているからである。」と書いてありました。
 やはり、それが現実的だと思います。確かに、人のために生きるといえば格好がよいし、そういう意識を持たないとますますそのような姿勢から遠ざかるような気はします。おそらく、「人のために生きる」ような人が少ないので、それを理想化して、美化したのかもしれませんが、この現実をしっかりと生きるためには、自分が先ず笑顔になり、その笑顔を多くの人たちに向ければ良いのではないかと単純に思います。そして、自分のことと同様に他の人のことも考えられれば、更に素晴らしいのではないかと考えました。
 しかし、今日(2001.01.25)、「ダンサー イン ザ ダーク」という映画を見てきたのですが、母というのは、我が子のためには更に現実的に生きるということを知りました。



 ◎ルンビニーで想ったこと (やっと新世紀に間に合わせて書きました。)
 お釈迦さまの仏跡はほとんどがインド国内にありますが、唯一ネパール国内にあるのがお釈迦さまがお生まれになった場所、生誕地です。
 2000年4月8日、まさに灌仏会のその日に、私はそこに行きました。そこはルンビニーというところで、インド国境とは目と鼻の先にあります。気候はインドそのもので、鼻を刺すような乾季の風が舞っていました。気温は30℃を越え、ヒマラヤの奥地でシャクナゲ調査をしてきた身にはとても汗ばむ陽気でした。
 でも、少しずつルンビニーに近ずくにつれて、不思議と心が浄化されていくように感じられ、自然に口数も少なくなりました。この辺りをお釈迦さまが歩かれ、道で出会った人たちと何気なく話しておられる姿を想像したりしながら、ルンビニーに到着したのです。
 ちょっとひと休みをして、ルンビニー周辺の開発基金にほんの少し寄付して、それから園内に入りました。そして写真を撮り始めたら、管理員のような人がきて、写真1枚に付き1ドルだといいます。でも詳しく聞いたら、カメラ1台で1ドルらしいことが分かりました。私は結局2ドルを払いましたが、これもここを保存するための資金として使われるのだそうです。
 大きな長方形のような池があり、しかもそのすぐ脇に大きな菩提樹があったので、てっきりここがお釈迦さまがお生まれになったところだと思ったのですが、本当は工事現場のような覆いのしてあるところが生まれた場所で、現在は遺跡の発掘調査が行われており、すべて完了した暁には、ここに新しいマーヤ聖堂を建立するになっているということでした。そしてそのすぐ後ろに、あの有名なアショカ王が建立した「大石柱」がありました。これはお釈迦さま生誕210年後の紀元前249年にここに巡礼したことをあらわすもので、地中に埋もれていたものを1896年、ドイツの考古学者ヒューラーによって発見されたものです。私が思っていたよりも大分小さい感じで、このすぐ脇にマーヤ夫人が手をかけたといわれているアショーカ樹があったということでした。
 しばらく辺りを歩き回った後で、仮に建てられているマーヤ聖堂に入り、50ルピーの大きなロウソクをいただき、献燈をして、祈りました。ここだけが、しっかりとお祈りできる雰囲気があり、友人のアンバブも仏教徒なので熱心に祈っていました。ここの中も、ゆったりとした悠久の時が流れているように思いました。ここの場所でお釈迦さまがお生まれになった、私はその同じ場所に今たたずんでいる、そう考えただけで、私の心がかすかに震えたようです。そう、今、同じ場所にいる、まさに感動的な一瞬でした。
 堂内には、中央に6世紀ごろに作られたアショーカ樹の枝に手をかけたマーヤ夫人とお釈迦さまの生誕の姿が石に彫られ安置されていました。ところが、顔の部分がいつの時代にかイスラム教徒によって削り取られてしまったので、その復元された石像(大理石製)が左側にありました。そして右側には、あの有名な「天上天下 唯我独尊」と最初の言葉を発したと言われているその姿がありました。この言葉は、普通には「我は世界の第一人者なり」と解釈されていますが、ここに立って想うと、違うように感じられました。
 私には、人はそれぞれみんな違う存在なのだから、一人一人が尊されるべきであり、自分という一番理解しにくい存在を確認するような旅、それがこの人生なのではないかと想われました。そうでなければ、一人一人を非常に大事にされたお釈迦様の優しさも伝わらないし、なにより八万四千の法門が説かれた理由も考えられません。今流に解釈すれば、一人一人が違う個性を持ち、持って生まれた資質も育った環境も違うけれども、みんな同じ尊敬されるべき人間なのだ、という価値観こそお釈迦さまの底辺に流れる思いではなかったのではないでしょうか。だからこそ、お釈迦さまは、差別ということを非常に嫌ったのです。
 私たちは、見える世界に住んでいますので、どうしてもついつい人と比べてしまいます。この比べることから、差別は始まります。でも、本来は、一人として同じ人間はいないのだから、その違う同士がお互いに生かし合い、そして助け合いするのが差別のない世界です。そのことを口を酸っぱくして説かれたのがお釈迦さまなのではないかと思います。
 私はここを立ち去るとき、もう一度、だいぶ傾きかけた夕陽に浮かぶルンビニーの姿をしっかりと目のなかに刻み込みました。考えてみれば、この夕焼け空だって、あの灰色の雲の向こうに光り輝く太陽があるからこそ、美しい微妙な色合いがうまれるのです。私はルンビニーで、目の前にある現象的なものより、本来的なものを見ることの大切さを学んだような気がします。これからは、美しい夕焼け空の雲の向こうの太陽の輝きに、もっと目を向けなければならないと想いました。



◎女性の守護力
 先日、ネパールの友人からメールをいただきました。その中で、ティハールという、日本でいえば収穫祭のようなお祭りのことが書いてありました。
 それは、女神ラクシュミーを家に招き入れ、繁栄と財運を祈るのだそうです。そして、女性が本来持っている素晴らしい守護力を、男性に与えることにより家の繁栄を祈るというわけです。具体的には、女性が男性にティカという額に赤い色を塗る作法があり、それをバイ・ティカといい、とても神聖なことなのです。
 日本では、男女平等ということで、すべてを同じようにすべきだと考えますが、本来、女性と男性では違うところが多々あります。それをネパールでは、「女性の守護力」として男性に与えることによって家庭を守ろうとする、それも大いなる智恵の一つではないかと思えました。
 その由来を尋ねましたら、ある古い物語の中で、姉が弟を死の王様ヤマ(日本では閻魔大王)の手から救い出したことから生まれたということを話してくれました。なんだかんだと言いましても、女性と男性が、その足りないところを補い合いながら、その力を合わせることこそが大切なことです。
 今回は、至極当たり前の話ですが、この当たり前のことが当たり前でなくなるところからいろいろな間違いが起こるような気がします。



◎楽しむために生きている
 私は、人間というものは、いつもニコニコしていて、楽しくて面白くてしょうがないという人生を送るために生まれてきたのではないかと考えています。そんな話をあるところでしましたら、「人生にはもっと大切で高邁な目的があるのではないのか?」という顔をする方が多いのに気付きました。
 そこで考えたのですが、たとえば子どもの時には何も世の中のことを知らないから、純粋に何でも楽しめたのです。遊び疲れて、家に帰ればご飯が美味しい、ただお腹が空いたそれだけを考えるのでご飯が美味しいのです。そのご飯やおかずを買うためにどのような苦労があったかなどと考えることがないから、ただただ美味しさを味わえば良かったのです。ところが大人になると、お金を稼ぐ苦労や世間的な悩みなどがそこに付加されるので、純粋に楽しむということができなくなってしまいます。
 ですから、美味しいものを食べたり、素敵な音楽を聴いたりするときには、私は全身で楽しめばよいと思います。子どもの時のように、その他のことを考えずにそれだけを楽しめば、心底から楽しめます。
 たとえば、学校の勉強一つをとって考えてみても、数学の問題を解くのにゲーム的な感覚で解き明かしていけば、おもしろさや楽しさなどが先行して、いつの間にか難しい問題ほど興味を持つようになります。読書などもそうで、一冊を読むことによって関心が膨らみ、さらにもう一冊ということになるのです。ですから、興味や関心などというものは、する楽しみを味わえば、自ずと出てくるのではないかと思います。
 「そこに山があるから登る」のではなく、登ることが楽しいから登るのです。重い荷物を持ち、汗を流し、足を引き吊りながらも登るのは、登ることによって「やったぞー」という達成感や快感があるからです。少しも面白くないことを、何度も繰り返せるような忍耐力を持った人間は少ないと思います。錯覚でも、間違いであっても、面白いと心が解釈すれば、それだけで何度も繰り返せるようになる、それが普通の人間です。
 だから私は、素直に人生を楽しむ心が必要だと思います。それが、もし辛いとか空しいとか面白くないとかを感じるとすれば、それは「あなたの見方、考え方をちょっと変えてみませんか」というメッセージなのではないかと最近は考えるようになってきました。



 ◎仏壇の意味
 秋の彼岸の時に、仏壇の前で焼香をしたとき、仏壇はほとんどが木で作られているのに、なぜ木偏の仏檀ではなく、土編の仏壇なのかと考えてしまいました。そこですぐ調べてみたら、昔のインドや中国では仏像を土製や石製の壇に安置していたからだ、と書いてありました。
 それにやがて屋根がかけられ、人々の仏道修行の場となり、そして寺院ができたのだそうです。ということは、仏壇は簡素化された寺院と考えることができます。そういえば、各家庭でまつっている仏壇を見たアメリカ人は、日本人は信仰心があまりないと聞いていたのだがその認識は間違いであった、という逸話を読んだことがあります。
 そう考えれば、仏壇は信仰心を養う場ではないかと思います。そして一家として連綿と続いてきた生命のよりどころであり、自分の存在を確認する場でもあります。そういう意味では、家の中心的存在であり、バラバラな家族をまとめ上げる大黒柱そのものなのです。
 ですから、仏壇をちゃんと安置し、毎日お参りしている家庭は、家庭円満です。子どもさんも素直に育ちます。たった一本の線香でも、心を込めて供えれば、そこに心の落ち着きや豊かさが溢れてきます。そして、その余裕の中で、自分や家族、その周りの人々のことなどを考えてみましょう。きっと優しい気持ちが生まれてくるはずです。
 私は、そのような姿を見ながら育つ子どもは、とても幸せだと思います。
 仏壇の字の意味から、ついついいろんなことを考えてしまったお彼岸でした。



 ◎お盆に思う
 お盆(この場合は旧盆)は、一年で一番暑いときが終わるころにやって来ます。そして自分の存在を、血というつながりの中で考えさせられるときでもあります。
 お盆そのものの説明は、『Q&A』に書いています。しかしその眼目は、この世の果てしのない欲望の世界をちゃんとコントロールしなさい、ということです。いつまでも満足することを知らない、他に施すことも知らない、そんな身勝手な欲望のままに生きると餓鬼道におちいりますよ、ということです。餓鬼道とは、欲しい欲しいと欲しても食べる(食欲を満たす)ことすらもできない世界です。でも考えようによっては、この世がまさに餓鬼道の世界でもあります。
 だからこそ、一年に一回、お盆という期間を設定して、それなりのお金をかけて、「私はただ自分の欲望のままに生きているのではありませんよ。私が今あるお陰(これが血というつながりの中の自分の存在)を、ちゃんと考えていますよ。」と親類縁者揃って確かめ合うことではないかと、勝手に想像しています。
 しかし、かたちとしては、精霊棚に真菰の盆ござを敷き、花を飾り、なすで作った牛やキュウリで作った馬(これは訪れてくるご先祖さまの乗り物です)、そして季節の野菜や果物などを供えるのです。それは、自分につながる故人に対する感謝の心、優しさの表れでもあります。
 でも、私は、お盆という行事を、たんなるご先祖の供養期間とだけしか考えて欲しくないように思います。



 ◎室生寺五重塔再建に思う
 昨夜(7月29日)、NHKスペシャル「室生寺五重塔はこうしてよみがえった」という番組を見ました。これは1998年の秋の台風で壊滅的な被害を受けた国宝「室生寺五重塔」の再建を描いたドキュメンタリーでしたが、この五重塔に寄せる室生の里の人々の姿にとても感動をしました。
 それと同時に、伝統というものに対しても考えさせられました。というのは、あの昔からそのままの姿で建っていたと思われた五重塔が、「女人高野」と言われるようになってから、徳川期と明治期に二度ほどそれらしいたたずまいに修正されていたのです。
 私も1990年4月にお参りに行きましたが、いかにも「女人高野」といわれるにふさわしく、こぢんまりとした優美な曲線の姿に何枚もシャッターを切りました。その時には、伝統の重みと周りの自然の荘厳さしか感じなかったのですが、この番組を見て、伝統というものも時代の要請に応えて初めて生き続けることができるのだと知りました。
 いくら伝統といっても、ただ闇雲に古いものに固執するのではなく、今、何が必要なのかという時代の期待にも応える積極的な姿勢が必要だと思います。だからこそ、今日まで生き続けて来られたのではないでしょうか。
 また、生き続ける必要があるからこそ、再建もできたのではないかと思います。特に宗教というものは、生きている人を対象にしていますから、まず生き生きとしていなければなりません。そういう意味で、この五重塔に今も寄せる室生の里人の深い信仰の姿に感動したのです。

 ※右上の写真は、1990年4月24日に私が撮影したものです。



 ◎ルンビニーへ行く!
 (この内容は、その当日にワープロで打った原稿通りです。)
 2000年4月8日、ちょうど灌仏会の日、私はカトマンズからルンビニーへと向かった。
 運転手は軽く引き受けてくれたが、私にも地図だけではどのぐらい時間がかかるか分からない。
 ルンビニーに近づくにつれて、野焼きの影響もあり、遠くが霞んで見えないようになってきた。でもこのはっきりとしない風景が、むしろ2500年前のお釈迦さまが説法して歩いていたと同じような風景に見えてくるから不思議なものだ。このぼんやりとした風景の中で、ここの人々は、ほとんど昔と変わらない生活をしているように思える。道路の脇の木立の中には、蟻塚も見える。サリー姿や、裸足で歩く人もいる。柴を集めている人もいる。
 今ちょうど12時を過ぎたところだ。田圃では、田植えが始まっている。温度は確実に30°は越えているようだ。暑い。
 野焼きをやっている場所に出会った。大木はそのままだが、下草だけが燃えている。これは一種の害虫防除ではないかと思う。その大木は、そのままで青い新芽が芽吹いている。おそらくお釈迦さまも、この同じ風景を見たに違いない、私はそう思った。そして、この煙るような風景の向こうから、糞掃衣一つを身につけたお釈迦さまがひょっと現れれて来るような気がした。昨年の枯れ葉も燃えている。こうして新しい世代の肥やしになっていくと考えると、これも大切なことだと思えてくる。
 少しずつルンビニーに近づくにつれて、心が浄化されていくように思う。自然に口数も少なくなる。じっと外の風景を見続ける。遠くに藁葺き屋根の家が見える。おそらく、そんな家から、お釈迦さまが通ると、人々が駆け寄ってきたのではないかと思う。今は車で走っているが、ここをゆっくりと法を説きながら歩いていたのだ。
 ここはネパールといっても、インド平原の端っこだ。見渡す限りの大平原だ。車も少ない。ルンビニーには、ほとんどの巡礼者がインド側から入るらしいが、こちらのネパール側からは少ないようだ。
 突然、車が軋んで大きな音を出して止まった。運転手があわてて外に飛び出した。タイヤが大きく裂けて動けない。これで、よく事故にならなかったものだ。車のホイールが遠くに飛んでいた。私はその間を利用して、近くの風景を撮った。20分程度でまた出発。しかし、今度はエンジンの調子が悪いという。私はまたその間に、近くの民家に飛び込んで、裏庭まで入り込み撮影した。これは30分ほどかかった。
 午後3時10分、バイロワを通過。まだ22qもあるという。外はすごい熱風が吹き、落ち葉が飛び散り、眼に埃が飛び込んでくる。しばらく眼をつぶっていたが、なんだか眼が乾いてぴりぴりする。しかもだんだんと道が細くなってくる。運転手も道を聞きはじめた。こんな風の吹き初める季節には、誰も行かないのかも知れない。道を舗装している。ということは、今まで未舗装だったことになる。
 午後3時40分、ルンビニーに到着。ちょっとひと休みをして、開発基金に少し寄付して、それから園内に入った。やはり、ここでお釈迦様がお生まれになったと思うと、ちょっと感傷的な気持ちになってしまった。それでも写真を撮り始めたら、一枚に付き1ドルだという。ちょっと話をしていたら、カメラ一台で1ドルらしい。私は結局2ドルを払った。本当に生まれたところは、現在新しいマーヤー聖堂を建立するための基礎工事をしているらしく、覆いがしてあった。その後ろにあの有名なアショカ王が建立した「大石柱」があった。思っていたより小さい感じがした。その後、仮のマーヤー聖堂で、50ルピーの大きな器に入ったロウソクをいただき、献燈をし、お祈りをした。そこではゆっくりとゆっくりと時間を過ごした。
 ここの場所でお釈迦様がお生まれになった、私はその同じ場所に今たたずんでいる、そう考えただけで、私の心がかすかに震えた。そう、今、同じ場所にいる、まさに感動的な一瞬であった。
 私の今の原点がここにある。2500年の時空を越えて、ここでつながっている。この空気を、この土を、この大空をともに共有している幻想に酔った。この一瞬を味わうために、あの砂塵が舞う苦闘の9時間があったのだ。そして、もう言葉が出てこない・・・・・。

 しばらくして、いかにもそれらしい場所があったので、そこで写真を撮ってもらった。そこを後にして、ネパールの仏教寺院に入ったら、大きなお釈迦様がいて、そこでもお参りをした。出ていこうとしたら、そこのお坊さんに声をかけられ、いっしょに写真を撮ることになった。そういえば、中国のラマ寺院でも、品格のあるお坊さんといっしょに写真を撮らせてもらったことを思い出した。私はどこに行っても、いろんな出会いを経験するが、はたしてそういう方々との出会いの意味は何なのか、ふと考え込んでしまった。
 そういえば、そのあと、各国の仏教寺院を巡ったが、その途中で野生のオオカミを見つけた。もう日本では絶滅してしまったオオカミがここではまだ生きている。
 やはりここは、2500年前お釈迦さまがお生まれになった時のそのままかもしれない。
 そして、お土産の数珠を買ったら、もう午後6時。そろそろ帰らなければならない。最後にルンビニーの園に落ちる真っ赤な夕陽を見ながら、帰路に着いた。

※上の写真は、ルンビニーの遺跡。下の写真は仮のマーヤ聖堂です。また近いうちに、もう一度心の整理をして、この時の心象体験を文字にしてみたいと考えています。



 ◎ルンビニーとは!
 今年は何年ですか、と聞きますと平成12年だと答える人も多いのですが、皇紀2660年と答える人は少ないと思います。でも西暦でいいますと、ちょうど2000年という区切りのいいこともあって、そう答える人は多いのではないかと思います。西暦というのは、キリストが誕生した年から数えるそうですが、本当はキリストは、紀元前4年頃、ガリラヤで生まれたんだそうです。
 では、仏教を開かれたお釈迦さまは、いつお生まれになったのでしょうか。
 実は私も正確には知らなかったのです。お釈迦さまのことを書いた書物はたくさんありますが、あまりにも伝説に彩られ、その生涯を極端に誇張して書いてあったりして、なかなか本当のお釈迦さまの人柄や生活などをしることは出来ません。そこで、今回は、なるべく史実に沿った形で、お釈迦さまの生まれたルンビニーについてお話ししたいと思います。
 姓はゴータマ、出家前の名前はシッダルタといいました。生存年代については異説も多いのですが、仏典研究の第一人者であります中村元博士は、紀元前463年から383年としています。なんでそういうことになるかといいますと、インドを初めて統一したアショーカ王は仏教を非常に信仰したわけですが、そのころになると少しは書いたものが残っているんです。さらにアショーカ王は、ギリシャ人の5人の王様に使節を送って、仏教の教えを伝えたといいます。もともと西欧やお隣の中国なんかもそうですが、年代云々には非常にこだわりますが、インド人は悠久をめざす民族です。だからこの世の100年や200年なんていうのは、問題にもならないわけです。でもギリシャの五人の王様は年代もはっきりしていますし、アショーカ王はお釈迦様が亡くなってから128年たって出たという記述がありますから、それらを考え合わせると紀元前463年ではないかと中村博士は考えたのです。
 お父さんはスッドーダナ(浄飯王)、お母さんはマーヤー(摩耶)夫人で、釈迦族の王子として生まれました。生まれたところは、ネパール領のルンビニーというところです。これははっきりと分かっています。というのは、アショーカ王の建てた「ここはお釈迦様の誕生の地である」と刻んだ大石柱が、1896年にドイツの考古学者フューラーによって発見され、そのルンビニーという村の税金を全収穫量の8分の1に減免するといった具体的な内容まで書かれていたのです。そういえば、玄奘三蔵は、西暦636年にこのルンビニーを訪ねています。そして、ここに数多くの仏塔や僧院があり、日夜修行に明け暮れていた修行僧の姿を生き生きと書き記していますが、もうその時には、すでにその大石柱が落雷によって半分に折れ、横たわっていたと『大唐西域記』に書かれています。
 このフューラーの発見は、仏教にとっては、とても大事なことでした。というのは、それまでルンビニーでお釈迦様はお生まれになったということは数々の文献からもはっきりしていたのですが、そのルンビニーという場所がどこにあるのか分からなかったのです。さらにお釈迦様に関することのほとんどが、学問的裏付けがとれなかったので、それまではお釈迦様は架空の人物ではないかと考えられていたのです。ところが、このルンビニーが発見されたことにより、その後お釈迦様の遺跡と伝えられてきたところが次々と発掘され、文献に書かれていたことが裏付けられ、歴史上の人物であったことがはっきりと分かってきたのですす。現在、このルンビニーは、アショカ王の石柱やマーヤー聖堂などがあるだけで、いたって静かなところだといいます。そして、1997年12月6日に、ユネスコの世界文化遺産に登録されたことは記憶に新しいことです。
 しかし、今度は、では釈迦族というのはどこに住んでいたのかという疑問が残ります。現在2つの説があり、一つは従来からのものでネパール領のティラウラコートだとするもの、もう一つは、1973年にインド政府が発表したものでインド領内のピプラーワーというところだというものです。
 しかし、現在の段階では、どちらとも言えないのですが、マーヤー夫人は太子を生んで、7日目で死んでしまいます。それは事実のようです。



 ◎「一歩さがって二歩進む」ことは当たり前です!
 こんなフレーズは歌にもありましたが、考えてみればしごく当たり前のことだと思います。たとえば、歩くという動作を綿密に検証してみると、右足が前に出ると、左足は自動的に後ろにさがります。この動作を連続的に行うのが歩くという行為で、前に進むためには必ず後退も必要です。
 たとえば、私たちを構成している細胞を考えてみても、新しい細胞が生まれ、その一方では古い細胞が死んでいく、その繰り返しの中で、私たちは生きています。いや、生かされているわけです。いわば生きながら死んでいるようなもので、全体として死ぬ方向に向かっていることだけは間違いありません。それが人生です。
 また社会全体を見回してみてもこのような例は多く、いくら時代が変わったとしても、まだまだ社会のあちこちには古き良き時代の風俗習慣が生きていることが多いものです。確かに全体としては新しい時代に進んでいるとしても、古いものを否定し、否定しきれないものを含み続けるのが普通です。言いかえれば、古いものを包み込み、しかも否定しながら、全体として新しいものに変わっていく、それもまた当たり前といえば当たり前のことです。
 私がインドを旅していたとき、ある仏教者に大黒天のことを伺いましたら、それは破壊の神様だというのです。私は、「日本の大黒さまは、どちらかといえば、いろいろなものを生み出す神様です」といいました。すると彼は、では同じことではないかというのです。
 このとき、私は、なるほどと思ったのです。モノでも考え方でも、古いものを破壊しなければ、新しいものは生まれてきません。たとえば、新しい家を建設しようとすれば、古い家を壊さなければ建てられません。あるいは、更地であったとしても、その地目を変えて家が建てられるのです。また新しい家の新しい設計は、今までの古い設計を捨て去らなければ、やはり新しい設計はできません。ということは、破壊と創造は究極のところでは表裏一体だと思えるのです。
 その時お参りした大黒天のお姿は、「My Collection Part 2」の15番に掲載しているのとほとんど変わりありませんでしたが、まさに破壊と創造とを併せ持った感じがしました。
 そんなことを考えながら、「一歩さがって二歩進む」ことは当たり前と思うと、気分もすごく楽になります。




 ◎「雑草は踏まれて強くなる」ことの意味を考えてみよう!
 雑草は踏みつけられても本当に強いのかと考えていましたら、前川文夫著『植物入門』におもしろい記述を見つけました。
 それを要約しますと、「オオバコは人に踏まれても踏まれても元気良く繁茂しているように見えます。しかし、人に踏まれたくてそんな場所を選んで生えているわけではありません。そういう場所だからこそ、普通の植物は人に踏まれて茎は折れ、葉がちぎれてしまい、成長できませんが、オオバコは葉のすじが丈夫でちぎれることもないので、なんとか成長できるのです。
 では、人の踏まないような良い条件のところではどうかといいますと、こういうところではオオバコも大きく育ちます。ところが、他の草たちはそれ以上に大きくなり、結果的にはオオバコは競争に負けて、1本もなくなってしまいます。」
 ということは、オオバコは自分の生きられる世界をちゃんと見つけていて、その特性を遺憾なく発揮しているということです。「雑草は踏まれて強くなる」のではなく、雑草はその場所にもっとも適した種類の雑草しか生えてこないからたくましく育つのです。
 人はそれぞれ持って生まれた個性や学習して身につけた特技などを持っているはずです。なにも人と同じことをしなければならないということもないでしょう。いや、むしろ、今は均質化の時代だからこそ、人と違うことをやってみる価値があるのではないでしょうか。そして、自分の生きられる道を見つけて、そこに全力投球をすれば、必ず雑草のように強く見えるはずです。





 ◎「素敵な風景の中に、その美術館はあった」
 友だちと福島の裏磐梯高原に写真撮影に行って来ました。そこで見つけたのが、素敵な風景の中にたたずむ「諸橋近代美術館」でした。
 美術館の展示も良かったが、それ以上に、全体のロケーションが素晴らしかった。手渡されたパンフレットにも書かれてあったが、「美術館の窓より望める裏磐梯の雄大な自然とともに、ごゆっくりとご鑑賞ください・・・・・」というのは、まさにその通り。私はその美術館の建物にも感心したが、そこに広がる大きな池に真夏の雲が写り、その水面がときおり吹く涼しい高原の風で波立つ風情に感激しました。その日は天気も良く、美術館の正面に望める磐梯山もすっきりと見えました。
 美術館や博物館は、もちろんその企画や展示内容が良くなければなりませんが、その周りの自然環境も大事だと思いました。外を眺め、うちを眺め、その間合いが私の目に心地よい刺激を与えてくれました。素晴らしい自然の中で、ゆったりとした充実した時間を楽しむことができました。
 もし素晴らしいロケーションの中にある美術館や博物館がありましたら、ご紹介ください。ぜひ訪ねてみたいと思います。



  ◎「いのちより大切なものがあると知った・・・」
 先日、山形美術館で開催された「星野富弘 花の詩画展」を見てきました。本などではいつも見ていたつもりでしたが、原画を間近で見ると、筆を口にくわえじっと描いている息づかいまで聞こえそうで、すごい感動でした。その植物を見る目の確かな優しさ、妻に対する信頼のこころ、そしてその集中力、すべての作品にやさしさがイッパイ溢れていました。
 私も植物は好きですが、植物のこころを考えずに、無理して花を咲かせようとしているようなところがあります。まだ花を咲かせているのに、来年のことを考え、早めに咲いている花を摘んだりします。あるいは勝手に植物を移植したりして、ビックリさせているかもしれません。
 ふと、そんなことを考えさせる「詩画展」でした。


 ○「いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが苦しかった
      いのちより大切なものがあると知った日 生きているのが嬉しかった」
 ○「私にできることは小さなこと でもそれを感謝してできたら
   きっと大きなことだ」
 ○「造られたもので 目的のないものはないという
   価値のないものもないという
   動かない指を見ながら 今日は そのことを思っていた」
 ○「木は自分で 動きまわることができない
   神様に与えられたその場所で 精一杯 枝を張り
   許された高さまで 一生懸命 伸びようとしている
   そんな木を 私は友達のように思っている」
 ○「自分の顔が いつも見えていたら 悪いことなんか できないだろう
   自分の背中が いつも見えていたら 侘しくて涙が出て しまうだろう
   あなたは 私の顔を いつも見ている
   私の背中を いつも見ている」



  ◎「鉄眼さんを知っていますか?」のなかで昔の文章読本にも載っていたと書いたところ、その文章読本そのものを知りたいというメールをいただきました。そこで、その部分を抜粋してここに掲載します。そのままですと読みにくいので現代仮名遣いにしてありますが、ほぼ原文通りです。なお、この著作兼発行者は文部省となっていますから、著作権も文部省にあると思います。

 尋常小學「國語読本」巻11、第28課 『鐵眼の一切経』  一切経は、佛教に関する書籍を集めたる一大叢書にして、此の教に志ある者の無二の宝として貴ぶところなり。しかも其の巻数幾千の多きに上り、これが出版は決して容易の業に非ず。されば古は、支那より渡来せるものの僅かに世に存するのみにて、学者其の得がたきに苦しみたりき。
 今より二百数十年前、山城宇治の黄檗山萬福寺に鐵眼といふ僧ありき。一代の事業として一切経を出版せん事を思い立ち、如何なる困難を忍びても、ちかって此のくわだてを成就せんと、広く各地をめぐりて資金をつのる事数年、やうやくにして之をととのうる事を得たり。鐵眼大いに喜び、將に出版に着手せんとす。たまたま大阪に出水あり。死傷頗る多く、家を流し産を失いて、路頭に迷う者数を知らず。鐵眼この状を目撃して悲しみにたえず。つらつら思うに、「我が一切経の出版を思い立ちしは佛教を盛んにせんが為、佛教を盛んにせんとするは、ひっきょう人を救わんが為なり。喜捨を受けたる此の金、之を一切経の事に費やすも、うえたる人々の救助に用うるも、帰する所は一にして二にあらず。一切経を世にひろむるはもとより必要の事なれども、人の死を救うは更に必要なるに非ずや。」と。すなわち喜捨せる人々に其の志を告げて同意を得、資金を悉く救助の用に当てたりき。
 苦心に苦心を重ねて集めたる出版費は、遂に一銭も残らずなりぬ。然れども鐵眼少しも屈せず、再び募集に着手して努力すること更に数年、効果空しからずして宿志の果たさるるも近きにあらんとす。鐵眼の喜知るべきなり。
 然るに、此の度は近畿地方に大飢饉起こり、人々の困苦は前の出水の比に非ず。幕府は処々に救小屋を設けて救助に力を用うれども、人々のくるしみは日々にまさりゆくばかりなり。鐵眼ここにおいて再び意を決し、喜捨せる人々に説きて出版の事業を中止し、其の資金を以て力の及ぶ限り広く人々を救い、又もや一銭をも留めざるに至れり。
 二度資を集めて二度散じたる鐵眼は、終に奮って第三回の募集に着手せり。鐵眼の深大なる慈悲心と、あくまで初一念をひるがえさざる熱心とは、強く人々を感動せしめしにや、喜んで寄附するもの意外に多く、此の度は製版・印刷の業着々として進みたり。かくて鐵眼が此の大事業を思い立ちしより十七年、即ち天和元年に至りて、一切経六千九百五十六巻の大出版は遂に完成せられたり。これ世に鐵眼版と称せらるるものにして、一切経の広く我が国に行なわるるは、実に此の時よりの事なりとす。此の版木は今も萬福寺に保存せられ、三棟百五十坪の倉庫に満ち満ちたり。
 福田行誡かつて鐵眼の事業を感歎していわく、「鐵眼は一生に三度一切経を刊行せり。」と。 終わり
 昭和四年十一月九日印刷・昭和四年十二月二日発行




  ◎鉄眼さんを知っていますか?
 先日、京都に行ってきたのですが、京都の宇治というところに黄檗山萬福寺があります。そのすぐ近くに寶蔵院というお寺がありますが、ここにあの有名な『鉄眼版一切経』の版木があり、今でも大般若経などを昔ながらの方法で刷っています。
 鉄眼道光というお方は、昔の文章読本にも載っていますが、江戸時代の初期に、日本に仏教の経典をすべて集めた『大蔵経』、あるいは『一切経』ともいいますが、これがないことを残念に思い、その発刊を志しました。その当時の出版というのは、印刷するための版木を1枚1枚すべて手彫りで彫り上げ、それをまた1枚1枚紙に刷り込むわけです。したがって、『大蔵経』を刊行するということは、その年数もさることながら、その資金を集めるだけでも大変なことです。しかし鉄眼さんは、何年もかけて全国各地を行脚して浄財を募り、やっとその資金を集めました。ところがその時、大阪で大洪水が発生し、多くの人々が苦しんでいました。そこで鉄眼さんは、苦心して集めた『大蔵経』刊行の資金をすべてその災害で困っている人々のために使いました。
 そして再び、『大蔵経』刊行の資金を集め始めました。やはり苦心惨憺したそうですが、ようやくそのめどが立ったころ、今度は宇治の方面で大変な凶作に見舞われたそうです。鉄眼さんは、またしてもその資金を飢餓に苦しむ多くの方々のために使いました。
 そして三度目の托鉢を行い、ようやく資金を集め、『大蔵経』の刊行を進めていったのです。そして20年ほどかかり、6771巻の『大蔵経』を完成させたのです。
 ここに、鉄眼さんの素晴らしいところがあります。鉄眼さんは、世のため人のために『大蔵経』を発刊したかったわけですから、その前に多くの人々が苦しんでいるのなら、まずその人々の苦しみを取り除くのが大切なのです。それが仏教の慈悲の教えです。普通は、せっかく集めた資金なのだから所期の目的である『大蔵経』の発刊に使うべきだと考えるでしょう。しかし、その目的の真義は何なのかを考えれば、自ずと分かるはずです。
 それにしても、江戸時代初期の一人の僧が発願して発刊させた『大蔵経』が、今も昔ながらの方法で刷って役立っているということは、本当に素晴らしいことだと思います。
(上の写真は、寶蔵院の入り口。下の写真はその裏手にある鉄眼版一切経の版木を納めた建物。)



  ◎何でも続けることこそ大切です。
 あのトンチで有名な一休さんが、ときの将軍に「仏教とは如何なる教えか?」と聞かれ、「諸悪莫作 衆善奉行」と答えたそうです。この意味は、「悪いことはするな、善いことをせよ」ということなんですが、知識としては知っていても、実際に行うのはなかなか難しいことです。
 この逸話には原典がありまして、昔々、中国は唐の時代に、有名な詩人の白楽天が道林和尚にこれと同じような質問をしたそうです。この和尚さん、とても変わった人で、山の中の大きな松の枝に板を渡して、そこでいつも座禅三昧の生活をしていたそうです。そこを訪ねた白楽天は、いくつかの質問をした後に、「如何なるか是れ仏法の大意」とたずねたところ、道林和尚さんは「諸悪莫作 衆善奉行」と答えたのだそうです。すると白楽天は、この非凡な和尚さんのことだから、もっと高遠な教えでも聞けるものと期待をしていたのですが、あまりにも平凡な答えに「そんなことなら3歳の子供でも知っていますよ」と言ったそうです。すると道林和尚さんは、「3歳の子供も知ってはいるが、80歳のお年寄りもなかなかできはしないよ」とさらに諭されたそうです。これ以来、さすがの白楽天も返す言葉もなく、それ以後道林和尚さんに深く帰依したそうです。
 この世の中は、当たり前で分かり切ったことを続けることぐらい、難しいことはなさそうです。



  ◎日本人と西欧人の草花への思い
 先日、岩波ジュニア新書『英語の詩』というのを読んでいましたら、日本人と西欧人の草花に対する思いの違いを感じました。そこで、今回のその詩を取り上げてみたいと思います。
 題は「ひび割れた石塀に咲いた花」で、作者はアルフレッド・テニスン(1809〜1892)というヴィクトリア朝を代表する詩人です。

ひび割れた石塀に咲いた花

ひび割れた石塀に咲いた花よ
わたしはおまえを割れ目から引き抜き
いまここに、根のついたまま、わが手に握っている
小さな花よ・・・・・もしわたしにわかっていたならば
おまえというもの、おまえのすべてが、根からなにまでも わかったならば
きっとわかるにちがいない、神が、そして人間が

いちおう、原文の詩もここに掲載します。
 
Flower in the crannied wall

Flower in the crannied wall,
I pluck you out of the crannies,
I hold you here, root and all, in my hand,
Little flower・・・・・but if I could understand
What you are, root and all, and all in all,
I shoud know what God and man is.

 この詩は、石塀の割れ目に咲いた小さな花に目にとめ、その名もなき小さな花を通し、自然のたくましさ、不思議さに心打たれている姿を表現しています。しかし、西欧の詩人は、その小さな花の正体を探ろうとやっと咲き出した石塀の割れ目から根ごと引っこ抜き、科学者のような冷静な観察の目で見つめています。日本語訳ではそのニュアンスまでうまく伝わってきませんが、分かるということは、その花の正体だけでなく、それを含む全体像をも考えてのことです。だからこそ、神も人間もそこに登場するわけです。
 しかし、このような情景を日本人が歌えば、たとえば松尾芭蕉の

 山路来て 何やらゆかし すみれ草

となります。もちろん手折ったり、引っこ抜いたりせずに、その姿そのままに鑑賞します。鑑賞というよりは、思いがけぬ小さな花に出会えた喜びにひたってしまいます。
 いわば、西欧人の草花に対する姿勢を分析的とすれば、芭蕉のそれは直感的といえるのではないかと思います。そんなことを考えながら、下の『草木供養塔』についての文を読んでいただければ、日本人の自然観が少し見えてくるのではないでしょうか。



◎『草木供養塔』について
 甲子大黒天本山の境内地に、全国的にはたいへん珍しい「草木供養塔」があります。その側面には「弘化2年建立」(1845年)と彫られています。この石塔の起こりは、名君の誉れ高い上杉鷹山公の時代と伝えられています。
 安永九年(1780年)4月、米沢城下が大火にあい、その復興のため近くの山から大量の木材を切り出したので、山林の枯渇や荒廃が心配されました。そこで、草木の成仏と成長を願い、村人らの手で「草木供養塔」を建てたのが最初で、その後上杉領内に広がったといいます。これは当地の先祖の草木に対する感謝と畏れの気持ちのあらわれであり、生活の糧である草木の成長と成仏とを願う素朴で尊い石塔であります。まさに、これを契機に山林伐採後はすぐに植林し、また官府に御留山と認めてもらい保護するなど、百年の大計で山林草木の保護育成と山村の生活とを両立させたのです。そして、自分たちが受け継いだ緑豊かな大地を、そのまま後世の子孫にも譲り伝えようとしたのです。
 今、自然保護や地球環境の危機が叫ばれています。いくら今の生活が大切だとはいっても、そろそろ今の快適すぎる生活を考えるべきときに来ているのではないかと思います。 



◎『絢爛たる貧窮者』
 Q&Aでも書いたのですが、物を豊かにするのは心の豊かさであり、心を豊かにするには物の豊かさの裏付けがなければなりません。いわば車の両輪と同じ事です。
 そこで「絢爛たる貧窮者」という言葉について、もう少し説明を加えますと、いかに物質的に恵まれていたとしても、足ることを知らなければ、心はいつも飢え乾き苦しんでいるがごとしです。そこには、大黒さまのような笑顔が生まれてくる余地はありません。
 また、いかに美味しいものでも、惜しみながら出されたのでは、本当に味わうことが出来ません。たった1つのケーキでさえも、それを何人かで分けて少なくなったとしても、そのほうが美味しいと感じられる人になりたいと私は思っています。



◎「喜ぶ」ことが大切です。
 人間の感情表現として、よく「喜怒哀楽」という言葉を使います。大黒さまのような笑顔で楽しく生きていくためには、とくに「喜ぶ」という感情が大切です。
 しかし、この「喜ぶ」ということも、年齢を重ねるにつれて、だんだんと少なくなってくるように思います。幼いときには、ちょっとしたことにも一喜一憂していたのに、今ではそのように素直に喜べなくなっているのはなぜでしょうか。「そのくらいのちょっとしたことで一々喜ぶんじゃない」と、自分で自分の喜びの感情を押さえ込んでいるうちに、いつの間にか喜べない人間になってしまったような気がします。また、共に喜んでくれる人がいなければなおさらのことでしょう。
 今、大切なことは、どんな小さなことにも素直に喜べる自分を見つけることです。そんなちょっとした「喜び」の積み重ねが、大きな「喜び」につながっていくのです。



◎『悩み』を悩むな!
 最近、相談メールで、悩んでいるというのが多いようです。 私は、解決できる悩みならいくら悩んでもいいでしょうが、悩んでも自分で解決できない悩みなら、私は悩んでも仕方がないと思います。ある本に書いてあったのですが、友だちからお金を借りて、明日が返済日だというのに返すお金がない男がいたそうです。それでどうしようかと悩み、眠れなかったそうです。すると彼の妻が、「あなたも馬鹿ねぇ。あなたはどうやってもお金を返せないのだから、むしろ返してもらえないかもしれないと心配で眠れないのは、あなたの友だちじゃないの・・・」と言ったそうです。それを聞いた男は、「それも、そうだ」と思い、ぐっすりと眠れたということです。
 もちろん、これはジョークで、友だちから借りたお金を返さないというのは困りますが、ちょっと見方を変えると、悩みなんて以外とこんなものかもしれません。
 お釈迦さまの言葉に、
『過ぎ去った日のことは悔いず、まだ来ない未来にはあこがれず、 今日すべきことを明日に延ばさず、大切に踏みしめてゆけば、身も心も健やかになる。』
 というのがあります。
 この世の中、悩むより、今の今を精一杯生きることを考えたほうがよさそうです。
 

◎「英語版」について
 ある方の好意で、この甲子大黒天本山のページに英語のバージョンが設けられました。そこで考えたのですが、独特な宗教的言語を英語に翻訳することは非常に難しい反面、英語に翻訳して始めて具体的なイメージが浮かび上がるような気がします。
 たとえば、「無我」という言葉ですが、これを翻訳すると「 nothing has an ego 」といいます。我というのは、エゴの我なんです。また、「無常」というのは、「 impermanence 」といいますが、辞書には「一時的」という意味が載っています。すなわち、この無常という言葉は、すべて永遠に存続するものはないという意味です。しかし、私たちは、心のどこかで今の状態がいつまでも続くのではないかと考えています。でも、この世の中はすべてが一時的だと教えてくれるのが無常という言葉なんです。一時的と考えれば、少しは気楽というものです。
 このように、私は、英語という外国語を通して、今一度、難しい独特な宗教的言語を考えてみました。いわば、外国に行って、日本を見つめ直すような感覚です。
 皆様も、ぜひ、「 English version 」を見て、この感覚を感じていただきたいと思います。



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